1984年・三鷹寮
僕は高校を卒業すると同時に親元を離れ、そのまま今でも一人で生活しているのだが、親元を離れた直後の一年間は予備校の寮に入っていた。
親元を離れて生活を始めたその最初の時に一緒の釜の飯を食った仲間の印象というのは、好むと好まないにかかわらず僕の心の中にかなり強く残ってしまっているようで、物忘れの良い(物覚えの悪いとも言う)僕の頭をもってしても、未だにあの寮で一緒に暮らした仲間達の顔も名前も、あだ名までも思い出す事ができるほどだ。
僕がいたのは、京王線の仙川駅から歩いて一五分ほどの所にある、五十人ほどが一緒に暮らす寮だった。部屋は個室だったのだが、広さは三畳ほどしかなく、しかも床はコンクリートで、部屋の形はウナギの寝床ときていた。
ベッドは山谷辺りの簡易宿泊施設にあるような安っぽいパイプベッドで、机はスチール製の事務机のような物だった。他にスチールの安っぽい本棚と、よく事務所なんかに行くと見かけるようなスチール・ロッカー、それが部屋に置く事を許された家具の全てだった。
三畳くらいのウナギの寝床のように細長い部屋に、ベッドと事務机と本棚とロッカーを入れたら、もう人のいるスペースはベッド上か机の前しかない。さらに、その狭い部屋と部屋の間を仕切る壁は、隣の部屋の気配まで判ってしまうくらいに薄く、部屋でポテトチップでも食べていようものなら、たちまち周囲の部屋の連中がたかりにやってきてしまうほどだった。浪人生なんだから当然だ、と思われるかもしれないが、僕らの部屋は生活環境としては最悪に近かった。もう少し書いてしまうと、寮生全員が勉強する気にならない限り、とても勉強などできる環境ではなかったという事だ。
四月に初めて顔を合わせた僕らは、最初はお互いに遠慮しながら、しかし、初めての一人暮らしに少しだけわくわくしながら数日をすごした。僕は比較的入寮が遅かった口で、僕が寮へ入ったときには既に幾つかグループが出来上がっており、数日間は一人でおとなしくすごした。しかし、ほぼ同年代の男ばかり五十人もいれば自然に仲間はできるもので、程なくして僕は友人達に囲まれる日々に入っていった。
予備校の入学式の日、自宅から通ってくる連中が、およそ浪人生らしくないこぎれいな格好をして高校時代の仲間と小さなグループで会場へ入場してくるのに比べ、僕らは初めての東京生活という事も手伝ってか、かなり派手目の、しかし流行からは見事にずれた格好をした大集団として固まって会場へ向かった。
今から思えば考えただけでも恥ずかしい思い出なのだが、当時は東京に詳しくなかったし、他に友人や知り合いがいたわけでもなかったので、寮の仲間と集団でいた方がみんな安心だったのだ。
端から見れば一目で寮生とわかってしまう僕らの生活習性は、その後八月ごろまで改善される事はなく、予備校の授業が始まってもしっかり遺憾無く発揮され続け、仲良くなった自宅生の奴等に言わせると、教室や食堂で僕らは妙に目立った集団になってしまっていたらしかった。
しかし、予備校と言うところは基本的に志望校によって細かくクラス分けがされていて、いくら僕らが五十人いたと言っても、一クラス当たりで考えれば目立ってしまうほどの大人数が同時に同じ所にいる事は少ないはずだった。しかし、夏休みに開催される「夏期講習」の単科ゼミの人気講師の授業ともなれば話は別で、確かに目立っていたに違いなかった。
単科ゼミの人気講師の授業で、教室の前の方の座席を固まって占領しているのはほぼ全員が寮生で、自宅から通学してきている予備校生はみんな後ろの方の席にいた。寮生は毎日交代で数人が早起き(時には徹夜まで)して、午後からの授業の為に朝六時前から予備校の教室の前で並び、九時ごろやってくる残りの寮生達は先発隊が並んでいる列に次から次へと横入りして、教室の前方の席を占領していたのだ。
僕らがわざわざ早起きして、午後からの単科ゼミの為に予備校の教室の前で並んでいたのには理由があった。
僕らの寮は、夏休みの期間中、昼間は食堂以外の部屋の冷房が切られてしまい、暑くて暑くて、とても部屋にいられる状態ではなかった。寮の言い分としては「近くに図書館があるから、そこへ行って勉強しなさい」と言うことだったが、僕らは「何てケチな寮なんだ」と憤慨していた。
そして、そんな時に、夏期講習の単科ゼミの人気講師の授業は早めに行って並ばないと良い席が取れない、と言うことを伝え聞くにいたって、朝一番で予備校へ行き、涼しい予備校の廊下で午後からの授業を待つことになったのだ。
廊下で授業が始まるのを待っている間、「並んでいる時間がもったいないから、授業のテキストを開いて勉強しよう」などと、みんな考えることは考えるのだが、同年代ばっかり、それも同じ釜のメシを既に四ヶ月も食ってる仲間が二十人も揃えば現実はそうはいかず、夏期講習二日目にはトランプを持ち込むヤツが現れて、その後夏期講習終了まで朝から昼までの僕らの時間は、比較的朝が早かった自宅生の女の子達を巻き込んでのレジャータイムと化していた。仲良くなった女の子達とは、講習終了後にみんなで食事に行ったり、ボーリングに行ったりもした。
予備校生活は女の子との楽しい思い出の少ない時期だったのだが、夏期講習を待つ廊下のひとときは、当時の数少ない楽しい思い出の一つだ。
さらに時が経ち、夏休みも終わると、いよいよ本格的に模擬試験が始まる。
いい加減に暮らしてきた僕たちも、最初の模試の結果を見て愕然とし、ある者は「俺はこれから勉強だけする」と宣言して部屋へ閉じこもり、又ある者は授業終了後も予備校の自習室に残り、門限ぎりぎりまで帰ってこなくなった。しかし、大多数の僕らは、漠然とした不安感にさいなまれながらも、依然として「勉強、勉強」と、せき立てられるような気持ちにはなれないままでいた。
九月が過ぎ、十月が来ると、寮の雰囲気は大分変わってきていた。
このころより本格的な個別進路指導が予備校により開始され、予備校の進路指導担当者から明確に、目標とするべき大学名が各自に伝えられていた。予備校側が受験することを薦めてくる大学は、大抵僕らにとっては不本意な大学で、そんな程度しか合格できないのか、と思うとこれまでの半年間をいい加減に過ごしてきたことを悔やんだりもした。四月に思い描いていた受験勉強の計画が全く進んでいない自分に気付かされ、寮生の間には、ちょっとイライラしたような空気が漂い出していた。
同じ目的を持つはずの予備校の寮なのだが、実際には受験に対する各自のスタンスはまちまちで、早稲田や慶応を目指すために現役で合格していた大学を蹴ってまで浪人した者もいれば、どこでも良いから拾ってくれればイイや、くらいのつもりで浪人している者もいた。二浪生も何人かいたのだが、彼等の真剣さも一浪目の寮生との明確な違いを出しはじめていた。
夏まで、みんな一緒だと思っていた僕たちは、秋も深まって来るにつれ、自分が何を目標にしていたのかを再び自覚しはじめ、それぞれの考え方の違いも表に現れ始めていた。
僕は現役時代には一校も合格しなかった口だが、大学はどこでも良いとはどうしても思えなかった。そして、しばらくして「ふっ」と気がつくと、僕の周りには、大学や受験について同じように考えている仲間ばかりが残っていた。
それまでは食堂や廊下等で仲良く話していた仲間の中にも、大学受験への考え方が合わずに、その後ほとんど話をしなくなってしまった奴等もいた。当時の僕には彼等との友情を保つだけの時間の余裕も心の余裕もなく、その頃から、考え方の合う決まった仲間とばかり一緒にいることが増えていった。
十一月ともなれば模試も後半戦で、自分が志望校に合格する確率まで結果にあらわされてしまうようになる。受験勉強も本番なのだが、その頃、僕らの寮は二つに割れてもめていた。
事の発端は、寮の2階の廊下から始まった。夜十一時ともなると、真面目に勉強している寮生は大抵自分の部屋に引っ込み、机に向かっている時間だ。しかし、このころの2階の廊下は、夜十一時頃になると何故か人が集まりだし、ちょっとした集会が開かれているような状態になっていた。
最初の頃は暗い廊下に十人くらいで溜まって、ぼそぼそ話をしていただけだったのだが、その内エスカレートしはじめ、集まる人数も二十人近くまで増えて普通の声量で話しだし、挙げ句の果てには酒を飲んでトランプやボーリングのようなゲームをして大声で騒ぎはじめる寮生も現れた。
それは、徐々に近づく受験シーズンを前にして、極限近くまで溜まったストレスに耐えられず、自分の置かれている立場や何故ここにいるのかという目的意識を忘れ去ってしまった一部の寮生が、同じようにストレスを溜め込んでいた他の寮生を巻き込んで、寮の廊下で、ほんの一時ストレスを忘れるために騒いでいたのだった。
しかし理由はどうあれ、毎晩毎晩、廊下で大騒ぎをされては、部屋で勉強している寮生達にとって、とても迷惑なことに違いはなかった。
ある日、二階もしくは三階の寮生の誰かが、寮長宛に「二階の廊下で騒いでいる奴等がいる」事を手紙に書いて提出した。手紙には具体的な名前まで書かれていたらしく、寮長は早速その寮生達を呼び出し、事情を聞き、厳しく注意し、彼等の親元へも「他の寮生に迷惑をかけている」旨を連絡する、と言う処置をとった。
寮長に注意されただけでなく、親にまで叱責されて、収まらないのは呼び出された寮生達だった。彼等は早速「犯人探し」を開始した。夜な夜な二階の廊下に集っていた連中は約二十人、それ以外の寮生で、かつ二階と三階に部屋のあった寮生は、誰もが一度は疑心暗鬼の彼等の追求に付き合わされることになった。
彼等は「あいつが怪しい」となるとその寮生の部屋まで押し掛け、しょっちゅう誰かの部屋の前で押し問答を繰り返していた。それは第三者の寮生にはとても迷惑な事だったのだが、彼等以外はほとんどが部屋で一人で勉強している寮生ばかりだったので、彼等に好き好んで関わっていくヤツは皆無に等しく、寮はしばらく嫌な雰囲気に包まれた。
そんな追求にも関わらず、結局手紙を出した寮生が誰であるのかを特定することは出来ず、事件はうやむやのうちに消えていった。
しかし、この事件は寮、特に二階と三階の寮生を二つに割り、以降その溝は二月に全ての試験が終了するまで(追求の課程で深い遺恨を残してしまった一部の連中は三月に退寮するその日まで)埋まることはなかった。
年が明けると、今度は模試ではない、本番の入学試験が始まった。
一番早かったミッション系の大学の試験が終わると、僕らは受験してきた奴等の所へ行って、その感想を聞いたりして、来るべき自分の受験に備えた。
ほどなく、毎日誰かがどこかの大学を受験するようになり、一月の終わりからは寮にいるヤツの方が少ない日が続いた。
試験があった日は、その日に受験した連中は誰彼とも無く寮の一階の食堂に集まり、しばし情報交換をして、また自分の部屋へ戻って明日以降の試験に備えるような生活をしていた。食堂での情報交換では、ある大学が試験日の異なる学部の入試に同じ問題を使い回していることがわかったことがあって、次の日にその大学を受験するヤツの部屋まで押し掛けていって、その試験問題を全部教えてしまった、なんてこともあった。
入試のハイシーズンの二月は、毎日が恐ろしく忙しく、又ものすごいスピードで過ぎ去っていった。
そして、僕らの寮生の大部分が第一志望に挙げていた早稲田大学の入試終了を持って、僕らの一年間の受験生生活は終わりを告げた。
早稲田が終わった直後の数日間は、寮は毎晩爆発し続けていた。それまで鬱積されていたモノが一気に吹き出したがごとく、僕らは朝遅くまで寝て、夜は毎晩新宿や仙川を飲み歩いた。寮に帰っても誰かしらが酒を飲んでいて、飲んで帰った僕らは寮でも更に飲んで飲んで、騒ぎに騒いだ。
幸せな数日が過ぎると、今度は深刻な数日が待っていた。合格発表が始まり、毎日勝者と敗者が鮮明に描き出される日々が始まった。合格した者も素直に気持ちのままに喜ぶことは出来ず、不合格だった者はショックで部屋に閉じこもった。
合格発表が次々終わり、最後に早稲田の発表があると、僕らの寮生活はいよいよ終わりを待つばかりとなっていた。
三月になると、いよいよ別れの日が近いことを意識せずにはいられないような雰囲気が漂っていた。何となく一人でいる時間がもったいなくて、誰もが誰かといつも一緒にいるようになった。苦しかったはずの寮生活なのに、早く出たくてしょうがなかった寮なのに、まるでこの生活が終わってしまうことを惜しむように、僕らは昼も夜も、誰かと一緒に毎日を過ごしていた。
寮は三月二十日頃まではいられた。僕は、三月になると早々に、四月以降住むアパートを見つけてはいたのだが、何となく十五日頃まで寮に留まっていた。
毎日人が減っていく寮で、僕らは四月以降のお互いの連絡先を教えあい、お互いの進路の輝かしい未来と、希望に満ちた大学生活を誓い合いながら、嫌な思い出ばかりのはずの予備校の寮に、何故か強力に後ろ髪をひかれながら、一人、又一人と寮を後にしていった。
僕が寮を出る日、寮にはまだ二十人くらいが残っていたように記憶している。僕は高校時代の先輩に頼んでレンタカーを運転して貰い、まとめておいた荷物と一緒に寮を後にした。最後に寮の玄関を出るとき、寮の仲間の何人かが見送りに来てくれたのを今でも良く覚えている。
一年間の寮生活は、生活しているときは本当に嫌で嫌でしょうがないことばかりの毎日だったのだが、今から思えば、おかしな事や、楽しい事、面白い事も多かったように思う。十代終わりの不自由な浪人時代、五十人が一緒に過ごした三鷹の寮は、今では僕に軽いノスタルジーを感じさせてくれる、そんな場所になっている。あの寮ですごした一年間は、もう二度と戻りたくはないけれども、限りない愛情を込めて振り返ることの出来る、十九歳の大切な思い出の詰まった日々なのだ。