第十一章          恩返し
 血は繋がっていなくとも親子の関係はできると言われている。それは当然野球の世界にも言えることである。
 阪急、近鉄の監督を務めた西本幸雄という男はよく選手達から『親父』と呼ばれた。彼は頑固で厳格な昔ながらの人物であった。だがその心は温かくそれが選手達にも伝わったのだ。
 彼は選手の育成には定評があった。阪急も近鉄も弱小球団に過ぎなかったが彼の手によって強豪となり優勝を果たした。
 その選手達でもって阪急時代には王、長嶋を擁する巨人に立ち向かった。だが遂に勝つことはできなかった。
「日本一の夢を上田君に託したい」
 彼はそう言って近鉄に去った。それから彼が近鉄を優勝させるのは六年後のことである。
 阪急は上田利治という新たな将に預けられた。彼は西本とはまた違った意味で名将であった。
 外見も性格も温和である。関西大学では阪神タイガースの永久欠番であり最早伝説ともなっている大投手村山実とバッテリーを組み関大を優勝させている。
 プロ入りはその頭脳を見込まれてのことだった。現役時代よりもコーチ時代にその真価はあった。
 彼は就任二年目で阪急をリーグ優勝に導いた。その相手は奇しくも西本率いる近鉄であった。
「勝負の世界ではよくあることやがやっぱり辛いもんやな」
 彼は近鉄に勝ったあと一言こう言った。
「しかし山口はそうやったわ。褒めてやってくれ」
 この時阪急にはゴールデンルーキーがいた。山口高志である。上田の出身校である関大のエースでありその剛速球で知られる男だ。彼が近鉄を捻じ伏せたのである。
 そして彼が阪急の悲願を達成させた。日本シリーズでも活躍し阪急は広島東洋カープを破り見事日本一となった。上田は宙を舞った。
 だが彼は少し釈然としなかった。それは選手達もであった。
「あいつ等倒さんとあかん」
 左の主砲加藤秀司が言った。
「そうやな、あいつ等」
 ショートを守り名手と呼ばれる大橋譲もそれに続いた。
「巨人や」
 福本豊が言った。
「巨人には五回もやられてきたんや」
 そうであった。巨人のX9時代阪急は五回巨人に挑んだ。そして五回共敗れてしまったのだ。
 そのことが彼等の脳裏に甦る。エース山田久志もそうであった。
「巨人に勝ってこそホンマモンや」
 その山田が言った。彼も巨人には苦渋を飲まされている。
「そうや、そして藤井寺のお爺ちゃん喜ばせたろうで」
「ああ」
 皆福本のその言葉に頷いた。そして勝利の美酒もそこそこに練習に戻った。来るべき戦いに備えて。

 その時は思ったよりも早かった。翌年である昭和五一年前年最下位であった巨人はコンバートと補強により戦力を建て直し見事リーグを制したのだ。そしてその中心には監督である長嶋茂雄がいた。
「長嶋が勝つか」
「長嶋は何をするか」
「長嶋は誰を使うか」
「長嶋が何勝するか」
 こんな話題ばかりであった。今も全く変わることのない無気味で嫌らしい偏向報道である。何処ぞの一度も兵隊を率いたことのない到底軍人とは思えぬ肥満しきった肉体の愚かな将軍様の治める国と全く同じである。結局我が国の特定の世代、特定の人々、マスコミの一部はこうした醜悪な独裁国家の崇拝者と変わるところがないのである。残念なことだがこれが現実だ。こうした連中により球界はおぞましく歪められてしまっている。
 これに対して対する阪急の選手及びファン達は面白い筈がなかった。彼等は激しい敵意を燃やした。
「長嶋の、長嶋による、長嶋の為のシリーズかい、笑わせんなや」
 ファンの誰かが言った。
「そうや、野球やっとるのは長嶋だけちゃうぞ」
 彼等にとってはたまったものではない。今もテレビでは特定の球団に極端に偏向した報道が行われる。関東では特にそうだ。あのようなものを普通に見られるのはカルト教団の信者位だろう。無念なことにこれが今の我が国の野球の現状だ。日本では野球を冒涜する愚か者は大手を振って歩けても野球を本当の意味で愛する者は少ない。
 長嶋茂雄の采配はお粗末の一言に尽きる。およそ監督としての資質はない。そのようなものは最初からないのだ。だが報道によりスターになる。かってはあの金日成もそうであった。北朝鮮は地上の楽園であった。実際は全くの逆であったが。しかし報道によってそれがなるのだ。これがマスメディアの持つ怖ろしさだ。
「ふざけんな、あんなチームに負けてたまるか!」
 阪急ナインも激昂していた。こうした報道に特に怒ったのが福本であった。彼は言った。
「おい、絶対に勝つで!」
 彼はナインに対して言った。
「あの連中ぶっつぶして西本さん喜ばしたるんや!」
 彼もまた西本に一から育て上げられた男である。その恩は海よりも深く山よりも高かった。
「そうやな、西本さんの恩返しや」
 他の阪急ナインもその言葉に奮い立った。彼等もまた西本に育てられた選手達であった。
「巨人潰しじゃ!そして今度こそわし等が勝つんや!」
 彼等の思いは一つになった。そして決戦の日に向かった。
 この時巨人ナインもファンもまさか自分達が阪急に負けるとは思わなかった。
「巨人が負ける筈ないだろう!」
 これは近頃テレビでスキンヘッドでガチャメの汚らしい愚か者が吐いた戯れ言である。この男は常に常識も理屈も道徳も全く無視したことしか口に出さないので視聴者からは激しく嫌悪されている。所謂狂人の類であるが何故かテレビに出て視聴者にその醜態を見せつけ続けている。こうした怪奇現象が今だに起こっているのも我が国だけのことである。これでは幽霊が昼に歩いても不思議ではない。全くどういうことか。
 だが我が国にはこの愚か者と全く同じレベルの知能しか持っていない者が実に多い。こうした輩が野球を駄目にし、我が国を駄目にしたのだ。こうした連中も排除しないと我が国の野球はよくはならないのだろうか。
 この連中は巨人の日本一を露程も疑わなかった。この連中には物事を相対的に見る知能はない。そのようなことは持ち得ない。巨人のやることなら正義、なのだ。まさしく独裁国家の将軍様の取り巻きそのものである。傍から見ると実に面白い喜劇であるが残念なことに我が国のでのことだ。我が国の球界にとっては悲劇である。
 その連中が夢想している間阪急ナインは必死に練習していた。勝つ為に、である。そして遂に決戦の日がやってきた。
 一〇月二三日、後楽園球場で決戦の幕が開いた。見渡す限り巨人ファンばかりである。
「フン、そこで黙って見とれ」
 阪急ナインと駆けつけたファン達は鼻で笑っていた。
「わし等もあの時のわし等とちゃうからな」
 五回も負けたあの時とは違う。彼等にはその自負があった。
 阪急の先発はエース山田。巨人は小林繁である。
 まずは巨人が先制した。後楽園の観衆はそれだけでもう勝ったつもりであった。
「この連中はホンマ何の進歩もないのお」
 阪急ファンはそれを見て侮蔑しきった顔で見ていた。彼等は阪急の力を信じていた。
「今のうちに喜んどけ、じきに真っ青になるわ」
 その予想は的中した。阪急は実力の差を徐々に出してきた。小林を攻略し逆転に成功する。
「ようやったな」
 上田はナインを笑顔で褒めた。そして同時に試合の展開を考えていた。
「問題は山田を何時替えるか、やな」
 今日の山田の調子は普通位か。彼はそう見ていた。
「七回までやな」
 彼は山田は七回まで、と見た。
「あとの二回はこいつを出すか」
 そこでベンチに座る一人の小柄な男に顔を向けた。彼が山口であった。
 阪急二点リードで七回に入る。山田はここまでのつもりだ。
「さて、とここを抑えたらあとはもう乗り切れるで」
 上田はそう見ていた。確かにそうであった。だが計算通りにいかないのが野球である。そしてこの時もそうであった。
 打席には王がいた。彼はその全てを威圧する目で山田を見ている。
「相変わらず怖ろしいやっちゃな」
 上田はそれを見て呟いた。彼には今までのシリーズでどれだけ煮え湯を飲まされたか。
「しかし今度はそうはいかん、勝たせてもらうで」
 だがここで王がその力を見せた。山田のボールをスタンドに叩き込んだのだ。同点ツーランであった。
「な・・・・・・」
 山田が打たれた。それも王に。上田の脳裏でその煮え湯を飲まされたあの時が浮かんだ。
 昭和四六年日本シリーズ第三戦。この時九回裏のマウンドにいたのは山田であった。
 試合は一対零で阪急が勝っていた。山田は巨人打線を見事に抑え試合を進めていた。そして九回になったのである。
 打席には王がいたランナーは二人。だが山田は臆するところがなかった。
「試合後のインタビューはどう答えようかな」
 彼はそう考えていた。そして王に対して投げた。
 王はそのボールから目を離さなかった。そしてバットを一閃させた。
「!」
 それは一瞬のことであった。王のバットスイングは速い。到底見られるものではなかった。
 ボールは一直線にライナーでライトスタンドに向かっていく。そしてそのまま飛び込んでいった。
 逆転サヨナラスリーラン、そのシリーズの流れを決定付けたあまりにも有名な一打であった。
 そして阪急は敗れた。上田はそれを思い出したのである。
「これはまずい・・・・・・」
 あの時の悪夢は今でもはっきり覚えている。上田はそれを思い出したのだ。
 それを取り除くにはあれしかない、そう考えた彼はすぐに動いた。
「ん、ピッチャー交代か?」
 観客はベンチから出て来た上田を見てそう言った。
「そうやろうな、もう四点やしな、ここらが潮時やろ」
 阪急ファンそれに納得していた。そして同時に彼等はあることに期待していた。
「出て来るで」
 誰かがニヤリと笑いながら言った。
「ああ」
 他の者もそれに頷く。やがてアナウンスの放送が入ってきた。
「ピッチャー、山口」
 それを聞いた阪急ファンはニヤリ、と笑った。やがて背番号一四を着けた小柄な男が姿を現わした。
「あれが山口か」
 後楽園を埋め尽くす巨人ファンはその男を見て鼻で笑った。
「あんな小さい奴知らんのう、誰だあいつ」
「去年の新人王らしいぞ」
 誰かが言った。その声も小馬鹿にしたものだった。
「どうせパリーグだろう、大した奴じゃないよ」
「いや、球がやけに速いらしいぞ」
「そんなものは噂だろう、江夏や村山程じゃないさ」
「そうだな、王も長嶋も連中を何なく打てたんだ。巨人にあんな小さい奴が通用するかよ」
 彼等はマウンドに上がる山口を見ながらそう話していた。完全に彼を舐めていた。
 こうした愚か者が実に多いのも巨人ファンの特徴である。しゃもじを持って野球通とわめいている男の知能なぞはそこらの犬か猫の方が余程賢い位だ。人間の言葉を話しているから頭がいいとは決して限らないことのいい見本である。こうした知能の劣悪な輩が我が国の野球を腐敗させたのは言うまでもない。
 さて、阪急ファンは違っていた。彼等も確かに笑っていた。だがそれはそうした愚か者共に対する侮蔑の笑みであった。
「今にみとれ」
「もう少しで黙るさかいにな」
 彼等は愚か者共にこれ以上ない冷ややかな笑みを浴びせていた。そしてグラウンドに顔を向けた。
「山口、頼んだで」
 そこには山口がいた。彼は大きく振り被った。
 大きく弧を描く様な右腕の動き。そして身体全体を使って投げる。思いきり腕を振り下ろす。怖ろしいまでにダイナミックな投球フォームだ。
 そこからボールが放たれる。それは見えなかった。
 暫く、といってもほんの一瞬であった。ミットからドスーーーーン、という重い音が響いてきた。
「・・・・・・・・・」
 その音は球場全体に響いていた。それを聞いた後楽園の聴衆は話すのを止めた。
 山口はまた投げた。そしてまた重い音だけが響いてきた。
 暫くして巨人ファン達がボソボソと囁きはじめた。その顔は蒼白となっていた。
「何だ、今のは」
 彼等は山口を横目で見ながら囁き合っていた。
「今投げたよなあ」
「音が聞こえただろ」
 そこでまたあの重い音が球場に響いた。
「見えないぞ」
「けれど投げてるんだろ、あの音聞こえるだろ」
「ああ、しかし」
 山口は確かに投げている。だがそのボールが見えないのだ。
 理由は簡単であった。山口のボールは速いのである。あまりにも速いのだ。それは横からはまともに見えない程に。
 巨人ベンチも完全に沈黙していた。長嶋も王も呆然としていた。
 彼等このその江夏、村山がその全力を以って挑んだ相手であった。彼等だけではない。金田正一、外古場義郎、権藤博、秋山登といった大投手達もその速球でもって彼等に挑んできた。だが彼等はそれをことごとく打ち崩してきた。
 その彼等が呆然としていた。かって速球派として知られた巨人のエース堀内恒雄も顔を真っ白にしていた。
「今まで見たなかで一番速い」
 球場にいるある老人がそう呟いた。彼は戦前からプロ野球を見ていた。
 彼の自慢は一つあった。それは極盛期の澤村栄二やスタルヒンといった伝説の投手達のボールを見たことであった。
 山口のボールはそれ程までに速かった。実は彼は昨年のシリーズにおいても登板していた。
「あれはとても打てるものじゃない」
 広島の主砲山本浩二はそう言った。彼は山口の真ん中のストレートを空振りしていたのだ。
「真ん中にくるのはわかっていた」
 彼は試合後言った。
「だが打てるものじゃない。ノビも球威も桁外れだ。あんなの打てる人間はこの世にはおらんわ」
 彼も驚きを隠せなかった。広島の誇る赤ヘル打線は山口の前に沈黙した。そして阪急は広島に一敗もすることなく日本一となったのである。
 その山口が今巨人の前に姿を現わした。巨人は怪物を向こうに回しているのをこの時ようやく悟った。
「今更気付いても遅いで」
 阪急ファンは顔面蒼白となった巨人ファンとナインを見て笑った。
「山口の凄さ、今からよく味わうんや」
 この試合はこれで終わりだった。山口の投球練習だけで巨人ナインは沈黙してしまった。
 やはり打てない。ボールがミットに入った後でバットを振る始末だ。これでは打てる筈がない。
「バットにかすりもしないのか・・・・・・」
 巨人ファンは無念の表情でそう呟いた。やがて阪急が突き放しまずは阪急が勝った。
「まずは一勝か」
 上田はベンチに戻ってくる山口を見てそう呟いた。
「どうやら敵さんはかなり萎縮しとるな」
 彼は巨人のベンチを見た。まだ山口のボールの衝撃から目が醒めないようだ。
「流れはうちに大きく傾いとる」
 伊達にその頭脳を買われて球界に入ったわけではない。彼は流れを素早く読み取っていた。
 あとは一気に攻め立てる。西本以来の阪急の攻め方だ。
「巨人といえど昔とは違う。勝たせてもらうで」
 上田はそう言うとベンチをあとにした。彼はこのシリーズの勝利を確信していた。

 その次の日は雨だった。試合は当然流れた。
「雨位でうちの勢いは消えんで」
 上田はその雨を見上げて言った。前では室内練習場で選手達が汗を流している。
 皆その顔には覇気があった。誰もが勝利を確信していた。
 対する巨人の練習風景はまるでお通夜のようであった。それを見た誰もがシリーズの結末を予想した。
 翌日第二試合が行なわれた。阪急はベテラン足立光宏を投入してきた。巨人の先発はライトである。
 足立はベテランらしい投球で巨人打線を抑える。阪急打線はライトを打っていく。試合は阪急有利に進んでいった。
 そして最後は山口を投入した。そして危なげなく二勝目をあげた。
「巨人には今まで散々痛い目に遭わされてきたからな」
 足立はベンチでうなだれる巨人ナインを横目で見ながら言った。
「今度は負けるわけにはいなかい。絶対に日本一になる」
 彼は自慢のシンカーで巨人打線を抑えた。そして山口も第一戦と同じく剛速球で巨人打線を抑えた。 
 だがここで巨人は見抜いたものがある。山口のボールの軌跡だ。
「もしかしたら」
 彼等は思った。
「打てるかも知れない」
 今の山口は無理だろう、今の巨人打線では。しかし。
 目が慣れてきていた。彼が少しでも調子を落とせば打てるかも知れない、そう思いはじめた。
 上田はそれに気付いていなかった。彼は流れが阪急のものであると確信していた。そしてそれが山口の剛速球にあるものだと思っていた。
「山口の球は誰にも打てん」
 確かにそうだった。今の山口は。
 だが山口は機械ではない。疲れもするし調子の波もある。彼も人間なのだ。
 普段の上田ならばその程度のことは充分考えられた。だが彼は焦っていた。
「流れは急に変わるもんや」
 長い野球生活でそれは嫌という程味わっていた。それが去った時程悲惨なものはないということも知っていた。
 彼は残る試合全て何としても勝つつもりだった。そして巨人を捻じ伏せるつもりだった。
「それが阪急の野球や」
 そうであった。西本以来の阪急の野球である。ペナントはいつもそうして勝っていた。
 だが何故西本はいつもシリーズで勝てなかったか。上田はそれをこの時考えていなかった。
 西本はよく余所行きの野球はするな、と言った。だがシリーズでは相手を意識してよく普段とは違う野球をした。そして敗れた。
 昭和三五年のシリーズはその最たるものだろうか。第二戦、西本は一死満塁のチャンスでスクイズを命じた。
 結果は失敗であった。これがシリーズの流れを決定付けてしまった。
 これに激怒した大毎のオーナーである永田雅一により解任された。この時大毎の売りはミサイル打線と呼ばれる強力打線であった。それなのにスクイズという消極的な戦法を採ったからだ。
 この時そのミサイル打線は下降線にあった。そう考えるとこのスクイズは妥当であった。確かにそうである。若し併殺打ともなれば事態はより悲惨である。
 しかしこう言う人がいる。ペナントの西本ならばあそこでスクイズは命じなかった、と。この時の彼は明らかに普段とは違う采配、余所行きの野球をしてしまったのだと。
 上田はそれをよく知っていた。だが彼は焦っていた。勝利を急いでいた。
 勝負の世界では決して急いではならない。さもなくばそこに隙ができるからだ。
 上田は頭の回転の早さで知られる知将である。だがこの時は早く回り過ぎた。
 そしてそれが仇となっていく。だがこの時彼はそのことをまだ知らなかった。

 第三戦、阪急は山田を投入した。舞台は阪急の本拠地西宮に移っていた。雨の影響もあり山田を先発させることができた。休養を充分にとれた山田は絶好調だ。上田はこの試合も勝利を確信していた。
 本拠地だけあって阪急打線もいつもより元気があった。巨人投手陣を次々に打ち崩していく。
 山田は危なげなく投げる。上田はそれを見てにこにこと笑った。
「今日はあいつに任せていればええわ」
 試合は何なく終わった。山田は巨人打線を三点に抑え見事勝利投手となった。
「遂に王手ですね」
 記者達は上田を取り囲んで言った。
「そうやな」
 上田は表情を押し殺していたつもりだがやはりそこには笑みがあった。
「このまま勝つつもりですか」
「相手がおるからなあ」
 そう言いながらも確かな手ごたえを感じていた。
「しかしここまでいくとすんなりいきたいな。西本さんもそれを望んではるやろうし」
「危ないな・・・・・・」
 それをテレビで見ていた男がそれを聞いた瞬間言った。その西本幸雄本人である。彼はこの時近鉄の若い選手達にせっせと教えその合間の休憩をとっていたのだ。
「上田は焦っとるな」
 彼にはそれが手にとるようにわかった。その顔に陰が生じていく。
「焦りは禁物や。焦った時勝負は負けや」
 彼自身がそうであった。彼はシリーズでは常に勝利を焦ってしまった。そしてことごとく敗れてきたのだ。
 戦力差、それを感じたことはなかった。その時を振り返るといつも勝利を焦る自分自身の姿があった。
「上田にはよく教えた筈やが・・・・・・」
 上田もまた西本の弟子であった。彼もまた巨人に対しては激しい敵意を燃やしていた。
「忘れとるか。そえが命取りになるな」
 見れば彼の後ろにいる阪急ナインも同じであった。それどころか巨人ベンチを完全に舐めた顔で見ている者までいる始末だ。西本はそこに危機を感じた。
「わしがあそこにいたらぶん殴ってでも目を醒まさせるんやが」
 だがそれはできない。彼は今藤井寺にいるのだ。西宮にいるのではない。
「誰かが気付いとったらええんやがな。それか全く動じとらん奴がおるか」
 彼はここで一人の男を思い出した。
「足立はどう思っとるやろな。あいつやったらもしかすると」
 だがここからは足立の姿は見えない。映像は巨人のベンチに移っている。
「監督」
 そこでコーチの一人がやって来た。
「お、休憩終わりか」
 西本はそのコーチに顔を向けた。
「はい」
 そのコーチは頷いて答えた。
「じゃあ行くか」
 西本はテレビのスイッチを消して席を立った。
「あの連中をまたしごいたろかい」
 彼は部屋を出た。その時彼は見なかった。テレビに消える瞬間の巨人ナインの顔を。
 それは勝負を諦めた男の顔ではなかった。意地でも食らいつく、そうした飢えた狼の如き顔であった。

 翌日、また雨が降った。上田はそれを自宅で見て呟いた。
「秋にはよう雨が降るもんやが」
 その言葉には溜息があった。
「幾ら何でも最後の試合の前に降らんでもなあ」
 彼はこの日で勝負を決めるつもりであった。それが適わないのが残念であったのだ。
「まあお天道さんのことは人間にはどうしようもないわい」
 彼はそう言うと窓から離れた。そして玄関に向かった。
「その間は練習や。少しでも力をつけんとあかんからな」
 彼は練習場へ向かった。そこでは選手達が既に汗を流していた。
「ピッチャーはどないや」
 彼はユニフォームに着替え室内練習場に出るとコーチの一人に尋ねた。
「悪くないですね」
 そのコーチは笑顔で答えた。
「足立は特にええですわ」
「そうか」
 上田はそれを聞いて顔を綻ばせた。彼は今日の先発の予定であった。
「じゃあ明日は期待できるな」
「はい」
 足立はこれで心配ない。どうやら試合は作れそうだ。
「あと山口はどないや」
「いいですよ」
 コーチは答えた。
「相変わらず凄い音出してますし」
「ほお」
 上田はブルペンを覗き込んだ。そこでは山口が投球練習を行っていた。
 ミットからあの重い音が響いてきている。上田はそれを見ながら目を細めていた。
「明日のトリはいつも通りあいつで決まりやな」
「そうですね。それでよろしいかと」
「よし」
 上田は頷いた。そしてブルペンから離れた。
 今度は野手陣の方へ行った。こちらには特に心配はしていない。
「問題はピッチャーだけやからな。巨人のピッチャーやったら何とかなるわ」
 上田は巨人投手陣の実力をこの三試合で見抜いていた。これなら大丈夫だと思っていた。
 実際に巨人投手陣は阪急打線に対して抑える自信を失っていた。それが長嶋の悩みの種だった。
 だが巨人打線は違っていた。山口を見ているうちのそのボールの軌跡を見極めかけていたのだ。
「山口のボールはストレートがくるとわかっていても打てるものじゃない」
 よくこう言われた。だがそれは普通の状態の時だ。彼も調子が悪い時がある、疲れもたまっていくのだ。
 特に山口のように小柄で身体全体を使い剛速球を投げるピッチャーはそうである。それは意識しなくとも蓄積していくものだ。
 上田がブルペンから離れてから暫くした時だ。山口のボールのキレが落ちた。
「?」
 それに気付いたのはブルペン捕手だけだった。だがそれはすぐに元に戻った。
「気のせいか」
 彼はそう思った。そして山口のボールを返した。
 その時巨人ナインは必死に練習していた。バッターはただ速球だけを投げさせ、それを打っていた。
「まだだ、そんなことで打てると思っているのか!」
 長嶋の声が響く。彼は選手達から目を離さずただひたすら練習させていた。
 全ては山口を攻略する為だった。その為だけに練習をさせていた。
 巨人ナインは汗だくになりながらも練習を続ける。まるで何かに取り憑かれたかのように。
 こうしてその日は終わった。次に行われる死闘の前奏曲として。

 第四戦、阪急の先発は予定通り足立であった。巨人の先発は堀内である。
「おい、しゃもじ、わざわざ阪急の日本一決める為に出て来てくれたんやな!」
 堀内はその顔の形からそう仇名されていた。
「御前みたいな老いぼれ出すとは長嶋もよっぽどヤキがまわっとるな。とっとと打たれて帰れや!」
「その前に阪急の胴上げ見てからな!」
 阪急もまた関西の球団である。ファンのマナーはお世辞にもいいものではない。関西で最も人気があるのは阪神だがパリーグになるとこの阪急の他に近鉄、南海がある。いずれも阪神ファンとかけもちの者も多くその野次は極めて酷いものであった。
「まるで甲子園に来たみたいだな」
 巨人ナインはその野次を聞きながら言った。
「連中もまるで阪神みたいな顔しとるわ」
 そう言って阪急側のベンチを見る。彼等はもう勝ち誇った顔で巨人ベンチを見ていた。
「そうはさせるか」
 主砲である王が言った。
「勝負というのは最後まで諦めては駄目だ」
 彼はそのあまりにも苛烈な勝利への執念で知られている。王貞治の辞書には敗北、諦念、容赦、手加減、手抜きなどという一連の言葉はない。ただ勝利、それだけがあるのだ。
 その王の執念が巨人のベンチを覆った。上田は迂闊にもそれに気付かなかった。
「今日で決めるんや」
 彼の頭の中にはそれしかなかった。
「今日でわし等の悲願が達成されるんや」
 巨人を破っての日本一、それこそが彼の、阪急の望みであった。
「悪太郎、とっとと打たれろ!」
「しゃもじは米櫃に帰れ!」
 彼の後ろから阪急ファンの罵声が聞こえてくる。彼はそれを自軍へのエールのように思えた。
「お客さんの為にも勝たなな」
 人気がないと言われるパリーグでも阪急の人気のなさは際立っていた。昨年日本一になった時でも観客の入りは悪かった。
 だがそれでもいつも来てくれたのがその僅かなファン達であった。上田はそんな彼等に深く感謝していた。
「おい」
 彼はナインに顔を向けた。
「今日で決まりや」
「はい」
 阪急ナインは頷いた。そして一斉にベンチを出た。
 阪急ナインが位置についた。そして遂に試合がはじまった。
 まずは福本の先頭打者アーチが出た。阪急は三試合連続で先制点を挙げた。
「よし、これでこのまま突っ切れ!」
 ファンが叫ぶ。試合はこれで阪急に大きく傾いた。巨人も王のホームランで同点にするがすぐに逆転される。こうして二対一のまま試合は五回に入った。
 五回表柴田勲がスリーベースを放った。上田はそれを見て不安を覚えた。
「足立のやつ、疲れとるんか!?」
 ふとそう思った。それは忽ち彼の心を支配していく。
「まずいかも知れんな」
 それはすぐに彼の心を完全に支配した。彼は急いでベンチを出た。
「ピッチャー交代」
 彼はいささかせわしい動作で主審に伝えた。
「えっ、もう交代か!?」
 それを見た阪急ファンは以外に思った。
「足立はまだいけるやろ。こういう時には粘ってくれるし」
 彼等はそう思っていた。だが上田はそうは思わなかったのだ。
「ここでもし打たれて同点になったら」
 上田はそれを恐れていたのだ。そうなっては今日勝つことはできない。今日何としても勝たねばならない。彼はそう考えていたのだ。
「シリーズは三回負けてもいい」
 後に西武の黄金時代を築いた知将森祇晶はこう言った。この言葉はシリーズを考えるうえで非常に重要であると言ってよいであろう。
 すなわち三試合は捨ててもいいわけだ。そう考えると余裕ができる。
 とかくマイナス思考の多い人物だと言われる。森は巨人で正捕手を務めていた頃から陰気なイメージがありファンからもあまり好かれていなかった。特にピッチャーやピッチャー出身の監督、コーチ、解説者達からは今でも徹底的に嫌われている。彼は意に介していないようだが。
 だが彼が知略の持ち主であることに変わりはない。彼のこの言葉はシリーズにおける戦略、戦術を考えるうえで非常に有益なものだ。
 三敗までは許される、そして最後に四勝すればいい。簡単に言えばそうだ。シリーズを七戦まであると考えその中で作戦を組み立てる。彼はシリーズ全体を冷静に見てそこから分析するのを常としていた。
 上田は明らかにこの時それを忘れていた。冷静さを失っていたのだ。
「今日勝って西本さんに・・・・・・!」
 彼はチラリ、と藤井寺の方を見た。
「誰ですか?」
 主審はそんな上田に対して問うた。
「ん!?」
 上田はその言葉にハッとして顔を主審に戻した。
「あの、ですから次のピッチャーは誰かと」
「言わんかったか!?」
 上田は逆に問うてきた。
「言ってませんよ」
 主審は思わず苦笑した。
「ああ、そうやったか、すまん」
「監督、しっかりして下さいよ」
 主審も思わず苦笑してそう言った。
「じゃあ山口な」
 彼は言った。最初からこう決めていた。
「最後は山口で決める」
 マウンドに山口が姿を現わす。それを見た阪急ファンの興奮は頂点に達した。
 巨人ベンチは山口の投球を見守る。相変わらずミットから派手な音が聞こえてくる。それを聞くだけで戦意を喪失している者すらいる。
「ワンちゃん」
 長嶋はそれを見ながら傍らに立つ王に声をかけた。
「山口のボールどう思う」
 彼は山口の投球から目を離すことはなかった。
「そうですね」
 王も同じだ。二人はそのボールを凝視している。
「第一戦、第二戦の時とは違いますね」
 王はその鋭い眼でボールを見ながら言った。
「ほんの少しですが球威もスピードも落ちています。その証拠に今日は見えます」
「そうか、ワンちゃんもそう思うか」
 長嶋はそれを聞いて頷いた。それで充分であった。
「もしかすると」
 長嶋は言った。
「もしかできるかもね」
 少し妙な言い回しであったがそれが彼独特のものであった。長嶋は山口から上田に目を離した。
「向こうは焦ってるな」
 上田のせかせかした様子は彼からもわかった。
「焦ったら負け、とは言うけれど」
 ふと小さい頃母親に言われた言葉を思い出した。
「上田さん少し焦り過ぎだねえ」
 他人事のような言葉だが上田の今の状況をその勘で的確に見抜いていた。やはり長嶋の勘は凄かった。この時でシリーズの流れは微妙に変化しようとしていた。
 山口は六回まで無事に抑える。阪急ファンはもう勝ったつもりでいる。
「いいぞボロ負けジャイアンツ!」
「全敗ジャイアンツ!」
 中日の応援歌をもじった歌の歌詞まで叫ばれていた。もう勝利の時を指折り数えている状況であった。
「いよいよやな」
「ああ」
 彼等は首を長くしてその時を待っていた。そしてそれは上田も同じであった。
「長い試合やなあ」
 彼は顔を顰めて呟いた。
「え!?」
 コーチがその言葉に思わず顔を向けた。
「ああすまん、独り言や」
 上田はそれに対してそう言った。だが顔はそのままである。
(いつもの監督と違うな)
 そのコーチだけではなかった。ベンチにいる全ての者がそう思った。
 だが彼等も同じであった。九回が終わるのを今か、今かと待っている。 
 自然と攻撃が荒くなる。やがて巨人投手陣に何なく抑えられていく。
 しかしだからといって巨人ファンの怖れがなくなることはなかった。
「あんな化け物打てるはずがない」
 球場にいる者もブラウン管の向こうにいる者もそれは同じ意見であった。
 しかし巨人ナインは違っていた。次第にではあるが山口のボールに目が慣れてきていた。
「もしかすると」
 彼等はそう思いはじめていた。
 そして七回、その『もしか』が実現した。
 何と山口からタイムリーをもぎ取ったのだ。これで同点となった。
「なっ!」
 これに驚いたのは巨人ファンだけではなかった。阪急ファンも驚いた。
 特に阪急ナイン、とりわけ上田の驚きは大きかった。彼は一瞬その顔を青くさせた。
「まだ同点ですよ」
 そこでコーチの一人が言った。
「そやな」
 上田はその言葉に冷静さを取り戻した。
「シーズンでもこういうことは幾らでもあったわ」
 彼は落ち着いた声でそう言った。
「こっから逆転すればええわ」
 その阪急の攻撃である。助っ人であるボビー=マルカーノの声が聞こえる。
「ダイジョーーーブ!ボク達が打ってヤマグチ助けよーーーよ!」
 こうした時彼はあえてこう言ってナインを奮い立たせる。攻守に優れているだけでなくこうしたベンチのムードを明るくさせる陽気さが彼の素晴らしさであった。
 だが一度気が乱れた打線の士気を元に戻すのは容易ではない。阪急は巨人の決死の防御の前に得点することができなかった。こうして試合は九回表に入った。
 山口はランナーを一人背負っていた。打席にはX9戦士の一人柴田がいる。
「高めの速球でくるな」
 柴田はそう思っていた。山口の最大の武器だ。
 今まではとても打てるものではなかった。だが今は違う。その剛速球に次第に慣れてきていた。
「今までどんな速い奴も打ってきた、そして勝ってきた」
 彼はこれまでの戦いを思い出しながら山口を見据えている。
「ここでも勝つ、幾ら相手が化け物でもな」
 構えた。そしてマウンドに仁王立ちする山口と対峙した。
 山口も彼から目を離すことはない。全身から凄まじいオーラを発しながら立っている。
「ストレートだ」
 山口はキャッチャーのサインに頷いた。そして投球に入った。
 そのまま投げる。全身を使った豪快なフォームからボールが放たれる。
「来た!」
 柴田はそのボールを見て心の中で叫んだ。そしてバットを思いきり振った。
「いけえーーーーーーーっ!」
 バットに全身の力を込める。白球はそのバットの芯に当たった。
「ぬぬぬぬぬうっ!」
 凄まじい衝撃がバットから全身に伝わる。危うく力負けしそうになる。落ちているとはいえ信じられない力だ。
「だが!」
 柴田は負けなかった。そのまま渾身の力で振り抜こうとする。
「ここで打たないで何時打つというんだっ!」
 バットをスタンドに放り投げるつもりで振り抜いた。打球はその力を受け一直線に飛ぶ。
「何っ!」
 グラウンドに、そしてベンチにいる阪急ナインが思わずボールを追った。上田も身を乗り出した。
 その時には終わっていた。ボールはスタンドに突き刺さっていた。
「おおーーーーーーーーっ!」
 巨人ベンチだけではなかった。ファンも叫んだ。柴田の土壇場での値千金のアーチであった。
「やっぱりこういう時には頼りになる奴だ!」
 柴田は意外にパンチ力があった。王、長嶋のかわりに四番を打ったこともある。これは彼だけである。
 柴田はダイアモンドを回る。上田はそれを苦渋に満ちた顔で見ていた。
「こんなところで打つかい、山口から」
 彼は勝負あったと悟った。だが彼はまだもう一つ重要なことには気付いていなかった。
「ナイスですねえ、柴田君」
 長嶋はいつもの調子で柴田を出迎えた。
「どうだった、山口のボールは」
「監督の思われるとおりですよ」
 柴田は不敵に笑って答えた。
「ううん、そうかい。それはナイスだねえ」
 彼はそれを聞くとにこやかに笑って言った。
「じゃあ明日も行くか。リラックスしてね、リラックスして」
 彼はこの試合は勝ったと思った。実際にその裏阪急は無得点に終わった。
 巨人は土壇場で勝った。しかも阪急の誇る最強の切り札を打ち崩した会心の勝利だった。
「まだ一敗や」
 上田はベンチを去る時こう呟いた。
「王手はかけとる、あとは息の根を止めるだけや」
 確かにその通りであった。あとは切り札を投入すれば勝てる、そうした勝負であった。
 しかし彼はやはり気付いていなかった。その切り札の様子に。
「なあ、山口のボールやが」
 球場をあとにする阪急ファンの一人が一緒に来ていた友人に声をかけた。彼もまた阪急ファンである。
「いつもより球威がなかったんちゃうか?」
「そうか!?」
 どの友人はその言葉に首を傾げた。
「柴田のホームランは運がないだけやろ。山口はコントロールが悪いからど真ん中に入ったんやろ」
 確かに山口はコントロールが悪かった。だがその剛速球はコントロールなぞものともしない程のものであった。
「そやろか」
 彼は友人の言葉に賛同しかねた。
「これでこのシリーズ三回目の登板やしな。それにシーズンも働きづめやったし」
 彼は山口に疲れがあるのではないか、と考えた。
「まさか、去年もこんなんやったぞ」
「去年からやな」
 二年越しの活躍である。その間剛速球一本でやってきた。変化球もあるが彼の武器はやはり速球である。
 身体には負担がかかる。ましてやあの小さな身体でダイナミックなフォームで。もしかするとかなり疲労が溜まっているのでは、彼はそう思った。
「安心せんかい、明日は勝つで」
 友人は心配する彼に対し笑顔で言った。
「西宮で胴上げや。ウエさんが巨人の前で高々と上がるのを見ようで」
「ああ」
 彼は笑顔を作った。そして答えた。
「じゃあ帰ろか。そんでビール飲んで今日のことは忘れるんや」
「ああ」
 二人は別れた、そしてそれぞれの家路についた。
 だがその間も彼は顔が晴れなかった。やはり山口は普段の山口ではなかった。
「大丈夫やろか」
 彼は不安になった。今まで巨人に敗れ続けた忌まわしい記憶が脳裏をよぎる。
「いつも勝てる、っちゅう戦力で挑んで負けてきたんや」
 阪急のこれまでの歴史は常にそうであった。巨人に挑み続け敗れ去る。闘将西本は遂に阪急で日本一の胴上げをされることはなかった。
「もしかしたらまた」
 そう思うと自然に俯いてしまう。それを止めることはできなかった。
 彼はそのまま玄関をくぐった。そして朝になるまでそこから出ることはなかった。

「え!?」
 翌日の第五試合、阪急の先発を見た阪急ファンはマウンドに上がる男を見て思わず目を疑った。
「何であいつなんや」
 誰もがそう思った。マウンドでは山田久志が投球練習を行っている。
 彼は第三戦に先発していた。しかも完投しているのである。
 体力的にはかなりの不安があった。その彼を先発のマウンドに送るとは。
「ウエさん何を考えとるんや!?」
 そう言ってベンチにいる上田に顔を向けた。
 上田は山田の投球を腕を組み見守っていた。その顔は普段の彼のものとは違っていた。
「今日で決めるんや」
 彼はそう呟いていた。そしてマウンドの山田から目を離さない。
「監督、本当に山田でええんですね」
「ああ」
 コーチの言葉にも頷いた。
「エースで決めたる。今日でな」
「今日で、ですか」
「そや、後楽園に行ってたまるかい」
 西宮の試合は今日までである。もし次の試合が行われるとしたらそれは後楽園である。敵地である。彼はそれは避けたかったのだ。
 山田は黙々と投げている。だがそのボールには明らかに力がなかった。
「打てるな」
 巨人ナインはそれを見て思った。長嶋はナインに対して言った。
「思いきりいけ」
「はい」
 打つ動作をしながら言う。ナインはそれに対して頷いた。
 三回までは試合は動かなかった。山田も疲れが残っているとはいえまだ制球力もあった。巨人の先発ライトも力投していた。だが四回、山田の疲れが限界にきた。
 ここで巨人は攻勢に出た。一気に山田を打ち崩す。
 ここでライトが打席でも活躍した。何と山田からホームランを放ったのだ。
 これで山田は終わった。上田は中継ぎの白石静生を送った。
 続けて戸田善紀、試合は負け試合であった。だが上田はまだ焦っていた。
「!?」
 何と上田はここにきてまた山口をマウンドに送ったのである。これに阪急ファンはまた首を傾げた。
「負け試合やろ、今日は」
「何で山口なんや!?」 
 彼等はもう上田の考えがわからなかった。
「ウエさんもしかしてかなり焦っとらんか!?」
 ここで誰かが言った。
「何でや」
「顔見てみい」
 上田の顔を見る。確かにいつもの温和な顔とは違う。何かに怯えるようにカリカリとしている。
「そういえば」
「いつもとちゃうやろ。こりゃまずいかも知れんで」
「ああ」
 彼等も表情を暗くさせた。そしてグラウンドへ顔を戻した。
 試合は巨人の勝利に終わった。ベンチをあとにする山口には疲れの色がありありと映っていた。
「後楽園か」
 上田は力なく呟いた。
 三塁側では巨人ファンが騒いでいる。勝てるとは思っていなかったのだ。もうお祭り騒ぎであった。
「まだうちが勝っとるけれどな」
 口ではそう言う。しかし彼はその鋭利な頭脳で流れを掴んでいた。
「いや、そういうわけにはいかんで」
 彼は首を横に振った。
「絶対勝つ、西本さんの為にもな」
 彼は三塁側スタンドを睨みつけた。そこには憎っくき宿敵巨人軍の旗が翻っている。
「次で決める、絶対な」
 彼はベンチへ顔を向けた。
「絶対に勝つ、その為には何でもしたるで」
 彼はそう言い残しベンチから消えた。
 その足取りはやはり少しせかせかしていた。何処か落ち着かない。 
 彼の焦りは収まっていなかった。それどころか益々酷くなっていく。
 しかしそれに本人は気付いていなかった。あくまで冷静なつもりであった。
「やはり監督は普段と違う」
 それを見たナインは思った。そしてシリーズの行く末に危惧を覚えた。
「もしかすると」
 だがそれはすぐに頭の中から取り払った。縁起でもない。
 その中で一人冷静な男がいた。だがこの時は誰もそれには気付いていなかった。

 舞台は後楽園に移った。第六戦である。阪急の先発を見たファンは沈黙した。
「ホンマにこりゃあかんかもな」
「絶対ウエさん今動揺しとるで」
 彼等は口々に言った。阪急の先発は山口であった。
 山口は先発をつとめることもあった。だからこそ阪急を優勝に導くことができたのだ。
 しかし、しかしである。彼は既にこのシリーズで五回目の登板である。そのフォームも第一戦の時とはどう見ても違っていた。力が足りないのだ。
 そしてボールも。確かに速い。だがあの重い音もしない。普通の速球であった。
「打たれるな」
 多くの者はそう見ていた。試合の結果を予想する者は多かった。
 しかしここで打線が爆発した。この二試合今一つ元気のなかった阪急打線が巨人に襲い掛かったのだ。
 五回表を終わって七対〇、勝負あった、と誰もが思った。 
 だが巨人は諦めてはいなかった。
 五回裏まずは二点を返した。
「第一試合での球威はもうないな」
 二点を返した巨人打線はそう感じていた。今の山口なら打てる、そう確信していた。
 六回裏巨人はランナーを二人置いた状況で切り札を投入した。
 淡口憲治、チームきっての勝負強さを持つ男である。
「出たな」
 巨人ナインは固唾を飲んだ。こういう時の淡口は頼りになる。淡口はそのファンの期待を一身に背負って山口と対峙した。
 第一試合では全く歯が立たなかった。ボールがミットに収まってからバットを振る始末であった。
 しかし今は違う。彼は今まで山口のボールから目を離さなかったのだ。
「打てる」
 彼はそう思いバッターボックスに入った。
 山口が投げた。あの高めのストレートだ。
「よし!」
 彼はバットを一閃させた。それはそのままスタンドに突き刺さった。
 巨人ファンの歓声が沸き起こる。それを見た上田はようやく悟った。
「これはあかん」
 もう山口は限界にきている、今まで焦りのあまり気付かなかったのだ。
 彼は止むを得ず山口を引っ込めた。そしてリリーフに山田を送った。
 しかし上田はまだ焦っていた。その山田は前の試合で先発だった。まだ疲れが残っていたのだ。
 八回裏、山田は打たれた。柴田の値千金のツーランが飛び出たのだ。
「山田もあかんか」
 上田は歯噛みした。山田の弱点である一発病がここで出てしまったのだ。
 しかし今彼以上に頼りになるピッチャーはいなかった。仕方なくそのままマウンドにおくことにした。
 七点を入れた打線も巨人のリリーフ小林繁の前に沈黙していた。五回をパーフェクトに抑えられている。
 山田は投げる度に疲れが蓄積されていくのが傍目からもわかった。巨人はジワリ、ジワリとその彼を攻めていく。
「おい、山田が打たれたらお終いやぞ」
 西宮から駆けつけてきているファンが青い顔で言った。
「しかし他に誰がおる?山田以外おらんぞ」
「そやな」
 流れは完全に巨人のものとなっていた。後楽園から聞こえるのは巨人ファンの応援の声だけである。
 十回裏山田は絶対絶命のピンチを迎えた。ノーアウト満塁である。
 打席にはX9戦士の一人高田繁、俊足強肩で知られる。かっては外野手であったが長嶋にその守備センスを見込まれサードにコンバートしていた。そこでも絶妙の守備を見せていた。
 彼は一発があった。十九本のホームランを打ったこともある。そして何より粘り強い。
「終わりかな」
 阪急ファンの一人が呟いた。
「高田を仕留めてもまだ」
「アホなこと言うなや!」
 隣にいた男がそれに言った。
「山田を信じんかい!あいつはこういう時も何度も乗り切ってきたやろが!」
「しかしなあ、相手は巨人やぞ」
 彼は明らかに弱気になっていた。
「あの時かてそうやったし」
「うう・・・・・・」
 それで終わりだった。あの王の逆転サヨナラスリーラン、それは今でも阪急ファンの脳裏に刻み込まれていた。
 山田はその時を思い出していただろうか。そのポーカーフェイスに汗が流れる。
 山田と高田は睨み合った。高田は浪商でも明治大学でもスターで鳴らした男だ。しかも滅法喧嘩早いところがある。山田も負けてはいない。西本に一からピッチャーとしての心構えを叩き込まれている。
「抑えたる」
 心の中で呟いた。そして投げた。
 高田のバットが一閃した。それで全ては決まった。
「あ・・・・・・」
 山田だけではなかった。阪急ナインもファンもそこで鏡が割れた様に動かなくなった。
 三塁ランナーの張本がバンザイをしながらホームを踏む。サヨナラヒットであった。
「勝っとったのに・・・・・・」
 張本がホームを踏むまでの動きがコマ送りの様にゆっくりと見えた。ホームを踏んだ瞬間後楽園は歓喜の声に包まれた。
 巨人ベンチは総出で張本を出迎える。殊勲打を放った高田ももみくちゃにされる。まるで日本一になったかのような騒ぎ
であった。
「・・・・・・・・・」
 上田はもう何も語らなかった。そのまま踵を返すとベンチを後にした。
 阪急ナインもそれに続く。もう誰も何も語らなかった。
 それに対して巨人はもう日本一になったかのような状況であった。ただ胴上げをしていないだけである。
「このまま日本一ですね!」
 記者達が長嶋に対してインタビューをしている。
「それはまだわかりませんけれどね」
 長嶋は口では否定する。しかしその顔には笑みがこぼれていた。
 巨人ファンの声が鳴り響く。もう勝負あったかのようであった。
「・・・・・・帰ろうか」
「ああ」
 阪急ファンも去って行く。おの足取りは重いものであった。
 これで三勝三敗、遂に五分と五分の状況となった。だが阪急にとってはもう絶対絶命の状況であった。
 山口も打たれた。山田もだ。切り札はもうない。そして流れは完全に巨人のものである。
 マスコミも完全に巨人贔屓になっていた。テレビでももう長嶋が勝ったかのような騒ぎであった。
「ふざけんなや」
 阪急ナインは怒りに満ちた声でテレビを切った。彼等はまだあの試合のことをはっきりと覚えていた。
「おい」
 そこで後ろから声がした。上田のものであった。
「監督」
 選手達に顔を向けられた上田はにこやかに笑った。だがその笑みは何処か力がなかった。
「今日はご苦労さん」
「はあ」
 選手達は彼に言われ応えた。
「疲れたやろ、今日は思いきりはめ外してこい」
「しかし」
「ええから」
 上田の笑みは優しいものであった。それがかえって選手達を沈黙させてしまった。
「銀座でも六本木でも好きなとこ行って来たらええで。疲れを吹き飛ばすには酒が一番や」
「はあ」
「監督は言うんでしたら」
 酒は飲み過ぎるな、スポーツ選手の鉄則である。だが上田はそれを知りながらあえて言ったのだ。
 負けた、そう感じたからだ。その原因は他ならぬ自分の焦りによるものだった。
「済まんな」
 上田は夜の銀座に繰り出す選手達を見送って一人呟いた。その顔にはえも言われぬ哀しさがあった。
「わしのせいで御前等を負けさせてな」
 彼は部屋に戻るとまた言った。
「折角西本さんの無念晴らせるところやったのに」
 そう思うと無念で仕方なかった。
「明日で全部終わりか、何の為に出たんや。チョーさんの引き立て役かい」
 椅子に座った。やりきれない気持ちで一杯だ。
「わしも飲もうかな」
 ふと思った。実際飲まずにはいられなかった。
 部屋を出る。そこで一人の男と擦れ違った。
「どうも」
「あれ、御前は行かんかったんか?」
 それは足立であった。
「はあ」
 足立は素っ気無く答えた。
「わしは酒が飲まれへんさかい」
「そうやったんか」
 そういえばそうだった、上田はふと思い出した。
「じゃあ部屋でゆっくりしとるんやな」
「はい」
 見たところ至って冷静である。他の者は自暴自棄になって飲みに行ったというのに。
「ふん」
 上田はそれを見てふと考えた。
「もしかすると」
 前から足立のここ一番の踏ん張りは頼りにしていた。かっては敗れはしたが王、長嶋の前に立ちはだかり阪急の面子を守ったこともある。
(賭けてみるか)
 上田は腹をくくることにした。そして足立に声をかけた。
「なあ」
「はい」
「明日やがな」
 上田はあえて穏やかな声で話しかける。
「先発は御前にしようと思っとるんやがな」
「わしですか」
「そや」
 上田は微笑んで頷いた。
「どや、やれるか」
「はい」
 足立は表情を変えることなく答えた。
「投げさせてくれるんでしたら」
「そうか」
 上田はそれを聞いて思わず顔を綻ばせた。彼はここでようやく落ち着きを取り戻した。
(そうや、まだこいつがおったんや)
 いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
(わしもまだまだやな、自分のとこの選手を完全に把握しとらんわ)
 迂闊だと思った。だがこれで明日は巨人と戦えると確信した。
「じゃあ今日はもう寝ようか。大事な決戦やし」
「いや、わしはもうちょっと起きときます」
「何でや」
「予想せなあきませんから」 
 彼の趣味は競馬と競艇である。麻雀も好きだ。酒を飲まず、無口である彼は一人でそうした賭けの予想をたてることが好きだったのだ。
 彼のギャンブルでの強さは有名だった。それは何故か、問われた彼は素っ気なくこう答えた。
「勝とうとは思わへんことや」
 そこに足立があった。
 彼はいつもそういうマイペースな男であった。決して焦らない。どのような強打者が前に立ちはだかっても焦らない。ただ自分の投球をするだけであった。
 上田はそれを忘れていた。だが最後のこの時にそれを思い出したのだ。
「明日が楽しみやな」
 そう言うと眠りに入った。外からはようやく帰ってきた阪急ナインの声がしていた。
「あいつ等明日になったらどんな顔しとるかな」
 そう思うだけで楽しかった。だがそれを彼等に見せることなく眠りについた。

 翌日後楽園は満員であった。見渡すばかり巨人の帽子と旗である。
「勝てよーーーーーーーっ!」
「あの西鉄の再現だーーーーーーーーっ!」
 昭和三三年のシリーズである。巨人ファンにとっては忘れることのできぬ屈辱であった。
 あの年巨人は三原脩率いる西鉄ライオンズと球界の覇権を争っていた。三原はかって巨人の監督を務めていた。だが水原がシベリアから戻ってくると総監督に祭り上げられつま弾きにされたのだ。
 三原は西鉄の監督になった。そしてそこで野武士軍団と呼ばれる強力なチームを作り上げたのだ。
 鉄腕稲尾和久に怪童中西太。水戸の暴れん坊豊田泰光、青バット大下弘、錚々たる顔触れが三原の下に集っていた。
 水原率いる巨人はこの時既に黄金時代を支えた選手達が下り坂にあった。そして西鉄に連覇を許していたのだ。
「今度こそは負けられない」
 そういう思いでいどんだシリーズであった。こちらには黄金ルーキー長嶋茂雄がいた。そう、長嶋がこの時もいたのだ。
 水原と三原は激しく対立した。最早それは決闘であった。
 まずは巨人が三連勝した。しかし真の勝負がここからはじまったのであった。
 西鉄は稲尾を続けざまに出す。彼はその常人離れしたスタミナと抜群のコントロールで巨人を寄せつけない。高速スライダーとシュートで巨人打線を封じる。
 そして遂に四連勝して巨人を倒した。鉄腕稲尾の名が全国に轟いた。
 今も尚語り継がれる死闘である。だがそれは巨人にとっては忘れることのできぬ屈辱であった。
「あの時の雪辱というわけではないけれどね」
 一塁ベンチに立つ長嶋はポツリと呟いた。
「けれどここまできたら勝ちたいね、日本一だ」
 ナインはその言葉に頷いた。そして遂に最後の戦いの幕が開いた。
「まるで甲子園にいるみたいやな」
 試合の隅をようやく占拠したような僅かばかりの阪急ファン達は球場の巨人ファンを見ながら呟いた。
「何処もかしこも巨人やこらあかんかもな」
 見れば阪急ナインも空気に呑まれている。流れは誰が見ても巨人のものだった。
「おい、ラジオなんか切ってしまえ」
 阪急ファンの一人が別のファンに対して言った。聴けばあからさまな巨人寄りの中継だった。
「日本中こんなんかいな」
 その通りであった。実際にテレビでも、その日の朝の新聞でも巨人のことばかり。まるで何処かの世襲制の共産主義国家のようであった。
 その中で阪急ファンも平静ではいられなかった。見ればもう顔が真っ赤になっている者すらいる。
「これが飲まずにいられるかい!」
 こう叫ぶ者もいた。彼はもう勝てる筈がない、と諦めていた。
「お客さんは荒れとるな」
 その光景は上田からも見ることができた。
「当然でしょうね」
 コーチの一人が力なく答えた。
「こんな状況じゃあ。まるで阪神と試合しているみたいですよ」
「ホンマやな、よう似とるわ」
 上田はそれを聞いて思わず笑った。
「巨人ファンは薄情やと思うとったけれどな」
 実際に巨人ファンの一部はそうである。彼等は野球が好きなのではない。勝つことだけが好きなのだ。野球にもスポーツにも愛情があるわけではないのだ。
「案外熱心な人もおるみたいやな。うちのファンにはかなわへんが」
 パリーグのファンの特徴である。数ではないのだ。問題は愛情なのである。
「さて、お客さんの為にも今日こそ勝つで」
「はあ」
 見ればそのコーチも元気がない。
「おい、コーチがそんなことでどないするんや」
 上田は彼に対して言った。
「大きく構えとくんや。そうでないと勝てるもんも勝てへん」
「そういうものでしょうか」
 だがそのコーチは背を丸めたままである。
「そうや、あいつを見てみい」 
 上田はそう言うとマウンドにいる足立を指差した。
「ここはあいつみたいにしゃんとしとくんや、それで勝つつもりでいかんかい」
 見れば足立は飄々とした様子でマウンドで投球練習を行っていた。
(騒げ)
 彼は巨人ファンの大歓声を聞いて心の中で呟いた。
(騒ぐだけ騒げ、騒いでもわしは痛くも痒くもないわ)
 全く同ずることがなかった。こうして彼は試合前の調整を終えた。
 試合がはじまった。もう巨人ファンは勝った気でいる。
 一球ごとに歓声が起こる。だが足立は黙々と投げる。
 まずは阪急が先制点をあげた。福本が巨人の先発ライトから打ったのだ。
「ダチさんが頑張ってくれとるさいかいな。わし等が打って援護せなあかんやろ」
 彼はホームに戻ると出迎えたナインに対して言った。
「そやな」
 ナインはその言葉にようやく我に返った。福本もホームランを打つまで忘れていたことだった。
「わしも今思い出したで」
 福本は顔を崩してこう言った。
「けれど今ので思い出した。勝たなあかんわ。そんで日本一や」
「よし」
 ナインもようやく自分達のペースを取り戻した。これで阪急は息を吹き返した。
 しかし巨人も反撃を開始した。高田のホームラン等で逆転する。しかし足立はそれでも表情を崩さない。
「それがどないしたんや」
 口では言わない。だが全身でそれを言っていた。彼は全く動ずるところがなかった。逆転で沸き立つ後楽園の観衆を向こうに回しても、だ。
 七回表、阪急は終わるつもりはなかった。ここでサングラスをかけたキザに見えなくもない男がバッターボックスに入る。
 森本潔である。彼もまた西本に育てられた男だ。だが地味な存在であり阪急にあっては影の薄い男であった。
「誰だ、あいつは」
「知らないな」
 巨人ファンは今この時点で彼を見てもそう言っていた。それ程までに影の薄い存在であった。もっとも山口の存在があまりにも大きく他の選手達に脚光が浴びなかったせいもあるが。
 森本はゆっくりと打席に入った。そしてライトを見る。
「ここで打ったら試合が動くで」
 上田は森本を見てそう言った。
「打ちますかねえ」
 コーチは誰も心配そうであった。このシリーズでも目立った働きはしていない。ペナントでもそうであった。
「しかしあいつは勝負強いからな」
 上田は言った。彼の勝負強さを知っていたのだ。勝手は三番を打ったこともある。長打力もあった。
 その森本のバットが大きく振り抜かれた。ボールが高々と飛んだ。
「まさかっ!」
 巨人ナインとファンの顔が蒼白となる。それは彼等の絶望と阪急の希望を乗せて飛ぶ。
 入るか、いやは入ってくれ、阪急ナインもファンもそう思った。否、念じた。その思いがボールに宿ったのだろうか。
 ボールはスタンドに飛び込んだ。その瞬間巨人ファンの断末魔の叫びが後楽園を、日本を覆った。
「よし!」
 森本はガッツポーズでダイアモンドを回る。巨人ナインもファンもそれを力無く見るしかなかった。
「よっしゃああ、森本よう打ったでえ!」
 阪急ファンは狂喜乱舞する。彼等はここで勝利を感じたのだ。
 今まで酔っていた男も立ち上がった。彼が見たのはホームで二列になり森本を出迎える阪急ナインの姿であった。
「はよ来い、はよ!」
 阪急ナインの声が呼ぶ。森本はそこに入って行った。
 たちまち彼はもみくちゃにされる。そしてその中でホームを踏んだ。
 これがこの死闘の行方を決定した。さしもの巨人もこれで力尽きた。
 しかしファンはまだ諦めてはいない。歓声はなおも後楽園を包んでいた。
「まだ騒いでいるのか」
 足立はそう言わんばかりの顔をしていた。だがもう観衆は見ていなかった。ただ相手だけを見ていた。
「じゃあ最後まで騒いでいろ」
 彼はそう呟くと投げた。そして一人、また一人と巨人の打者を打ち取っていく。それは巨人の最後へのカウントダウンであった。
 八回表阪急は止めとなる一点を入れた。これで決まった、上田は笑った。
 巨人ファンの声は次第に悲鳴に近くなっていく。バッターもその目が血走ってきている。巨人の最後の時は刻一刻と迫ってきていた。
 そして九回裏足立は最後のバッターを屠った。その瞬間全てが決まった。
「やったあ、優勝や!」
 ナインが一斉にマウンドにいる足立のもとに駆け寄る。まずは殊勲打を放った森本が。一塁を守る加藤が、ショート大橋が。
「やったよ、アダチさんサイコーーーーよ!」
 セカンドのマルカーノが飛び跳ねながらこちらに向かって来る。そして足立に抱き付いた。
「遂にやったんやな!」
 センターから小柄な男が駆けて来る。福本だ。
「わし等、遂に巨人に勝ったんやな」 
 その目には涙があった。彼は遂に宿願を果したのだ。
「ダチさん、おおきに」
「福本、嬉しいな」
 足立が珍しく顔を崩していた。彼の目にも熱いものが宿っていた。
「親父、見てくれてるやろな」
 足立もまた西本に育てられた男である。その恩を忘れたことはなかった。
「足立、ようやってくれたな」
 ここで上田が姿を現わした。彼もまた顔を崩していた。
「はい」
 彼は頷いた。見ればグラウンドには阪急ナインが勢揃いしている。
「さあ皆、監督を胴上げするぞ!」
 足立の声がした。
「おお!」
 皆それに従った。
 上田が高々と上げられる。そこには勝者の笑みがあった。
「やっと勝ったんやな」
 ファンもそれを見て泣いていた。彼等にとって巨人は憎っくき怨敵であった。その怨敵を今遂にやぶったのだ。
「長かったな」
「そやな」
 昭和四二年からはじまった。五回挑み五回共敗れた。どれも悔しい思いだけが残った。
 しかしそれが今晴れたのだ。阪急はようやく宿敵を屠ったのだ。
 胴上げが終わり上田はインタビューに応じた。彼は笑顔で言った。
「この喜びを西本さんに捧げます」
 阪急ファンの拍手が鳴り響く。彼等は数よりもその想いで巨人ファンを圧倒していた。
 MVPは福本だった。彼もまた言った。
「これで藤井寺のお爺ちゃんも喜んでくれますわ。やっと恩返しができました」
 もう涙が止まらなかった。彼にとって巨人を倒すことは西本への恩返しなのであった。
「あれ程の選手達を育て上げたのか」
 観客席にいる一人の男がそれを聞いて呟いた。
「西本さんはやはり凄いな」
 眼鏡をかけた痩せ気味の男である。
 ヤクルトの監督広岡達郎であった。彼はこの試合観客として観戦していたのだ。
「だが無敵のチームなぞ存在しない。必ず何処かに弱点がある」
 彼はそう言うとゆっくりと立ち上がった。
「もしかしたら阪急と、西本さんの作り上げたチームと戦う時が来るかも知れない。その時に備えて私も学んでおくか」
 そして彼は球場をあとにした。翌年彼はヤクルトを二位にする。そして七八年にはヤクルトを優勝させる。そのヤクルトに阪急が敗れるのは別の話である。
 そして彼は西武の監督になった時阪急、そして近鉄と死闘を展開する。鋭利な策士広岡の胎動はこの時には既にはじまっていたのだ。だがそれを知る者はこの時いなかった。広岡自身を除いては。
「そうか」
 西本は阪急の勝利をグラウンドで聞いていた。
「パリーグが勝ったんやな」
 彼はこう言った。阪急が勝った、とは言わなかった。
「やっと巨人を倒すことができたんやな」
 彼はそう言うとボールをトスで横にいるバッターに投げた。
 そのバッターは大きな身体を使いそれを打った。打球は一直線にスタンドに飛び込んだ。
「よっしゃ」
 西本はそれを見て言った。
「タイミングは合ってきとるわ。これを忘れるんやないぞ」
「はい」
 その男は西本に言われ頷いた。見れば外見の割に雰囲気が大人しい。
 羽田耕一であった。近鉄で西本が育てている男の一人だ。
「次は御前や、栗橋」
「はい」
 今度は左打席に別の男が入った。その男も西本からのトスを次々とスタンドに叩き込んでいく。
 見れば栗橋の後ろには多くの若い選手達がいた。彼等は皆真剣な表情でバットを振っている。
「今度はわしの番や」
 西本はふと言った。
「あいつ等はわしに恩を返した、と言ってくれた。こんなに嬉しいことはない」
 その言葉には一つのチームを育て上げた重みがあった。
「しかしわしもあいつ等も勝負の世界に生きとる。今度はわしは自分の手で日本一にならなあかん」
 彼は立ち上がった。周りでは近鉄の選手達が藤井寺のグラウンドに散らばり汗を流している。
「この連中と一緒にな。今度こそ日本一になる。その為には」
 彼はここで眦を決した。
「あいつ等も倒すさなあかん。その為にこいつ等を育ててるんや」
 選手達は黙々と練習している。西本はそんな彼等を見渡した。
「御前等やったらできる、絶対日本一になるんやぞ」
 新たな戦いの幕が開こうとしていた。勝利の美酒を味わう阪急の選手達は後にこの西本が育て上げた近鉄と二年越しの球史に残る死闘を展開することになる。
 阪急も近鉄も西本が育て上げた球団である。しかし彼等は同じ師を持ちながらその身体も心も別である。だからこそ競い合い、激しい死闘を繰り広げたのだ。
 西宮も藤井寺もシリーズが終わると練習のみに使われるようになる。そこには戦いの匂いはなくなる。
 だがそこに住む野球の神々は待っているのだ。再び激しい戦いがそこで行われることを。
 西本が育てた二つのチームは今でも互いに競い合い、熱い戦いを続けている。それは決して同じものではない。彼等はそれぞれ西本の野球を受け継いでいる。だが一つではないのだ。
 その二つの野球がこれからも行われる。人々はそれを観る為に今日も球場へ向かうのである。


恩返し    完



                                      2004・7・28


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