Ford
1963年、ダーゲンハムに於いてフォード・ロータス・コルチナはモータースポーツのビッグネームを得る為に製造された。 1500cc のコルチナのツインカムエンジンはハリー・マンディが考案し、コリン・チャップマンのロータス・エランにもその技術はフィードバックされた。
マンディもフォードもコルチナのスポーツ・バージョンにはレースフィールドに於ける栄光の可能性があると考えていた。
そして、コスワースがエンジンを開発。フォードの名をモータースポーツ・ビジネスの世界に引き入れた。
サーキットレースで優勝しただけでなく、ロータス・コルチナはラリーカーとしても成功を収めた。
ベン・ソダー・ストロームとグンナー・ファームは1966年モンテカルロ・ラリー以降、グループ1と言われたショールーム・ストッククラスで素晴らしい結果を出した。
その後、ロジャー・クラークとロータス・コルチナの名前は、歴史に刻まれることになる。
ロータス・コルチナが、大きなレースやラリーで鍛えられた後、1968年フォードはコルチナにマークTのボディ・シェルを乗せたマークTエスコート・ツインカムを造り上げた。
これが、1970年のRS1600から1973年のRS2000まで連なるエスコート・シリーズの最初の車であった。
その後2年間でエスコート・ツインカムは170馬力を出すまで改良され、5速ミッションとフロントがストラット、リアが4リンクという特徴的なサスペンションを手に入れ、ヨーロッパのいたる所で勝利を手にすることになる。
マークTは、フィンランドの過酷な1000湖ラリーで3度の優勝を果たした。
しかし、マークTエスコートの最も有名な勝利は1970年のメキシコとロンドン間を走破する、ワールドカップ・ラリーだった。
フォードはこの長距離を走るラリーには、特別なツインカム・ユニットよりシンプルなOHCエンジンの方が整備性はいいと考え、OHCエンジンでの参加を決定する。この決断が正しいことはハンヌ・ミッコラが3位入賞、また5位と6位にもエスコートが入賞したことで証明された。
この活躍を記念してエスコート1800の生産が開始され、エスコート・メキシコと名づけられた。これ以降、エスコートは急速に改良された。コスワースは新しいRS1600の為にマークT以上のパワーとスピードを出すことが出来る2L 4気筒で240馬力を発生するBDAエンジンを開発した。
そして1972年、ロジャー・クラークがRACラリーで優勝。続く73年、74年とRS1600は3年連続で優勝した。
RS1600を再構築したエスコート・マークUほど長期間に渡ってラリーに参戦し、成績を残してきた車は無い。
1975年から1979年にかけてはワークスカーとして、そして1982年からはプライベーターとしてグラベルでもターマックでも速く、信頼性のある壊れない車だった。
RS1600同様、240〜260馬力を発生するエンジン。5速ミッションとリヤ駆動はプライベーターの最も好むところだった。
1979年マークUエスコートはついに念願のマニファクチャラーズ・タイトルを獲得し、79年から81年にかけてマークU伝説を築き上げることになる。
マークUはどんなレースでも優勝が狙えた。RACラリーでの5回の優勝だけでなく、サファリ、アクロポリス、1000湖、ニュージーランド、キプロス、ブラジルでも勝利し、WRC以外での多くのイベントでも勝利を収めた。
ワークスが撤退した後もRS1800はロスマンズをスポンサーに迎え、プライベート・チームとしてWRCに参戦。1981年、アリ・バタネンが奇跡的なチャンピオン奪取劇を演じ、マークUにとっては2度目の栄冠を手に入れた。
このRS200はグループB規定の最低生産数200台に名前の由来がある。
ラリーで勝つ為には今や4WDが絶対であった。フォードはこの分野では全く経験が無かったにも関わらず斬新なスタイルのRS200を開発した。
1984年に発表され、翌年85年のデビューで初勝利を獲得。そして86年RS200は絶頂期を迎えようとしていたがFIAは突然グループBの廃止を決定した。
この決定が無ければフォードRS200はこれまでに無い素晴らしい車になり得ただろう。
RS200はアルミ・ハニカムの強靭なモノコックに1.8L コスワース・エンジンを搭載した4WDマシンだった。
ロードカーは規定に合わせる為250馬力しか無かったが、初期のワークスのラリーカーは450馬力あり、1985年シーズンの終わりには500馬力にまで高められていた。
RS200はサスペンションセッティングのアジャスト等が十分に行え、ラフラリーでの走行に適していた。
またこの車のWショックアブソーバーはライバルに対して優位性を保っていた。
1986年スティグ・ブロンクビストとカール・グランデルによってフォードは7年振りにWRCに復帰。デビュー戦のスウェディッシュで3位という結果を収め、世界にインパクトを与えた。
しかしグループBの廃止となったこの年、WRCの世界から姿を消すことになる。
ヨーロッパ各国の選手権レベルではグループBは依然有効だったので、RS200は1986年だけで19勝しマーク・ラベルによりイギリスのタイトルなどいくつかの栄光を獲得した。
1987年600馬力の2.1L RS200Eの生産が計画される。それはこれまでに生産されたどのラリーカーよりもパイクス・ピークに向いた仕様になっていた。
グループBの廃止によってWRCに参戦出来なくなったRS200に代わってフォードはグループAマシンを準備しなくてはならなかった。
そして1987年、シエラ・コスワースをWRCに送り出す。コスワースは再びマジックを起こしてシエラをそれまでのファミリーセダンのイメージからスポーツカーのイメージに塗り替えた。
フォード・シエラ・コスワースは80年代後半のラリーに於いて圧倒的な強さを見せた。
ディディエ・オリオールは1988年のコルシカで300馬力のシエラ・コスワースを駆り優勝。
彼はまた、ワインディングのラリーでそれまで無敵のランチア・デルタを破り、フォードを10年間に近いブランクの後、再びWRCの主役の一人に押し上げた。
シエラをドライブしたもう一人のドライバーは1988年にスコットランド・インターナショナルラリーとイギリス・オープンチャンピオンシップに参戦したジミー・マクレーだった。
ラリーカーとして特別にデザインされたエスコートRSコスワースは1990年代を通して有力なトップ・コンテンダーとして在り続けた。90年に発表され、93年には殆ど改良を加えずにさまざまなイベントで勝利を収めた。
グループAをモータースポーツとしてさらに進歩させようという試みに妥協は無かった。
シエラをベースにした2L ターボエンジンは340馬力を発生。6速ギアと4WD、そして効率のいいエアロダイナミクスを有していた。
そして1993年にデビューしたエスコート・コスワースはポルトガル、コルシカ、アクロポリス、サンレモで優勝。翌年のモンテカルロでも優勝を収めた。これは41年間に渡るフォードの歴史の中でモンテカルロに於ける初勝利だった。
初めてフォードはどのような状況でも強く、速い車を造ることに成功した。ワークスでの4年間の間に殆どのメジャーなラリーで勝利を収めた。
間違い無くエスコートという名はラリーの歴史に刻まれるだろう。
1999年のワールドラリーカー規定に合わせてフォードはフォーカスWRCで新しいスタートを切った。
カンブリアの元イギリスラリーのスターだったマルコム・ウィルソンのMスポーツによってフォードの新しいワークスチームが生まれた。
技術的にエスコートから引き継いだ物は無く、外装、エンジン、トランスミッションは全て新しいものとなった。
フォーカスは300馬力2L ターボエンジンでエックス・トラック製縦置きギアボックスを持ち、4WDのレイアウトをさらに進化させたものだった。
これに合わせてフォードは1995年の世界チャンピオン、コリン・マクレーと契約。マクレーは第3戦サファリと第4戦ポルトガルで優勝した。
ところが、シーズン後半に入りトラブルが多発。信頼性の向上という課題を残した。
2000年、今やフォードの世界に必要不可欠となったコスワース・レーシングはさらにエンジンを改良。
そしてマクレーに加えてカルロス・サインツがチームに加わりドライバーズラインナップも充実された。
2000年を通して車はより速くなり、信頼性も高まった。
マクレーとサインツは確実にポイントを加算し、ドライバーズ・チャンピオンシップの獲得を目指す。
フォードはフォーカスをタイトルの狙えるマシンに仕上げた。