おかあさんといっしょ?
もう10数年も前から週刊誌などで話題になっていたことなのだが、初出社に母親同伴で行く新入社員がいるらしい。「らしい」というのは、いくら週刊誌で取り上げられても、実際にお目にかかったことはなかったからだ。
しかし今朝、通勤する電車の中で、ついに初めて実際に目撃してしまった。彼は、ちょっと線は細いがごく普通の新卒社会人といった感じなのだが、見るともなしに見ていると、ちょっと様子がおかしい。周囲に友人らしき人は誰もいないのに、誰かに話し掛け、また誰かに話し掛けられて反応している。最初は「独り言でもいっているのか?」と思っていたが、よく見ると、彼の背後に隠れて、なんと母親がいた。母親は、しきりに彼の服装や姿勢を気にしているようで、彼もまた母親の言うことを素直に聞いているようだった。まぁ、これが大学の入学式だとでも言うのであれば「微笑ましい光景」ですむのだが、出社風景としては大分違和感がある。なるほど、実物を目の前にしてみると、むかし週刊誌を賑わせていたのが理解できるだけの異様さが、その光景にはあった。
彼が向かった会社が、彼と一緒に出勤してきた彼の母親をどういうふうに処遇したのか知る由もないが、普通の会社なら母親は門前払いだろう。おめかしして息子に同伴してきた母親は、すっかり入学式気取りだっただろうから、門前払いされた彼女の心中は穏やかではなかったのではないかと思う。ひょっとすると、彼をあの通勤電車で見かけることはもう二度とないかもしれない。母親の命令で会社を辞めさせられたのでは、息子にとっては災難以外のなにものでもないように思うのだが、息子の初出社に同伴してしまう母親ならやりかねないだろう。
世の中のほとんどの男性は、初出社に母親同伴で行く新入社員を見て違和感を感じるであろうが、実は自分にも多かれ少なかれマザコンの傾向があるのも否定できないのではないだろうか。自分は絶対に違うと思っていても、実際に自分の母親の前にでてしまえば、息子の立場はいかにも弱いものだ。傍から見るとやりたい放題に生きているように見える放蕩息子でも、母親の葬式には必ず泣くという。父親の葬儀では涙一つ見せずに気丈に式をやり遂げた男が、母親の葬儀では、周囲の目も気にせず泣き崩れてしまう。そんな光景もよく見るものだ。通勤電車の中のマザコン男も、程度の差こそあれ普通の男なのかもしれない。それでは、あの異様な光景を生み出す原因はどこにあるのだろう?息子には多かれ少なかれマザコンの気があるとすれば、その程度を決めるのは、実は母親の態度にあるのではないだろうか。母親の、親離れならぬ「息子離れ」がポイントではないだろうかと思うのだ。
母親にとって、息子は目のなかに入れても痛くない存在であることは間違いないのだろう。しかし、だからといって、いつまでも息子を目のなかに入れておくのも考えものだ。どこかで聞いた話だが、「男は男として生まれ育つのではない。男になるのだ」という。男が男であるためには、人生のどこかで男にならなくてはならないのだ。母親がそれを理解できずに、いつまでもずっと「子供」として接していると、男は「男」になるタイミングを逸してしまい、本来男性なら誰もが持っているマザコン気質から脱却することができなくなってしまうのかもしれない。
少子化による過保護が言われて久しい。子供が少なければ、一人一人が可愛いのもよくわかる。しかし、ものには按配というものがある。誰が見ても、子供の入社式に同伴する母親は異様である。自分の子供を、立派な一端の「男」にしたければ、母親は息子離れのタイミングを意識しておくことも必要なことなのではないかと思う。この世の仕組みはよくできていて、子供の成長の過程に反抗期があるのは、そのタイミングを子供が自ら母親に教えているのではないかと思うのだが、世のお母さん方はどう思われるだろうか?
10h,April,1999 by Osamu Yamanaka