第十章          死んだふり
 パリーグはかって前期と後期の二シーズンに分かれてペナントを行っていた。観客動員に悩みそれなら、と考え出した言わば苦肉の策だった。しかしこの苦肉の策には一つの問題があった。
 順位も前期と後期に分かれている。よってそれぞれの優勝チームが違う場合が充分に考えられる。その時はその優勝チーム同士でそれぞれプレーオフを行い優勝チームを決定するというものだ。ここに問題があった。
 前期優勝したチームは後期には手を抜くようになるのではないか、プレーオフには出られるのだから。そう危惧する声があった。それに両方優勝したら折角のプレーオフの意味がない。お祭りは多い方がいいという考えだがそうなれば意味はない。それに前期と後期の間隔があありすぎる。問題は山程あった。だが試験的に見切り発車となった。それは昭和四八年のことであった。
 この時パリーグに覇を唱えていたのは阪急ブレーブスであった。闘将西本幸雄が育て上げたこのチームは攻守走、そして投手陣においても圧倒的な戦力を誇り他のチームを大きく引き離していた。そして彼等を率いる西本自身も名将と謳われていた。
 その西本の下にはキラ星の如き人材が集まっていた。ガソリンタンクと呼ばれた大投手米田哲也に若きサブマリンエース山田久志のダブルエースがいた。そして野手陣には韋駄天福本豊からはじまり加藤秀司、長池徳二の左右の主砲、守備の達人大橋譲、脇を固める人材として大熊忠義、住友平、森本潔といた。皆西本が一から育て上げた選手達である。その彼等が闘将西本の下に一致団結していたのだ。
「わしの切り札はこの選手達全員や」
 西本は彼等を指差しながら記者達に対して言った。怒鳴り、拳骨をもって育て上げた彼等は西本にとっては我が子のような存在であった。
 それに対するのは何処か。と聞かれてもこれといった球団がない。強いて言うならば金田正一率いるロッテであった。だが打線が今一つ頼りなかった。
「それでも投手力は大事やな」
 そう主張する男がもう一人いた。南海の監督野村克也である。彼は名門南海の監督に選手権任で就任していたのだ。
 彼はよく知将と言われる。その相手の心理や癖を見抜きそこを衝く作戦からそう言われているのである。
 囁き戦術というのがある。バッターの側に何やら言い集中力を削がす。時にはかなり嫌味なことも言う。
「ふざけた奴だ」
 他の球団の選手達はそれに憤慨する。実際に野村は外見も野暮ったくあまり女性にもてるタイプでもなかった。酒も飲めずキャッチャーということもあり地味な存在であった。
 南海の黄金時代には彼は四番であった。だが人気はあまりなかった。華がなかったのだ。
 当時の南海はスター選手が揃っていた。その中でもアンダースローのエース杉浦忠は別格であった。
 華麗なアンダースローから繰り出されるノビのある速球、キレのあるカーブとシュート。抜群の安定感とコントロールで相手バッターを寄せ付けない。しかも育ちがよく眼鏡の似合う知的な美男子であった。性格も素直で真面目だった。将に天から二物も三物も与えられた男であった。 
 そんな男が監督の気にいられない筈がない。当時南海だけでなく関西球界にその影響力を誇っていた南海の監督鶴岡一人は彼を溺愛した。野村は四番で正捕手だったがあくまでナンバー2であった。
 こういう話がある。昭和四〇年南海はリーグ優勝を果たした。だがシリーズでは王と長嶋を擁する巨人に惨敗した。
 鶴岡は責任をとって監督を辞めることになった。次の彼の行く先は大洋か、東映か、と話題になった。だがここで一つ異変が起こった。
 何と鶴岡の後任であった蔭山和夫が急死したのだ。野村を信頼していた彼は死ぬ間際にこう言った。
「野村に連絡してくれ」
 それを聞いた野村はすぐに動いた。選手を代表して鶴岡に南海の監督に復帰するよう申し出たのだ。だが間が悪かった。野村という男はここぞという時に運命の女神にふられることが多いのだった。
 この時鶴岡は帝塚山の自宅にいた。そこで酒を飲んでいたのだ。
「監督、南海の監督に戻ってくれまへんか」
 野村は彼に対して言った。
「今何言うた!?」
 鶴岡は彼に対して言った。酒も入っていた。しかも急に言われてさしもの彼も動転していた。
「御前三冠王になって少しいい気になっとりゃせんか!?」
 このシーズン野村は戦後初の三冠王に輝いていた。そして文句なしの最優秀選手であった。
「えっ、それは・・・・・・」
 野村は最初何を言っているのかわからなかった。単に彼に監督になってもらいたいだけなのだった。
「ノム、言っとくがな」
 鶴岡は酒に酔った目で野村を睨みつけた。
「三冠王で自惚れるんやないぞ、ホンマの意味でチームの優勝に貢献したのはスギや!御前はスギの引き立て役に過ぎんのや!」
「そんな・・・・・・」
 野村は目の前が真っ暗になった。何故ここまで言われるのかわからなかった。
 この時杉浦は二度に渡る血行障害で投球制限が課せられていた。だが今でいうストッパー的存在として活躍した。鶴岡はそんな杉浦をあくまで庇っていたのだ。
 だがそれを野村に言う必要はなかった。鶴岡は酒と動揺により言ってはならないことを言ってしまった。これで野村と鶴岡の縁は切れた。
 外見に似合わず繊細な男である。それに心優しかった。
 彼はエリートよりも雑草を愛した。疲れ果て他球団を捨てられた選手と見捨てるような男ではなかった。
「わしのとこに来るか」 
 戦力外通告を受けた選手にそう声をかけて南海に誘った。そして彼等を見事再生させたのだ。俗に言う野村再生工場である。
「監督は凄くいい人ですよ」
 当時南海のエースだった江本猛起は今でもこう言う。江本は東映にテスト生として入った。だがその短気でプライドの高い気性が災いし追い出されている。その彼を拾ったのが野村であった。
「わしがキャッチャーやって御前が投げる。それで十五勝や」
 江本はその言葉が嬉しかった。今まで自分をそこまで高く評価してくれた者なぞいなかったのだ。
「高い評価やない。正当な評価や」
 野村は照れ臭そうにそう言った。実は恥ずかしがり屋でもあるのだ。
 その野村が育て上げた南海はかってのスター集団ではなかった。他のチームから流れ着いた者やまだ若い者の多い野村を核とするチームであった。阪急とは無論比べものにならなかった。
 だが前期南海は好スタートをきった。野村がリードする投手力でもってダッシュをかけあっという間に優勝を決めた。まず野村は宙を舞った。
「あとは後期やな」
 しかしここで阪急が地力を見せた。
 何と七割近い勝率でペナントを制したのだ。やはりチーム力が違った。西本は笑顔で宙を舞った。
「これで優勝やないのが変な気持ちやな」
 彼は胴上げのあとでこう言った。
「まあプレーオフで勝てばええだけやな」
 自信はあった。相手は南海である。やはり戦力に大きな差があった。
 それだけではない。後期阪急は南海を徹底的にカモにしていたのだ。
 十二勝一引き分け。ここまで徹底的にやられたのもそうそうなかった。
「死んだふりでもしとるんか!?」
 マスコミもファンも南海のあまりの弱さに思わず口を尖らせた。
「まあそういうところやな」
 野村は否定しなかった。これを彼の知略と見る者もいた。だが実は違っていた。
 実際に勝てなかったのだ。とにかく戦力が違い過ぎた。西本が育て上げた阪急はそれからすぐにシリーズ三連覇を達成する。差は歴然としていたのだ。
 選手達もまるで自信がなかった。はじまる前からもう負けたと思っていた。
 だが野村は負けながらも阪急の試合をまじまじと見ていた。そしていつも何やら書いていた。
「また無駄なことしとるわ」
 南海を赤子をあしらうように倒した阪急ナインは野村がノートをつけているのを見てせせら笑っていた。
「あれでわし等に勝てるんやったら一勝でもしてみい」
 そう言いながらベンチを去る。だがそれを一人真剣な顔で見ている者がいた。
「ノムの奴またたくらんどるな」
 西本であった。彼は野村を見てその目を光らせていた。
「まさか、考え過ぎですよ」
 コーチの一人がそう言った。西本はとかく考え過ぎるところがあった。これは彼があまりにも生真面目であったからだ。
「いや、ちゃうな。あいつは賢い奴や」
 不思議なことに西本は彼が嫌いではなかった。野村も彼に対しては敬意を払っていた。
「プレーオフは厳しい戦いになるかも知れんな」
 そう言うとベンチを去った。こうしてペナントでの両者の戦いは阪急の圧倒的優勢のまま終わった。

「うちの野球は押し相撲や」
 西本は阪急の野球をこう評していた。
「一気に相手を押して勝ち進む。そうでなくてはいかんな」
 流石に闘将といわれただけはあった。彼は積極的に攻撃を仕掛け一気に勝負をつける攻撃的な野球を好んでいた。だがここに言外に潜ませていることがあった。
(野村は何をしてくるかわからん)
 この考えがあった。
(余計なことをせんうちに倒してしもうたほうがええ。時間をかけたらまずい)
 西本の脳裏にノートをつける野村の姿があった。それがどうしても離れなかったのだ。
「うちはもう体当たりしかないな」
 逆に野村はこう言う。
「戦力が違うよってな。けれど」
 ここで彼の目が光った。
「ムッ!?」
 それを見た西本は思わず前に出た。
「連投がきく奴、そうやな佐藤道郎か」
 南海のストッパーである。
「あと左へのワンポイントの村上雅則、この二人には期待しとるわ。福本と加藤を抑えることをな」
「あの二人をフクとヒデにか」
 西本は彼の言葉から耳を離さなかった。
「そして江本と山内新一、西岡三四郎やな。この連中でやりくりしていくしかありませんわな」
 そう言って笑った。
「投手戦を挑んでくるつもりか」
 西本はまずはそう思った。野村はここで西本をチラリ、と見た。
(ここが勝負やな)
 そして言った。
「もうここまで来たらガッツしかありませんわ。もう死ぬ気でいきますわ」
「精神論か、今度は」
 西本はそう考えた。
「確かに戦力はうちの方がずっと上や」
 それは西本にもよくわかっていた。だからといって驕るような男では決してない。彼は相手を舐めるような行動を特に忌み嫌っていたのだ。
「そやが時として別の力が必要になる時がある」
 彼もこれまで伊達に六度もチームをリーグ優勝させシリーズを戦ってきたわけではない。それは痛い程よくわかっていた。
 大毎を率いて戦った時は三原の魔術の如き采配の前に一敗地にまみれた。それに激怒したオーナー永田雅一により解任されている。
 阪急では五度優勝している。だが勝てなかった。
 四三年は雨で一試合空けたところで流れが変わった。その次の年は正捕手岡村浩二のブロックを巡る抗議と彼の退場で流れを向こうにやってしまった。
「周りがセーフと言っても選手がアウトと言えばアウトなんだ」
 西本は写真を見せられてもそう言って選手を庇った。理不尽な言葉だがここに彼の心があった。
 戦力が揃った昭和四六年は切り札の山田が王貞治に第三戦で逆転サヨナラスリーランを浴びて終わった。西本はマウンドに崩れ落ちる山田を迎えに言った。
「監督、すいません」
 彼は泣いていた。西本はそんな彼に対し一言だけ言った。
「ご苦労さん」
 それだけであった。だがそれで充分であった。彼は山田を背負うようにして球場を去った。
 次の年は福本でかき回すつもりだった。だが巨人バッテリーの巧みな牽制とクイックの前にそれは効果を発揮できなかった。それどころか外野を四人配置する独特の王シフトも成功せずそれどころか助っ人ソーレルの拙守もあり崩れた。そしてまた敗れた。
「今年こそは」
 そう思っていても勝てなかった。流れを掴んでもここぞという時に常にそれは敵にいった。戦力で有利と言われる状況でも敗れた。流れ、その恐ろしさを彼もよく知っていたのだ。
「それはあっという間に変わるもんや」
 シリーズ等短期決戦では特にそうである。プレーオフも同じだ。
「南海がもし全員死兵できたら」
 ふと西本の脳裏にそれが浮かんだ。
「うちも危ういな」
 彼は野村が珍しく言ったその精神論的な言葉に警戒した。
「かかったかな」
 野村はそんな西本をチラリ、と見た。
「まあこれがかかったら儲けもんやが」
 彼も西本のことはよく知っていた。伊達に大毎時代から戦ってきたわけではない。その力量は素直に認めている。むしろ敬愛すらしている。
「そうそう迂闊なことをする人やない」
 彼は野村が自分よりも上だと認める男である。野村もこの程度で崩れるとは思ってはいない。
「まあそちらに注意がいけばこっちの考えはばれにくくなるな」 
 それが彼の狙いであった。
「これが決め手になる。脳ある鷹は爪隠すや」
 西本を見て思ったことは決して口には出さなかった。ここは隠蔽することにした。こうして試合前の記者会見は終わった。そして遂にプレイボールとなった。場所は大阪球場、南海の本拠地である。
「敵地やからといって遠慮することはないぞ」
 西本は選手達に対してそう言い檄を飛ばした。
「一気にやったるんや」
「はい!」
 阪急ナインは大声でそれに応えた。その覇気は天を衝かんばかりであった。
「さあ、はじまったな」
 野村は彼等を見ながら呟いた。既にキャッチャーボックスに入っている。
「ここからどうするかや。油断はできんな」
 マスク越しに西本を見る。西本もそれには気付いていた。
「野村も考えてくるやろ」
 西本は野村に目を向けていた。彼は西本から目を離し座り込んだ。
「そやがこっちも負けるわけにはいかんのや。策はわしが全部見抜いたる。そして」
 ナイン達を目だけで見回した。
「わしが育て上げたこの連中に勝てるか。伊達に手塩にかけて育てたわけやないで」
 彼にも自負があった。自らが育てた選手達は誇りであった。54
「その力、ここでも見せたる」
 そしてそれはいきなり南海に見せつけられた。
 まずは先頭打者の福本がホームランを打つ。先制だ。阪急は幸先いいスタートをきる。
 二回にも。阪急は二本のアーチでいきなり南海を圧倒したかに見えた。
「さて、どうする」
 西本はベンチにいる野村を見た。
「このまま黙っとるわけやないやろ」
 勿論野村にそんなつもりは毛頭ない。二回裏の南海の攻撃である。まずは一点を返した。そして尚も攻撃を続ける。
 二死ながら二、三塁。ここで打席に立つのは相羽欣厚である。彼もまた巨人から移籍してきた選手だ。
 その彼がライト前に打った。これで逆転だ。三回にはもう一点入れる。
 だが阪急の自慢の強力打線が黙ってはいない。西本は彼等に対して言った。
「取り返してくるんや」
「わかりました」
 そして次々とバッターボックスに向かう。それを見た野村の目が光った。
「さあ、こっからや」
 野村は立った。
「!?」
 西本は一瞬何かと思った。ここでピッチャー交代であった。
 西岡から佐藤に替える。何とここでストッパーの佐藤だ。
「もう佐藤を出してきたか」
 西本はそれを見て言った。
「意外と早いですね」
 コーチの一人が西本の側に来て言った。
「ああ。何かあるな」
「ですね」
 彼もまた野村のことはよく知っていた。
「ここで佐藤を出すっちゅうことはまだ切り札が向こうにあるっちゅうことや」
「山内でしょうか」
 そのコーチは言った。
「いや、山内は先発でくるやろ」
 西本はそう読んでいた。
「多分次の試合や」
「次の試合で、ですか。すると誰を出してくるか」
「それが問題やな。まさかこんな早く西岡を引っ込めるとは」
「相変わらず何をしてくるかわからない奴ですね」
 彼等は野村の采配に不安を感じた。それは野村にも伝わった。
「かかったようやな」
 彼はマスクの奥で笑った。
「今日はもろたで」
 そして佐藤のボールを受けた。
 佐藤は左右の揺さぶりを得意とする男である。野村はそれを自由自在に使い阪急打線をかわした。だが阪急打線は手強い。おそらく佐藤が疲れたらすぐに攻撃に出るだろう。野村は一球一球受けながら替え時を見計らっていた。
 三番手は村上である。ここであえて左だ。
 村上も変則派である。野村は変化球主体のリードで阪急の攻撃をかわすことにしたのだ。
「村上か。また難儀な奴を出したな」
 西本は顔を顰めた。こうした軟投派の継投はタイミングを崩されやすい。それが野村の狙いだということはよくわかっていた。
「考えよるわ」
 西本は苦い声を出した。
「次は江本がくるで」
「江本ですか!?」
 コーチはその名を聞いて驚いた。
「そうや。短期決戦やしな」
 流石にここまでくると野村の采配の意図が読めてきた。どうやら小刻みな継投でかわすつもりらしい。
「今日は苦しくなるな」
 その言葉は当たった。江本に繋がれそのサイドスローからくる独特のエモボールの前に凡打の山を築いた。そして九回表、阪急は追加点を得られないまま終わった。
「初戦を落とすとはな」
 西本は憮然とした顔で言った。
「野村もやりおるわ」
 目の前では野村が江本に何やら話をしている。表情から見てすぐにかなり上機嫌だとわかる。
「それにしてもいきなり主力級をあれだけ出してくるとは思いませんでしたね」
 コーチが言った。
「ああ、それには驚いたわ。けれどな」
 西本はの村から視線を外すことなく言った。
「明日はこうはいかんで。こっちもやられっぱなしは嫌いやからな。いや」
 彼はあえて言葉を変えた。
「勝つんや。そして今年こそ日本一や」
 そう言うとベンチを去った。そして隣を通り過ぎた山田に対して言った。
「次の試合は頼むで」
「わかりました」
 山田は頷いた。彼は先発を命じられたのだ。
 西本は廊下を歩きながら考えていた。当然次の試合のことである。
「先発はおそらく山内や。江本やない」
 まずはそこから考えた。
「あいつの変化球はムラがある。そこを狙うか」
 山内の武器はスライダーであった。だがこれは日によって大きく変化が異なっていた。
「ノムのリードは厄介やが」
 それに囁き戦術も気になった。だがそこで退いては勝てる勝負も勝てはしない。
「わしも伊達のあの連中を育てたわけやない」
 阪急の強力打線には絶対の自信があった。何故なら彼が一から鍛え上げた打線だからだ。
「次の試合ではあいつ等に今日もぶんまで働いてもらうか」
 そう言うと彼はバスに乗った。そして宿舎へ帰って行った。

 次の試合、阪急は山田を予定通り山田をマウンドに送った。彼はその大きく腕を振り被る投球モーションからアンダースローでボールを繰り出す。西本は彼の投球練習を見ていた。
「今日はあいつはあまり期待できへんな」
 決して気分が乗っていないのではない。山田は気合充分である。しかしだからといって勝てる程甘い状況ではない。
 見れば膝が浮いていた。山田は彼が一からエース学を叩き込んだ男である。彼の調子は手にとるようにわかる。
 膝が浮いているのは山田が不調な時である。こうした時の山田には彼の最大の弱点が露わになるのだ。
 一発病だ。山田はとかくホームランを浴びることの多い男であった。歴代被本塁打は二位である。近鉄の鈴木啓示に次ぐ。特に有名なのが前述の日本シリーズにおける王のホームランであった。
 特に南海には左でパワーのある男がいた。門田博光とジョーンズである。野村の前後を固めるこの二人を西本はある意味野村よりも危険視していた。
「あの二人はちょっと打ち方を変えたら凄いパワーヒッターになるで」
 ある時西本は二人を見て記者達に言った。
「そうですか?ジョーンズは少しバッティングが荒いですよ」
「門田はどちらかというとアベレージヒッターでしょう」
 記者達は口々にこう言った。
「君等はそう思うか」
 西本はそれを聞いて彼等に言った。
「わしは違う思うけれどな」
 何と西本のその言葉は後に当たることになる。
 門田は後にアキレス腱を切断する。それで守れなくなった。そのかわりバッティングに専念するようになりそのパワーを開花させた。
 ジョーンズは西本本人の手により開花した。彼が近鉄の監督になった時に獲得したのだ。彼の指導によりジョーンズは二度のホームラン王を獲得した。
 その彼等を最も警戒した。特に山田のような右のアンダースローは左打者からはボールが見え易いのだ。調子のいい時ならば問題はない。だが今は。しかし西本はこの日は打線については安心していた。
「今日は打ってくれる。山田の調子のぶんまでな」
 それは的中した。阪急は三、四、五回に集中攻撃を仕掛けたのだ。一気に八点をもぎ取った。南海は山内から村上、中山孝一等を投入したが阪急の猛攻は抑えられなかった。しかもエラーを連発してしまい守備においても磐石の強さを誇る阪急との差を曝け出す結果となった。
 それでも打撃においてそれを取り返そうとする。西本の予想通り門田とジョーンズが打った。これにより一時は二点差にまで迫る。
 だが九回に阪急は追加点を入れる。これで勝負ありだった。最後の追撃も及ばず南海は敗れた。阪急は南海の継投を凌ぎ伏兵住友平がニホーマーを放つ等その戦力を見せつける形となった。
「この勝負は阪急の勝ちや」
 こう予想した男がいた。ロッテの監督金田正一である。
「南海は捨て身でかからなあかんわ。それでも最後は阪急が立っとる。戦力が違い過ぎるで」
 彼は一年を通じて阪急、そして南海と死闘を繰り広げた。だからこそよく知っていたのだ。
「三勝一敗で阪急の勝ちや。やっぱり強いわ」
 その阪急が今真の力を見せた。誰もが阪急がそのまま突っ切ると思った。
 
 第三戦、舞台は西宮球場に向かう。阪急は二線級の投手陣しかいない。ベテラン米田は明日の先発だ。従って南海の先発投手が問題となる。
 南海の先発は江本。野村はその彼の球を受けていた。
 練習も変化球中心である。彼はそれを受けながら考えていた。
「ふむ」
 彼はストレートを受けて考えた。
 江本はあまり球は速くない。だがフォークとシュート、そして独特の変化球エモボールがあった。従ってその投球は変化球中心である。
「ここはこいつに任せてみるか」
 彼は江本の方に歩み寄った。
「エモ」
 そして笑顔で彼に声をかけた。
「今日は御前に任せたで」
「はい」
 江本も微笑んでそれに答えた。彼は野村のリードには全幅の信頼を置いていたのだ。
 敗戦処理だった彼を拾い快く迎え入れてくれた恩を彼は決して忘れてはいなかった。野村の優しさと繊細さが彼は大好きだった。
「あんな優しい人はおらん」
 彼は友人や記者達に対してよくこう言った。
「ちょっと、嘘でしょう?」
 記者達はそれを聞いて思わず吹き出すのだった。友人達もだ。
「あの嫌味な人が」
「嘘だろう!?」
「御前等はあの人のことを知らんのか」
 当時江本はまだ関西弁を完全に覚えてはいなかった。
「わしを拾ってくれた人やぞ」
 とにかく江本はその短気な性格に問題があった。何かと上層部と衝突することもあった。それで東映を追い出されている。
 その江本に彼は背番号十六を与えたのだ。
「監督、これ・・・・・・」
 江本はそれを見て呆然となった。
「どや、ええやろ」
 野村はニンマリと笑って言った。江本が好投空しく負けた試合では彼を褒め打てなかった野手陣を叱った。
「うちで今日デビューやったこいつを勝たせてやれんかったのは口惜しいやろが」
 彼はそれを聞いた時思わず涙が零れた。彼の細かい気配りが非常に嬉しかったのだ。
 野村は決してエリートではない。本当に地味な存在であった。タイトルを幾ら獲得しても日陰者のような存在であった。
「わしやったらノムはあんなふうには扱えんな」
 西本はよくまだ監督をしていなかった野村を見て言った。彼はその風貌のせいかよく鶴岡に言われていた。鶴岡は彼が反骨精神旺盛で打たれ強いと思っていたのだ。
「あいつはあれで繊細やな。そして寂しがりや」
 西本は彼の本質をよく見抜いていた。彼は野村とは違う。立教大学の頃は主将であった。当時の主将は監督も兼任であった。審判の判定に不服で試合放棄をしたこともある。当時から血気盛んな闘将であった。戦争では陸軍において高射砲部隊の将校を務めた。自衛隊ですら足下にも及ばない位の激烈な訓練と戦場を生き抜いた。戦後派はノンプロで選手兼任で監督になっていた。彼はプロだけで監督をしていたのではなかったのだ。
「ナッパの味しか知らん選手達にビフテキの味を教えてやりたい」
 ある時西本はこう言った。その言葉からは滲み出る苦労があった。
 その西本だからこそ野村のことがよくわかった。甲子園に出場し法政大学の花形選手で鳴り物入りで南海に入団し最初から人の上に立つ存在としてあった鶴岡とは違っていた。
 確かに指導者であった。しかし自分はそうではないと考えていた。
「わしは人の上に立つ器やない」
 西本はよくこう言った。これにはやはり同じパリーグの監督である鶴岡の存在もあっただろう。
 しかし人を見抜く目は持っていた。そして苦労を知っているだけあって下積みの苦しさも理解していた。
「あいつみたいな奴がホンマは陽の目見るべきなんや」
 野村はそれを記者の一人から聞いた。
「西本さんはどうやらわしをおだてて何か聞き出すつもりらしいな」
 彼は笑ってそう言った。
「けれどわしは腹黒いからな。そう簡単には手の内は見せんで」
 そして記者達をあとにして帰って行った。だが野村は誰もいないところでふと立ち止まった。
「恩に来ますわ」
 西本のその言葉だけでも嬉しかった。西本の言う通り野村は繊細で寂しがり屋であったのだ。だからこそ選手達にも優しかった。苦労を積み重ねてきた者や尾羽打ち枯らした者を見棄てることなどできはしなかったのだ。
「野村再生工場はな、不用品のリサイクルや」
 こうは言ってもその彼等を手取り足取り教えた。江本も山内もそうであった。
 その野村のことをよく知る江本はマウンドに立った。そして野村を見据えた。
「監督、行きますで」
「ああ」
 野村はマスクの奥で頷いた。江本は一つしか考えていなかった。勝利しか。
 江本は投げた。緩急をつけて阪急打線を左右にかわす。それを見た西本は言った。
「投球変えてきとるわ」
 そうであった。野村はペナントとは違ったリードをしたのだ。
「ピッチャーはな、リード一つで大きく変わるんや」
 野村はこう言う。確かにこの時の江本はペナントの江本とは別人であった。変化球もあるが緩急をつけて投げていたのだ。
 それに阪急は手こずった。逆に南海の打線は好調であった。またジョーンズが打った。そして野村自身も。
「たまにはわしも打たんとな」
 阪急の大型打線が南海の小粒な打線に負けた。意外にも南海はこれで王手をかけたのだ。
「これは予想しとったわ」
 西本は試合終了後憮然とした顔で言った。日本シリーズでの経験があった。
「しかしうちにはまだ戦力がある。打線だけやない」
 今日江本にしてやられてもまだまだ諦めるわけにはいかなかった。
 ベンチをチラリ、と見た。そこには米田と山田がいる。
「二勝や」
 そして彼は言った。
「仕切り直しや。一気に二勝もらったる」
 この二人に任せた、西本は腹をくくった。それだけではない、勝利も確信した。
「この二人のことならわしは全部知っとる」
 米田もであった。彼は西本以前からいたがここまでの大投手にしたのは西本であった。
「次の試合はヨネや。そして」
 彼は山田を見た。
「最後はこいつや。こうなったら絶対引くわけにはいかん」
 闘将の闘志に火が点いた。それがチーム全体を包み込むのにさほど時間はかからなかった。

 次の試合阪急のマウンドには米田が上がった。
「やっぱそうきたか」
 野村は彼の姿を見て言った。
「今日は捨て試合かもな」
 彼は覚悟した。まだ一敗できる、そういう計算もあった。
 やはりこの試合阪急は勝った。米田は南海打線を佐野嘉幸のホームラン一本で捻じ伏せた。対する阪急打線は南海投手陣を打ち崩し十三点をもぎ取った。これで勝負はふりだしに戻った。
「これで互角や」
 試合終了後西本は腕を組みながら言った。
「互角になったらこっちのもんや」
 ここまでくると戦力がものをいう。西本はそれがわかっていた。
「一気に叩き潰したる」
 そう言って監督室に消えた。
 対する野村は案外サバサバした顔であった。特に肩を落とすことなく帰りのバスに向かった。
「明日やな」
 そして記者達に対して言った。
「決まるのは」
「え、ええ」
 そのあまりにもあっさりとした態度に記者たちの方が困惑した。
「まあ見ていてくれや」
 野村はニヤリと笑って言った。
「明日全てが決まるで」
 それだけ言うと彼はバスの中に消えていった。
「野村さん今日の負けでヤケクソになったか!?」
 記者の一人が首を傾げながら言った。
「かもな。あれじゃあ何もできんわ」
 他の記者が相槌をうつ。
「阪急と南海じゃあ戦力差がありすぎる」
 それはプレーオフの開始前から言われていたことであった。
「結局この差をどうにもできないまま終わるんだろうな」
「そうだろうな。結局頭では阪急のパワーには勝てんわ。やっぱり野球は頭だけでどうにでもなるもんとちゃう」
 彼等は口々に言う。
「明日は西本さんの胴上げや」
 そしてその言葉で終わった。彼等も取材を終え会社へ戻って行った。

 野村はバスの中で一人考え込んでいた。
「明日は山田が出て来る」
 阪急が誇る若きエースである。西本が育て上げた最高の投手の一人だ。
「おいそれと打てる奴やない。この前は打てたがな」
 負けたとはいえ打てた。だがそれに心理的余裕は感じなかった。
 今日の練習を覗き見たが山田の調子はいい。あれでは容易に打てそうもない。
「何もかも超一流や。まるでスギみたいな奴や」
 彼は自分が受けた中で最も凄いと確信する男の名を呟いた。
「球威もコントロールもズバ抜けとる。しかも頭もある」
 彼は考えを巡らし続けた。
「おまけに気まで強いか。ホンマに難儀なやっちゃで」
 ここで彼は以前彼と雑談した時のことを思い出した。
「野村と話はするな」
 よくこう言う者がいた。オールスターでも南海以外の投手達は彼とバッテリーを組むことを嫌がった。それは何故か。
 盗まれるのである。野村はそのピッチャーの球を投げさせ受ける。その時彼はボールから目を離さない。
「野村さんはセリーグと戦っているんじゃないんだよ」
 ある他球団のピッチャーが言った。
「俺達と戦っているんだ。そしてボールから色々調べるのさ。そしてそれを後半や次のシーズンに使ってくる。全く食えない人だよ」
 そういう男であった。優勝チームの旅行にも追いかけるようにして行った。
「何でこの時期に行くんですか?」
 誰かが尋ねた。
「決まっとるやろが」
 ここで彼はニンマリと笑った。
「王や長嶋から巨人のサインのことや戦略を盗み聞きする為や。そでなかったら寒いヨーロッパなんか行くかい」
 この時の旅行はフランスの航空会社の招待でヨーロッパ旅行であった。当然行くのは巨人である。
 彼等の作戦等を仕入れそれをシリーズに使う為だ。これが野村であった。
 ペナントにおいてもそうであった。とにかく山田を打てない。
「凄いやっちゃで」
 そう言いながらノートをつける。そこには山田のデータがびっしりと書き込まれていた。
「どういう時に何を投げるか」
 野村はそれを細かいところまで観察していたのだ。
 西本の采配も見ていた。これは案外わかりやすかった。
「やっぱセオリーに忠実なお人やな。間違ったことはせん」
 西本の戦術はオーソドックスである。強気な采配であるが基本からははみ出ない。
「やっぱりあのスクイズは異色やな」
 昭和三五年の日本シリーズでのことを言っているのである。これがあのシリーズのターニングポイントとなった。
「まああれが間違っとるとは思わんがな」
 野村は自分でもああしたかも知れない、と思った。野村もその采配は実はオーソドックスなのである。だが彼は細かいところが西本と違う。
 西本は奇襲を好まないところがあった。あくまで正面からぶつかる。しかし野村は時として奇襲を使う。
「あいつの奇襲はホンマに思いもよらんところでやりおるわ」
 ある時西本は苦笑してこう言った。彼も野村のその巧みな采配に苦しめられていたのだ。
「監督の仇は俺がとりますよ」
 山田は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「南海は」
 彼は野村に対して言った。
「面白いですね、知恵比べと力比べ両方できるんですから」
「何でや」
 野村はそこで聞いた。
「野村さんとは知恵比べ、門田とは知恵比べ。近鉄の鈴木さんとやる時とはまた違った意味で面白いです」
 彼はここで近鉄にいるライバルの名を出した。
「鈴木とは投げ合いやしな」
 野村はここであえて表情を殺して言った。
「ええ。投げ合いもいいですがバッターとの勝負もいいです」
 彼はあくまで勝負を楽しむタイプであった。
「力で勝った時も知恵で勝った時も嬉しい」
「わしや門田にとっちゃあ負けたから嬉しくないわい」
 ここで嫌味を入れる。
「けれどそれこそが勝った証拠ですね。力比べと知恵比べ、同時にできる南海戦は本当にいいです。僕はそうした意味で鈴木さんのいる近鉄と野村さん、門田のいる南海には負けたくないですね」
 後阪急と近鉄は足掛け数年にも及ぶ激しい死闘を展開する。兄弟球団でありながら宿敵関係にある両球団の長い死闘の中でもハイライトである。
 その山田である。さて、どう攻略するか。
「ストレートにカーブ、シュート」
 山田は球種も結構ある。
「そしてシンカーか」
 そして最大の武器はシンカーである。その切れ味はまるで日本刀のようであった。
 右打者の膝のところに鋭く斜めに落ちるそれを打つのは容易ではなかった。先輩の足立光宏に教えてもらったこのボールが山田を山田たらしめていたのだ。
「こういったことは全部頭の中に入れとかんとな」
 野村はこのことだけは決して記者達には言わなかった。
「さもないと西本さんや山田に知られてまうわ。頭の中だけにしとかんと」
 そうすれば彼等も対策を打ってくる。そうなれば何の意味もない。
「こっちの手は見せとるしな」
 彼は西本の前であえて言った継投策のことを思い出していた。
「あれで惑わされるような人ではなかったな、やっぱり」
 第一戦では勝利を収めたものの第二、第四戦では敗れた。だが一勝できただけでもよしとするか、とここでは考えることにした。
「問題はこれからや」
 そうであった。泣いても笑っても次で決まるのだ。
「山田、あいつを打つことで全てが決まる」
 確かに南海の打線は弱い。しかし。
「手の内さえわかればどうにかなるもんや」
 彼はそう思いながらバスに揺られて宿舎に向かった。
 この時西本は監督室にいた。そして山田を前にしていた。
「明日は御前に全部任せた」
「はい」
 山田は眦を決して答えた。
「心配する必要はない、今の御前は誰にも打てるもんやない」 
 あえてここで褒めた。普段は自分のチームは口ではあまり褒めないというのに。
「だからそのまま捻じ伏せていけ、完全試合でも何でも好きなのを狙っていくんや」
 あえてこう言い発破をかけた。これが西本の深謀遠慮であった。
 試合をするのは選手である。ならば選手がその力を発揮せねばならない、西本はそう考えていた。
 彼は小細工を弄する男ではなかった。魔術と呼ばれるような奇策もとらない。あくまで選手を育成しその力で勝利していく。言うならば王道であった。
 だがそうだからといって采配をおろそかにはしていなかった。この山田にかけた言葉がそれであった。
「あいつは一発病がある」
 それはどうにもならない。しかし。
 ならば打たれないようにするだけだ。山田はそれが可能なピッチャーである。彼をあえて奮い立たせマウンドに送った。後に鈴木啓示に対しても同じ様なことをしている。
「今日のマウンドはあいつに任せた」
 西本はベンチで腕を組んでそう言った。そして試合がはじまった。
 南海の先発は山内、決戦に相応しく両チームのエースがぶつかった。両者相譲らない。
 二人共絶好調であった。山田は何度かピンチを招きながらもその度に踏ん張り危機を脱した。
 山内もだ。今日は変化球のキレが良かった。阪急打線を抑えていた。
「どちらが崩れるかや」
 西本はそれを見て言った。
「しかし今日の山田はそう簡単には打てんで。とれたとしても一点か二点や」
 慧眼であった。それは的中した。
「この勝負もらった」
 西本は確信した。野村はそんな彼をチラリ、と見た。
「どうやら山田には絶対の信頼をおいとるようやな」
 ここで彼のキャッチャーとしての顔が出た。
「しかし全く打てないピッチャーというのは存在せん」
 人間である以上当然であった。野村は稲尾和久、杉浦忠という恐るべき大投手も見てきた。杉浦はそのボールを受けた。
彼等にも弱点はあった。野村はそれを知っていた。
「山田にもある」
 それは一発病だけではなかった。
「今日はそれをついたるわ。そして勝ったる」
 マスクの奥から西本、そして山田を見て呟いた。彼もまた勝利を求めていた。
 彼は六回が終わるとピッチャーを交代させた。佐藤道郎である。
「ホンマに変化球を投げさせるのが好きな奴やな」
 西本はこう思った。ここで一つの思い込みがあった。
 野村は実はキャッチングがあまり上手くはない。『ナベブタキャッチャー』と揶揄されることもあった。パスボールも案外多かった。動きもお世辞にも速くなく肩もそれ程ではない。それをランナーやバッターの癖盗み、配球、囁き戦術等でカバーしていたのである。頭脳派と言われるがそうしたことがあってのことだった。
 その配球も変化球が多い。彼は後にヤクルト、阪神の監督になるがここでも変化球を好んだ。それはこの時からであったのだ。
 佐藤は野村の期待に応えた。阪急打線に二塁すら踏ませない。そして遂に九回となった。
 マウンドには当然山田がいる。この調子では変える理由がなかった。まずはアウトを一つとる。
 そして次は九番である。この時まだパリーグに指名打者という制度はなかった。従ってピッチャーがバッターボックスに入る。
 代打か、誰もがそう思った。だが野村はここであえてピッチャーの佐藤を打席に送った。
「延長戦にもっていくつもりか!?」
 西本はそれを見て言った。
「ノム、残念やがそれはさせんで」
 そしてベンチにいる一人の男を見た。
 高井保弘であった。代打ホームラン記録を持つ代打の切り札だ。阪急にはまだこういう切り札があった。
 この裏、その切り札を投入するつもりであった。西本が最後の最後まで温存していた最強のカードである。
 そう考えている間に佐藤は三振に終わった。あと一人だ。おそらくこの裏には阪急は一気に攻勢に出る。そうなれば如何に今日の佐藤の調子がよくとも危うかった。ましてや球威が落ちる頃である。
「よし」
 次の打席は島野育夫である。足は速いが非力である。
 ここで野村は動いた。代打を告げたのである。
「代打、スミス」
 助っ人の左打者スミスである。何とここでの代打だ。
「おい野村、御前今さっき寝とったやろ!」
「さっきの佐藤のところで代打出さんかい!」
 南海側ベンチから野次が飛ぶ。だが野村はそれを平然と聞き流していた。
「監督、いいんですか?」
 コーチの一人が曇った顔で尋ねてきた。
「ええんや」
 しかし野村は落ち着いた声でそれに答えた。
「あいつには山田のことはよおく言ってあるさかいな」
 そう言ってニヤリ、と笑った。
「まさかここで代打を出してくるとは思いませんでしたね」
 阪急のベンチではコーチの一人が西本に対してそう言っていた。
「そうやな。といいたいが島野はあまり力がないからな。一発を狙ってスミスを出してきたんやろ」
 西本は相変わらず腕を組んだままでそう言った。
「一発ですか」
 コーチはそれを聞いて少し眉を顰めた。
「まさかとは思いますが」
 スミスは左の長距離打者である。山田に対しては有利な男だ。
「大丈夫や」
 だが西本はそんな彼に対して言った。
「あいつやったら抑えられる。今のあいつやったらな」
 そう言ってマウンドの山田を見た。
 山田は確かに怖ろしいピッチャーである。その頭脳の冴えもいい。
 だがそこに弱点があった。その冴えを野村に警戒されていたのだ。
 野村のノート、そこに書かれていたのは山田のデータであった。彼は野村に細部まで見られていたのだ。
 何時どういう時に何を投げてくるか、そこまで細かく書かれていた。当然そこには対右、対左、長距離打者、アベレージヒッター、そうしたことまで書いていたのだ。
「で、スミスは左の長距離や」
 野村はスミスを見ながら呟いていた。
「しかも今はランナーはおらん。そういう時に投げるパターンももうわかっとる」
 恐るべき情報収集及び分析能力であった。山田は知らないうちに野村にそこまで調べられていたのだ。
 実は野村はスミスを代打に送る時に彼に対して耳元で告げていた。何時、何がどのコースへくるかも。そしてそのボールをどうするかも言っていた。
「思いっきりスタンドに叩き込んだれ」
「オーケー、ボス」
 スミスはニヤリと笑って打席に向かっていた。西本と山田はそれには気付いていなかった。
「まあこっちもそれは隠しとったがな」
 野村は山田とスミスを見ながら呟いている。
「わしは意地が悪いよってなあ。手の内は全部見せへんのや」
 彼はほくそ笑んでいた。
「とっておきの時までな。そしてそれが今や」
 山田が大きく振り被った。そして投げた。スミスは全身に力を込めた。そしてボールにバットを合わせる。
 スミスは振り抜いた。打球は一直線に飛んでいく。
「まさか!」
 山田は打球の方へ顔を咄嗟に向けた。それは恐るべき速さで飛んでいた。
 打球はスタンドに突き刺さった。まさかのソロアーチであった。
 スミスは満面に笑みを浮かべてダイアモンドを回る。山田はそれを歯軋りしながら見ていた。
「あれを打つか・・・・・・」
 絶対の自信があるボールだった。まさかホームランにされるとは夢にも思わなかった。
 スミスはホームを踏んだ。南海に待望の一点が入った。
 だがまだ一点だった。阪急の打線なら九回でもどうということはない。山田を気をとりなおすことにして次のバッターである広瀬叔功が入った。
 小柄な男である。どちらかというと非力でアベレージヒッターと言える右打者であった。武器はその足である。
「山田はバッターによって攻め方を変える」
 野村は山田から目を離さなかった。
「さっきのスミスにしたってそうや。打席に誰がいるか、ランナーがおるかおらんか、そして何処におるかで全部変えてくる。ホンマに大したやつや」
 そう言いながらも山田から目を離さない。
「そう、こういう時に広瀬みたいなのに対する投げ方も」
 山田は振り被る。そして身体を沈めた。
「わしは全部知っとるんや」
 ニンマリと笑いながら言った。その瞬間広瀬のバットが一閃した。
「またか!」
 西本はその打球を見て思わず声をあげた。打球はその時には既にスタンドに叩き込まれていた。
「まさかこんな時に・・・・・・」
 阪急ナイン、ベンチだけでなくファンも皆呆然としていた。こんな時に思いもよらぬバッターからホームランが飛び出るとは。
 広瀬も満面の笑みでダイアモンドを回る。三塁ベースを回ったところで南海ナインが一斉に出て来て彼を出迎える。
「よおやった」
 まず野村が言葉をかけた。既にプロテクターを着けている。
「有り難うございます」
 広瀬は笑顔でそれに応えた。そしてそこにナイン達が駆け寄る。
「広瀬さん、お見事!」
 彼等もまた笑っていた。このアーチが勝敗を決するものであると誰もがわかっていたのだ。
 広瀬は彼等の歓喜の中ベースを踏んだ。これで二点目が入った。
「まさかこんな時に二発も・・・・・・」
 マウンドにいる山田は愕然としていた。打たれるとは夢にも思わなかったのだ。
「配球を読まれとったな」
 西本はうなだれる山田を見て言った。
「ノムの奴、それも調べとったわ」
 西本はその口をへの字にしていた。
「まさか山田の配球まで調べとるとはな、それもわしの考え付かんとこまで」
 彼は野村のそうしたデータ収集能力をよく知っていた。そして警戒していた。だが野村はそれ以上のことをしてみせたのであった。
「やってくれよるわ。わしの負けや」
 彼は苦渋に満ちた顔でそう言った。
「しかしな」
 だがここで目の光を取り戻した。
「まだ勝負には負けてないで。裏がある」
 その通りであった。九回裏、阪急にはその最後の攻撃があったのだ。
 うなだれていた山田がだ気を取り直した。そして三番の門田をライトフライに討ち取った。これで悪夢は終わった。
「次は反撃や」
 西本はナインに対しそう言った。そして打席に向かう大熊と大橋に対して言った。
「思いきり振っていけ」
「わかりました」
 二人はそれに対して頷いた。そして打席に向かった。
 だが力が足りなかった。大熊は元々二番である。大橋は守備は凄いが打撃はそれ程ではない。二人はいずれも外野フライに終わった。
「あと一人か」
 野村は感慨を込めて言った。既に球場はあと一人コールで満ちている。大阪からこの西宮までファンが駆けつけてきていたのだ。
「よし、ここが最後の正念場や」
 佐藤を見た。どうやらあと一人はいけそうである。そう、あと一人は。
 その最後の一人がバッターボックスに入った。キャッチャー種茂雅之の代打当銀秀崇である。
 佐藤は既に限界にきていた。スタミナはあと一人が限度である。
「けれどあと一人や」
 彼はここで気力を奮い立たせた。これを凌げば胴上げである。
 だがそうはいかなかった。阪急にも意地がある。西本も阪急もまだ諦めてはいなかった。
「させるかい!」
 当銀が打った。打球はそのままスタンドに入った。まさかのホームランであった。
「よっしゃ、よお打った!」
 西本は彼を出迎えてそう言った。そしてすぐに動いた。
「遂にお出ましやな」
 阪急ファンの一人が期待に満ちた声で呟いた。
「ああ、ここぞという時の男や」
 その隣にいるファンもそう言った。彼等は西本の動きを見守った。
 西本は告げた。代打を。
「代打、高井」
 それを聞いた時阪急ファンのボルテージは頂点に達した。そしてそれを背に一人のズングリとした体型の男がベンチから出て来た。
「高井、頼むで!」
「ここは御前に全部任せたぞお!」
 観客席からファンの声が響く。高井はそれを背に受けながら静かに打席に入った。
「遂に出て来たな」
 野村は彼の姿を認めてそう呟いた。
「今のあいつやと抑えられへんな」
 マウンドの佐藤を見る。最早その疲労は見ただけでわかる。肩で息をしていた。
「よし」
 彼は立ち上がった。そして審判に対して告げた。
「ピッチャー交代」
 そして江本を投入したのだ。
「えっ、わしか!?」
 江本はそれを聞いて驚いた。まさかこんな時に出番があるとは。
 一応ブルペンで投球練習はしていた。だがここで出番があるとは夢にも思わなかったのだ。
「そうや、監督が言うとるで」
 ブルペンにいるコーチが彼に対して言った。
「トリは頼む、ってな」
「トリか」
 はじめてであった。江本は南海では先発である。東映では敗戦処理の中継ぎであった。こういった時に投げたことはなかった。
「じゃあやったるか」
 気の強い男である。忽ち持ち前のその強さが出て来た。
「エモめ、乗っとるな」
 野村はブルペンから出て来た江本を見て言った。そして今まで投げていた佐藤に対して声をかけた。
「よおやった。今日は御前の働きのおかげや」
「有り難うございます」
 佐藤はそれに対し感謝の意を述べた。そして江本にボールを渡すと静かにマウンドを降りた。
「エモ」
 野村は彼に顔を向けた。
「相手は高井や」
 そして打席にいる高井を親指で指した。
「わかっとるとは思うが下手なことしたら全てが終わる」
「はい」
 江本はギラギラする目で高井を睨んでいた。
(よっしゃ、気では負けとらんな)
 野村はそれを見て心の中で言った。
(ここは思いきったことしたるか)
 彼は決断した。そして江本に対して言った。
「御前の命、わしに預けてくれるか」
「命ですか!?」
「そや、あいつの討ち取り方はわしのここにある」
 そう言って自分の頭を右の人差し指で叩いた。
「わしのリードの通りに投げるんや。そうしたら御前は勝てる。どや」
 そして江本の目を見た。
「わかりました」
 江本は強い声でそう言った。
「わしの命、監督に預けます。存分に使って下さい」
「よっしゃ」
 野村はそれを聞くと満足したように頷いた。
「腹は決まったな。じゃあ勝負するぞ」
「はい」
 その声に迷いはなかった。野村はニヤリ、と笑った。
「御前を南海に呼んで正解やったな」
 そう言うと背を向けた。そしてキャッチャーボックスに戻っていった。
「わしを南海に入れたことをそんなに有り難がってくれとるんやな」
 江本の心に熱いものが宿った。
「わしが今こうしてここで投げとるのも監督のおかげや」
 彼は野村に拾われたことを深く感謝していた。
「じゃあ今、この命監督にくれたるわ!」
 そう言うとボールを握った。力で指が白くなる程に。
 野村は高井を見た。全身から威圧感が漂ってくる。
「やっぱりこういう時には一番怖いな」
 彼は思った。その太い腕には勝負を決めるバットがある。
「話はこれにボールを当てさせんことや。しかしそれは簡単やない」
 高井のパワーと勝負強さは群を抜いている。守備があまりにも下手な為にスタメンでの登場は少ないが代打では異様なまでの力を発揮する。
「しかし今のこいつの頭の中はようわかる」
 高井は江本を見てから明らかに表情を変えた。何かを待っているのだ。
「御前が何をねらっとるのか、わしには丸わかりや」
 いつもならここで囁くところだ。しかしあえてそれはしなかった。
「見とけ、絶対に打てんもんを投げさせたるわ」
 そう言うと構えた。江本が振り被った。高井の全身に気がみなぎる。
 まずはストレートだ。その次も。またその次も。やがて四球目が投げられた。カウントはツーツー。
「まさか三球続けてくるとはな」
 高井は野村が返すボールを見ながら思った。
「しかしまだ待てる」
 彼は江本の変化球を狙っていたのだ。
 彼は変化球にも強い。そして江本は変化球投手だ。それを一気にスタンドへ叩き込むつもりだったのだ。
 だがいずれもボールになうrストレートだった。普段の江本のストレートよりも球威があった。
「しかしあいつは速球派やあらへん」
 高井は決め球は絶対に変化球でくると確信していた。
 今までは全てボールになるストレートだった。変化球と思って振ったがそれはバットから逸れた。
「今度は絶対に来る」
 高井はそう思っていた。
「変化球、しかも」
 マウンドにいる江本を見据える。
「エモボールや。気の強いあいつはこういう時には絶対にあれを投げる」
 江本の最大の武器である独特の落ちる球だ。カーブに似ているがそれよりも打ちにくい。江本の切り札であった。
「それを打ったる、絶対にな」
 彼は代打の切り札である。代打は一回きりの勝負だ。次はない。一球一球に的を絞り相手の球を的確に読まないと勤まるものではない。
 彼にはそれができた。だからこそ代打ホームランの記録を持つことができたのだ。パワーだけでは到底勤まるものではないのである。
 エモボール、彼はそれがくると確信していた。そして江本を見据えた。
 江本はこちらを激しく睨んできている。闘争心の強い土佐の男だ。それがありありとわかる。
「来い」
 だが高井も負けてはいない。彼から目を離さず狙いをすましている。
「エモボールや」
 その軌道は既に頭の中に入っている。あとは打つだけだ。
 江本が振り被った。そして横から投げた。
「来た!」
 高井は全身に気を張り巡らせた。そして全ての力をバットに注ぎ込む。
 振った。それはエモボールの軌跡を完全にとらえていた。
「よし、これはいったで!」
 西本は高井のそのスイングを見て言った。ホームランだ。そう直感した。彼もまたエモボールがくると考えていたのだ。
 だが。だが、である。
 それはエモボールではなかった。ボールになるストレートであった。
「なっ!?」
 高井は愕然としてだがバットはもう止まらない。
 ボールがバットをすり抜けていく。そしてそれは音を立てて野村のミットに収まった。
「よっしゃあ!」
 野村は思わず声をあげた。そして笑顔で立ち上がった。
「優勝や!」
 マウンドにいる江本がガッツポーズをしている。彼のもとに南海ナインが殺到する。
「監督、やりましたよ!」
「エモ、ようやった!」
 二人は抱き締め合った。決して小さくはない野村だが江本の長身に隠れてしまった。
「胴上げや、監督を胴上げするんや!」
 誰かが言った。そして野村は天高く舞い上がった。彼は満面の笑みで宙を舞った。
「してやられたわ、最後まで」
 西本は宙に舞う野村を見てそう呟いた。
「大した奴やで。山田どころか高井の頭の中まで読んどるんやからな」
 少し溜息が混じったような声であった。
「そしてわしの頭の中もな」
 西本はここで一旦口を締めた。
「山田も高井もわしが手塩にかけて育てた連中や。その二人の頭の中を読まれた、ちゅうことは」
 頭の中で呟き続けた。
「わしの頭の中も読まれたということや」
 そこまで思うと踵を返しベンチを去ろうとした。
「まだまだわしも甘いな。だから負けてしもうた」
 六度のリーグ優勝、だが日本一にはまだなっていない。
「その甘さがそうさせとるんかの」
 フッ、と笑った。そしてベンチを出た。
「その甘さをなおさんと日本一にはなれんな。わしもまだまだや」
 そして監督室に消えた。西本の阪急の監督としての最後の試合であった。
 このシリーズに優勝した南海は結局巨人との戦いに敗れる。その時野村は言った。
「死んだふりやない」
「それはどういう意味ですか!?」
 記者達が尋ねた。
「そのまま死んどったんや」
 それがそのシーズンの彼の最後の言葉であった。まことに彼らしい毒とユーモアのある言葉であった。
「あいつらしいな」
 西本はそれを聞いて笑みを浮かべてそう言った。彼はこの時背広で藤井寺に来ていた。
「ここがわしの新たな戦いの場か」
 近鉄バファローズ。関西の弱小球団に過ぎないこの球団の監督になることが正式に決定したのである。
 それから西本の新たな戦いがはじまる。そして近鉄は彼により生まれ変わり真の意味での猛牛となるのであった。


死んだふり    完


           2004・7・16

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