時間


 「時間」についての言説は、古今東西、膨大な量に達するものと思われます。

 人間は尺度としての時間(物理的時間)に関わることなしには、一日たりとも生きていけないことからも、それは当然のことでありましょう。

 人は大昔から幾世紀にもわたって「時間」に関わり、それゆえに「時間」を考察の対象にしてきました。
そして実に多くの人が“時間の本質”について洞察しえたと思ったことでしょう。それにもかかわらず、現在世界中で、時間についての言説が多量に生産され続けているということは、「時間を理解することが如何にむずかしいか」ということなのでしょう。

 しかし、一度「時間とは何ぞや」と問いはじめると、時間の表情は厳しく、分厚い鉄壁のように屹立して、質問を峻拒する‥‥ということになります。

 時間についての言説は、そのように、いまだに定まらず、考えれば考えるほど論点は分裂し、派生し続けて、意味を増幅させ、さらに新しい立論を生みだし、複雑化していきます。



「永劫回帰」

 ヨーロッパ世界を実に2000年近くも、その倫理的思想を核心において支えてきたキリスト教的(博愛を振りかざす)倫理観を否定し、強者の強い意思を中核として自立主義の思想を唱えたフリードリヒ・ニーチェ(ドイツ、1844〜1900)。

 その論理的というよりは、むしろ詩的・芸術的な思想ともいうべく、ダイナミック(躍動的)に情感あふれる「超人」とそれに連なる「権力への意志」の考えを宣揚したニーチェの思想に、戦前のファシズムが(そして、20世紀最大の思想家とも称される、ナチス党員であった思想家ハイデガーが)共感したのも当然の成り行きであったでしょうか。

 はじめての道を歩く。
生まれて始めての体験であるのは確実であるのに、“すでに自分は以前にこの道を歩き、この風景を見た”という思いにとらわれることがあります。そのことをデジャビュ(既視感といいます。)

 ニーチェは、その主著ともいうべき『ツアラツトゥストラはかく語りき』の中で、超人を志向するツアラトゥストラのことばとして「すべて歩むことができるものは、すでにこの道を歩んだことがあるのではないか。
 すべて起こりうることは、すでに一度起こったことがあるのではないか、この道を通りすぎたことがあるのではないか」と述べます。

 これは、恐らくニーチェのデジャビュ体験に基づくものであろうし、彼のこの言葉から、――過去の事象(ことに人の体験)は、永遠の彼方において回帰し再現される‥‥という「永劫回帰」の思念が紡ぎ出されていきます。

 「われわれは永劫に再来する定めを負うているのではないか。」こう言いながら、ツアラトゥストラは言いようのない恐怖にとらわれます。

 「一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠にまわっている。一切は死んでゆく、一切はふたたび花咲く。存在の年は永遠にめぐっている。」「一瞬一瞬に存在は始まる。」そして「わたしは、永遠にくりかえして、同一のこの生に帰ってくるのだ。」そしてさらに「悦楽はあまりに富んでいるがゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する。」「悦楽はすべてのことが永遠ならんことを欲するのだ、深い深い永遠を欲するのだ。」

 このように語るツアラトゥストラの姿を思うとき、たとえばブッダの樹下の瞑想の姿勢に思い至るでしょう。
 とはいえ、人生の諸相を深い静寂の中に諦観しようとする後者の姿に対して、“苦痛を永遠の悦楽に転換することを欲する”かにみえる前者の姿があります。

 そこには、りんりんと湧き出る力を自覚しつつ、「苦楽はまた一つの悦楽なのだ。呪はまた一つの祝福なのだ」と、真理の高みに達した者には、苦痛も悦楽も同じ境地にほかならぬと宣揚する響きがあります。



「閉じた時間的曲線とタイムパラドクス」

 一般相対論(下部詳細)では、時空はダイナミックに変化できる多様体として定義されており、アインシュタイン方程式にさえ従っていれば、時間が過去から未来へと向かう線形的な構造をとっていなくてもかまいません。

 時間が円環構造をなす可能性を最初に指摘したのは、膨張宇宙模型で有名なFriedmann(ただし、アインシュタイン方程式の解ではありませんでした)であり、さらに、数学者のGodel が提出した自転する宇宙の模型や、Kerrによる自転するブラックホールの解にも、閉じた時間的曲線(Closed Time-like Curve;CTC)が現れることが分かっています。

 近年まで、CTCは数学的な虚構にすぎず、現実に存在することはないと考えられてきましたが、1990年代に入ってから、物理学的に興味あるテーマとして真剣に考える科学者が現れてきました。

例えば、重力理論の教科書で有名なThorneらは、ワームホールを利用したタイムマシンの可能性を指摘し、御大Hawking も、これに対して批判的な議論を展開しました。

 また、かつてはSFの中だけの話題だったタイムパラドクスについての議論も、まじめな学術誌で取り上げられています。例えば、Deutsch は、量子力学的な多世界解釈を使ってタイムパラドクスを回避する方法を考えています(ただし、学界に受け入れられている訳ではありません)。

 CTCは、もし存在するならば、「過去はすでに過ぎ去り、未来は未だ来たらず、ただ現在のみが現に在る」とする素朴な時間観を根本から否定するものであります。


「一般」相対性理論(1915年)

 次の状況を想像してみましょう。

 綱がきれて落下するエレベーターの中にある現象と、重力の働かないところに置かれたエレベーターの中における現象とは区別できません(綱がきれて落下するエレベーターの中では、ちょうど重力の影響が打ち消されている宇宙空間での人工衛星の中におけるのと同様です)。

 重力のある場(質量の大きな物体の近くの時空)には、歪みが生じていると考えます。重力の強さは時空(4次元の時間空間)の歪みの度合だとする考えです。(この歪みが大きくなった極端な状態が、ブラックホールの近傍‥‥ということになります。)

 ボールを水平に投げると、ボールは地球の重力に引っぱられて下方にカーブを描いて落ちます。
 これと同様に、水平に投ぜられた光は重力によって(重力をもつ物体の周囲の時空の歪みに沿って)その道筋を曲げる。‥‥このようにアインシュタインが示した予言は、その予言の4年後(1919年)に「皆既日食のとき、太陽の近くを通る光線の進路が曲がっていることが確認されて」その説の正しさが証明されました。

〔ちなみに、いまや一般相対性理論は宇宙の誕生・生成と成長・発展の姿を探るのに欠かせない理論となっています。なお、時空に歪みがないとき言い換えれば、重力の影響を考えないでよい場合には、一般相対論は特殊相対論と一致します。〕


 相対性理論における空間・時間(時空)は、ニュートン力学(物理学)における空間・時間の概念を大きく拡張(むしろ変質)させたのです。

 逆に言えば、相対性理論の特殊な場における理論がニュートン力学の世界である、とも言えます。

 この際に言及しておきたいのは、相対性理論においてもニュートン力学においても、時間の方向(未来への正の方向と、過去への負の方向と)はまったく等価です。ということです。

計算式の運用上は時間の正負は、ちょうど鏡面にたいしてまったく対称な事象であるかのように扱われる(扱える)ということです。

 ここでは時間の(正負の)向きは、計算上の都合としてのみ扱われます(等価値である)。〔このような事情から、自然・現象の変化にともなう「時間の矢」の向きが問題となってきます。〕



「正法眼蔵における時間」

 仏教(特に禅宗)に於いて、時間論はきわめて本質的な意義を持ちます。

 全ての宗教は死の恐怖と対峙すべきであり、死によってあらゆる価値が喪失するのではないことを保証する必要があります。
仮に、過去から未来へと長く伸びた時間軸の中で現在と呼ばれる一瞬だけが実在的であり、目まぐるしく推移する現在を過ごした挙げ句に死が人格を完全に無に帰してしまうとするならば、己れの死後にも自分を欠いた世界が延々と存在し続けることになり、個人の限りある生に高い価値を認めるのは難しくなります。

 この問題を回避するために、一部の仏教思想家は、現世と異なった穢れのない浄土を仮想し、死後になお生を受ける可能性を主張しました。しかし、現世における修証を重んじ、現世における真理の体得を目指す禅宗では、その実態があやふやな死後生に信仰の根拠を求めるわけにはいかないのです。

 日本に曹洞宗を伝えた道元禅師は、その壮大な思想体系を『正法眼蔵』全95巻にまとめています。

 『正法眼蔵』は、1231年(道元32歳)から没年の1253年に至るまで断続的に制作されており、道元が直に書き記した巻と説法を弟子がまとめた巻が入り交じっていることもあって、内容にかなりばらつきがありますが、道元自身が執筆した部分は、日本思想史の頂点を極める偉大な著作であります。

 『正法眼蔵』は、日本での独自の思想の地平を切り開いた“独創的な思想”の書と評価される反面、その“難解さ”においてあまりに有名です。

さらに、道元が少しずつ思想の布を織るように吐き出していくそのことが、只管打座(しかんたざ:ひたすらに座禅すること)の実践を通して、“心だけが思量するのではない”いわば“心身一体で思量する”結果の産物として思想が紡ぎ出されて行く・・・・という特異さが、なおさら彼の思惟に人を近づきがたくさせている趣きがあります。

 たとえば、語ることを止めたその先に真理がある、とある人は言うでしょう。
 しかし、語ることの中にしか真理はない・・・・ということもまた事実なのです。

 道元を語るとき、その真理はことば(文章)が含意しかつ“象徴する”全体の中からつかみ取っていく必要があります。ことばの平らな意味の観点から眺めるとき、そこにはトートロジー(A=A:同語反復の類)の連鎖があり、ときに矛盾・撞着があり、ときに過剰なシンボル化があり、おびただしい比喩があり、そして逆説めいた言説がじょうじょうと続いていきます。

 そこにはいかにも語りえぬことを語り出そうとすることばのもだえ・からみがあります。

 ここでは、時間について論じた「有時(うじ)」の巻を取り上げてみます。「有時」は1240年に道元自身によって執筆された巻で、存在と時間について触れており、『正法眼蔵』中でも「現成公案」などと並ぶ重要な部分です。

 その冒頭部に有名な 「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。」 があります。

 道元が謂うところの「有時」とは、存在から引き離して目盛りを付けることができる仮想的な時間軸上のある時刻ではなく、常に新たな展開の予兆を孕んでいる存在の様相であります。

 ここで、存在者として想定されているのは、いま現存している諸物に限りません。過去未来を問わず、あらゆる時代と場所における生命・事象が等しく時間的存在として捉えられます。

 これらの存在者は、それぞれにとってのかけがえのない現在を生きており、それ以外の時間を想定することはできません。こうした個々の現在が総体として全時間・全存在を構成していると考えられます。


・「時間が過去から未来へ流れる」のは明白だと人は疑いはしないが、それを知っているわけではない。

・われ(自分)が山を上がり河を渡ったときに自分はあったし、その自分はその時のただ中にあったのだし、いまもここにいる。だから時は去るはずはない(すなわち、ずっと時間の中にいつづけている)。

・松も時であり、竹も時である。時(時間)は飛び去って行くだけだと理解してはいけない。時間が(過去へと)過ぎていくだけであったら、そこに時のないすき間ができてしまうだろう。

・要点を言えば、この世(世界)に存在するあらゆるものは、互いに一つながりの時間の中にあり、それは時間内存在の吾(認識者)が体験するのである。

・時は経巡っていく。今日から明日へ、昨日から今日へ、さらに今日から今日へ、明日から明日へと経巡る、それが時の働きである。

・尽時(じんじ:時の全体)が尽有(じんゆう:存在の全体)であって、その外に存在者というものはない。

・時は過ぎ行くものとばかり考えて、未到(未来)も時だと気がつかない。

・経歴(経巡る)ということは、風雨が東西へ移り行くといったものではない。存在界に、動き行かないものはなく、経巡って行く。この経歴は、たとえば春のようなものでさまざまな光景がある。その春が、経歴そのものであるのだ。

 ここで、道元は、時間論を展開するときに常に問題になる瞬間と継続の関係について考察します。

 「有時」について充分に理解していない者は「時間が過ぎ去る」と解釈します、それでは「消失する過去」と「出現する現在」の間に断絶が生じてしまいます。あらゆる存在者は、その時点における現在に実在しており、この実在が相互に時間的な関係性を持って連結されていると考えるべきです。

曰く、「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり」と。道元は、存在者の時間的つらなりを「経歴」という独自の概念で捉え、「今日より明日に経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日に経歴す、今日より今日に経歴す」と詩的に表現します。

 過去が消えて現在が現れるのではなく、過去・現在・未来がつらなりとして経歴を構成しているのです。この経歴こそが、ある求道者が過去に行った修行・実践(修証)の成果を今に生かすための要件となります。

 それ故に「有時に経歴の功徳あり」と言われるのです。

 以上で見てきたように、道元は「去来する時間」を否定し、あらゆる時間を存在者と結びつけてその実在性を主張します。実は、こうした時間認識が、死後生を認めないまま人間に永遠の価値を見いだすための鍵となるのです。
 なぜなら、たとえ死後の人格が存在しないとしても、かつて生きた自分を含む経歴は常に存在しており、それぞれの瞬間に仏法(=世界に価値を与える根本的な法則)が実現されていると信じて良いからです。

 こうした時間観は、現代科学の知見と矛盾するものではなく、仏教に対する信仰が衰えた文明社会にも通用するはずです。現代人は、もはや西方浄土への憧憬を抱くべくもありませんが、禅宗によって救済される道は残されています。

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