あび卯論 第九回 「運動会」


運動会のシーズンも過ぎ去つてしまひましたが、今回は運動会についてであります。
最近では春に行なふ学校も増えてゐるやうですが、秋といへば運動会を連想する方も多いと思はれます。

さて、その運動会ですが少し前に”週刊文春”の記事を読んで驚きました。
その記事は”運動会という名の「バカ親の祭典」”といふ名のタイトルで最近の運動会の醜態を嘆く記事でした。
前半には、昨今の運動会は親のための撮影会と化してをり、撮影のための親同士のケンカが相次いでゐることや
競技中にトラック内に入つたり、それを教師が注意すると逆ギレするなどバカ親の実態が記されてゐました。
本来、運動会は
「額に汗して一生懸命に競技や演技に打ち込む子供を、拍手と大歓声が包み込む。
 勝っても負けても興奮と感動。閉会式では心地良い疲労感と達成感がグラウンド中に広がる・・・」
(※ 「」内は週刊文春の記事から引用)
といふやうなものですが、それはもう過去のものになりつつあるのでせうか。
親が撮影ばかりに力を入れるため、拍手や歓声はまばら。
むしろ、歓声など大きな声を出すと「声がビデオに入る」と怒る親も多いさうです。
ここまででも十分嘆かわしい事なのですが記事の後半にはもつと嘆かわしい現状が報告されてゐます。

ご存知の方も多いかと思はれますが、近年の運動会では徒競争での着順をつけない傾向にあるのです。
酷い例では、一位を走る子はゴール前で止まり、最下位の子が追いつくまで待ち、
手を繋いで全員一緒にゴールするなどといふバカげたことが行なはれてゐます。
さすがに、最近では内外から批判が相次ぎここまで行なふ学校は少ないやうですが、
着順をつけない傾向は未だに続いてゐるさうです。
また、教師の指導においてはどうすれば速く走れるかではなく、
ケガをしないように走ることに一番重きを置くのだといひます。
これは幼稚園の例ですが、親子競技においてケガ防止のため幼稚園側が
「本気で頑張らないで下さい」と事前に通告する例もあるさうです。
兎にも角にも、この記事によると最近の運動会には「勝たう」だとか「一位になってやらう」
などといふ気概は一切感じられない運動会のやうです。

今年、母校の高校の運動会に顔を出しましたが記事にあるやうな事はありませんでした。
が、この記事は主に幼稚園や小学校の運動会の現状らしく、中高等学校の運動会の報告は特にされてゐません。
また、このやうな現状は主に都心で多いのではないかと思ふ。
地方の運動会においてはある程度の変化はあるかも知れませんが記事が報告するやうな
酷い現状があるやうには思へません。
ですが、少なくとも記事が報告するやうな現状があることは事実でせうし、
運動会といふ行事が悪い傾向に変化してゐることも事実です。

では、一番の問題点は何か。一言で云ふと競争を否定してゐることです。
これは、ある意味非常に危険な思想でありまして、云ひ換へるならば悪しき平等主義であります。
競争がイカンと云ふならテストや受験や偏差値までも無くさなければ筋が通つてゐません。
運動で差を付けるのは良くないといふならば何故、成績で差を付けるの良いのか。
もちろん成績で差を付けるのもイカンと主張する人も多く居ますが、
現状は明らかに学歴社会であります。が、その問題は置いておくとして、運動で差を付ける事に何の問題があるのか。
私にはまつたく解せない。徒競走で脚の速い子を誉めて何が悪いのか。
徒競走反対派は「脚の遅い子に対する配慮」からだと言ふ。
この論理にはあきれはててしまひます。それでは「脚の速い子に対する配慮」はどうなるのか。
「脚が速くても誰も誉めてくれない。」「評価してもらへない。」「いくら頑張つても皆と同じ扱ひだ。」
といふことの方がよほど児童に悪影響を及ぼすのではないでせうか。
それに、脚の速い子、遅い子がゐることは事実です。
その事実から目をそらし表向きだけ平等にしようとする。これ以上の欺瞞がどこにあるのでせう。
たとへば、鉄棒の出来ない子がゐるとします。その子に対して
「あなたは鉄棒が出来る子と一緒なのだよ。」と云われても困惑するだけでせう。

そもそも、脚が遅いことが悪い事なのでせうか。
配慮だといふのならば「脚が遅い」といふことを悪だと捉へてゐるからに違ひありません。
私は「脚が遅い」ことがなんだと思ふ。
自慢ではありませんが「これほど脚が遅い子もいないだらう」といふほど私は脚力が無い。
そもそも体力が無い人間であります。
が、私は一度も運動会を嫌だと思つたことが無い。むしろ、楽しかつた想ひ出ばかりです。
もちろん、競技で活躍できたことはありませんが、劣等感を抱くといふことはありませんでした。
なぜか。他の分野で活躍すればいいぢやないかといふ気持ちがありましたし、
脚が遅いことや体力が無い事を(「あつた方がいいな。」とは思つてゐましたが、)
それ以上の重大な問題であるとは感じませんでした。
当然、脚が遅いことや体力が無いことに劣等感を抱く子はゐると思ひます。
さういふ子に対処するためには、徒競走を無くす事ではなく、
「脚が遅い事や体力が無い事で劣等感を抱く事は無いよ。」と教へることが教育なのではないのでせうか。
徒競走を無くす事は根本的な解決に一切なつてゐません。

そもそも、体力や成績だけ人間の価値が決められてたまりますか。
体力や成績は一つの価値であります。が、人間の価値はそれだけでは決められない。
それを前提として体力のある子、成績の良い子は賞讃するべきなのであります。
また、人間は何処かでくやしいと思ふ気持ちは非常に大切です。
徒競争で負けた悔しさをバネにし、再び徒競走で勝つように努力することも良いし、
他の分野で努力することも良い事だと思ひます。
差を付けることは人間にとつて動力源になることが多くあるのです。
勿論、その差の付け方といふのは努力によつて左右されるものであるべきで
個人の力ではどうしやうもない事柄(家柄や出身など不当な差の付け方)で
あつてはならないことは云ふまでもありません。

文春の記事に戻りますが、最近の運動会では終わりのはうで『世界で一つだけの花』を流す学校が多いさうです。
一番にならなくても良いのなら、何の為の運動会なのだらうと思ひます。
私が矛盾したことを言つてゐるやうに聴こえる方があるかもしれませんので
私が申し上げたい事をまとめますが、
・運動会に於いては一番を目指して頑張る事はあたりまえ。
・頑張つて一等になつた子は誉めてあげよう。
・負けても次にがんばるか違ふことで頑張ればいい。
大雑把に云へば以上の三つです。

余談ですが、名実ともに芸能界のナンバーワンに立つスマップの方々に
「ナンバーワンにならなくてもいい」と云われたつて厭味に聴こえるのは私だけでせうか。

平成16年10月27日(水)

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