第十四章           最後の晴れ舞台
 この世の中で最も気紛れな者は一体誰であろうか。それについて考えた者もいるだろう。
 よく言われることであるが運命というものは本当にわからない。人間は一寸先どうなっているか本当にわからないものだ。
 これは野球の世界では特にそうだ。急に輝きを発する選手も時にはいる。それは全て野球の神が決めることであり我々人間に決めることはできないのかも知れない。
 そうした選手はスター選手とはまた違う。彼等もまた独自の輝きを放ち、その光は美しい。この話はそうした中の一人であるある選手の話である。
 山本和範という選手がいた。これは本名である。登録名は時にはカズ山本となっていた。引退の時にはこれになっていた。
 彼程波乱万丈の野球人生を送った者もいないだろう。高校の時に一度留年して卒業の時には十九歳になっていた。そこで巨人のテストを受ける。
 彼は見事合格した。だが家族は反対した。
「そやけど」
「もう一年考えてくれ」
 プロは厳しい社会である。だから家族も反対したのだ。
 彼は涙を飲んだ。そして一年考えてみた。やはりプロへの思いは断ち切れるものではなかった。
 もう一度巨人のテストを受けた。だがこの時は不合格だった。
 だが南海のテストには合格した。そして入団しようとしたその時だった。
「おい、近鉄にドラフト指名されたぞ」
「嘘やろ」
 彼は友人にそれを聞かされた時思わずこう言った。
「わし、近鉄の人と会ったことも話したこともないで」
「そやけど実際に指名されとるぞ。何なら新聞見るか?」
「ああ」
 彼は狐につままれたような顔をして新聞を広げた。そこには確かに彼の名があった。
「ホンマやろ」
「ああ」
 だが彼はまだ信じることができなかった。
「何で近鉄なんや」
 そう思いながらも近鉄に入団することになった。断る理由もなかった。
 ピッチャーとして入団した。入団して彼ははりきっていた。
「あの人みたいになるで」  
 あの人とは当時近鉄のエースだった。鈴木啓示である。この時にはもう阪急の山田久志と並んでパリーグを代表する
ピッチャーとなっていた。
 彼は練習に励んだ。だが入団して一週間後のことであった。
「おい」
 そこに片手にウイスキーの瓶を持った男がやって来た。
「はい」
 山本はそちらに顔を向けた。
(何や、この人は)
 彼はその男を見てまずそう思った。
(いや、待てよ)
 確かコーチの一人の筈だ。小柄で飄々としている。名前は仰木といったと記憶しちえる。
(そうや仰木コーチや。それにしてもグラウンドで酒飲んどるとはまた凄い人やな)
 仰木はそんな彼の考えなぞ一切構わずこちらにやって来た。
「御前な」
「はい」
 山本は姿勢を正して彼に挨拶した。
「ピッチャークビだ」
「えっ!?」
 山本はその言葉に思わず目が点になった。
「御前は見たところバッティングのセンスの方がええ。それに肩も脚も悪くないしな」
「はあ」
 彼はまだ自分が何を言われているかよくわからなかった。
「だから外野になれ。ええな」
「はい」
 仰木はそれだけ言うとスタスタとその場を去った。こうして彼は外野手となった。
 外野にはなったが彼の出番はあまりなかった。それでも彼はオフに土木作業のアルバイトをしながら働いた。
「身体も鍛えられるし金ももらえる。丁度ええわ」
 そう言いながら明るく野球をしていた。例え出番がなくとも懸命に野球に取り組んでいた。
 男前でもなくプレーも華麗ではなかった。だから人気もなかった。
「それでもええよ」
 彼は言った。サインを頼みに来るファンには誠実に接した。特に子供には優しかった。
「あいつは物凄いええ奴やな」
 チームメイトはそんな彼を見てこう言った。そんな彼がオープン戦遂にチャンスを与えられた。主砲マニエルの後の五番を任されたのだ。
 だが凡打ばかりであった。そして最後には代打を出された。これで彼のチャンスはなくなった。
 当時の近鉄には平野光泰、栗橋茂、佐々木恭介、島本講平と多くの人材がいた。左では栗橋がいたが彼はスラッガーでありそうそう簡単にはレギュラーのポジションは得られなかった。こうして彼は代打に回された。
 それでも彼のひたむきなプレイは変わらなかった。そんな彼もプロ入り初のホームランを打てた。
 お立ち台に上がった。彼はそこで泣いた。
「あの、山本さん」
 アナウンサーが声をかかえる。だがそれでも涙が止まらなかった。
「嬉しいです・・・・・・」
 大粒の涙がボロボロと零れてくる。彼はそれを抑えることができなかった。
 そしてまた代打稼業を続けた。しかし芽が出ず遂に解雇となった。
「それでも野球を続けたい」
 彼は思った。そしてバッティングセンターで働きながらトレーニングを続けた。もう一度プロのユニフォームに袖を通す為にだ。
 そんな彼に声がかかった。あの仰木だ。
「御前ヤクルトに入る気あるか」 
 当時ヤクルトには仰木の西鉄時代のチームメイト中西太がいた。そのつてで入ってはどうかというのだ。
「ヤクルトですか」
 またしても断る理由はない。彼はそれを快諾しようとした。だがここで他に彼を誘う者がいた。
 南海の穴吹義雄である。彼もまた山本に目をつけていたのだ。
「どうしようかな」
 彼は考えた。だが彼の家は関西にある。それを考えると南海の方がよかった。
「よし」
 彼は南海に入ることにした。これで彼はまたプロ野球に戻ってきた。
 南海ではレギュラーだった。当時の南海は弱小球団でしかなかった。彼はその中で外野手として活躍した。
 実は彼は難聴の気があった。それで打球の反応が遅れることが危惧された。だが彼はそれを果敢なプレイで補った。これには元々の守備勘も助けてくれた。そして勝負強いバッティングを頼りにされるようになってきた。何時しか彼は南海にとって不可欠な選手となっていた。
 南海が身売りされダイエーになると福岡に移った。ここでも彼のひたむきなプレイは変わらなかった。
 顔は怖かった。だがその心は誰よりも優しく笑顔は誰よりも誠実であった。
 そのプレーは何時しか多くの野球ファンに知られるようになり彼は人気選手となっていた。
「わしってこんなに人気があったんか」
 記者やファンから声がかかる度にそう言って苦笑した。だが彼の態度は変わることはなかった。いつも優しく誠実な人柄で愛されていた。
 ある時自分の子供が虐められていると聞いた。自分の仇名のせいだという。
 お世辞にも美男子とは言えない。付いた仇名がドラキュラだ。とにかく一目では怖い顔であった。
「そうか」
 それを聞いた彼はグラウンド名を変えることにした。サッカーの人気選手カズにちなんでカズ山本とした。
「これで虐められへんで済むやろ」
 これで彼の子供は虐められなくなった。それどころか優しくひたむきな野球選手の父親がいるということで子供も人気者になった。そしてサインをねだられるようにまでなった。彼はそのサインにも快く応じた。
 そんな彼がオールスターに出場した。平和台球場でのオールスターである。
 彼はチームでただ一人の出場選手であった。ダイエーの当時の本拠地である。
「お客さんの為にもやったるか」
 彼はそう決意して試合に挑んだ。だがそのやる気が空回りした。
 ことごとく凡打に終わる。その原因は空回りだけではなかった。
 肩が傷むのだ。守備には就けないほどだった。だが彼は平和台に来てくれたファンの為にライトに入った。
「あの人ホンマは肩が痛くて仕方ないのに」
 パリーグの選手達はそんな彼を見てそう思っていた。だが彼はそれを顔に出すことはなかった。
 最後の打席、ここで彼は四球を選んだ。
 類に出る。ここで勝負に出ることにした。
「よし」
 何と走ったのだ。オールスターは基本的にノーサインである。それで走ったのだ。
 俊足という程でもない。普通といったところだ。だが彼はあえて走ったのだ。
「ダイエーで出とるのはわしだけや」
 彼はそう思いライトスタンドにいる平和台のファン達のことを思った。
「だからそのわしが活躍せんとお客さんに悪い」
 その一念で走ったのだ。
 二塁を陥とした。これでファンから拍手が鳴り響いた。
 しかしそれで終わらなかった。
 三塁にも走った。そして見事成功させたのだ。
 観客達の声援は最高潮になった。場内は割れんばかりの拍手に包まれた。
 これもまたプロのプレイであった。お客さんに応える、彼はそれを知る選手であった。
 彼はダイエーの看板選手となり誰からも慕われるようになった。しかしその彼も寄る年波には勝てなかった。
 遂にダイエーも解雇されたのである。しかし彼はまだ諦めてはいなかった。
「やれるだけやりたいしな」
 年俸は大幅に減る、それでも野球を続けたかったのだ。
「金やない、わしは最後まで野球をやりたいんや」
 そして古巣近鉄に入った。とにかく野球がしたかった。
「よお、久し振りやな」
 彼を出迎えたのは佐々木であった。
「また同じチームになるとは思わんかったな」
 彼は打撃理論には定評がある。それを買われ監督になったところがあった。
「そうですね」
 山本は彼のことは近鉄時代から知っていた。だから何かとやり易かった。
 佐々木は熱い男であった。褌を締め髪を短く切っている。かって自分や多くの近鉄の選手を育てた西本幸雄を心から敬愛し、その背番号も受け継いでいた。
「この背番号を背負うのが夢やった」
 佐々木は感慨深げに言った。
「西本さんのチームみたいにしたいんや」
 その心意気がはっきりと見てとれた。
 彼の活躍の舞台はすぐにやってきた。開幕第二試合、西武との戦いである。
 この時マウンドにいたのは西武の若きエース西口文也。大きく振るスリークォーターからの速球とスライダーが武器だ。
 その彼と対峙した。かたや若きエース、かたや何時引退してもおかしくないロートルである。
「こらまた面白い対決やな」
「これで三振したら引退やな」
 ファン達は面白半分に観ていた。口ではそう言うが皆山本が好きだった。内心彼に期待しているところもあった。
 西口は投げる。山本はそれにしつこく合わせてきた。
 粘る。ファールが続く。何時の間にか球数は十を越えていた。
「ここまで粘られるなんて」
 西口は焦りだした。彼は確かにいいピッチャーである。東尾修が認めただけはあった。
 だが弱点があった。今一つ気が強くないのだ。どちらかというと弱気な方である。ここぞという試合で打たれることがままあった。彼は責任感の強い男だがそれが裏目に出るのだった。
「責任感が強いのはいいことだがそれに押し潰されるのは駄目だ」
 当時西武の監督をしちえた東尾はこう言った。
「あいつにはもっと図太くなって欲しいのだが」
 だがそれができないのが西口の性格だった。そうなれる程彼は太くはなかった。
 そうした男が山本のようなベテランに粘られるとつらい。焦りだすとそれが止まらないのだ。
「早く楽になりたい」
 そう思うようになってきた。それが間違いだった。
 失投だった。山本はそれを待っていたのだ。
「よし!」
 振った。打球はそのままライトスタンドへ向かっていく。
「う・・・・・・」
 打球を見た西口が苦い顔をする。彼が見たのはホームランだった。
 彼は満面の笑みでベースを回る。そしてホームを踏んでベンチに戻るとナインが総出で出迎えた。
「ようやったな!」
 佐々木も帽子を取って彼を迎えた。監督までが彼に敬意をあらわしたのだ。
 これで山本は復活した。彼は近鉄の一員として見事に復活を遂げたのだ。
「山本さ〜〜〜〜ん!」 
 球場で練習をしていると子供達の声がする。
「お、オリックスファンの子か」
 帽子を見てそう言った。だが彼は帽子で子供を差別したりはしない。
「おう、どないしたんや!?」
 彼は子供達の方に歩いていって声をかけた。
「有り難うございます!」
 そして急に礼を言われた。
「わし、自分等に何かしたか!?」
 礼を言われた彼はキョトンとした。
「僕達、神戸から来たんです」
 子供達はそんな彼に言った。
「神戸からか、そうやったんか」
 この時神戸はようやく震災から立ち直ったばかりであった。当時の政府のあまりに無能な対策の為不必要に遅れてしまったのだ。
 山本は即座に義援金を送った。その額何と二千万。どこかの人権派ニュースキャスターが被災地で優雅に煙草を吸いながら温泉街のようだ、と暴言を吐いたのとは見事なまでに対象的だった。
 これを神戸の子供達は覚えていたのだ。そして彼に対しその礼を言ったのだ。
「わしそんな大層なことしとらんけれどな」
 彼はその頭頂まで禿げ上がった頭を照れ臭そうにかきながら言った。
「何言ってるんですか、凄いことですよ」
 チームの若手達が彼に対して言った。
「そうですよ、そんなこと滅多にできませんよ」
 皆彼のそうした行いを知り改めて彼が好きになった。
 その年のオールスターにも出場した。相手は当時阪神のエースだった藪である。
 そのエースナンバー一八は伊達ではない。いい球を投げていた。
 それでもこの日の山本は絶好調だった。彼は藪から文句なしのスリーランを放った。
「やったでえ!」
 彼はガッツポーズをしながらベースを踏む。そしてやはり満面の笑みでホームを踏むのだった。
 それで見事MVPを獲得した。意外な、だが奇妙な程誰もが納得できるMVPだった。
「これもあの人の人徳だよ」
 選手達はそう言った。そう言わせるだけのものが彼にはあったのだ。
 それから彼は代打の切り札として活躍した。近鉄にとってはもう欠かせない頼りになる存在であった。
 しかしやはり年だった。次第に出番が少なくなってきた。
「おい」
 九九年のある日彼は練習中に佐々木に声をかけられた。
「何ですか」
「言いにくいことやがな」
 それだけで全てがわかった。
「わかりました」
 最後まで聞く気はなかった。彼は無表情で頷いた。
「ここともお別れか」
 そう思うと寂しかった。だがまだ現役でやりたいと思っていた。
「監督」
 山本は佐々木に語りかけた。
「何や」
「このチームの最後のゲームですけれど」
「ああ」
 その目は何時にも増して真剣なものだった。佐々木はそれに見入った。
「わしを出してくれませんか」
「御前をか」
「はい、それでこのチームを綺麗に去りたいんです」
「・・・・・・・・・」
 佐々木は暫く考え込んだそして口を開いた。
「わかった。思いきり打ってくれ」
「はい」
 それで決まりだった。佐々木の後ろ姿を思いながら山本は思った。
「打ったる」
 彼は強く決意した。
「そして次のチームでやる時の力にするんや。わしはまだまだやりたい、やったるんや」
 何としても野球を現役で続けたかった。まだやれるという確信があったからだ。
 彼はまた黙々とバットを振りはじめた。そしてその来るべき試合に備えていた。
 その日は来た。このシーズン最後の試合だ。
 相手はダイエー。かって自分がいたチームだ。
「これも何かの縁かな」
 彼は球場に入る時そう思った。
 ダイエーはこのシーズン福岡に移って初めての優勝を達成していた。その戦力はかっての弱小球団とはまるで違っていた。
「変われば変わるもんや」
 山本は素直にそう思った。
「わしも近鉄に戻ったしな」
 彼は自分の数奇な野球人生を振り返りそう思わざるをえなかった。
 試合はダイエー有利のまま進んでいく。やはり優勝したチームは強かった。
「ホンマに変わったもんや」
 またそう思った。
「嬉しいやら悲しいやらやな」
 古巣が強くなるのは嬉しい。だが敵だからその思いは複雑であった。
 やがてダイエーは最強のカードを出してきた。中継ぎエース篠原貴行である。
 速球を武器とする男である。何よりも彼にはジンクスがあった。
「篠原が投げると負けない」
 そう言われていた。彼はその抜群の勝ち運でこのシーズン負けなしの十三勝を挙げていたのである。
「運も実力のうち」
 と言われる。篠原にはその幸運の女神がついていたのだ。
 近鉄は彼を打てなかった。そして佐々木はベンチを出た。
「代打か」
 ここで彼は代打を送る気でいた。だがそれは山本ではなかった。別のバッターを送るつもりだったのだ。
「山本は次や」
 そう考えていた。だが山本のことが頭にあったので咄嗟に彼の名を口にしてしまった。
「代打山本」
 言った瞬間彼はしまった、と思った。
 実はここでは荒井幸雄を出すつもりだったのだ。ヤクルトから来た左の外野手である。
(しもた)
 そう思ってが何故か訂正するつもりはなかった。これは男気を大事にする彼の性格もあった。
(言うてしもうたことは仕方ない)
 古風な言葉だが男に二言はない、今更変える気にはならなかった。
 こうして山本は打席に向かった。佐々木が彼に話しかけた。
「思いきり振れや」
「はい」
 山本は笑顔で頷いた。屈託のない笑顔であった。
 山本は打席に立った。篠原は自信に満ちた顔で彼を見ていた。
「やっぱり優勝したチームの柱はちゃうわ」
 山本は彼を見て思った。篠原は完全に抑えるつもりだ。
「しかしわしもやったる」
 彼はバットを見た。
「わしにも意地がある、この一打でまた野球を続ける道を掴むんや」
 おそらく今度入る球団の年俸は今よりもずっと少ないだろう。出番もないかも知れない。だが彼はそれでもよかった。
「野球がしたい、ボールを打って、追って、捕って、走りたい」
 それだけだった。彼は何よりも野球を愛していたのだ。
 その野球をする為に打席に立つ。そこには邪念はなかった。
「来い」
 彼は構えた。篠原もマウンドの地ならしを終えると彼に正対した。
 投げた。彼は最大の武器であるストレートを投げた。
「きよったな」
 山本はそのボールを見た。狙いは定めてはいなかった。
「来た球を打つ」
 その時はそれだけを考えていた。そう、率直にそれだけを考えていたのだ。
 振った。振りぬいた。そのスイングがボールを完全に捉えた。
「いかんかい!」
 思わず叫んだ。打球に彼自身の一念を全て入れた。
 そのまま飛んでいく。一直線だ。その向こうにはライトスタンドがある。
「入れ!」
 山本だけではなかった。近鉄ナインも、ファンも念じた。そして彼等以外も。
 ダイエーファンも思わず念じた。ここまで来たら最早勝負なぞどうでもよかった。いい勝負を見たい、見た、そしてその結末を見たかった。
 その結末が今決まった。打球はスタンドに入った。
 入った瞬間福岡ドームは爆発的な歓声に包まれた。近鉄ファンだけでない、ダイエーファンも歓声をあげていた。
「よお打った!」
「やっぱりあんたはすごか男たい!」
 関西弁と九州弁が入り混じっていた。大阪と福岡、両方の人から声援が送られていた。
「これは・・・・・・」
 山本はその時あらためてわかった。自分が彼等にどれだけ愛されていたのかを。
「わしみたいな男に」
 彼は俯いた。そしてゆっくりとベースを回る。
 サヨナラホームランである。あの無敗の男篠原を最後の試合で見事打ち崩す劇的なアーチでもあった。
 ダイアモンドを回る間拍手と歓声は止むことがなかった。彼はそれでも泣かなかった。
「なんでやろ」
 彼はそれについてふと思った。自分でも涙が出ないのが不思議やった。
「まだ何かあるんやろか」
 そう思った。その時にはもう三塁ベースを回っていた。
 ホームベースでは近鉄ナインが総出で彼を待っている。彼はナインに手厚い歓迎を受けながらベースを踏んだ。その瞬間拍手と歓声は最高潮に達した。
「どないしようか」
 彼はふと思った。まだ野球をしようと思っていた。だがその気持ちが揺らいできたのだ。
「こんだけ愛された人間ってわしだけやろな」
 それは今の拍手と歓声でわかった。
 それだけではないのだ。
「皆わしを喜んで送り出してくれるんやな。出て行くのに」
 そう思うと気持ちが揺らいできた。
 試合終了後近鉄の引退する選手達のセレモニーが行われた。山本もその中にいた。
 山本の番になった。見れば観客席はまだ満員である。誰も帰る者がいない。
「ダイエーの負けた試合やのに」
 近鉄ファンもダイエーファンもいた。彼等は誰一人として席を立つことなく山本を見ていた。
「山本さんの番ですよ」
 球場を見回す彼に声がかかった。
「あ、はい」
 その声にハッとした。そして前に出る。すると球場を拍手が包んだ。
「まだ拍手してくれるんか」
 彼はそこでようやく目頭が熱くなった。
「そうか、この時の為やったんやな」
 ここでようやくあの時何故涙が出なかったかわかった。
 マイクが手渡される。そこで観客達の歓声は最高潮に達した。
「山本!」
 ダイエー側からも声援が起こった。
 彼はその声に顔を向けた。
「今まで有り難う!」
 見ればどの者も彼に暖かい声を送ってくれている。今はもう敵だというのに。
「・・・・・・・・・」
 もう言葉が出なかった。彼は涙でもう前が見えなかった。78
「わしは本当に幸せ者や」
 彼は心からそう思った。
「普通片方にチームからしか声援なんて贈ってもらえへん。いや、それすらもないもんや」
 ひっそりと去る選手もまた多いのがこの世界だ。
「そやのにわしは今これだけのファンに、両方のファンにここまで暖かい声と拍手を贈ってもらえる。プロ野球の選手として最高の花道ちゃうんか」
 そう思うともう胸が一杯だった。
「わしをこれだけ快く送り出してくれるこの人達の気持ちに報いらなあかんな。わしをこんなに愛してくれた人達の為に」
 決意した。未練は完全になかった。
「最高の花道や」
 今彼はその花道に一歩踏み出した。
「皆さん、最後まで有り難うございました!」
 彼はそう言うと四方八方に頭を下げた。
「皆さんのおかげでここまでやることができました」
 その声はもう涙の中に消えようとしていた。
「けれどもう思い残すことはありません。最高の野球人生でした」
 拍手が球場をまた包んだ。
「最後に、皆さんに言いたいことがあります」
「何だ!?」
 皆そこで思わず静まり返った。
 山本は涙を拭いた。そしてゆっくりと口を開いた。
「最後の最後まで何が起こるかわからない、それが野球なんです!」
 それが最後の言葉だった。福岡ドームはその言葉を聞き終わった瞬間今までで最高の拍手と歓声に包まれた。
 山本は花束を手に彼等に身体を向ける。そして全身で彼等の思いを受けた。
「最高や」
 彼は思った。
「わしは最高の野球人生を送った」
 また涙が溢れてきた。
「色々あったけれどホンマにもう思い残すことはあらへん」
 声援を受けながら花束を手にベンチへ向かう。そしてそこで振り返った。
「今まで有り難うございました!」
「また会おうな、千両役者!」
「あんたみたいないい男はこれからも頑張れや!」
 頭を垂れて挨拶した彼にファンからの声がまた降りかかった。
 その声の中彼はベンチの中に消えた。そしてその長く多くの出来事があった野球人生を終えた。
「人生色々あるわ」
 かって彼は言った。
「晴れの日ばかりやあらへん。雨の日もあるわ」
 幾度の波乱を送ってきた彼ならではの言葉である。
「陰に隠れなあかん時もあるやろ。じっと我慢せなあかん時もある。そして冬の時もある」
 彼はその時目の前に今までの野球人生を走馬灯の様に見ていた。
「けれどな」
 そこで優しい顔になった。
「何時までも降る雨なんてあらへん。隠れんですむ時も耐えたことへのご褒美が来る日もやって来る」
 そこでファンの声援を思い出した。
「そしてな、冬があれば春は絶対にやって来る。春のない冬はないんや」
 それが彼の野球人生の全てであった。彼はその最高の春を受け、そしてその中で花道の中を歩き終えたのであった。
「ホンマに何が起こるかわからへん」
 彼はニコリとして笑った。邪気のないいい笑顔だった。
「だからこそ面白いんやろな、野球も人生も」
 彼は今も野球を愛している。マスターズリーグでも活躍している。
「今も野球人やで」
 そう言う彼の背中は誰よりも頼もしい。そして誰よりも優しかった。


最後の大舞台   完



                                    2004・8・11
 

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