ちょっと真面目なコラム


男の恋と女の恋、女の愛と男の愛

 

 男の恋と女の恋、女の愛と男の愛は、面白いほど対照的で、面白いほど相似形だ。

 男の恋は、無条件に突っ走る。好きになった女に対して盲目的に、衝動的に行動してしまうものだ。相手の都合など考えずに、自分の気持ちにストレートに行動してしまうことがままある。相手の都合が悪くても、時間が空くまで、順番が来るまで待つことなどできない。男が恋する理由は簡単だ。その女を抱きたいから。継続的にそういう関係になって、自分の女にしたいから。男が挙げる女を好きになる理由は、「(外見が)かわいいから」「スタイルが良いから」「(物理的に)女を感じたから」等々。外面的な理由が多い。

 女の恋は、条件を付けたがる。好きなる男には、それなりの理由が必ずある。たとえそれが、「自分を好きになってくれたから」と言う消極的なものだったとしても。そして、条件を満たしてくれる相手なら、恋した相手の都合を考えて、極力自分を相手に合わせていく。相手が自分のために時間をとってくれることを期待して、いつまででも待つことだってできる。女が恋する理由は簡単だ。男の持つ条件(好きになった理由)を自分のものにしたいから。男のもつ「自分が恋した条件」を、自分だけのものにしたいから。女が挙げる男を好きになる理由は「(立ち居振る舞いが)かっこいいから」「やさしいから」「頭がいいから」「(心理的に)男を感じたから」等々。内面的な理由が多い。

 一つの例え話がある。男は二つの羽を持つ天使で、天上を飛びながら、地面にいる女を捜す。女は羽を持たない妖精で、地面から天上を飛ぶ男を誘う。空から女を捜す男には、一緒に空を飛びたい女しか見えない。他の女は、目に入っても女として認識されない。女は、自分にピッタリの羽を持ち合わせた男が降りてくるのを待っている。空を飛ぶ男を地面から眺めながら、自分に合いそうな羽を持っている男の目に留まるように、美しく着飾りながら。そして男は、好きになれそうな女を見つけると、二つの羽の一つを与えようと、女の側に降りてくる。女は、目の前に降りてきた男の羽を見極めて、自分に合う羽を持ち合わせた男だと思うと、羽を受け取って一緒に空を飛ぶ。それが恋の始まりなのだ。


 大人の恋には、どうしてもセックスがつきまとう。プラトニックな関係を描いた映画が大ヒットしたこともあったが、それが絵空事に過ぎないことは、実際に恋を経験したことのある人なら、誰でも感覚的に察することができるだろう。

 恋に性欲は、不可欠だ。恋と性欲は、直接的に結びつく。性欲には、男女の質の違いはあれど、その存在に男女差はない。

 男は、恋した女と寝たい。女は、寝た男と恋がしたい。

 しかし男は、恋していない女と寝ることもできるから、寝たからと言って恋にはならない。女も、男が自分の恋の条件に合わないと、寝たからと言って恋にはならない。

 恋と性欲が結びつくのは、恋した女と寝た男が、女の恋の条件を持ち合わせているときだけだ。

 恋に性欲が不可欠だからと言って、性欲に恋は不可欠ではない。恋と性欲が直接的に結びつくからと言って、性欲を満たすためだけのセックスは、男女ともになかなか恋を生み出さない。恋を生み出さない性欲だけのセックスは、男には虚しさを残し、女には寂しさを残す。

 性欲とも恋とも関係なく、別の理由で寝た時は、男にも女にも禍根を残す。恋にもならず、虚しさも寂しさも残さないが、男も女も心に消せない傷を残す。忘れることはできても、消すことはできない禍根を残す。故に、理由だけのセックスは、男と女の心をすり減らす。そういうセックスを繰り返せば、男も女も恋する心を失っていく。


 男の恋と女の恋は、対照的に始まっていく。恋の成就は、愛の芽生えに他ならない。しかし、男の愛と女の愛もまた、対照的に進展する。

 女の愛は、決めた相手に無条件に注がれる。女は、まず愛する相手を決めてから、自分の愛を注ぎ出す。愛した相手を受け入れて、それから相手の条件を受け入れて、自分を相手に合わせるように、二人の関係を近づけて愛で満たそうとする。そして同時に、男の全てが常に自分に向いているように欲求する。

 男の愛は条件をクリアした相手に対して注がれる。男は、まず相手の条件を見極めてから、自分の愛を注ぎ出す。相手の条件を見極めて、それから相手が愛するに値すると判断して、相手が自分に合うことを確かめるように、二人の関係を近づけて愛で満たしていく。そしていつでも、女に条件をクリアし続けることを欲求する。

 女の愛は、相手の条件には左右されない。故に、女が複数の男を愛することは、複数の人間の人間性の全てを、余すことなく受け入れることになる。心の許容範囲が広い女であれば、複数の男を愛することもできるのだろう。ただし、男の愛は条件付きで、女はその条件をクリアしていないと愛されないことを忘れてはならないだろう。

 男の愛は、相手の条件に左右される。故に、男が複数の女を愛することは、心理的には、条件をクリアする女の数だけ可能なことであるといえる。体力、財力、時間など、物理的な許容範囲の広い男であれば、複数の女を愛することもできるだろう。ただし、女の愛は無条件であるかわりに、常に男の全てを欲求することを忘れてはならないだろう。

 実際のところ、男と女が愛し合うためには、そのアプローチの仕方こそ違え、お互いに1対1の関係でないと上手くいかない。現代のように、個人と個人が主役となって愛を育むのであれば、男は女の愛の欲求を受け入れ、女も男の愛の欲求を受け入れなければ、二人の間に本物の愛は生まれないし、進展しない。お互いの愛の欲求に答えようとするならば、必然的に愛の関係は1対1になっていくだろう。勿論、社会環境が違えば、1対1ではない愛も存在するかもしれない。例えば、男が極端に権力を持っているような社会や、男の数が極端に少ないような社会では、1対1でなくても男と女の愛は成立することもあるだろう。しかし、それでは男か女か、どちらかが耐える愛になってしまう。本来の自然な愛ではなくなってしまうのだ。


 男の恋が無条件なのは、男の愛が条件付きだから。女の恋が条件付きなのは、女の愛が無条件だから。

 男は、恋する時に相手を決める。女は、恋する前に相手を選別する。

 女は、愛する時に相手を決める。男は、愛する前に相手を選別する。

 男と女が、恋して愛し合うようになるためには、まず男が女の条件をクリアして、その後、女が男の条件をクリアしなければならない。

 恋愛が家と家の関係を離れて、個人と個人の関係になったときから、「愛するということ」は、何の思慮もなければ、極めて難しいことになったのかもしれない。偶然にまかせていては、「男の恋と女の恋、男の愛と女の愛」の違いを乗り越えていくことは、なかなか難しいことなのかもしれない。「愛は術(コツ)である」と言う、ドイツの精神科医にして心理学者でもあるエーリッヒ・フロムの主張は、男と女の愛と恋の違いを考えるとき、まさしく真理に思えてくる。恋をして、恋を愛に成就させるとには、「愛の術(コツ)」は男にも女にも必要なことなのだろう。

 男も女も、幸せになりたい。相手に幸せにして貰いたいし、相手を幸せにしてあげたい。だから男は、愛する条件にこだわるし、女は恋する条件にこだわる。条件は、常に内面的なものだ。良い恋をして、確かな愛を手に入れるには、男も女も、自分の内面を磨かなければならない。あまりにも当たり前の結論だが、真理とは案外、シンプルなただ一つの結論に帰結する。

 ときめくような恋をしているときも、幸せな愛の関係を築いているときも、はたまた、恋に破れたり、愛を失ったと感じたときにも、常にもう一度自分を見つめなおし、内面を磨くきっかけにして、人間として向上して行くことだけが、良い恋をして、幸せな愛を継続していくために唯一の、そして絶対的に必要な「愛の術(コツ)」なのだろう。

 男の恋と女の恋、男の愛と女の愛は、対照的で相似形だが、それを通じて得るべき物は、男も女も関係なく、等しく同じ物なのかもしれない。確かな本物の愛は、人間的に成長した心の中からしか生まれないものなのだ。


参照:「愛するということ」 エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳 紀伊国屋書店刊


7th,August,1998 by Osamu Yamanaka


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