第十一章           もう一人の自分             
「スギ、ちょっといいか」
 立教大学の寮で眼鏡をかけた男に顎の割れた太い眉毛の男が尋ねてきた。
「どうした、シゲ」
 スギと呼ばれた男は彼の仇名を呼んで応えた。
「いや、実はな」
 シゲは少し照れ臭そうに言葉を出してきた。
「御前に会って欲しい人がいるんだよ」
「僕にか!?」
 彼はそれを聞き思わず声をあげた。
「そうなんだ。その人は御前にとても会いたがっているんだ。頼むよ」
「ううん」
 彼はそれを聞き少し考え込んだ。だが元々気がいい彼はそれを承諾することにした。
「わかった、会うよ。シゲの頼みだしな」
 彼は笑顔になりそう言って頷いた。
「済まないな、じゃあ今度ここに行ってくれ」
 彼は一枚のメモを手渡した。
「わかった、ここにその日に行けばいいんだな」
「ああ」
 こうして彼はとある人物に会うことになった。
「君が杉浦忠君やな」
 その人は彼に会うとまず彼の名を呼んだ。
「はい」
 杉浦はここで顔をあげた。その人を見て杉浦は言葉を失った。
「あいつ・・・・・・」
 まず出た言葉はこれだった。
「どないしたんや?」
 その人はそれを聞いて彼に尋ねた。
「いえ、何も」
 杉浦は慌ててその言葉を打ち消した。
「話は長嶋君から聞いとると思うけれどな」
 その人はゆっくりとした口調で話しはじめた。
「はい」
 杉浦は真摯な顔で頷いた。だが内心はいささか複雑であった。
(あいつ、また肝心なところ忘れやがって)
 彼は長嶋に対して舌打ちしていた。
(まさか鶴岡さんだとは誰も思わないだろうが。全く何処までボケれば気が済むんだ)
 杉浦は同期の長嶋茂雄のそうした物忘れの激しさをここにきてようやく思い出した。彼はいつもこうしたことをする。
(まあ仕方ない)
 杉浦はここで腹をくくることにした。
(話は聞かないとな。鶴岡さんは僕に何をお話しにここまで来られたのかわからないし)
 これが南海のエース杉浦忠と南海の監督であり関西球界のドンとまで言われた鶴岡一人との出会いであった。これが後の奇跡的な偉業のプロローグとなるのである。

 杉浦忠、立教大学のエースである。アンダースローから繰り出される速球を武器に快刀乱麻の活躍をしていた。
 武器は速球の他にはカーブとシュートしかなかった。だがそのどちらも常識外れのものであった。
 ノーヒットノーランも達成している。それに目をつけたのが南海の監督鶴岡だったのだ。
「これはいけるで」
 当時彼は人材を欲していた。南海を優勝させる人材をだ。
 南海はこの時強敵と対峙していた。知将三原脩が率いる西鉄、そして球界の盟主を自称する巨人である。
 そのどちらにも力及ばず敗れてきた。特に巨人には日本シリーズで四度も苦汁を飲まされていた。
「この二人はいける」
 その指揮官鶴岡は長嶋と杉浦を見て言った。
「打つのは長嶋、そして投げるのは」
 目の前で杉浦が投げていた。あっさりと完封で勝利を収めている。
「この男や。これで南海は日本一になるで」
 そして立教の先輩大沢啓二を通じて彼等の獲得に動いたのだ。ドラフトのない時代こうしたことはどの球団でもやっていた。半ば無法地帯のようなものであった。
 だからこそ一瞬の隙も見せてはいかなかった。油断していてはその人材を横から掠め取られてしまう。この時の彼もそうであった。
 長嶋は巨人に獲られてしまった。一説によると巨人は彼の身辺からの切り崩しにより獲得したらしい。今も巨人が得意とすることである。実に清潔な球界の盟主だ。黒い正義である。
 これに鶴岡が激怒したのは言うまでもない。彼は杉浦を呼びつけるとこう問い詰めた。
「長嶋は裏切ったぞ!杉浦君、君はどうなんや!」
 怖ろしい剣幕であった。鶴岡の怒声は並の人間とは思えぬものがあった。
 彼は広島商で甲子園に出場したのを皮切りとしてその野球人生をはじめた。法政大学では好打堅守のサードとして知られ南海に鳴り物入りで入団するとすぐに本塁打王となった。
「グラウンドには銭が落ちとる」
「見送りの三振だけはするな」
 彼はよくこう言った。振ればもしかしたらバットに当たるかも知れない、だから諦めるな、彼はこう言ったのである。
 そしてプロはこれで飯を食っているのだ、彼はそれを選手の頃から言っていたのだ。
 戦争では機関砲部隊の中隊長であった。陸軍将校としてもその優れた統率力を見せつけた。そして戦後復員すると僅か二九歳で選手権任の監督に就任した。
 この時は食糧難に悩まされていた。彼の仕事はまず選手達の食べ物を確保することだった。
「ナッパの味しか知らん選手達にビフテキの味を教えてやりたい」
 これは当時熊谷組で選手権監督となり後に大毎、阪急、近鉄を優勝させた西本幸雄の言葉である。彼もまた選手を食べさせるのに必死であった。そのナッパですら碌に手に入らないのだ。
 鶴岡もそれは同じだ。当時は食べるものもなく空きっ腹で野球をしていたのだ。だが彼は必死に食べ物を調達した。
 時には闇市を仕切る裏の世界の親分連中ともやりあった。しかし彼は一歩も引かなかった。彼には戦争で身に着けた凄みがあった。そして選手達のことを心から思っていた。それが親分連中をも従わせたのだ。
 後に選手獲得にもその手腕を発揮する。ここで彼はその親分連中の力を借りることもあった。この時代では普通であった。裏で金が動く。そこでそうした世界との付き合いがものを言うのだ。これは三原や水原も同じであった。そうでなくては監督なぞ務まらなかった。特に彼と三原、水原はその裏の世界の親分連中ですら逆らえぬ凄みと力量があった。だからこそ大監督たりえたのだ。
 その鶴岡が杉浦に対し怖ろしい剣幕で迫ってきたのだ。普通の人間なら蒼白になるところだ。
 余談であるが長嶋は鶴岡が激怒していると聞き心底震え上がったという。もしかしたら彼の下にいる裏の人間に何かされるかも、と本気で怖れたのだ。
「もう野球ができないかも」
 彼はそう言って震えていた。だがここで彼等の先輩である大沢があちこちに頭を下げて事なきを得た。長嶋はこのことで今だに大沢に頭が上がらないという。
 大沢はこのことから長嶋に対して色々と言う。とあるテレビ番組で嘘発見器にかけられながらこう問われた。
「長嶋さんがお嫌いですね?」
 彼は笑ってそれを否定した。だが嘘発見器は急激に上がっていった。
 他にも長嶋を許したのはつい最近の話だ、と語ったこともある。ある時は長嶋の悪口を飽きる程まくしたてた。しかし最後にニヤリ、と笑ってこう言った。
「しかしあいつには巨人のユニフォームが一番似合うだろうな」
 これが大沢であった。彼らしい男気に満ちたエピソードである。なお長嶋は彼を通じてもらっていた『小遣い』を無視する鶴岡の背広のポケットに無理矢理押し込んだという。彼もまた悪いことをしたと思っていたのだ。
 そして杉浦だ。彼は鶴岡を前にしても表情を一切変えていなかった。
(こいつええ度胸しとる)
 鶴岡はそれを見て心の中でそう呟いた。
(わしを前にして平然としていられるとはな。顔立ちは穏やかやが相当肝の座っとる奴や)
 杉浦は穏やかな物腰であったがそれだけではなかった。流石にマウンドにいるだけはあった。鶴岡の剣幕を前にしてもいつもと同じ様子であった。
 こういう話がある。彼はランナーを一塁に背負っていた。普通ならそのランナーを警戒してセットポジションにする。
 しかし彼は違っていた。何と普段と変わらず大きく振り被って投げたのだ。
「えっ!?」
 これには皆驚いた。当然ランナーは走る。次のボールも振り被った。また走られる。
 だがバッターは三振に討ち取った。そして無得点に抑えたのだ。
 そこまで肝の座った男であった。その彼がゆっくりと口を開いた。
「鶴岡さん、僕は男です」
 彼は鶴岡を見据えて言った。
(ムッ)
 彼はそれを聞いた時杉浦の男気を見抜いた。
「シゲのことは関係ありません。僕は南海へ行きます」
 はっきりとそう言い切った。それで全てが終わった。
「よし」
 鶴岡は一言そう言うと頷いた。こうして杉浦の南海入りが決定した。
 これで鶴岡は杉浦のピッチャーとしての才能以外の部分にも惚れ込んだ。その度胸と人柄もであった。
(こいつは信用できる)
 そう思ったのだ。事実杉浦は素直で穏やかな性格であり誰とも親しく付き合えた。よって南海でも忽ちチームのプリンスとなった。
 投げると砂塵が舞った。華麗なアンダースローから繰り出される速球とカーブ、シュートはどの強打者も打つことができなかった。
 投げた時の『ビシッ』という音がバッターボックスにまで聞こえてきた。そしてバッターに当たるかと思われたボールがストライクゾーンに大きく曲がり込んでくる。その速球も異様なノビがあった。
「あんなもの打てないよ」
 怪童と呼ばれた中西太がたまらずこう言った。青バット大下弘も暴れん坊豊田泰光も沈黙した。シュート打ちの名人と謳われた山内一弘もそのシュートはなかなか打てなかった。入団した年で二七勝を挙げた。文句なしの成績で新人王に選ばれたのだった。
 二年目のジンクスを危惧する声もあった。だがそれは彼に関しては心配無用であった。
「こんなボール今まで受けたことないわ」
 彼とバッテリーを組む野村克也はそう言った。後に彼は多くのピッチャーのボールを受けるが彼はそれでも杉浦以上のピッチャーは見たことがなかった、という。
 その彼がこの年恐るべき偉業を残した。
 三八勝四敗。防御率一・四〇.奪三振三三六。今では到底信じられない成績であった。これ程までのピッチャーがいて優勝しない筈がなかった。彼がマウンドに上がるとそれだけで勝利は半ば約束されたようなものであった。
 穏やかな物腰に黒ブチ眼鏡の知性的な美男子。そして静かで素直な性格。彼は最早南海で一番の人気選手であった。その彼がマウンドにいるだけで客はやって来た。
「何時見てもいい投球フォームや」
 ファンはその投球を見る度に言った。彼等は来るべきシリーズに思いを馳せていた。
「今年はいけるで」
 そういう予感がった。杉浦がいれば負けない、そう確信していた。
「負ける気はせえへんな」
 鶴岡も確かな手ごたえを感じていた。
「ウチにはスギがおるからな」
 西鉄の誇る鉄腕稲尾和久にも匹敵する大投手。鶴岡は彼にシリーズを託すつもりでいた。
「頼むで」
 そして杉浦に声をかける。
「はい」
 杉浦は頷いた。こうして南海は宿敵巨人に立ち向かう用意を終えた。

 このシリーズ、世間ではやや巨人有利と見ていた。それでも鶴岡は勝利を確信していたのだ。
「スギを知らんからそう言うんや」
 彼は自信に満ちた顔でこう言った。
「しかもかっての貧打線とちゃうぞ、四〇〇フィート打線の力もとくと見せたるわ」
 鶴岡が西鉄に打ち勝つ為に考え出した打線である。野村を主軸としてこの打線の攻撃力にも自信を持っていた。
 大阪球場での第一戦、南海は当然のように杉浦をマウンドに送った。巨人の先発はエース藤田元司が予想された。だがここで水原は意外な策を打った。
 藤田ではなく左腕の義原武敏を第一戦の先発投手に選んだのだ。これは藤田を第三戦で出す為だったと言われている。しかしこれは裏目に出た。
 南海は右打者が圧倒的に多い。左では不利だ。そして義原では四〇〇フィート打線を抑えることはできなかった。
 この打線は西鉄の流線型打線や大毎のミサイル打線と比べるとパワーはなかった。全員が四〇〇フィート、すなわち約一二二メートル飛ばせる打線という意味だったのだがこの打線はむしろバランスと集中力にその真価があった。鶴岡は無意味な派手にホームランを打つだけの打線は駄目だと知っていた。そしてそれぞれに役割を分担させ、どこからでも得点ができる打線にしたのである。
 南海は一回裏いきなりこの義原に襲い掛かった。集中打で忽ち五点を手に入れた。それを見た南海ファンはこれで勝った、と思った。だが巨人ファンは涼しい顔をしていた。
「巨人の打線を見てから言え」
 彼等は巨人は絶対に勝つと思っていた。一回表の杉浦の投球なぞまともに見ていなかった。完全に南海を舐めていた。これはしゃもじを持って他人の食事を覗いて騒ぐだけしかできない落語のできない能無しの落語家くずれと同じ知能レベルだからである。残念なことに巨人ファンには今だにこうした愚かな手合いが多い。
 南海は次々に巨人投手陣を撃破していく。八回にはもう一〇点を入れていた。流石に巨人ファンも諦めた。
「一試合位いいか」
 彼等はそう思った。そしてマウンドで投げる杉浦を見た。
「確かにいい球を投げるが所詮一人だしな。まああいつが出ない時に勝てばいいさ」
「そうだな」
 その声に他の者が同意した。
「この前の稲尾みたいな奴が他にいる筈もないし」
 この前の年巨人は西鉄に敗れ日本一を逃していた。三連勝から奈落の四連敗であった。稲尾を打つことができなかったのだ。
「あれは化け物だよ」
 誰かが言った。まだあの悪夢から醒めてはいなかった。
「あんなのが二人もいる筈がない。だから安心していればいいさ。こっちには長嶋がいるんだし」
「ああ、そうだな」
 彼等にとって長嶋はもう信仰の対象ですらあった。
 とにかく勝負強かった。脚も速く守備も華麗だった。打ちどころのないスーパースターであった。
 彼がいる限り大丈夫だ、そう信じていた。彼を抑えられはしない、そう思いなおしグラウンドに視線を戻した。
 杉浦は八回でマウンドを降りた。三失点の好投であった。
「ご苦労さん」
 鶴岡は笑顔で彼を迎えた。
「はい」
 杉浦は静かに頷いた。だがその顔は何処か強張っていた。
「どないした!?」
 それを不審に思った鶴岡は声をかけた。
「いえ、何も」
 心配をかけるわけにはいかない、彼は笑顔で応えた。
「そうか、だったらええがな」
 杉浦はこの時隠していた。実は彼は右の中指に血マメを持っていたのだ。
(まずいな)
 杉浦は思った。だが幸いにして誰にも気付かれていない。彼はそっとそのマメを隠した。
 試合はこれで決まりだと思われた。しかし巨人がここで意地を見せた。
「杉浦以外の奴は怖くない!」
 そう言わんばかりの攻勢を仕掛けてきた。鶴岡はそれに驚いた。
「やっぱり巨人には並の戦力ではあかんな」
 試合に勝てはしたが心底そう思った。何と杉浦降板後で四点を失ったのだ。
「やっぱり巨人を抑えられるのは一人しかおらんか」
 彼は痛感した。ちらり、と杉浦を見た。
「このシリーズ、全部スギに託すか」
 決意した。勝つ為にはやはり杉浦の力が不可欠だ。
 杉浦は勝利インタビューを受けていた。その顔はいつも通り穏やかなものだった。
 だが痛みをひた隠しにしていた。血マメが痛むのだ。
 自宅に帰ると痛みはさらに増した。
「クッ・・・・・・」
 マメに針を刺す。そしてそれで血を抜き取る。
「明日までに抜き取っておかないと」
 もしかしたら明日も投げることになるかも知れない。その時に血マメが痛んではいけない。それまでに何とかしておかなくてはいけない。
 彼は右手の中指を上に向けたまま眠った。そして次の試合に備えた。

 第二戦、巨人はここで勝負にでた。藤田を登板させたのだ。
「出てきたな」
 南海ナインは藤田の姿を認めて呟いた。彼は淡々とした様子で投げている。
「あいつを打ち崩すんや」
 鶴岡はナインに対して檄を飛ばした。
「今日勝ったら一気にいける。ええな」
「はい」
 シリーズにおいてはよく第二戦こそが最も重要であると言われる。黄金時代の西武なぞはよく第二戦に絶対のエースを先発にした。この時の巨人はそれにならったのだろうか。
 だがこの時代は第一戦にこそ絶対のエースを登板させた。南海もそうした。
 しかし水原は違っていた。もしかすると第一戦は捨てていたのかも知れない。そう思える起用であった。
 南海の先発は田沢芳夫、杉浦の連投はやはりないと思われた。
「今日はあかんな」
 大阪球場のファンはそう見ていた。勝てるとは思っていなかった。
 案の定一回表いきなり先制された。長嶋のツーランが飛び出たのである。
「やっぱり凄い男やな」
 鶴岡はそれを憮然とした顔で見ていた。逃した魚は大きかった。
 田沢は一回で降板となった。やはり巨人相手には役不足だった。仕方なく二回から三浦清弘を送る。
 彼は何とか巨人打線を抑えてくれていた。だがそれも何時までもつかわからない。
「どうしたもんやろな」
 鶴岡は顔を顰めさせた。だが巨人の方も悩みがあった。
「藤田の調子をどう思う」
 水原はコーチの一人に尋ねた。
「そうですね」
 尋ねられたそのコーチはマウンドにいる藤田を見ながら答えた。
「球威がありませんね。それに変化球も」
「そう思うか」
 水原はそれを聞き深刻な顔になった。彼も同じことを思っていたのだ。
 藤田は球速はあまりない。だがドロップとシュート、そして球威とノビのあるストレートが武器だった。しかしこの日はそのいずれもが精彩を欠いていたのだ。
 南海は四回裏に攻撃に出た。一気呵成の連打で四点を奪い逆転したのだ。
「よし」
 鶴岡はそれを見て会心の笑みを浮かべた。
「連勝や」
 彼はナインに対して声をかけた。
「連勝して後楽園に乗り込むで」
「はい!」
 彼等はそれに対し一斉に応えた。その中には杉浦もいた。
「よっしゃ、皆の心意気はわかった」
 鶴岡は満足そうに頷くと杉浦の方へやって来た。
「スギ」
 そして声をかけた。
「はい」
 杉浦はそれに対し顔を向けた。
「いけるか」
 鶴岡はここで杉浦の目を見た。
「任せて下さい」
 杉浦は意を決した目で応えた。これで決まりであった。
 南海は五回から杉浦をマウンドに送った。この得点を守れるのは彼以外にいなかったからだ。
「よし、これでうちの勝ちや」
 ファンはもうこれで安心しきっていた。この時代エースの連投は当たり前である。エースにはそれだけのものが求められていたのだ。
 杉浦は投球練習を終えるとバッターに顔を向けた。そしていつもの淡々とした顔で華麗な投球フォームを観客に見せた。
 やはり巨人打線でも杉浦は打てない。そのボールはまるで何かが宿っているようであった。
 その間に南海は追加点を入れる。これで六対二となった。
「おい、このままでいいのか」
 水原は巨人ナインに対して言った。
「黙っていては男がすたるぞ、杉浦は確かに凄い。だがな」
 彼は言葉を続けた。
「あの男も人間だ。打てない筈がない」
 その通りであった。だがそれでも容易には打てる代物ではなかった。
「そうだな」
 ここで彼は王貞治と森昌彦に声をかけた。
「二人には期待している。頼むぞ」
「はい」
「わかりました」
 二人は水原の言葉を受け頷いた。彼等は二人共左打者である。
 アンダースローはその投球フォームの関係から左打者にその動きをよく見られる。従って左打者は右のアンダースローに対しては比較的有利だと言われている。
 七回表二人は連続で杉浦からヒットを放った。これで一点を返した。
「よし」
 水原はそれを見て頷いた。だがそれもここまでであった。やはり杉浦はそうそう打てる男ではなかった。
 その水原が頼みとする二人も九回表の攻撃で連続三振に討ち取られた。一度打たれた男には二度と打たせない、杉浦のその静かな顔の下にある気迫に二人は抑えられたのだった。
「よおやった」
 鶴岡は杉浦に声をかける。これでニ連勝だ。南海はその望み通り連勝して気持ちよく後楽園に乗り込むことができるのである。
「有り難うございます」
 杉浦は出迎えた鶴岡に対して微笑んで応えた。だがその微笑みは僅かだが何処か硬かった。
「?」
 鶴岡がそれに気付かない筈がなかった。だが彼はそれは杉浦の節度だと思っていた。
「やっぱりよおできた奴や。勝ちに奢らず、か。あいつらしいな」
 鶴岡はそう思った。確かに杉浦は勝利に奢るような男ではなかった。
 だがそれはいつものことである。彼の微笑みが微かに硬かったのは別の理由からだった。
(まずいな)
 やはり血マメの状況が芳しくない。それどころか昨日よりも悪化していた。
 しかし、それは決して表に出してはいけない。もし知られたら、それだけはならなかった。
(皆にいらぬ心配をかけたくない)
 それだけではなかった。敵に知られでもしたら。
 そこに付け込んでくるだろう。相手も必死だ。なりふり構ってはいられない。これも勝負だ。
(まだ誰も知らないな)
 それだけが安心できることだった。とにかく今は誰にも知られてはならなかった。
 杉浦はそっと球場を去った。そして一人自宅でその血を抜き取り手当てをするのであった。
 
 後楽園への移動時彼は右の中指に絆創膏を貼っていた。
「巨人の関係者はいませんよね」
 彼は周りの者に尋ねた。
「ああ、いないよ」
 彼等は周りを見回したあと杉浦に対して言った。
「よかった」
 杉浦はそれを聞いてホッと息をついた。
「どないしたんや、そんなに気にして」
 周りの者は少し不思議に思った。
「いえ、巨人の関係者がいると電車の中の話から情報を仕入れるかも知れませんしね」
「確かにな」
 皆その言葉に頷いた。
「巨人やったらやりかねん」
 当時からこうした風評はあった。鶴岡もシリーズが近くなると読売関係や巨人寄りと思われる記者達をあえて遠ざけた。情報が漏れる、と危惧したからだ。実際に彼等はそうしたことを平気でやる。プロ意識なぞ全くない提灯記事を平然と書く連中だ。その記事なぞ何処ぞの独裁国家の将軍様への賛辞と全く同じだ。
 こうした連中が大手を振って歩いているのである。南海側が警戒するのも当然であった。彼等もまた巨人の目に警戒はしていた。
「しかしスギよ」
「はい」
 だが彼等はあえて杉浦に対して言った。
「少し気にしすぎやで」
 その顔と声は笑っていた。
「そうですね」
 彼はそれを聞き少し表情を和らげた。
「けれど用心するにこしたことはないで」
 ここで鶴岡がやって来た。
「巨人をなめたらあかん、それだけはよお覚えとくんや」
「はい」
 杉浦だけでなかった。南海ナインは真剣な顔でその言葉に頷いた。
(こっちもそれやったらええな)
 それを聞いてこう考える者がいた。野村である。
(情報を盗むのには手段を選んだらあかん。使えることは何でもせなな)
 彼はその独特の思考でそう結論付けていた。
(そうせなプロでは飯は食っていけん。巨人は嫌いやがそれだけは納得できる)
 彼はのちに選手の癖盗みで定評を得る。その背景にはこうしたことがあったのだ。
 だがこの時彼の他にそれを知る者はいなかった。彼がその知略で名を知られるようになるのはもう少しあとの話であった。

 第三戦、南海の先発はやはり杉浦であった。もう彼以外考えられなかった。
「頼むで」
「はい」
 鶴岡に背中を叩かれ今日もマウンドに登る。そしてボールを手にした。
「う」
 小声だが思わず声を漏らした。
 やはりマメが痛むのだ。しかも連投したせいだろう。その痛みは一昨日よりひどくなっている。
 だがそれを知られてはいけない。巨人の先発も連投でエース藤田だ。
(今日の藤田さんの調子はいいみたいだな)
 試合前の投球練習を見てそれはわかっていた。おそらくそうそう点はとれないだろう。
 だが彼には意地があった。マメのことを知られ、くみし易いと思われるだけで癪であった。
 ましてや巨人の四番は長嶋だ。彼にだけは打たれたくはない。
 長嶋は全く隙のない男だ。どこに投げても的確に反応してくる。まさに野性的な勘だ。
「だからこそ打たれるわけにはいかない」
 杉浦はそう考えていた。このシリーズの第一戦も第二戦もそれを考えていた。
 彼はその静かな目の中に炎を宿らせていた。そしてそれで巨人を、長嶋を見据えていた。
「今日が山場やで」
 鶴岡はそんな彼の炎を見て言った。
「今日勝ったらいける、しかし」
 彼は言葉を続けた。
「今日負けたらわからへん。下手したら」
 ここで彼の脳裏に悪夢が甦った。
 昭和三〇年の日本シリーズ。鶴岡率いる南海は巨人と四度目の対決に挑んでいた。過去三回の戦いはいつも巨人に負けていた。
「あの時はいける、と思った」 
 鶴岡は後にそう語った。
 第四戦を終え三勝一敗、今まで巨人の重厚な戦力と水原の戦略の前にとてもそこまでいけなかった。だがこの時は違っていた。
 あの強力な巨人打線を抑えここまできたのだ。流石に巨人も最後かと思われた。
 だがここで水原は思い切った作戦に出た。何とそれまでチームを引っ張ってきたベテランを引っ込め若手をスタメンに起用してきたのだ。
「巨人の悪あがきやな」
 鶴岡はそれを見て笑った。だが数時間後その笑いは凍り付いていた。

 何とその起用が見事的中したのだ。水原は王手をかけられたが決して焦ってはいなかった。そしてすぐに手を打ったのだ。
「調子のいい選手がいればその選手を使う」
 野球のセオリーである。彼はそれを忠実に実行しただけである。しかしそれは巨人のようなスター選手が揃っているチームでは容易ではない。やはり彼は名将であった。
 彼等の活躍でその試合は巨人が勝った。首の皮一枚で生き残った巨人はここから反撃に出た。
 別所穀彦、中尾硯志の両エースをフル回転させてきたのだ。別所はかって南海にいながら巨人に強奪された選手だ。
「よりによってあいつを使うかい」
 巨人は手段を選ばない。どのような卑劣で無法な行いも平然とやってのける。だがマスコミという巨大権力がバックにある為多くの者はそれに気付かない。巨人ファンは何故巨人を応援できるか。野球を知らないからだ。
 その巨人にまたしても敗れた。鶴岡は怒りと屈辱で全身を震わせた。
「またしても負けたか・・・・・・」
 目の前での水原の胴上げ。それを忘れたことは一度もない。
「あの時みたいになってたまるか」
 彼はこのシリーズが決まった時からそう考えていた。
「それはさせん、一気に叩き潰したる」
 その為に今まで選手達を手塩にかけ獲得し、育ててきたのだ。そしてその中心にいるのがやはり杉浦である。
「スギ、頼んだで」
 彼はマウンドの杉浦を見て祈るようにして言った。杉浦は今マウンドで大きく振り被った。
 一回裏、巨人は杉浦の立ち上がりを攻める。バッターボックスには長嶋がいた。
 その長嶋が強打した。打球はショートを強打した。
「ムッ!」
 それは内野安打となった。巨人はこれで先制点を入れた。
 長嶋の一打で後楽園は喜びに湧く。だが杉浦は後続を何事もなかったかのように抑えた。
「スギの仇はとったる」
 しかし南海ナインは先制点に対しても臆することがなかった。二回表野村が逆転のツーランホームランを放つ。
「おおきに」
 杉浦は戻って来た野村を笑顔で迎えた。
「あとは頼んだで」
 野村はいささか照れ臭そうにそう言った。彼ははにかみ屋で感謝されることは苦手なのだ。
「わしは憎まれ役や」
 野村はよくこう言う。この時でそうだったし今でもだ。だが彼は実は恥ずかしがり屋で寂しがり屋なのだ。
「野村さんって人はあれで繊細な人や」
 野村をよく知る人はこう言う。
「それをわかっとらん人も多いけれどな」
 人は外見ではない。野村は野暮ったい容姿で身体も大きい。どうしてもそう見られてしまうが心はそうではない。人は顔で判断してはいけないが、野村の場合は特にそうである。
 その野村の一打で南海が優勢に立った。だが藤田もそれ以後得点を許さない。試合は杉浦の予想通り二人の投手戦となった。
 七回裏、巨人の攻撃である。先頭打者の長嶋が打席に立つ。
「こいつをまず抑えないと」
 杉浦は長嶋を見てそう思った。自然と身体に力が入る。
 投げた。渾身のボールだ。しかし長嶋は簡単に抑えられる男ではない。バットが一閃した。
「しまった!」
 杉浦は思わずボールを追った。それは右中間へ伸びていく。
「長打コースか」
 ホームランにはなりそうもない。だが二塁打は確実だ。長嶋の足だと三塁打もある。
 だがそれはならなかった。センターの大沢がそこにいたのだ。
「えっ!?」
 これには杉浦だけでなく巨人ベンチも驚いた。大沢はあらかじめかあんり右寄りに守備位置をとっていたのだ。
 長嶋の打球は何事もなかったかのようにアウトとなった。大沢はニヤリ、と笑いボールを投げ返してくる。
「俺の予想があたったな」 
 彼は言った。実は守備勘がよくその場の状況に合わせて守備位置をよく変えることで知られていたのだ。
「あいつにまた助けられたな」
 鶴岡はベンチでそれを見て呟いた。大沢はよく彼の采配を批判したりする。その為チームでは嫌う者も多かった。実は杉浦もその一人であった。
「まあここはこらえてくれ」
 それを止めるのが野村であった。彼は粗暴なことは好まない。
「わしへの批判か、存分にやったらええ」
 鶴岡はそれを一笑に付した。彼にとっては批判は喜ばしいことであった。それだけ自己を客観的に見ることができるからだ。
「それにしてもわしに対しても歯に衣着せず言うとはな」
 逆にそんな大沢の男気と頭脳が気に入った。
「面白い奴や。見所があるわ」
 むしろ彼を頼りにする程であった。後に日本ハムの監督になり『親分』の仇名を受け継ぐことになる大沢の若き日の姿である。
 杉浦はピンチを救われた。シーズン中にも度々あったことである。
 九回裏にもピンチはあった。ホームランを打たれ同点となった。
「まずいな」
 彼は心の中で呟いた。血マメが遂に破れたのだ。
「おかしいな、ボールに勢いがなくなってきとる」
 野村もそう思っていた。ミットに収めたボールを杉浦に返そうとする。その時だった。
「!」
 彼はそのボールを見て絶句した。
「どうかしたのかね?」
 主審がそれを見て野村に声をかける。
「あ、何でもありまへん」
 野村は慌ててそのボールを杉浦に投げ返した。
(危ない危ない、巨人に知られるところやったわ)
 チラリ、と巨人ベンチを見て呟いた。どうやら気付かなかったらしい。内心ホッとした。
 だが杉浦は野村のその様子を見て唇を噛んだ。
(ノムは気付いたみたいやな)
 それだけでもいい気持ちはしなかった。誰にも気付かれたくなかったのだ。
 しかし野村も杉浦の指のことを知っていてもそれをリードに影響させたりはしない。あくまで勝利を目指す為だ。ここはあえて鬼になった。
 だが球威の衰えは出る。巨人は土壇場で攻め立て一死二、三塁のチャンスをつくる。
 ここで水原はピッチャーの別所にかえて代打を送る。左の森だ。前の試合に続き杉浦対策なのは言うまでもない。土壇場で巨人は彼を攻略する絶好のチャンスを手に入れたのだ。
「ここで下手をしたら流れが変わってまう」
 鶴岡は言った。
「そして流れが向こうにいったら」
 南海としては最も考えたくないことである。
「それをもう一度こっちに戻すのは簡単やないで」
 その言葉には反論できぬ重みがあった。南海ベンチもファンも固唾を飲んでマウンドの杉浦を見守っていた。
 だが杉浦は表情を変えない。しかしその心の中は別だった。
「ここは何としても」
 気を奮い立たせる。だが指の痛みがそれを削ぐ。血マメの破れた場所が痛むのだ。
 それでも投げなければならない。今この場を抑えることができるのは彼だけなのだから。
 投げた。しかしいつものノビはない。
「いける!」
 森はそれを見て思いきり振りぬいた。打球は流し打ちの形となり左中間に飛んだ。
「やられた!」
 杉浦はこの時ばかりは観念した。森の顔がサヨナラで喜びのものになる。
 ショート広瀬叔功が跳ぶ。だが打球は彼の頭上を越えた。そしてそのまま一直線に飛ぶ。
「いったな」
 三塁ランナー広岡達郎は勝利を確信していた。だが彼は打球から目を離さなかった。
「落ちるのを確認してからでいい。万が一捕られても」
 彼には余裕があった。
「タッチアップで簡単に点が入る。焦ることはない」
 そう睨んでいた。
 誰もが捕れる筈がないと思った。しかしそこに大沢がいた。
「えっ!?」
 杉浦はそれを見てまた驚いた。
「ほう」
 広岡はそれを見てもそれ程驚かなかった。
 杉浦にとっては七回のそれに続く驚きだった。大沢はここでもその勘を存分に発揮したのだ。
「俺は博打には強いんだよ」
 そう言わんばかりの顔で森の打球を捕った。
「よし」
 広岡はそれを見てスタートを切った。これでサヨナラだ、少なくとも彼はそう思っていた。だが彼はここで計算違いを一つしていた。
 大沢は確かに外野フライにした。だが森のボールは強かったがそれ程深いものではなかった。少なくとも広岡が思ったよりは。
「甘いぜ、広岡」
 大沢はスタートを切った広岡を見て笑った。既に彼は返球の動作に入っている。
「如何に彼の肩が強かろうがもう手遅れだ」
 広岡も大沢の肩が強いことは知っている。だがそれでもいけると思ったのだ。
 しかし大沢の打球を捕った場所はショートの後方だった。広岡の予想よりも浅いのだ。それが仇となった。
 大沢はキャッチャー野村へ素早くバックホームする。それは一直線に野村のミットに収まった。
「なっ」
 広岡はそれを見て眉を少し上げた。気取り屋と言われることもある彼はあまり表情を変えようとはしない男だ。
 間に合わなかった。広岡はスライディングをすることもなくホームでタッチアウトとなった。大沢の二重のファインプレイであった。
「どんなもんでえ、広岡」
 大沢は広岡を見てニンマリと笑っていた。そして悠然とベンチへ引き揚げる。
「有り難うございます」
 杉浦がそこに来て礼を言う。
「礼には及ばねえよ」
 彼はニンマリと笑ったまま言った。
「後輩を助けるのは先輩の務めだからな」
 と言って大学の後輩である杉浦の左肩を優しく叩いた。それで彼はベンチに入った。
「不思議なものだな」
 肩を叩かれた杉浦はそう思った。思えば南海に入ったのも彼を通じてである。
「長嶋は巨人のユニフォームを着る為に生まれてきたような奴だからな」
 大沢は豪快に笑って今でも言う。だがその長嶋も彼なくしてはプロに行けなかったかも知れないのだ。
「これが因縁というやつか」
 杉浦はそう思わずにいられなかった。そう思いながらマウンドに入った。
 これで巨人に向かいつつあった流れは南海のもとへ戻った。そしてそれを掴まない南海ナインではなかった。
 十回表まず野村が四球で塁に出る。
「相変わらず球をよく見る奴だ」
 巨人ベンチは悠然と一塁に向かう野村を見て吐き捨てるように言った。流れを掴み損ねた彼等は明らかに焦りはじめていた。
 その野村を置いて打席には八番の寺田陽介が入る。マウンドには第一戦で先発だった義原だ。
 寺田のバットが一閃した。打球は一直線に飛びライトの頭上を越えた。
「よし!」
 野村はその鈍足をフル回転させて走る。そしてホームに突入した。これで勝ち越しだ。
「やったぞ!」
 寺田の会心のツーベースであった。南海ベンチはこれで一気に沸き返った。
「スギ、これでいけるか」
「はい」
 杉浦は寺田に対して笑顔で答えた。そしてマウンドに向かった。
 勝負はこれで決していた。杉浦はその裏を無事に抑え三勝目を挙げた。南海はこれで王手をかけた。
「あと一勝ですね」
 勝利インタビューで記者が杉浦に話し掛ける。だが彼の顔はそれ程浮かれたものではなかった。
「あの男にとっては何でもないといったふうだな」
 巨人ナインは彼の顔を見て言った。
「怖ろしい奴だ。まるで学者みたいな顔をしているというのに」
 ただ杉浦の超人的なピッチングに舌を巻くだけだった。
「スギはホンマに大した奴や」
 鶴岡はそんな彼を見て満足した笑みを浮かべていた。彼は杉浦の決して慢心しないその性格もこよなく愛していたのだ。
 だが両者共勘違いをしていた。何故彼の顔が浮かれたものでなかったかを。
「何とか勝ったけれど」
 インタビューを終えベンチに戻る彼はチラリ、と右手を見た。
「これで明日投げられるかな」
「よおやったな」
 鶴岡はそんな彼を笑顔で出迎えた。
「全部御前のおかげや」
「有り難うございます」
 杉浦は笑顔で答えた。だがその顔は僅かに強張っていた。
「緊張することはないで」
 鶴岡はそれを緊張だと思った。
「御前は勝ったんや堂々と胸を張ったらええ」
「はい」
 杉浦は素直に頷いた。そしてベンチを後にした。
「あんだけのピッチングしてあんだけ謙虚な奴は他にはおらんな。何処までもできた奴や」
 鶴岡もナインもそう思っていた。
 杉浦は廊下を歩いて行く。その前に一人の男が立っていた。
「ノム」
 杉浦は彼の姿を認めて言った。そこには野村が立っていた。
「指、大丈夫か」
 彼は心配そうな顔で尋ねてきた。
「やっぱり気付いとったか」
 杉浦はここでようやく表情を素にした。
「気付かん筈ないやろ。ボールを見たらわかるわ」
「そうか。御前にだけは隠せんな」
「なあスギ」
 野村は彼に歩み寄った。
「そんなんで投げることはできへんやろ。明日はもう休め」
 野村は彼を気遣って言った。
「気持ちは有り難いけれどな」
 彼も野村が本当はどんな男かわかっていた。だからこそその言葉が痛みいるのだ。
「それでも投げたいんや」
「チームの為か」
「それもある」
 否定はしなかった。
「日本一になりたい、それは御前も一緒やろ」
「ああ」
 野村もそれは同じだった。
「しかしな、もう三勝しとる。それでもう充分やないか。スギ、御前は自分の責任はもう果しとる。あとはわし等に任せるんや」
「もう一つ理由があるんや」
「何や」
 野村は彼が次に言う言葉がわかっていた。そして自分がそれを止めることができないこともわかっていた。
「投げたいんや。僕はとにかく投げたいんや」
 彼は純粋に野球を愛していた。だからこそ出る言葉であった。
「そうか」
 野村は頷くしかなかった。それは彼もよくわかった。彼も野球を心から愛しているからだ。
「じゃあわしはもう言うことはないわ。しかしな」
 野村は心配そうな顔のままであった。
「無理はするなや。皆御前には何時までも投げていて欲しいんやからな」
「ああ」
「そういうても御前は投げろ、言われたら投げるやろ」
 杉浦はそれには黙って頷いた。
「わかっとるわ。御前はそういう奴や。そやけれどな」
 野村は言葉を続けた。
「細く長く生きるのも人生やぞ。もっとも太く長く生きるのが最高やけれどな」
「御前らしいな」
 杉浦はそれを聞いて顔を綻ばせた。
「ええな、それ。じゃあ太く長く生きたるか」
「そうや」
 野村はそれを聞き我が意を得たと喜んだ。
「ただ僕の太いのと、御前の太いのはちゃうと思うがな」
「それはそうやろ。わしはそれについては何も言わん」
 後に杉浦は野村とは人生観も全く変わってしまったと口にしたことがあった。それはこの時に既に伏線があったのであろうか。
「けれどお互い満足のいくように野球しようや」
「ああ、それはな」
 杉浦もそのつもりであった。
「わしはもうそれ以上言えん。投げるな、と言いたいが御前が投げるんやったらわしが受ける」
「頼むで」
「それは任せといてくれ。御前のボールを一番知っとるのはわしやからな」
 野村はそう言って杉浦の背中を軽く叩いた。杉浦はそれを受け笑顔でその場をあとにした。
「わしも甘いな」
 野村はその背中を見送りながら苦笑した。
「投げるな、というてもそれを引っ込めてもうた。投げたいという奴はぶん殴ってでも止めなあかんのにな」
 投手の肩は消耗品という人もいる。だからこそ酷使は禁物なのだ。それは肩だけでなく、肘や指についても言えることであった。
 野村もそれはわかっていた。だから杉浦に言おうとしたのだ。
 だが杉浦の言葉に心打たれた。野村にも彼の気持ちは伝わった。
「スギ、思う存分やれや。悔いのないようにな」
 そう言うと彼は帰り支度に向かった。そしてバスに乗り込むのであった。

 次の日は雨だった。朝雨の音を聞き杉浦は喜んだ。
「降ったか」
 彼にとって恵みの雨であった。
 これで一日休息がとれた。彼は機嫌よく好きな囲碁に興じた。
 だが手の動きが妙だ。いつもはパチリ、と音を立てさせるのに今日はそっと静かに置く。
「どないしたんや、音は立てさせへんのか」
「え、ええちょっと」
 彼は先輩にそう言われ慌てて誤魔化す。何とかばれずに済んだ。そして翌日の試合に向け英気を養うのであった。
 次の日、今日で決まるかも知れない。南海ナインは眦を決して球場に向かった。
 見れば晴れ渡った綺麗な秋の空である。杉浦はそれを眺めていた。
「青いな、何処までも続くようや」
 白い雲もある。これ程絵になる空はそうそう見られるものではない。
「今日みたいな日に決められたらいいな」
 彼は邪心なくそう考えていた。そこへ鶴岡がやって来た。
「今日いけるか」
 彼に先発を言いに来たのだ。
「はい」
 杉浦は頷いた。これで決まった。
 そしてマウンドに立った。巨人の先発は藤田である。
「今日だけは頼むぞ」
 彼はマウンドで右の中指を見て言った。それはまるで祈るようであった。
 だが杉浦の立ち上がりは今一つであった。彼は三回まで毎回ランナーを背負う状況であった。
 連投のせいだろうか。鶴岡はそう思った。だがどうやら違うようだ、と思うようになっていた。
「どっかおかしいんちゃうか」
 彼はそれは口には出さなかった。他の者に知られてはチームに動揺が走るからであった。
 一回も二回もランナーを背負いながらも併殺打で切り抜けていた。やはり流石である。
 それでも九回までもつとは思えなかった。鶴岡は杉浦の投球を細部まで見た。
「・・・・・・指か」
 鶴岡はそこでようやく気付いた。思えば今まで何処かおかしな様子があった。
 それも中指のようだ。爪を傷めたのだろうか。
「スギの持ち球はストレートの他はカーブとシュートしかあらへん。爪はあまり考えられへんな」
 では何か、彼はすぐにわかった。
「マメか」
 ベンチを一瞥する。どうやら今杉浦以上の投球をできる者はいそうにない。
「ここはやってもらうか」
 彼は決断した。見れば野村がマウンドで杉浦と話している。
「ノムは知っとるみたいやな」
 サインの打ち合わせのふりをして杉浦を気遣っているようだ。
「あいつだけが知っとるのは好都合やな」
 彼はここでコーチの一人を呼び寄せた。
「はい」
 呼ばれたそのコーチはすぐに鶴岡の側へやって来た。
「これスギに渡せ」
 彼はここで懐からあるものを取り出し白い布に包むと彼に手渡した。
「監督、これ・・・・・・」
 そのコーチはそれを見て顔を強張らせた。
「ええから」
 彼は急かすように言った。そしてそのコーチを追い立てるようにしてマウンドに送った。
「スギ、御前に全部預けさせてもらうで」
 鶴岡は最後の腹をくくった。もうそこから一歩も引かないつもりであった。
「かって何度も死線を潜り抜けてきたが今みたいな気持ちになったのははじめてやな」
 ニヤリ、と笑って言った。
「ここで負けたら腹でも切ったるわい」
 伊達にあの陸軍で将校をしていたわけではない。いざという時には覚悟も決めている。
 コーチが杉浦のもとにやって来た。そして鶴岡から授けられたそれを手渡した。
「監督からや」
 見ればそれは白い布に覆われている。杉浦はそれを黙って広げた。
「これは・・・・・・」
 彼はそれを見て思わずベンチにいる鶴岡に目をやった。
「何も言うなや」
 野村が言った。
「ああ」
 杉浦はそれに頷いた。彼は鶴岡が何を言いたいのか理解した。
「じゃあわしはこれでな」
 コーチはベンチに戻っていった。
「監督、まさかこんなものまで」
 それは厳島神社の御守りであった。鶴岡の故郷広島の守り神であり彼が常にその身に着けているものだ。
「わかりました」
 杉浦はそれを右手に握って言った。
「この試合、必ず勝ちます。監督の御心に絶対報います」
 彼は今鶴岡の心をその胸に宿した。もう血マメなぞ関係なかった。
「ノムやったるで」
「あ、ああ」
 普段と変わらないもの静かさの中に燃え盛る闘志があった。普段の彼とは明らかに違っていた。
「今日の投球は全部僕に任せてくれ。そのかわり絶対に勝ったる」
「わかった」
 野村はその言葉に頷いた。
「思いきり投げたらええ。わしが全部受けたるわ」
「頼む」
 二人はここで頷き合った。そして野村はキャッチャーボックスに戻った。
「さあ来い」
 野村は黙ってミットを差し出した。サインは出さない。全て杉浦に任せた。
 杉浦は投げた。その時音が鳴った。
 ビシッ
 彼の手首が鳴る音だ。あまりものスローイングの速さにその手首が鳴ったのだ。
 放たれたボールは一直線にバッターに向かっていく。デッドボールか、巨人ベンチは一瞬ざわめきだった。
 だがそれは違っていた。それは信じられない角度でベースに食い込んでいった。
「な・・・・・・」
 それはカーブだった。杉浦の最大の武器である大きく曲がるカーブだった。
「ストライク!」
 審判の声が高らかに響く。コントロールも信じられない程よかった。
 続けて投げる。外角へのボール球だ。
「一球外すか」
 しかしそれも違っていた。それは少し沈みながらバッターの胸元に襲い掛かるようにして向かってきた。
「シュートか!」
 確かにそれはシュートであった。しかしこれも普通のシュートではなかった。
 打てるものではなかった。バットは空しく空を切った。
 またストライクの声が響き渡った。瞬く間にツーナッシングに追い込まれてしまった。
 三球目。杉浦のあまりのスローイングのスピードに砂塵が舞った。そしてまたあの音がした。
 今度はストライクゾーンにまっすぐに向かってくる。
「ストレートなら何とか」
 打とうとする、しかしそれは手元で大きく浮き上がった。
「まさか!」
 確かにそれはホップした。恐るべきボールのノビだった。
 またしても空振りだった。あえなく三振となった。
 杉浦の投球はそれだけではなかった。次々と巨人のバッターを屠っていく。そこにはもう何の雑念もなかった。そう、無心の投球であった。
 五回には遂に血マメが潰れた。だがそれももう苦にはならなかった。
「だったら指のハラで押し出すだけだ」
 そうやって投げた。目の前にいる筈のバッターも見えなかった。
 マウンドで砂塵が舞う。杉浦はそれも意に介さず投げる。
 何時しか自分がマウンドに投げる自分を見ているような気分になった。いや、彼は確かにそれを見ていた。
 長嶋も他のバッターももう関係はなかった。ただマウンドにいて投げる、それだけであった。
 ベンチにいる記憶はなかった。不思議なことだが彼はもうマウンドにいる自分だけが見えていたのだ。
 観客の声も聞こえなかった。審判の判定も。自分でそのボールがストライクがボールか、そして打たれるか打たれないかわかっていた。投げた瞬間にわかる、だが絶対に勝つ確信があった。
 気付いた時にはもう全てが終わっていた。そう、最後のバッターが倒れていたのだ。
「スギ、よおやった!」
 見ればナインがマウンドに駆け寄って来る。
「え!?」
 彼はその言葉にハッとした。
「勝ったで、日本一や!」
「勝ったんですか!?」
 彼はまだ状況が掴めていなかった。
「勝ったんや、わし等は遂に巨人を倒したんや!」
 皆口々に言う。
「そうですか、勝ったんですか」
 南海は三対〇で勝ったのだ。杉浦も打席に立った筈だがその記憶はなかった。
「そうや、御前が勝ったんや」
 見ればそこに野村がいた。
「ノム」
 杉浦は彼の姿を認めた。だがまだ信じられない。
「これは御前にやる。ウィニングボールや」
「ボールか」
「そうや、御前の勲章や」
 野村はそう言うと杉浦にミットの中の白球を手渡した。
 杉浦はそれを手に取った。見ればそこには血がついていた。
「そうやった、血マメが潰れたんや」
 彼はそのことも忘れていた。
「やっと勝ったんや、思えば長かったけれどな」
 野村も泣いていた。南海ナインは皆涙を流していた。
「スギ」
 そこに鶴岡がやって来た。
「御前の勝ちや。これは全部御前のおかげや」
「監督」
 見れば鶴岡も泣いていた。かって幾度も巨人に挑みながらも敗れてきた男が遂にその宿敵を倒したのであった。
「御前がおらな絶対にここまでいけんかった。有り難うな」
「いえ、そんな」
 杉浦は師でもある鶴岡にそう言われ思わず頭を下げた。
「おい、お客さんのところへ行くで」
 鶴岡はナインを三塁側に連れて行った。そこには南海の勝利を見にわざわざ大阪から後楽園まで駆けつけてきたファン達がいた。
 ナインは彼等の熱い声援に応える。そして鶴岡の胴上げがはじまった。
「今まで何度も胴上げされたけれど」
 鶴岡は後に語った。
「やっぱり日本一の胴上げは最高や。これだけはされたもんでないとわからんわ」
 彼は喜びに満ちた顔でそう語った。
「よし」
 胴上げが終わると鶴岡は彼を囲むナインに対して言った。
「次はスギや」
「え、僕ですか!?」
 杉浦はその言葉に戸惑った。
「そうや、うちがここまでこれたのは全部御前のおかげや。御前等もそう思うやろ?」
 彼はナインを見回して尋ねた。
「はい」
 それを否定する者はいなかった。野村も大沢もそこにいた。
「よし、これで決まりや」
 鶴岡とナインは杉浦を輪の中心に導いていった。
「スギの胴上げや、思いきり高く上げたらんかい!」
「おおーーーーーっ!」
 鶴岡の掛け声と共に杉浦の胴上げがはじまった。その身体が宙を舞った。
 二度、三度。彼はそれをまるで夢の世界にいるような気持ちで受けていた。
「まさか僕も胴上げされるなんて」
 そんなことは夢にも思わなかった。
 胴上げが終わった。だが彼はまだ信じられなかった。
 チャンピオンフラッグが渡される。記念撮影が終わる。彼は文句なしの最優秀選手に選ばれた。それに異論を挟む者なぞ誰もいなかった。
「杉浦さん」
 興奮さめやらぬ中記者達が杉浦のところにやって来た。
「はい」
 彼はそれを三塁ベンチ前で受けた。
「今のお気持ちをどうぞ」
 そう言ってマイクを突き出す。それは一つや二つではなかった。
「そうですね」
 彼は記者も大事にする男である。相手が誰であろうが無礼な態度はとらない。
「今はまだ試合が終わったばかりですし球場も騒然としています」
 彼は落ち着いた様子で話しはじめた。日本一になってもまだ自分を失ってはいない。淡々とした口調であった。
「ですからまだ実感はありません。勝ったという。けれど」
「けれど!?」
 記者達は杉浦のその言葉に突っ込みを入れた。
「一人になったら嬉しさがこみ上げてくるかも知れませんね。一人になったら静かに」
「そうですか」
「はい」
 インタビューはそれで終わった。杉浦はベンチの奥へ消えていった。
 これが後にこの言葉になる。
「一人で静かに泣かせて下さい」
 知的な顔立ちの美男子である彼に相応しい言葉だと誰もが思った。そしてそれが何時しか彼が言った言葉となった。
「あれ」
 杉浦は翌朝の新聞を見て首を傾げた。
「そんなこと言ったっけなあ」
「スギ、ブン屋はそうしたもんや」
 鶴岡はそんな彼に対し言った。
「面白い、売れる記事にする為にあえてそう書くんや。そっちの方が売れるやろ」
「まあそうでしょうけれど」
「そして御前はそれを勲章に思わなあかんで」
「勲章にですか」
「そうや」
 鶴岡はそこで頷いた。
「そういうふうなことを成し遂げたし言ったんや。それは御前が活躍して記事になるような男や、ちゅうことや」
「そういうものですか」
「そういうもんや。わしはいつも言うてるな」
「あ」
 杉浦はそこでハッとした。
「思い出したな」
 鶴岡はそんな彼の顔を見てニヤリと笑った。
「グラウンドには銭が落ちとる。そしてプロ野球は客商売や」
「はい」
 如何にも大阪の球団らしいと言えばそうなる。だが鶴岡はそれだけで留まる人間ではない。
「お客さんにいいプレイを見せた者にはそれだけの追加の報酬が貰えるんや。その記事がそれや」
「そうなんですか」
「そうや。多分御前の今回のことは野球がある限り語り継がれるで」
「そんな大袈裟な」
 杉浦は鶴岡のその言葉に苦笑した。
「大袈裟やない。ホンマのことや。御前がこの世におらんようになっても人はこのことを語り継いでいくで」
 杉浦はそれを聞いて顔を強張らせた。そこまで聞いて怖くなったのだ。
「怖がることはない。それに胸を張ったらええ」
「胸をですか」
「そうや、胸を張るんや。怖がることはない。そしてな」
 鶴岡は言葉を続けた。
「それを光栄に思うんや。ずっと御前のことを覚えててもらうんやからな」
「はい!」
 杉浦は頷いた。そして彼は意気揚々と大阪へ戻り御堂筋のパレードでその晴れやかな笑顔を見せた。それはまさしく勝者の笑顔であった。
 あれからもう四十年以上の歳月が流れた。大阪球場も後楽園球場ももうない。杉浦も鶴岡もこの世の人ではない。
 だが大阪球場での戦いの記憶は今でも残っている。今も杉浦のあの時の姿が写真で残っている。
「凄いピッチャーやった」
 彼をその目で見た多くの人がそう言う。彼は鶴岡の言ったように人々の記憶に永遠に残る男となったのだ。
 そのことは今も語り継がれている。そして今も野球を愛する多くの人々の心にその雄姿が生きている。



もう一人の自分    完



                                  2004・8・8

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