第十二章         二日続けての大舞台
 野球とはまさに筋書きのないドラマである。
 しかしだからといって奇跡がそうそう起こるわけではない。滅多に起こらないからこそ奇跡なのだから。
 だがそれが起こる時にそこに居合わせた者は感動に包まれる。それが野球の素晴らしさだ。
「それでも二日続けては起こらない」 
 それは誰もがそう思う。柳の下に二匹もどじょうはいない。
 だがこの時は違っていた。昭和五九年近鉄バファローズはその二匹のどじょうを捕まえたのだ。
 六月のことであった。舞台は藤井寺球場、相手は同じ関西の球団南海ホークスである。
「南海や阪急と戦うのは他のチームに比べて気が楽やわ」
 こう言うファンもいた。
 理由は簡単である。距離が近いからだ。お互い電車で楽に通える距離である。藤井寺も西宮も大阪も電車で一時間もかからなかった。互いのファンは遠足に行くような気分で相手の球場に行ったものであった。
 そして親会社が電鉄の会社だったことがあり何処か兄弟意識があった。特に近鉄と阪急はかって西本幸雄に率いられたこともありその意識は強かった。だからといって乱闘が起こらないわけでもなく応援団同士の野次合戦もあったがそれでも阪神ファンが巨人に見せるようなああした異常な敵愾心はなかった。あくまで好敵手同士であったのだ。
 この年パリーグは阪急の独走状態であった。強力な助っ人ブーマーが大暴れして阪急を引っ張っていた。対する近鉄と南海は瞬く間に離されてしまっていた。
 だがまだ望みはあった。彼等は阪急に追いつき、追い越そうとこの試合に挑んでいたのだ。二位と三位にあった。まさしく挑戦者決定戦であった。
 藤井寺球場、近鉄の本拠地である。ここで一人のベテランがバットを振っていた。
 加藤秀司であった。かっては阪急の四番としてその黄金時代を支えていた。
 彼は西本にそのバッティングを買われ阪急に入団した。そして彼により育てられたのであった。
 気性の激しい男であった。乱闘を起こして退場になったこともあればシリーズで審判の判定に噛み付いたこともある。その意外とも言える攻撃性で阪急を引っ張っていたのだ。
 だがその彼も衰えが見られるようになった。それは打撃よりもむしろ守備に顕著だった。それに危惧を覚えた上層部により彼は広島に水谷実雄と交換トレードされたのだった。
 ここで彼は肺炎になりシーズンを棒に振った。それで今度は近鉄に出されたのだ。
「まさかここに来るとは思わんかったな」
 加藤は藤井寺に来た時思わずこう言って苦笑した。
「何か阪急と違和感があらへんのう」
 それもその筈であった。阪急も近鉄も西本が作り上げた球団なのだから。
 見ればグラウンドにる選手達の多くは西本により育てられた選手達だ。つまり彼にとっては同門の者ばかりである。
「西本さんだけやな、ここにおらへんのは」
 西本は既に監督を退いていた。最後の近鉄、阪急両チームによる胴上げに加藤も加わっていた。
 西本はこの時解説者になっていた。よく藤井寺にも仕事でやって来ていた。
「おう、あいつ等も流石に固くなっとるわ」
 加藤は西本にインタビューを受ける同僚を見て笑った。
 見れば羽田も栗橋も梨田もである。皆西本の前では直立不動になっていた。
「そういえばあの連中とは長い間戦ってきたもんや。それが同じ釜で飯を食うようになるとはなあ」
 人間の世界とはよおわからんもんや、加藤はそう思った。
 近鉄と阪急は長年に渡って優勝をかけて争ってきた。西本幸雄を中心として。
 いつもどちらかに彼がいた。阪急の監督だった時も近鉄の監督だった時も。
 そして加藤も今西本のインタビューを受けている羽田や栗橋も西本に育てられた男であった。言うならば兄弟弟子である。
「だからここは居心地がええんかな」
 目を細めてそう思った。かっては阪急でもとびきりのはねっかえりであった。派手に暴れたものであった。無様な試合をした近鉄ナインを怒鳴りつけたこともある。
「わしもあの時は若かった」
 ほんの数年前のことである。しかしもう遥か昔のようだ。
「おい」
 昔のことを色々と思い出す加藤に声をかける者がいた。
「え、わし!?」
「そうや」
 その声には聞き覚えがあった。あの声だ。
「か、監督」
 加藤は思わず立った。そして直立不動でその人の前で畏まった。
「おいおい、何をそんなに慌てとるんや」
 声の主は笑ってそう言った。
「い、いえ何しろ監督の前ですから」
「わしはもう監督やないぞ」
 低い声だった。だがそこには誰にも何も言わせぬそうした頑固さと全てを包み込む優しさがあった。
 その西本であった。彼はにこにこと笑いながら加藤を見ていた。
「どうや、調子は」
「それはその・・・・・・」
 加藤は口篭もった。今彼は絶不調なのであった。
「あまりええことないみたいやな」
「はあ」
 実は彼はこのシーズン不調であった。打率もホームランもかっての阪急の主砲とは思えぬ程であった。
「加藤ももう年やな」
 ファンの間からこういう声がした。
「そやな、今までよう打ったけれどな」
 近鉄ファンだけでなく阪急ファンもこう言った。そんな声が加藤には辛かった。
 しかも膝も負傷していた。悪いことばかりだった。
 しかし彼は何とか踏ん張ろうとしていた。折角近鉄に来たのだ。このチャンスを逃すつもりはなかった。
「今が踏ん張り時やぞ」
 西本はそんな彼の思いをよくわかっていた。そしてこう言った。
「ボールをじっくり待つのもええがな、最初から強気で向かっていくのが近鉄や阪急の野球や」
「近鉄や阪急の・・・・・・」
 それを聞いた加藤は思わずハッとした。
「そうや、それを思い出したらちやうと思うで」
 西本は優しい声で言った。
「わしが言えるのはそれだけや」
 彼はそう言うと別の選手のところに向かった。小さなその背中がとてつもなく巨大に見えた。
「西本さん・・・・・・」
 彼はその背を見て呟いた。
「そうでしたな。最初から思いきりいかな。ずっとそれを忘れていましたわ」
 彼はかって西本に手取り足取り教えてもらっていた若き日を思い出した。
「口で言うてもわからんかあっ!」
 よく拳骨が飛んだ。痛い拳であった。信じられない程の硬さであった。
 だがそれ以上に熱かった。西本の選手を思う気持ちがその拳から伝わってきたのだ。
 加藤もよく殴られた。とにかく厳しい教育であった。だがその拳が今の加藤を作り上げたのだ。
「あの拳を思い出すか」
 彼はそう呟くとバットを握った。
「今日から思いきってやるで」
 バットを振った。今までとは違う音がした。
 それを聞いて笑った。そして試合に向けて一人黙々と練習をはじめた。

 その試合は近鉄窪康生、南海藤本修二の先発ではじまった。両方共若い投手である。
 試合は南海優勢に進む。南海の若手三塁手久保寺雄二が二打点をあげ阪急は八回までに三点をあげていた。
「久保寺は相変わらずええな」
 ベンチにいる加藤はそれを見て言った。彼は四番指名打者だったので守ってはいなかったのだ。
「そうやな、あのセンスはええ」
 近鉄の監督岡本伊三美もそれを見て言った。彼はかって南海でMVPを獲得したこともある男だ。『見出しの男』と呼ばれここぞという時によく打った。
 その岡本や加藤が認める程久保寺は良かった。だが彼はこのシーズン終了後急死する。それを聞いた南海ファンは皆涙を流した。
 藤本も力投した。近鉄は八回を終わって二点に抑えられていた。
「しんどいな」
 そういう声は聞こえてきた。九回表南海は藤本を降ろしストッパー金城基泰を投入してきた。
 アンダースローからのスライダーとシンカーを武器とする男である。キャッチャーも万を持してドカベン香川伸行から金城と相性のいい岩木哲にかえた。
「頼んます」
「よし」
 岩木は笑顔でキャッチャーボックスに向かった。香川はベンチに戻るとプロテクターを外しその巨体をベンチに下ろした。
「今日の藤本はよおやったけれど交代は当然やな」
 香川はそう思った。力投したが八回には栗橋にホームランを打たれている。球威が落ちていたのだ。
 だが金城の投球を見ていると香川は不安になった。どうも普段と様子が違うのだ。
「おかしいな」
 彼は首をかしげた。ストレートも変化球もいつものノビやキレがないのだ。
 だが金城も百戦錬磨の男である。こうした事態をいつも切り抜けてきた。ここは彼に全てを託すしかなかったのだ。
 確かに金城は不調であった。だが不調だけなら切り抜けられたかも知れない。
 この日彼はもう一つ大切なものがなかった。それは運である。
 勝負の世界は運がものをいうことが多い。運も実力のうちなのである。
 香川もそれはよくわかっていた。だが神ならぬ身である彼はその運を見ることはできなかった。そしてこれから起こることを知るよしもなかったのである。
 まずは梨田を三振にとる。これでいけるかと思われた。
 ここで近鉄ベンチが動いた。代打である。
 柳原隆弘だ。ヤクルトから近鉄にトレードで来た男である。
 この柳原がセンター前に打った。変化球に弱い彼はストレートに的を絞ったのだ。
「しまったな、あそこでスライダーかシンカーを投げておけば」
 金城はそう思った。だが冷静である。あと二人しとめれば終わりなのだから。
 打順は一番に戻った。大石大二郎である。小柄ながらパワーがある。
「ここは慎重にいくか」
 バッテリーはそう思った。大石はボールにバットを当てた。
 何とか当てたという感じであった。打球はフラフラとレフトにあがった。
「よし」
 金城も岩木も打ち取ったと思った。だがここで外野の動きがおかしかった。
 目測を誤ってしまた。その結果打球は左中間にポトリと落ちた。
「え!?」
 これには金城も驚いたがだからといってどうにもなるものではなかった。大石は二塁を陥れていた。
「点が入らなかっただけでもよしとするか」
 金城はそう思うことにし再びバッターに顔を向けた。そして続く平野をショートゴロに打ち取った。
「あと一人」
 そう思ったところで力が入ってしまった。栗橋は歩かせてしまった。これで満塁である。
「落ち着け」
 それを見た南海の監督穴吹義雄はマウンドでバッテリーに対して言った。
「今のあいつは抑えられるで」
 そう言って打席に向かう加藤をチラリ、と見た。
「だからここは丁寧についていけばええ。わかったな」
「はい」
 二人は頷いた。それを見た穴吹は安心してベンチに戻った。
「大丈夫かな」
 香川はまだ不安を拭いきれていなかった。
「今日の加藤さんは調子ええけど」
 そうであった。この試合加藤は二安打を放っている。往年の冴えが戻ったかのような振りであった。
 加藤の目は光っていた。ただ金城を見据えている。
「気合も入っとるわ。あら何かに狙い定めとるな」
 その外見から鈍重に思われるが香川もキャッチャーである。そうした打者の動きは特に目に入る。
「今日の金城さんの調子やと」
 しかしここで思い直した。ここは落ち着いておけばいい筈なのだから。
「まあ丹念にコーナーつくやろな」
 香川はそう見ていた。
 しかしマウンドの金城は彼が思うよりも動揺していた。穴吹に言われてもまだ完全にそれは拭いきれていなかったのだ。
「今日はおかしいな」
 彼も今日は調子が悪いとわかっていた。
「特に変化球はやばい」
 今の調子だとすっぽ抜けるかも知れない。そうすれば本当に終わりだ。
 彼はまずはストレートを投げることにした。しかし甘いコースは駄目だ。ここは香川と同じであった。
「内角から入るか」
 彼はそう決めた。そして投球動作に入った。
 内角高めに投げた。ここなら長打の心配はないからだ。
 しかし香川の考えは違っていた。彼はまずは様子を見る為に一球外してもいいと思っていたのだ。
 金城はストライクをとりにきていた。まずストライクをとり楽になりたかったのだ。
 これが加藤に合ってしまった。彼は初球を狙っていたのだ。しかもストレートを狙っていた。
「来たな!」
 それを見た加藤はバットを一閃させた。肘を綺麗にたたみバットを振った。
 ボールは放物線を描いて似飛んだ。その放物線がライトスタンドへ向かう。
「まさか!」
 金城だけではない。香川も南海ナインも思わず打球を追った。
 打球はライトスタンドに入った。ガラガラのスタンドに入り跳ねながら転がっている。それをそこにいたファンが追う。逆転満塁サヨナラホームランであった。
「おい、ここで打つか!」
 近鉄ファンは狂喜乱舞している。加藤はそこでようやく我にかえった。
「まさかスタンドに入るなんてな」
 まだ信じられない。だが観客の声が今のホームランを真実だと教えていた。
 加藤はゆっくりとベースを回る。藤井寺の観衆は彼に爆発的な歓声を送る。
 ホームでは近鉄ナインが総出で待っている。かっての宿敵、今はチームメイトに囲まれながら彼はようやくベースを踏んだ。
「加藤さん、お見事!」
 彼はナインにもみくちゃにされる。その中で思った。
(これや!)
 彼は阪急にいた時に感じていたあの感触を思い出していた。
(わしはこれで近鉄の一員になった!)
 そうであった。彼は今まで何処か余所者という意識があった。だがこのホームランで彼は近鉄の選手になったのだ。
 西本の作り上げたもう一つの球団である近鉄に入ったのは運命であった。彼はそう思った。
(ここも西本さんのチームや) 
 それはわかっていても実感がなかった。だが今それがようやくわかった。
 花束が渡される。加藤はそれをキョトンそひた顔で見た。
「何やこれ」
 まさか逆転満塁サヨナラホームランでの花束ではないだろう。加藤は何かと思った。
「記念の花束ですよ」
 チームメイトの一人が笑顔で言った。
「記念!?」
「ええ、加藤さんの三百号アーチの記念のですよ」
「ああ、そうやったんか」
 加藤はそれを聞いてようやく理解した。そういえばそろそろだった。
 加藤はそれを受け取った。そしてそれを手に観客達に顔を向けた。
「よおやった千両役者!」
「御前もこれで近鉄の選手になったな!」
「西本さんにその花見せたるんや!」
 近鉄ファンがこぞって声をかける。彼はそれを笑顔で受けた。
「おおきに」
 彼は言った。そして満面の笑みでベンチに戻った。
「今まで近鉄とは何度も戦ってきたけれど」
 記者達に対して言う。
「こんなええ舞台用意させてもらえるとは思わんかったわ。冥利につきるわ」
 この一打で加藤は甦った。後に彼は二千本安打を達成し名球界に入るがこのサヨナラアーチがなければ入ることはなかったであろう。かって阪急黄金時代を支えた打撃職人の復活を知らしめた一打であった。
 これでドラマは終わりだと誰もが思った。
「誰だってそう思うでしょうね」
 香川はこう言った。
「普通はそうですよ。こんなこと誰だって思いつきませんよ」
 首を横に捻ってそう言った。顔には苦笑がある。
「本当に。あんなことになるなんて」
 加藤も同じことを言った。香川にとっても加藤にとっても予想もできない話であった。
「しかし」
 彼等はここでも同じことを口にいした。
「野球の神様の配剤でしょうね、本当にだから野球は面白い」
 二人はここで純粋な笑顔になった。野球を心から愛する者の顔になった。
「今思うと運がよかったですよ。あんな信じられないことに立ち会えたんですから」
 二人は言う。次の試合は雨だった。それでもこう言うのだ。
 六月一一日、また藤井寺で試合が行われた。両チームはお互いのベンチについた。
「あの時はそんなことは夢にも思いませんでした」
 二人はこう言う。
「けれど予感はあったかな、今だからそう思えるだけかも知れませんけれど」
 近鉄の先発は鈴木啓示、このシーズンで三百勝を達成した近鉄の誇る大投手だ。対する南海は山内和宏。この時南海はピッチャーには恵まれていた。その中でも山内は若きエースとして知られていた。
「うん」
 練習中香川は山内のボールを受けて満足した笑みを浮かべた。
「これならいけるな」
 やはり試合前の投球練習でかなりのことがわかる。今日の山口は好調だ。勝てると思った。
 それに対して鈴木もいつもの調子だ。有田修三とのバッテリーは相変わらず強気の投球とリードでくるだろう。しかし今日は負けるとは思わなかった。
「ホームランを打たれることの多い人やし」
 香川は鈴木を見ながらそう思った。
「それが出たらうちの勝ちやな。門田さんかナイマンがやってくれるやろな」
 門田博光はこの時の南海の主砲である。ベテランの持ち味を感じさせる見事な打撃で知られていた。彼もまた名球界に入っている。
 ナイマンはこの時南海にいた助っ人である。彼はパワーのあるバッティングで知られていた。
 香川の予想はここでも当たった。四回に鈴木からツーランホームランを放ったのだ。
「やっぱりな」
 香川も岡本もこれを見て言った。鈴木は歴代一位の被本塁打の記録がある。とにかくホームランを打たれることの多い男であった。今日もやはり打たれた。
「これで今日は勝ちかな」
 香川は山内のボールを受けながらそう思った。彼はヒットは打たれながらもそこで踏ん張り得点を許さない。そのまま八回まで完封で進んでいた。
「ナイマンの一発が痛いな」
 岡本はスコアボードを見ながら唇を噛んだ。だが鈴木の浴びたホームランは仕方ないと思っていた。
「スズは他は抑えとるし。これで抑えてくれとるのは感謝せなな」
 彼もまた完投ペースである。そんな鈴木を攻める気にはならなかった。
「打線の調子も悪くはないし。やっぱり今日の山内はええわ」
 山内を見てそう言った。
「今日はあかんかもな」
 岡本もそう思った。流石に今日は負けるだろうと見ていた。
「スズには悪いが」
 鈴木の好投が惜しい。だがこうした試合もある。
 そして九回を迎えた。打席にはあの加藤がいた。
 ここはシェアに打った。レフト前に流した。ここで岡本は代走に慶元秀章を送った。
 次に打席に立つのは助っ人デービスである。パワーには定評がある。
 デービスも続いた。センター前へ弾き返す。だがこれを見てもまさか、と思う者はいなかった。
「山内の球威は落ちとらん。まあゲッツーで終わりやな」
 続く小川亨はピッチャーフライに終わった。やはり山内の調子はいい。羽田もピッチャー前に力なく転がしてしまった。
「これで終わりやな」
 香川はそれを見て思った。だがここで山内の動きが鈍った。何とそれを捕り損ねてしまったのだ。
「えっ!?」
 香川は我が目を疑って。打球はそのままセンター前へ転がっていく。ここで慶元がホームを踏んで一点入った。これで完封はなくなった。
 それだけではない。近鉄ベンチもファンも活気づきだした。これで終わりかと思われたのに思いもよらぬ形で一点入ったからであった。
「これはいけるかも知れませんね」
「ああ」
 岡本は隣にいたコーチに応えた。その顔には笑みがあった。
「流れが変わってきた。もしかすると、もしかするな」
 ここで打席に立つのは有田。勝負強い男である。
「監督、どうします?」
 南海ベンチでコーチの一人が穴吹に尋ねた。
「そうやな」
 問われた穴吹は山内を見て口に左手を当てた。
「山内の調子はここにきてもええ。それに」
 この前のことがある、とは決して言えなかった。だが脳裏にはあの場面が残っている。替える気にはなれなかった。
「このままいくで」
「はい」
 コーチも同じであった。加藤のホームランのことが頭にあった。彼等は山内続投を決めた。
 近鉄ファンはサヨナラへの期待に胸をワクワクさせている。彼等は興奮状態にあった。
 その中で山内のコントロールに狂いが生じた。有田を歩かせてしまう。
「まずいなあ」
 香川はそれを見て思った。流れはもう完全に近鉄のほうにある。だが山内はボールのノビもキレも落ちてはいない。もしかすると、とは思ってもやはり抑えられると思えた。
 岡本はここで動いた。審判に代打を告げる。
「代打、柳原」
 柳原、その名を聞いて香川はホッと胸を撫で下ろした。
「よかった」
 彼なら抑えられる、そう思ったからだ。
 彼には弱点があった。変化球に弱いのだ。だからこそ今一つ大成しないでいたのだ。
 だが岡本は彼にかけた。そのパワーにかけたのだ。
「頼むで」
 岡本は彼を見て言った。半ば祈るようであった。
 しかし香川は落ち着いたものであった。冷静に山内にサインを送った。スライダーだ。
「よし」
 山内はそれに頷いた。それを引っ掛けさせ併殺打にする狙いであるとわかったからだ。
 一球目は外角へのスライダーだった。だがそれは外れた。
「一球位はいいか」
 香川はそれを受けながら思った。球場は最早完全に近鉄への応援になっていたがそれでも彼は冷静なままであった。そうでなくては捕手は務まらない。
「またスライダーでいこう」
 山内はフォークも投げることができる。だがそれは考えなかった。
 満塁である。捕球がストレートやスライダーに比べて難しいフォークではパスボールの恐れもある。こうした場面ではあまり投げるボールではない。ましてやフォークはすっぽ抜けることも多い。かって我が国ではじめてフォークを駆使した中日のエース杉下茂も実はフォークは多投しなかった。彼はこう言った。
「フォークは一歩間違えると長打になる危険なボールだ。それにこっちにフォークがあると思わせるだけで有利になるんだ」
 彼はそれよりもストレートのコントロールを重要視した。フォークを武器としているだけにその弱点もよく知っていたのだ。
 香川もそれは知っていた。だからスライダーで攻めることにしたのだ。
「この人にはスライダー一本やりでいこう。それで抑えられる」
 そう思った。そして次のサインもやはりスライダーだった。
 山内もそれは納得した。彼も柳原が変化球に弱いことは知っていたのだ。
 そのスライダーは真ん中に入った。甘い球だ。だがいつもの柳原には打てないボールだ。
(引っ掛けてくれよ)
 香川はそう思った。バットを振ってくれることを願った。そして柳原は振った。
(よし!)
 彼はここで会心の笑みを浮かべた。勝った、そう確信した。
 しかしこの日の柳原は普段の柳原ではなかった。彼は無心のままバットを振ったのだ。
「いける!」
 彼はバットを振った瞬間そう思った。変化球に対する意識はこの時不思議な程なかった。ストレートを打つ時と同じように無心で振った。
 振り抜いた。無心だっただけに打球は派手な音と共に飛んだ。
 弾道は低かった。香川はそれを見た時しまった、と思った。
「同点か」
 打球は左中間に飛んでいる。だが低い。勢いもある。狭い藤井寺のことを考えるとヒットで済む。
「西武球場や後楽園じゃなくてよかったな」
 この時は狭い藤井寺に感謝した。しかしそれは一瞬だけだった。そう、藤井寺は狭いのだ。
 打球は一直線にスタンドに入った。弾丸ライナーでレフトスタンドの最前列に飛び込んだ。
「え・・・・・・」
 香川は最初目に映るその光景を信じられなかった。夢でも見ているのかと思った。
「嘘だろう!?」
 山内もそんな顔をしていた。彼等だけではない。南海ナインもベンチも同じだ。しかもそれは近鉄側もであった。
 打った柳原も呆然としていた。しかしそれは一瞬のことだった。彼等はその瞬間時を止めてしまっていたのだった。
 球場内が爆発的な歓声に包まれた。柳原はその声にようやく我に返った。
「ホンマのことやったんか!?」
 彼は狐につままれたような顔をしていた。
「おい柳原、はよベースに向かわんかい!」
「ボサッとしてベース踏み忘れるなや!」
 観客からの声が飛ぶ。彼はそれに従うようにようやく一塁ベースに向かった。
 そしてゆっくりと回った。ホームではナインが総出で待っている。
「よっしゃあ!」
 ホームを踏んだ彼はもみくちゃにされる。まさかの代打逆転満塁サヨナラホームランであった。
「まさか二試合続けて起こるなんてな」
 香川は顔を顰めながら言った。まだ信じられなかった。
「けれどこんな体験した野球選手って他にいないだろうな。悔しいけれどそう思えばいいか」
 あまりのことに今でも悔しさはない、と香川は言う。
「あの時は別ですけれどね」
 ここで彼は苦笑した。
「けれどこれが近鉄の野球、パリーグの野球ですね」
 パリーグで過ごしてきた彼はここでこう言う。
「こんなことはセリーグ、いや他の国のどのリーグでも起こりません。パリーグだからこそ起きるんです」
 その声は熱いものであった。彼にしては珍しい。
「僕はパリーグにいてよかった、と思っています。本当に。こんな熱い、素晴らしい野球ができたんですから」
 彼はそう言うと今日もパリーグの試合を観に行く。解説者として。
「世の中の人はまだ巨人巨人と言いますけれど少なくとも僕は違いますよ」
 加藤秀司も同じことを言う。
「パリーグの野球こそ最高です。あんな素晴らしいものが見られるんですから」
 二人は今も野球を愛している。パリーグの野球を。この素晴らしい野球の中で育ち、生きてきた男達は何時までもその世界を愛しているのだ。



二日続けての大舞台    完


                               2004・7・31


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