あび卯論 第六回 「いまさらながらエヴァンゲリオン」 表題の通りいまさらながらエヴァンゲリオン(以下、「エヴァ」と略す)であります。 とはいへ、去年から今年にかけての近年、エヴァ関連のゲームが出たり書籍がでたりして 去年などはガイナックス曰く、「エヴァ再起動の年」などと言つて 再びエヴァブームとまではいかなくとも需要を高めようとしてゐるやうです。 具体的なモノを挙げますとゲームでは「鋼鉄のガールフレンド2nd」や 「PS2版 綾波育成計画Withアスカ補完計画」「エヴァ2」など。 書籍では「鋼鉄のガールフレンド2nd」(上に挙げたゲームを元にした漫画)が出てゐますし、 またそれに関連するアンソロジー的な4コマ漫画も私の知る範囲では三冊ほど出版されてゐます。 少年エースにはそれこそ漫画版『新世紀エヴァンゲリオン』がエヴァが生まれた当時から 現在までなおも連載が続いてをります。 しかも、昨今、ロンド氏がエヴァをケーブルテレビで観たさうでありまして ちやうどタイミングもよからうと思ひ、前々から申したかつたことを今回書かせていただきます。 私が始めてエヴァの存在を知つたのは所謂エヴァブームの1996年(平成8年)ごろでした。 当時、小学六年生だつた私はクラスの女生徒の半分近くが 毎日「エヴァエヴァ」言つてゐる状況をみて「何やら凄いことが起こつてゐる」と受け止めてゐました。 が、その正体を突き詰めようといふ意欲は湧かずエヴァといふ名称を知るにとどまつてゐました。 私が実際エヴァを視聴したのはこの時から約6年後の2003年の3月です。 直接の原因は古本屋でエヴァのビデオが1〜4巻がセットで安く売られてゐたことです。 また、私は宮村優子のファンながらみやむーの代表作のエヴァを観たことが無く、 彼女が出演したアニメはコナンくらゐしか見たことがありませんでしたので エヴァくらゐは観ておかうといふ義務感にも似た気持ちが起こつたのでありました。 また、当時、春休み期間でちやうどヒマ潰しにいいや。とも思ひ購入しました。 正直申しましてこの4巻まで観た時点では何故かつてエヴァブームが起きたほど面白いのかが わかりませんでした。いえ、確かに文句の付けやうは無い良作であるとは思ひました。 ですが、'96年当時、狂気ともいへるやうなブームが起きる程ではないと思つたのです。 それと同時に私は4巻までしか観てゐない時点で判断するのは軽率だと思ひ 再び古本屋へ足を運び4巻以降の最終話までフィルムブックを買ひ読みました。 そこで、初めてエヴァの凄さを実感いたしました。 最終話とその前後。また、劇場版の「まごころを君に」をフィルムブックで観るにつけ 私が実感したのはエヴァ面白さではなく凄さでありました。 もつと言へばエヴァの怖さとでも云ひませうか。 一言でいへば「なんぢゃ、こりゃ」といふやうな感想を抱きました。 少し経つて、最終話と「まごころを君に」を収録したビデオを入手し観ました。 私は、2、3日鬱にも似たやうな気分から抜け出すことが出来ませんでした。 それと、同時に綾波に萌えてゐる自分も発見し、またエヴァそのものにもどつぷりハマつてゐたのでした。 そして、古本屋やネットでエヴァ関連の本(主にアンソロジー)を買い漁り 気が付けば本棚にエヴァ関連の本が60冊以上も並んでゐました。 現在は落ち着きましたが生まれてこのかたこれほど衝撃を受けたアニメは他にありません。 おもしろいアニメや楽しいアニメならエヴァ以上にさう感じるものも挙げることができますが、 衝撃を受けたといふ点でエヴァ以上のものはありませんし今後も出ないやうな気がいたします。 エヴァに病的にハマる人がゐるのもまつたく納得がいきますし、 かつてエヴァブームが起きた事も至極当然のことだつたと身をもつて実感いたしました。 エヴァの魅力を語ることは容易ではありません。 いえ、1ダース程挙げてみよ、と言はれればそれは容易です。 が、エヴァの魅力は数多く存在しますが同時に数を多く挙げれば伝はるかといへば さうではありません。どうも言葉には出来ない魅力が存在してゐるのです。 一つだけ言へることは「エヴァの魅力は観なきゃ解らない」といふことです。 ある友人2人にエヴァを観たことがあるか、と問うたところ2人は 「聴いたことがあるが見たこと無い」と答へました。 私はその二人にエヴァの魅力、凄さを語つたのですが「ふーん。」といふ程度の反応しか示しませんでした。 恐らくエヴァを知らない当時の私が同じやうにエヴァの魅力を語られても同じやうな反応しか示さなかつたでせう。 因みにこのとき友人の一人は「結局、ガンダムみたいなもんでしょ?」と答へてきた。 私はガンダムに詳しくないのですが少なくとも同じといふことはない。 彼はエヴァとガンダムを同じロボットアニメといふ括りでしか捉へてないのだなと思ひました。 かう言つたらエヴァファンの方に怒られるかもしれませんが ロボットアニメの中でエヴァほど不健康な作品は無いと思ふ。 エヴァは全体に死の匂ひが漂つてゐます。 やはり、エヴァは観なきゃ解らないと思ひます。 エヴァには魅力以上に謎が多く存在します。 これは、逆に「エヴァの謎は観ても解らない」とでも言ひませうか。 そもそも、最終話や劇場版のオチそのものが謎であります。 何故、最後にアスカはシンジの首をしめたのか。 人類補完計画とは一体何だつたのか。等々、今でもネット上では議論が続いてゐる程です。 解釈はいくらでも出来ますし、端々には解読できるものもあります。 エヴァには特に哲学に関するネタが多く散りばめられをり 例へば、第拾六話のタイトル『死に至る病、そして』の「死に至る病」は キルケゴールが言つた言葉ですし、一つ一つ調べてみるだけで本が一冊書けさうです。 じじつ、さういふ本は何冊も出てゐます。 ただ、個人的にはエヴァの謎は「赤い洗面器の謎」のやうに答へは無いやうに思ふ。 特にエヴァの結末の謎には答へどころか意味も無いと思ふ。 庵野監督はそこを狙つたのではないでせうか。 私を始め多くのエヴァファンがエヴァのラストを解釈したり議論したりしてゐる光景を 庵野監督はニヤリとほくそ笑んでゐることでせう。 さういふ図を想像してゐると「畜生。あのヒゲめ。」と悔しい思ひになります。 いえ、これは悪口ではなく愛情を込めて言つてをります。 今日までエヴァの魅力や謎は語り尽くされてゐます。 そこで、私は少し違つた視点でエヴァを結論付けたい。 特にエヴァの結末について一言申し上げたい。 私はエヴァンゲリオンの結末は「デュシャンの『泉』」だと思つてをります。 デュシャンをご存知の方はなんとなく私の言はんとするところが推測できたかもしれません。 デュシャンとは20世紀を代表する前衛芸術家の一人ですが、 彼の『泉』といふ作品は芸術界に衝撃をもたらしました。 何故か。『泉』とふ作品は何の変哲も無い小便器であります。 それも、日本でいふナフコのやうな生活用品店で買つてきたもので それに自分の名前(デュシャン)をサインして美術展に出品したのでした。 当然「こんなものは作品ではない」と言ふ人もゐました。 エヴァに喩へるなら「こんなものはオチではない」とでもなりませうか。 ですが『泉』は様々な解釈を呼びました。そして、芸術とは何かといふ議論を巻き起こしたのです。 この辺もエヴァの最終回とそれを取り巻いた状況に似てゐます。 そして、どちらの作品も人々に強い衝撃を与へました。 さういふ意味でどちらとも立派な作品と云へるでせう。 私はエヴァの結末があのやうなカタチではなく普通に終はつてゐたとしても 十分良い作品だつたと思ひますし、それはそれで楽しめただらうと思ひます。 ですが、伝説と化したのはやはりあの結末があつての事だと思ひます。 エヴァは終はらない終はり方をしました。 ですから、未だにエヴァに心を掻き乱される人がゐて このやうな小文も未だに書かれる事に終はりが無いのではないでせうか。 (蛇足:『PS2版 綾波育成計画Withアスカ補完計画』にデジコが出てきた時、なんか嬉しかつた(笑。) 平成16年8月28日(土)