第十五章           奇策
 単純に奇策と言っても色々あるものだ。戦術や人材の起用等それは幾らでもある。
 野球の世界においてもそうである。そしてその奇策が時には勝負を決定付けるのである。
 この時もそうであった。昭和五七年、パリーグは二つのチームの一騎打ちの状況であった。
「またここまで来ちまったな」
 日本ハムを率いる大沢啓二は高笑いと共にこう言った。日本ハムはこのシーズンの後期圧倒的な勢いをもってペナントを制していた。そして前期の覇者西武との対決を控えていたのだ。
「どうせならシリーズは巨人に出て来て欲しいな。中日じゃなくてよ」
 彼はその独特のべらんめえ口調で威勢のいい言葉を口にしていた。
「去年の仇があるからな。やられたらやりかえす、そうでなくちゃあいけねえ」
 いつもの調子だな、と記者達は大沢を囲んで笑っていた。大沢は口ではかなり威勢のいいことを言うがその内心では実に緻密な作戦を駆使するのだ。
「野球は面白くなくちゃいけねえんだ」
 そう言って機動力を駆使した。時には豪快な長打攻勢も使う。ピッチャーの起用も上手い。そして何より選手達をよく育て、我が子のように可愛がった。
「あの人は男だよ」
 皆口を揃えてそう言った。彼の凄いところは移籍により入団してきた選手でも生え抜きと分け隔てなく使ったことである。
 柏原純一もである。間柴茂有もだ。そしてあの江夏豊も。
 当初江夏と大沢の仲を危惧する者もいた。だが大沢は江夏を認めた。
「ピッチャーはああじゃなくちゃいけねえ」
 江夏もまた大沢の度量に感じ入った。
「器の大きい人やな」
 この二人の出会いが日本ハムの運命を決定した。不動のストッパーを得た日本ハムは昭和五六年見事にリーグ制覇を達成したのだ。
 シリーズは巨人とであった。世に言う『後楽園決戦』である。これは藤田元司により生まれ変わった若手を主軸とする巨人により敗れ去った。
「負けたけrど選手達はよくやってくれたよ」
 彼はそう言って選手達を労わった。悔しかったがそれで決して選手達を責めたりはしなかった。
 勝負は翌年に持ち越されることになった。大沢には自信があった。
 だがここで思わぬ勢力が伸張してきた。所沢の西武である。
 田淵幸一、山崎裕之等かってそれぞれの球団でスターと謡われた男達と西鉄時代からのエースだった東尾修、新しく入って来た期待の若手石毛宏典等を主力とする混成部隊であった。率いるは巨人で名ショートと言われた広岡達郎。参謀に森昌彦を置いた隙のない戦力であった。
 彼は徹底した管理野球で知られる。選手達に米食や肉食を禁じ、酒も煙草も麻雀すらも許さなかった。炭酸飲料も禁止し、練習もまずは守備からであった。
「幾ら打っても守れなくては駄目だ」
 彼の持論であった。ヤクルトの監督時代はスラッガーマニエルをその理由で切っている。
 昼も夜も練習した。そしてミーティングも徹底して細かいところまでやった。
「こういう場合にはどうすべきか」
 選手達に考えさせた。そして意見を出させる。広岡式のシンキング=ベースボールであった。
 そして相手チームのデータもこれ以上にない程収集した。そしてそこから弱点を分析するのだ。
 サインも多くなった。身体で触る部分がなくなる程であった。
 実に緻密な野球であった。大沢はそんな広岡のやり方を嫌った。
「あんなチマチマした競馬の管理みたいなのはいけ好かねえな」
 彼の他にも広岡のやり方を嫌う者は今でも多い。坂東英二はことあるごとに批判の限りを尽くした。西武でも東尾や太田卓司など広岡と不仲が囁かれる者は多かった。そしてそれは事実だった。東尾は後に西武の監督になった時に広岡のやり方を真っ向から否定した。そして投手出身者独特の采配やチーム育成を行ったことで知られている。
 確かに広岡の野球には批判は絶えない。本人もそれは自覚しているがあらためる気はない。
「言いたい者には言わせておけばいい」
 これが彼のスタンスである。
「勝てればそれでいいのだからな」
 だが選手達に厳しい食事管理を強制しておきながら自身が通風になり、それを後をつけていた田淵に見つかり肉食禁止を解いたり、徹底した勝利至上主義を掲げながらロッテのゼネラルマネージャー時代にはバレンタイン監督とコーチ陣の不仲を聞いて驚いたりしている。そしてこれは彼が何故今一つ球界で力を持ち得なかったかという原因であるが口が悪い。しかも言いたいことは絶対に言わずにはおれないのだ。
「あれは長嶋君のミス以外の何者でもありません」
 解説者時代に歯に衣着せず平気でこう言った。
「私がいればああはなりません」
 こう言ったりもする。
「高校野球より下手ですね」
 実は長嶋とは仲がわりかしいいのだが、それでもこんなことを言う。
「長嶋君に原君を次の監督にするように言ったのは私だ」
 これでは長嶋も困るのではなかろうか。と思うが長嶋がこのようなことを気にする人物かといえばそうではない。そもそも長嶋の後見人を自認する時点で隠し事をするつもりなぞない広岡もある意味流石だ。その原に対しても平気でこう言ったりもする。
「優秀だがまだ若い。その若さに気をつけるように」
 こうしたタイプは案外多いものだ。何か言わずにはおれない。言わないと気が済まない。かってこれで巨人を追い出されたりもしている。だが何処か腹が綺麗なのはわかる。要するに頭は切れるがプライドが高く、口が何よりも先に出てしまう。今も堂々とかっての古巣巨人を批判したりしている。
 嫌う人物は多いがわかり易い。だからこそ彼については好き嫌いがはっきりと分かれるのだ。
「私は他人からどう思われようと一向に構わないが」
 そういう時に彼はいつもこう言う。あくまで済ました紳士であろうとする。だが口がまた出るのだ。
「ああ、広岡さんまた言ってるんだ」
 長嶋はそれに対していつもこう言う。この二人程不自然な組み合わせもないが案外こんな二人だからこそそれなりに上手くいっているのかも知れない。なお広岡と森が犬猿の仲なのは今ではあまりにも有名だが、長嶋はその森とも結構仲がいい。これも不思議な関係といえばそうだ。これが長嶋の不思議なところか。
「あいつはまた特別だよ」
 大沢は長嶋についてこう言う。実は彼は長嶋の大学の先輩である。
 この二人の関係もまた微妙だ。大沢はある時長嶋の悪口をこれでもかと言った。だが最後にニヤリと笑って言った。
「だがあいつには巨人のユニフォームが一番似合うかもな」
 とあるテレビ番組でも色々言う。だが長嶋を常に意識しているのだ。
 思えば長嶋という男も変わっている。これから戦う二人の将に互いに意識されているのだから。
「まあ今は長嶋は巨人にはいねえから仕方ねえか」
 大沢は本心では長嶋のいる巨人と戦いたかった。
「じゃあまずはこのプレーオフで派手に花火をあげてやるよ」
 そう言ってベンチに戻った。
「思ったより強気だな」
 記者達はそんな彼の後ろ姿を見送りながら囁き合った。
「ああ、あんなことになってるのにな」 
 実は今日本ハムには危機的な問題が起こっていたのだ。
 この時の日本ハムのエースは右のサイドスロー工藤幹夫。最多勝と最多勝率の二冠に輝く男だ。特にプレーオフの相手西武には六勝と抜群に相性が良かった。
 その工藤が負傷したのだ。それも利き腕の右手の中指をだ。
 表向きには自宅で柔軟体操をしていた時に誤って怪我をしてしまったということだった。だが実は喧嘩によるものであった。
 これは迂闊だった。ピッチャーにとって利き腕は命そのものなのだから。
 しかも骨折である。とても投げられる状態ではない。
「起こったことは仕方ねえが」
 大沢は顔を顰めて考えた。
「どっかに魔法の薬でもねえのか。骨がすぐにくっつくような」
 半ば本気でそう思った。それ程までの痛手だった。
「いざという時にトレーニングはしておけよ」
 大沢はあえて怪我をした彼にこう言った。そして工藤はそれに従いランニングや機器トレーニングを続けた。
「だがギプスをはめちまっている。これはそうそう簡単にはいかねえだろうな」
 大沢はピッチングコーチである植村義信と顔を突き付けあって考えた。何とかしてプレーオフを勝つ為に。
「さてどうするか」
 頭を抱える。やはり工藤の穴は大きい。
「工藤か」
 そう、工藤であった。
「待てよ」
 ここで彼にある考えが思い浮かんだ。
「何か妙案でも?」
 植村は大沢のそんな様子を見て顔を上げた。大沢は奇計も好きだ。それも周りをアット驚かせるような。
「いや、何も」
 大沢は慌てて顔を深刻なものに戻した。
「やっぱりどうしようもねえなあ。何かいい解決方法ねえかなあ」
「そうですね」
 植村は顔をまた元に戻した。そして二人はまた深刻な顔で話し合った。
(いけねえいけねえ)
 大沢は内心笑っていた。
(今は誰にも気付かれちゃあいけねえ)
 その時彼に思いもよらぬ考えが浮かんでいた。
(いけるかどうかわからねえが試してみる価値はあるな)
 すると彼は一つの伏線を張った。
 遠征に工藤を帯同させた。私服でありあやはり球場にいてもギプスをしている。
「やっぱり工藤はプレーオフは無理だな」
 ファンもマスコミもそう思った。
「西武有利」
 皆彼のその姿を見てそう結論付けた。西武の方もこれで一勝、と喜んでいた。
「いいか、気付かれるなよ、絶対にな」
 大沢はその声をよそにトレーナーに対して言った。
「わかっています」
 トレーナーは険しい顔で頷いた。
「かみさんにも言うな、子供にもだ。辛いだろうがな」
「はい」
 大沢の言葉に頷いた。大沢はそれを同じく険しい顔で受けた。
「よし、頼むぜ。とにかく今は大事な時だからな」
 彼は何かを考えていた。
「おい」
 そして工藤にも声をかけた。
「わかってるな」
「はい」
 工藤は頷いた。そして二人はニヤリと笑った。
 大沢は球場での練習中には審判の一人に意味ありげに言った。
「賭けって面白いよな」
「え、ええ」
 大沢は人生の真ん中ばかり歩く男ではない。酒も女もやってきた。博打もだ。そうしてそこで人生とは何かを学んできた。
「やり過ぎちゃいけねえがそもそも往来の真ん中だけが人生じゃないだろ」
 ここでも独特の人生論、野球感が出て来た。
「端っこや裏側も見なくちゃいけねえ。そうでないと人間ってやつはわからねえし深みにでねえ。人間ってやつは綺麗なだけじゃ駄目なんだ。時にはそうしたこともよく学ばなくちゃいけないんだよ」
 やはり彼はそうした意味でも大物であった。器が大きかった。だからこそ将たりえたのだ。
「時には喧嘩も必要だ」
 ビーンボールを投げた相手チームのピッチャーを殴り飛ばしたこともある。
「人生は色々ある。それがわからねえと野球もわからねえんだ」
 深みのある言葉であった。一見豪放磊落だが、その中身は鋭く、そして細かかった。
 その彼がいわくありげにそう言ったのだ。その審判は何かある、とすぐに思った。
「俺は近いうちにでっかい賭けをしようと思ってるんだ。皆がアット驚くようなな」
「驚くような、ですか」
 審判は誰にもそんなことは言えない。公平でなければならないからだ。
「そうだ。もしかしたらな。まあ楽しみにしておいてくれよ」
「わかりました」
 大沢はそこでベンチに戻った。そして電話をかけた。
「どうだ、調子は」
 電話に出た男に声をかけた。
「思ったより遥かにいいです。いけます」
「そうか」
 大沢はそれを聞くとまた笑った。
「どうやらいけそうだな、見てろよ」
 向かいのベンチにいる広岡に顔を向けた。
「今にその澄ました顔が仰天して顎まで外れちまうぜ」
 彼はこれから自分がやろうとしていることに胸が躍っていた。
 西武も負けてはいない。広岡は知将を自認している。その知略はやはり秀でていた。
 采配ミスや選手の失敗にも驚かない。あくまで冷静である。これはこちら側の好プレイや殊勲打に対してもである。常に表情を変えない。ただ口の端を一瞬歪めるだけである。
「巨人の時のあれは何だったんだろうな」
 実はそんな澄ました彼も一度激怒したことがある。
 その時広岡は打席に立っていた。三塁ランナーに長嶋がいた。
「長嶋君の脚だとまあ少し打つだけで楽に点が入るな」
 彼はそんなことを考えていた。
 ピッチャーが投げた。その時だった。
「え」
 広岡はその時何が起こったのか理解できなかった。何と長嶋がいきなりホームスチールを敢行してきたのである。
「これはどういうことだ」
 彼は呆然となった。その長嶋はあっけなくアウトとなった。
「どういうつもりか」
 三振してバッターボックスから戻った彼のはらわたは煮えくり返っていた。その怒りは長嶋に向けられたものではなかった。
「何を考えているんだ」
 彼は監督である川上哲治を睨んでいた。
 明らかに頭に血が昇っていた。彼はヘルメットとバットを叩き付けるとロッカーに戻り球場をあとにした。これが彼の巨人との決別の原因となった。
「私を信頼していないのか」
 広岡の言い分はそれである。それでホームスチールのサインを出したのか、と言いたいのだ。だがこの事件は実は長嶋の独断だったのだ。徹底した統制で知られた巨人だが彼はよくこういうことをした。動物的カンがそうさせたのである。
「長嶋君はいいんだ」
 広岡はそう言った。
「彼のことは本当によくわかっている。伊達に三遊間を組んでいるわけじゃない」
 彼はここでも長嶋を嫌ってはいなかった。
「問題は他にあるんだ」
 彼はこの直後二軍落ちとなりコーチ兼任であったがそれも剥奪された。
 これが彼を追い詰めるもととなっていく。次第に巨人での居場所がなくなる。しかもまた悪い癖が出て記者に言わなくてもいいことを話してしまう。何処までも舌禍の絶えない男だった。
 結果として彼はその怒りにより巨人を追い出された。彼は川上に追い出されたと思っていた。
「私を信用していない、しかもそれからも事あるごとにあの男は私に嫌がらせをした」
 彼のそのポーカーフェイスはプライドの高さ故だとも言われる。そのプライドに触れられると激怒するのだ。
「あれは広岡さんのプライドを刺激しちまったからな」
 記者もファンもそう囁き合った。とかく彼は人間味を消そうとして逆にその人間味により広岡となっていた。ちなみに西武の監督を辞任した時もプライドがもとで喧嘩したからだ。
 その彼だがこの時は普段と変わりなかった。そう、全く変わらなかった。
「広岡がああした顔をしちえる時が一番怪しい」
 誰かが言った。
「あの男は何かする時は徹底して隠す。最後の瞬間までな」
 見れば西武ナインは室内練習場で今日も夜遅くまで練習していた。
「いつもと同じだが」
 広岡は記者達に澄ました顔でそう言った。
「君達もご苦労だな」
 そう言うだけであった。そして何食わぬ顔で自宅へ戻って行く。
「昔からだよ。ああして気取ってるんだ。けれどな」
 ベテランの記者が広岡の乗る車を見ながら言った。
「尻尾が見えてるぜ。あれだけ隠れるのが下手な奴もそうそういない。さえ、プレーオフには何を見せてくれるかな」
 彼等も感じていた。広岡はこのプレーオフで何かを企んでいる、と。
 こうして両者の思惑が含まれたままプレーオフの幕が開いた。両者はその胸に思いも寄らぬ奇策を抱いていたのだ。

 その前日工藤はまだギプスをしていた。
「やっぱり無理だな」
 西武ナインは彼の身を心配しながらも内心ホッとしていた。
「とにかく天敵がいないのは助かる」
 そう考えていた。だが彼等は気付いてはいなかった。それを見る大沢が鼻の穴を膨らませていることに。
 試合当日には包帯を巻いていた。どう考えても怪我は完治していない。そして先発オーダーが発表された。
 西武の先発はベテランアンダースロー高橋直樹であった。口髭が似合うダンディーな男である。
「ほう、広岡も中々洒落のわかる男じゃねえか」
 大沢は彼を見て笑った。実は高橋はかって日本ハムでエースであった。だが江夏との交換トレードで広島に行った。そしてまたトレードで西武にやって来たのだ。
「人の一生なんてわからないものだけれど」
 高橋もそれは同じだった。
「まさか俺を先発とはな。てっきりトンビだと思ったが」
 西武のエースといえば東尾である。だが広岡はあえて彼を先発に出さなかった。
「東尾は何でも使える」
 彼はそう言った。
「先発でなくてもいい。今日はな」
 それで終わりだった。そしてグラウンドに顔を向けた。
「さて日本ハムの先発は誰だ」
「高橋里志ですかね。それとも間柴か」
「そんなところだろうな」
 森の言葉に頷いた。彼等なら充分に勝算はあった。
「データは揃っている。工藤の様に絶対的な強さはない」
 そう、彼は工藤だけを怖れていたのだ。
「そのチームに絶対的なエースがいるとそれだけでそのチームは圧倒的に有利に立てる」
 これはかっての稲尾や杉浦の様なエースを見ればわかることであった。
 工藤もこのシーズンではまさにそれであった。その工藤がいないと思うとそれだけで気が楽だった。
「そろそろ先発ピッチャーですね」
「ああ」
 二人はアナウンスに耳をすました。
「ピッチャー工藤」
「何!?」
 二人はそれを聞いて思わず目が点になった。
「本当か!?」
 慌ててメンバー表を見る。確かにそこには工藤の名があった。
「これはどういうことだ」
 二人はまだ信じられなかった。
「偵察要員でしょう」
 その時記者会見を受けていた西武のオーナーもそれを聞いて言った。
「いえ、それが」
 記者の一人が彼に言った。
「一度発表されたら最低一人には投げなくてはいけないんですよ」
「そんな」
 彼は狐につままれたような顔になった。
「一体どういうつもりなんだろう」
 そう首を傾げざるを得なかった。それ程までに意表を衝く起用であった。
「おい見ろよ、連中の顔」
 大沢は得意そうに西武ベンチを指差して言った。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔ってのはああいうのを言うんだろうな。広岡のあんな顔ははじめて見たぜ」
「しかし監督」
 植村はそこで不安そうな顔をした。
「何だ」
「本当に大丈夫なんでしょうか、今の工藤は」
「それだがな」
 大沢はニヤリと笑った。
「実は一回投げさせてみてるんだよ」
「えっ!?」
 これは植村も知らなかった。
「悪いがおめえにも内緒にしておいた。軍事機密ってやつだ」
「そうだったんですか」
 植村にすら話していなかった。大沢の隠蔽工作もまた見事であった。
「それを見ていけると思った。それで今日マウンドに送ったんだ」
「何と」
 工藤は淡々と投球練習をしている。そして試合がはじまった。
「まさか出て来るなんて」
 思いもよらなかった天敵の登場にさしもの西武打線も戸惑っていた。工藤の前に凡打の山を築く。
「フフフ」
 大沢は満足そうにそれを見ていた。勝ち負けよりも工藤のピッチングそのものを楽しんでいた。
「よくやってくれているな、最初はまさかと思ったが」
 やはり彼も思いついた時は本当に投げられるとは思わなかったのだ。
 工藤は快調に飛ばす。澄ました顔で西武打線を手玉にとっていた。
「よくやったな」
 大沢は手を差し出そうとした。だが途中で止めた。
「いけねえいけねえ」
 慌ててその手を引っ込めた。
「今下手なことしてあいつの指に何かあっちゃあいけねえ」
 彼はあくまで工藤の指を気遣っていた。
 工藤の表情はいつもと全く変わらない。淡々とした顔で実力者揃いの西武打線を封じている。
「さて、と」
 大沢は彼を見ながら考えていた。

「問題はこれからだな」
「はい」
 植村もそれを聞き頷いた。
「何処であの男を投入するかですね」
「ああ」
 大沢は真剣な顔で首を小さく縦に振った。
「おい」
 そして顔を右に向けた。そこにはあの男がいた。
「悪いがそろそろ準備しといてくれや」
「わかりました」
 そこには江夏がいた。彼はゆっくりと立ち上がるとブルペンへ向かった。
「さて、何時あいつを出すかだ」
 この時の日本ハムの切り札はこの江夏であった。よく日本ハムの野球は詰め将棋だと言われた。
「確かにそうかもしれねえな」
 大沢もそれを聞いてまんざらではなかった。
「点をとっていって最後にはとっておきの切り札で抑える。それも相手の先を読んで一手一手打っていくからな。そうした意味でやっぱりあいつは凄い奴だよ」
 そう言って江夏を褒めた。
 この時の江夏はストッパーとして完成されていた。その頭脳的なピッチングは最早難攻不落であった。
「あいつに最後を任せていれば問題ない、本当に頼りになる奴だぜ」
「いや、わしは監督あってのもんですわ」
 江夏は恥ずかしそうに笑ってこう言った。
「わしはただ投げるだけ、監督は考えなあかん」
「その投げて完璧に抑えられるストッパーってのはそうそういねえぜ」
 大沢は江夏に言った。彼等は実に気が合った。
「流石はあの人の名を継いどるだけはあるわ」
 江夏は大沢を評してこう言った。大沢は『親分』と言われる。その堂々とした風格とべらんめえ口調、グラサンをかけた威圧的な様子からそう言われるのだ。
「俺は兄弟で一番出来が悪かったんだよ」
 よく彼はそう言って高笑いした。
「野球を知らなかったらヤクザにでもなっていたかもな」
 そうした発言からのこの仇名が付いた。この仇名を彼より前に貰っていた人物がいた。
 かって南海の監督をしていた鶴岡一人である。その圧倒的な存在感により彼はその仇名を貰っていたのだ。
 タイプこそ違えどそれを受け継ぐだけはあった。大沢は周りの者をひきつけずにはいられなかった。その人柄が多くの人を魅了したのだ。江夏ですら。
 彼は阪神をトレードで出されてから南海、広島、そして日本ハムと渡り歩いた。だがその心は常に今そこにいる球団にはなかった。
「わしは阪神の江夏や」
 口には出さずともそう思っていた。彼の心はあくまで阪神に、甲子園球場にあった。
「あのファンの歓声は一度浴びたらやみつきになる」
 田淵もこう言った。彼もまた西武にあっても自分は阪神の田淵だと考えていた。
 それ程までに甲子園の声援は凄かった。自分を熱狂的に応援してくれるファンの声は到底忘れられるものではなかった
のだ。
「もう一度あのユニフォームが着たい」
 そう思う時もあった。いや、常にそう思っていた。
「けれどそれは最後でええ」
 そうも考えていた。
「今はこの日本ハムにおる。この球団を優勝させるんや」
 今の彼がいるのは日本ハムである。阪神ではない。
 それは誰よりもわかっている。だがやはり寂寥感は拭えない。
「何時かは甲子園に」 
 そんな彼を大沢は暖かく迎えてくれた。そして今も気兼ねなく付き合ってくれている。
「わしみたいな男にな」
 阪神を出てからは一匹狼だった。そんな一匹狼でも大沢は気にしなかった。
「どんどんやれよ、期待してるぜ」
 外様だとかそういう理由で差別したりはしない。自分のチームの選手は誰も同じである。日本ハムの選手だと考えていた。
 それが嬉しかった。だから彼は喜んで投げた。
「日本ハムの為に」
 二〇〇勝一五〇セーブも達成した。このシーズンは絶好調であった。打たれるとは全く思えなかった。
「さて、工藤はどこまでいけるかな」
 大沢はその江夏を投入する機会を探っていた。
「それで勝負は大体決まる。さて、何時にやるかだ」
 試合は投手戦となっていた。日本ハムの打線も強力だ。だが西武の継投の前に中々打てない。
「広岡らしいぜ」
 大沢は一塁ベンチにいる広岡を見て言った。
 西武は高橋から左の変則派永射保を経てエースの東尾を投入してきた。長期戦も睨んでのことであった。
「確かに東尾はいいピッチャーだよ」
 それは率直に認めていた。
「だがこっちにもとっておきの切り札があることも忘れていねえだろうな」
 ここでニヤリ、と笑った。彼は江夏に絶対の信頼を置いていたのだ。
 ブルペンでは江夏が投球練習をしている。それは時間の関係から西武ベンチでもおよそ予想はついていた。
「そろそろ出るな」
「はい」
 広岡と森は頷き合った。回は七回になっていた。
 工藤は先頭の山崎に内野安打を許した。それを見た大沢は考え込んだ。
「そろそろかな」 
 工藤はよく投げている。だがやはり怪我あけである。その指の調子が心配だ。
「よし」
 決めた。彼は決断の早い男であった。すぐに動いた。
「ピッチャー交代」
 審判に告げた。そして江夏がマウンドに姿を現わした。
「出たな」
 広岡は彼の姿を認めて言った。
「遂にこの時が来ましたね」
 森も彼から目を離さない。
 二人は明らかに何かを狙っていた。その目が光っていた。
「確かに江夏は凄いピッチャーだ」
 それは素直に認める。
「だがあの男も人間だ。弱点は必ずある」
 広岡はまず江夏の弱点を探ることからはじめていたのだ。
 江夏の弱点とは何か。それは本人すら気付いていなかった。
 投げる。するとバッターボックスに立つ片平晋作がバントの構えをとった。
「何!?」
 江夏は一瞬我が目を疑った。片平はパンチ力のある男である。それが何故。
 プッシュバントであった。それは明らかに江夏を狙ったものであった。
「しまった!」
 反応が遅れた。その動きも緩慢であった。バントは見事成功した。
「よくやった」
 広岡はそれを見て小声で言った。
「成功しましたね」
 森が彼に言った。
「ああ。予想通りだな。しかし片平がやるとはな」
 片平は左に弱い。そして小技も苦手な男である。江夏もそれだからこそ油断していたのだ。
「あそこでバントかい」
 まだ信じられないといった顔をしている。彼の意表を衝く奇襲であった。
「見ろ、あの江夏が動揺しているぞ」
「どうやらここが突破口になりそうですね」
 二人は江夏を見て囁き合った。作戦の成功を確信していた。
 江夏はマウンドでは常に冷静な男である。取り乱すことはない。
 だがこの時ばかりは違っていた。思いもよらぬ攻撃に戸惑っていた。
「あんなところでバントを仕掛けてくるとはな」
 それを見た大沢は危機を感じた。
「まずいな」
 これが勝負の分かれ目になった。ここまでに西武は周到な準備を重ねていたのだ。
 広岡と森はまずスコアラー達に江夏を徹底的に調査するよう依頼した。
「どんな些細なことでもいい、資料は全部掻き集めてくれ」
「わかりました」
 こうしてスコアラー達はデータを収集した。江夏のことはかなり有名である。だがそれでも彼等はデータを集めさせたのだ。
「日本ハムの切り札はあいつだ。ならば」
「その切り札を叩けばおのずと日本ハムには勝てる」
 これが広岡だった。彼はかってヤクルトの監督時代リーグニ連覇を果した巨人に対しこう言った。
「巨人恐るるに足らず」
「え!?」
 それを聞いた選手達は思わず耳を疑った。
「信じられないか」
 彼は選手達を見回してから言った。
「ええ、幾ら何でも」
「やっぱり巨人は強いですよ」
「そうだよな。投打に確かな戦力が揃っているし」
 選手達は口々にそう言った。
「成程、確かに戦力は揃っている」
 広岡はそれを聞き頷いた。
「だが采配はどうだ」
 そしてあらためて問うた。
「え!?」
 選手達はまた耳を疑った。
「聞こえなかったか。ではもう一度言おう。采配はどうか」
「それは・・・・・・」
 巨人の監督である長嶋の采配のことを問うているのだ。
「長嶋君の采配は理論的ではない。先のことを考えず、それは常に勘によるものだ」
 長嶋の采配を一言で言い切った。
「その為ミスも多い。選手達がそれをカバーしているのだ」
 その通りであった。彼の采配はお世辞にもいいとは言えない。
「それにより戦力が削がれているのは否定できない。そしてそのカバーができるのは」
 彼は言葉を続けた。
「かってのX9戦士達だけだ。しかしその彼等も老いている。生き残りも少ない」
 はっきりとそう言い切った。
「だから総合力では大したことはない。そうした意味で私は巨人は恐れる必要はないのだ。そして」
 ここで彼はスタッフに何冊かのノートを持って来させた。
「ここに巨人の全選手のデータがある。これで巨人のことは全てわかる」
「何と」
 選手達はもう何も言えなかった。
「諸君等は巨人に負けることはない、いや、勝てる」
 はっきりと言った。
「だから怖気付いてはいけない。巨人を倒し必ず優勝するのだ」
 冷徹な目が光った。そして彼等は巨人との戦いに挑んだ。
 死闘であった。十勝九敗、そしてあとは引き分けだった。だがこの引き分けが利いた。巨人は勝てなかったのだ。そしてヤクルトは見事初優勝を達成した。
「監督、おめでとうございます」
 皆が広岡を称える。だが広岡は眼鏡を正して静かに言った。
「当然のことを自然にしただけです」
 素っ気なかったがそれは勝利者の言葉であった。巨人に勝った、だからこそ優勝できた、彼にとっては最高の勲章であった。
 そうした実績があった。ここでもそれを発揮したのだ。
 二人は江夏を細部まで研究した。そして遂に彼の弱点を見つけ出した。
「確かに江夏は凄い男だ」
 まずはそう感じた。
 かっては目にも止まらぬ剛速球で鳴らした。だが今は流石にそれはない。
 しかしその投球術は見事だった。ストレートとシュート、フォーク、そしてスライダーとカーブをミックスさせたような独特の
変化球スラーブを武器に投げていた。球種もそれ程ではない。
 だがコントロールが抜群によかった。これは阪神時代から変わらない。
「そして変化球のキレもいい」
 森は言った。
「阪神時代からまた凄くなっている」
 森は現役時代江夏の最盛期とぶつかっていた。そのボールはそうそう容易には打てるものではなかった。彼もまた三振の山を築いていたのだ。
「左ピッチャーだから左打者でも意味はない。うちで左に強いのは田淵だが」
「それでも過度の期待はできませんね」
「ああ」
 江夏の武器はそれだけではなかったのだ。
 江夏は頭もよかった。相手バッターを見て何を考えているか、何を狙っているか考える。そしてそれを抑えるボールを投げるのだ。
 バッターだけではない。彼は球場全体を見る。ランナーも、自軍の守備も。彼は球場全体を見ることができた。それは彼ならばこその視野と洞察力もあった。
「ピッチャーはただ投げるだけではない」
 彼の投球はまさにそれであった。
 球場全体を見ることができなければ駄目である、彼の投球はそう言っていた。
「精神力も強い、ここぞという時には無類の強さを発揮する」
 これもまた江夏であった。
 ピッチャーは気が弱いとそれだけでかなりのマイナスになる。ピンチに顔面蒼白になるような男では心もとないのである。
これは幾ら実力があっても同じだ。
 江夏の打たれ強さ、勝負強さは阪神時代からであった。彼は言った。
「甲子園の土よファンの歓声がわしを育ててくれたんや」
 阪神ファンの声は熱い。甲子園は他の球場とは何かが違う。よく魔物が棲んでいると言われる。
 その甲子園のマウンドに立つ。かって若林忠志や小山正明、村山実がいたこのマウンドに。
 背にはファンの熱狂的な歓声を受ける。打たれるわけにはいかないのだ。
 そうした状況で江夏は投げてきた。そして幾多の死闘をかいくぐり彼はここまできたのだ。
 その彼の精神力は実に強靭なものであった。日本シリーズでもそうであった。
「ここまで穴のない男もそういないな」
「はい」
 二人は流石に頭を抱えた。だがあることに気付いた。
「だが守備はどうだ」
「守備ですか」
 ピッチャーは投げた直後五人目の内野手になる。その存在は極めて重要なのだ。
 だが江夏の守備はどうか。
「あの体格では満足に動けないでしょう」
「だろうな」 
 江夏の太った身体に気付いた。
「それに歳です。足の動きはいいとは到底思えません」
「だろうな。特にダッシュは苦手だろう」
 彼等はここであることを考え付いた。
「バントだ」
「はい、それで奇襲を仕掛けましょう」
 江夏は動きが遅い。バントの処理は満足にできそうもない。遂に突破口を見つけた。
「しかし」
 広岡はそれでも警戒していた。
「悟られては駄目だ」
「ですね。奴は頭がいい。気付いたらファーストとサードを前に出して対処してくるでしょう」
「あえてバントが困難なコースに投げてな」
 そして広岡が江夏に対して最も警戒することがあった。
「少しでも変な素振りを見せたら駄目だ。あの男の勘は常識外れだ」
 江夏の最大の武器、それは勘であった。
 とにかく抜群に勘がいいのだ。これは最早天性のものであった。
「特にあの時は凄かった」
 広岡は七九年のシリーズのことを口にした。
「あの時ですね」
「そうだ」
 森も顔を険しくさせた。
 あのシリーズにおいて近鉄は九回裏無死満塁の絶好のチャンスをつくった。マウンドにいたのが江夏であった。
「あんな投球ははじめて見た」
 冷徹を以ってなる広岡ですらうならざるをえなかった。
 近鉄の監督西本幸雄はここで勝負に出た。左殺しである佐々木恭介を送り込んできたのだ。
「普通ならあそこで終わりだ」
「はい。どんなピッチャーでも精神的に耐えられません」
「そうだな。もし私がマウンドにいてもそうだ」
 広岡ですらそう言った。
「私もあの状況ではどうリードしていいかわかりませんね」
 それに対し森はキャッチャーの視点から答えた。巨人において名捕手と謡われ、その黄金時代を支えただけはあった。
「だろうな」
 広岡はそれに頷いた。
 江夏はここで驚異的な投球を見せた。危うくサヨナラになる場面でその佐々木を見事三振に仕留めたのだ。
 西本は次のバッター石渡茂には最初は打つように言った。だが一球目石渡が見送ったのを見て考えを変えた。
「あの時の西本さんの判断は決して間違いではなかった」
 広岡は言った。
「私ではあんなことは考えもつかない」
「同感です」
 二人はその場面を思い出して思わず身震いした。
 西本はここでスクイズのサインを出した。まさかの奇襲である。
 三塁ランナーは盗塁マシーンとまで言われた藤瀬史郎だ。牽制球の名人江夏ですら防ぐのが不可能な男だ。単に脚が速いだけではない、その走塁技術も素晴らしいものであった。無論ホームへの突入も。
 江夏はこれを予想していたという。だが何時くるかわからない。
「少なくとも私ではあそこは外野フライで一点といきたいが」
「相手が相手です。そうそう簡単にはいきません」
「そうだ。しかも広島の守備は固い。下手に打てば」
 併殺打だ。それで全てが終わる。
「腹をくくらなくてはならない時だった。西本さんは腹をくくった」
「ええ。ですからあのサインを出せたのだと思います」
 二球目でスクイズのサインを出した。藤瀬がスタートを切った。
「!」
 江夏は背中でそれを受けた。カーブを投げようとしていた。
「くっ!」
 何とそのカーブの握りのままウエストしたのだ。咄嗟にである。
「外に外せば何とかなる!」
 外した。そしてスクイズは失敗に終わった。
「カーブの握りのままウエストができるのかどうか私は知らない」
「私もそれは無理だと思いますが」
「ただ一つ言えることがある」
「はい」
「江夏はスクイズがくることを察知していたのだ。勘でな。それが重要だ」
 普通では思いもつかない。広岡も森をそれを言ったのだ。
 思いもつかない作戦は行動に移せない。知略で知られるこの二人ですらそうなのだ。
 だが江夏はそれを感じていた。勘で、である。
「あの勘は怖ろしいぞ」
「はい、人間業ではありません」
 長い間戦いの世界で生きてきた。だからその勘の怖ろしさもわかっていた。
「とにかく少しでも勘付かれたらそれで終わりだ。江夏は必ず対処してくる」
「それはわかっています。ですが江夏にはやはりバントが効果的です」
「そうだな。あの体格を考えると」
「はい」
 二人はまた考え込んだ。
 やがて広岡が口を開いた。
「練習しかないな」
「私もそう思います」
 二人はほぼ同時に顔を上げていた。
「ナインに伝えよう。これから毎日バント練習だと」
「クリーンアップにもですね」
「当然だ。誰の場面でもないとできなければ意味がない」
 かってスラッガーマニエルにバントさせた男の言葉である。彼は相手が誰だろうが躊躇しない。例えチームの主砲である田淵であっても。
「参ったな」
 田淵は閉口してしまった。
「バントの練習なんてプロになってはじめてだよ」
「そうか」
 広岡は表情も変えずにそれを聞いた。
「では丁寧にやるんだ。バントは簡単そうに見えて案外難しいものだ」
「わかりました」
 かって阪神でホームランアーチストとまで呼ばれた男がバントの練習をする。これだけでナインは目が点になった。
「いいか」
 広岡は彼等をよそに説明をはじめた。
「まずはこれを見てくれ」
 見れば練習場の内野に二本の線が引かれている。ホームベースから一本はセカンドの定位置、もう一本はショートの。
「右バッターはショートの方に、左バッターはセカンドの方にだ」
「プッシュバントですか」
 選手の一人が尋ねた。
「そうだ」
 広岡は頷いた。
「いいか、これは江夏対策だ」
「江夏のですか!?」
「その通り、あの男の体格を見ろ」
 広岡はここで江夏の体格について言った。
「あの体型ではバントの処理は苦手だ。そこを衝く」
 彼は選手達を一瞥して言った。
「心配するな。絶対に成功する」
 広岡は選手達が不安を口にする前に先んじて言った。
「私を信じるんだ。これでプレーオフで日本ハムに勝てる」
 その口調は有無を言わせぬ程強いものであった。
「だがこれから毎日練習してもらう」
「毎日ですか」
「そうだ」
 また有無を言わせぬ口調であった。
「江夏に悟られない為にな。悟られたら何もならん」
 広岡は奇策を用いる時は徹底的にそれを隠蔽するのがここでも発揮された。
「奇策は見た目にはいい。お客さんも喜ぶ。だがな」
 彼はここで釘を刺した。
「見破られては何にもならないんだ」
 策が見破られた時のダメージの大きさは誰よりもわかっていた。
 余談であるが森はそれを後に嫌という程思い知らされることになる。
 彼が横浜ベイスターズの監督に就任した時だ。この時ヤクルトには古田敦也がいた。
「確かに素晴らしいキャッチャーだ」
 森はそれは正当に評価した。
「だが力だけで攻める必要はない。策で攻めればいい」
 彼は古田とヤクルトを知略で攻めることにした。
 結果は大失敗であった。森の策はことごとく古田に破られてしまったのだ。
「まさかこれ以上とは」
 野村と並び称される知将が一敗地にまみれたのだ。見れば野村が率いる阪神もだった。
 機動戦も投げるコースも攻撃における戦術も全て見破られていた。横浜はヤクルトに歯が立たなかった。
「戦力の問題じゃない」
 森は首を横に振った。
「知略には一つの弱点がある。見破られては何にもならない。そして」
 彼は青い顔で言葉を続けた。
「それ以上の知略の持ち主に出会ったら倍にして返される」
 それが古田であった。森も野村も自分達以上の知略の持ち主に遂に勝てなかったのだ。
 だがそれはかなり後の話である。今の話ではない。
「やるぞ」
 反対は許さなかった。
「わかりました」
 広岡も森も付き添っていた。そして毎日プッシュバントの練習をしたのだ。
「遂にあの練習の成果が出てきましたね」
「ああ」 
 二人はそれを見ながら言った。
「ここまでくるのにどれだけ練習したか。だが」
 広岡は釈然としない面持ちの江夏を見ながら言葉を続ける。
「野球は一瞬の為に全てを賭けるものだ。そして今がその時だったのだ」
 哲学めいた言葉であった。だがそれは真理でもあった。
「江夏はまだ落ち着いていない。ここを攻めるぞ」
「わかりました」
 ここから西武の攻勢がはじまった。江夏は打ち崩され日本ハムは敗北した。
 それでプレーオフは決まった。日本ハムは工藤で一勝はしたものの、第一戦で江夏を攻略されたこといより流れを完全に掴まれてしまった。西武は見事リーグ制覇を果した。
「無念だな」
 大沢は宙を舞う広岡を見て呟いた。
「こっちよりすげえ奇策を用意していたなんてな」
 不思議とさばさばした声であった。
「すいません」
 隣にいた江夏は申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝る必要はねえよ。おめえはよくやったよ」
 彼は江夏をそう言って宥めた。
「勝敗は野球の常だ。そんなにしょげることはねえ。胸を張りな」
「はい」
 江夏にここまで言えるのは数える程しかいなかった。彼が終世目標にしていた阪神の伝説的エース村山実、南海で彼をストッパーにした野村克也、そして彼を認め完全な信頼を置いたこの大沢だけであった。
「藤本さんも凄かったけれどな」
 かっての阪神の老将もその中に入れた。
「けれどこの三人は特別やな」
 江夏にはそういう思いがあった。
 彼はあくまで村山を追い続けた。その十一番こそが目標だった。
 二〇〇勝を達成した時に彼は言った。
「嬉しいけれどまだ村山さんには及ばんからな」
「村山さんですか」
「そうや。まずはあの人のところに行ってからや」
 彼は自信家であった。だが、その彼も素直に村山は尊敬していた。
「あんな素晴らしいピッチャーはおらんかった」
 江夏は村山に憧れていた。阪神に入って嬉しかったのは村山と同じチームだったからだ。
 村山も江夏を認めた。彼は江夏に言った。
「御前は王をやれ。長嶋はわしがやる」
 彼はあくまで長嶋一人を狙っていた。彼以外の者が長嶋を倒すことは許さなかった。
「敵のバッターを全力で葬る。それがピッチャーや」
 村山はそれをマウンドで語った。ザトペック投法とまで呼ばれた決死の投球で単身巨人にも、長嶋にも立ち向かっていった。
 江夏はその姿に魅せられた。そして彼もまた王に、巨人に立ち向かったのだ。
「わしにピッチャーとしての在り方を教えてくれた人や」
 そんな村山も遂に引退した。江夏はこの時他のピッチャー達と共に村山を騎馬に乗せた。
「行きましょう」
 自分達が組んだ騎馬に乗るよう勧めた。
「悪いな」
 村山は涙ぐんでいた。彼もまたこの幕引きに泣いていた。
「村山、今までようやった!」
「御前のことは絶対に忘れんからな!」
 ファンは口々に自分達の前に来た村山にそう声をかけた。村山はもう感無量だった。
「わしは幸せモンや。こんなに愛してもらって」
「はい」
 村山は泣いていた。いつも野球を、そして阪神を心から愛していた。
「江夏、あとは頼むで」
「わかりました」
 江夏は頷いた。だが彼は南海に放出された。
「これが阪神のお家騒動か」
 これはこの時から有名であった。阪神といえばお家騒動であった。
 かって毎日に多くの主力選手を引き抜かれていた頃からそれはあった。常にフロント内部の醜い権力闘争に選手達が巻き込まれていた。
 選手達の派閥まで作られた。またマスコミもそれに入った。阪神が長い間思うように強くならなかったのはこうした複雑な事情もあったのだ。
 ともあれ南海に来た。彼はそこで監督兼任でキャッチャーを務めていた野村に出会った。
「野球を変えてみる気はあらへんか?」
 野村は江夏のボールを受けて思わせぶりに言った。
「野球をですか!?」
「そうや、革命を起こすんや」
 彼はニヤリ、と笑った。
「ストッパーになるんや。試合の最後を締める男にな」
「最後をですか」
「どうや、やってみるか?」
「少し考えさせて下さい」
 江夏は考えた。そして遂に決心した。
「どや、どないするんや?」
「やらせてもらいます」
「よっしゃ、そう言うと思ったで」
 野村は笑顔で彼を迎えた。それから彼は常にベンチにいた。そして最後になるとマウンドに立った。日本ではじめての本格的なストッパーと言ってよかった。
 彼はあらたな居場所を見つけたと思った。野村は腹の黒い狸かと思っていたら違っていた。実は繊細で心優しい寂しがり屋の男であったのだ。
「あの男は人に理解されにくい奴や」
 当時近鉄の監督をしていた西本幸雄は野村を評してこう言った。
「素直やないし、外見も野暮ったいしな。けれど本当は違うんやな」
 弱小球団を一から鍛え上げ、優勝させてきた男である。それだけにその言葉には重みがあった。
「西本さんがそんなこと言うてますよ」
 ある日記者の一人が野村にそんな話をした。江夏は丁度彼と打ち合わせを終えた直後であった。
「ほう、あの人がか」
 野村はそれを聞くと少し嬉しそうな顔をした。
「またえらくわしを買い被ってくれとるな」
 あえて嫌味を言うがいつもの切れ味はなかった。
「おだてても何も出えへんとだけ伝えてくれ」
 野村はそう言って記者を帰らせた。
「じゃあわしも休憩するか」
 そう言ってベンチの奥に消える彼の背中を見た。
「何か少しウキウキしとるな」
 野村はあまり褒められることがなかった。常に日陰者であった。生まれた時から苦労し、幾ら打ってもサブマリンのプリンス杉浦忠がいたから人気もそれ程なかった。鶴岡一人監督に可愛がられるのもいつも杉浦であった。チームの外では巨人だ。王や長嶋ばかりであった。正当に評価されているとはとても思えなかった。
「わしは所詮月見草や」
 彼は自嘲気味にそう言うのであった。
「パリーグやしな。それもキャッチャーや。誰も見てくれへんわ」
 だが西本は違った。彼は野村を公平に見ていた。
 それはよくわかっていた。だから野村もまた西本を認めていた。だからこそ嬉しかったのだ。
「西本さんの下でやりたいな」
 そう思う時もあった。後に阪神の監督になった時も阪神OBに対しては頑なだったが、西本には違っていた。
「私なぞよりこのチームのことをご存知ですから何かとアドバイスしていただければと思っています」
 あの野村からは考えられない程謙虚な物腰であり言葉だった。
 それは本心からの言葉だった。彼は西本には敬意を忘れなかった。
 江夏もそれは知っていた。彼も西本の下で野球をやりたいと思ったことがある。だがそれは残念なことに適うことはなかった。
「人の巡り合わせっちゅうのはわからんもんや」
 その言葉は皮肉であった。彼は野村と別れることになった。
 野村が南海の監督を解任されたのだ。江夏は今度は広島に来た。
「よりによって阪神の敵チームか」
 そう思っていても受け入れた。それがプロの世界だとこの時にはもうわかっていた。
 甲子園のマウンドに敵として立つのは不思議な気持ちだった。だが彼は沈黙したまま阪神に対して投げた。
「これも人生や」
 広島では高橋慶彦、衣笠祥雄、大野豊等と会った。特に衣笠、大野とは馬が合った。ここで初めての日本一も経験した。プロに入ってはじめて味合う美酒であった。
 だがここも彼の安住の地ではなかった。今度は日本ハムであった。
(ここでこの人に巡り合うたんや)
 そして大沢を見た。彼は豪放磊落ながら細かい気配りもできるさばけた男であった。
「わかったな、おめえはよくやってくれたよ。このシーズンを通してな」
「はい」
 彼は決して江夏を攻めなかった。どの選手も責めたりはしなかった。
 それどころかこう言ったのだ。
「どうだ、工藤のピッチングよかっただろうが」
 彼は工藤を褒め称えたのだった。
「よく投げてくれたぜ。痛そうな顔一つせずにな。緩急もよくつけたし、落ち着いたものだった」
「確かによかったですね」
 記者達もそれは認めた。
 大沢の奇策は失敗に終わった。広岡の奇策は成功した。だが大沢は胸を張っていた。
「負けたのは確かに残念だ。俺が至らなかったせいだ。しかしな」
 彼はここでニヤリと笑った。
「話題づくりにはなったな」
「え、ええ」
 記者達は大沢のこの言葉に驚いた。
「プロ野球は何だ」
 と言われれば答えは決まっている。
「お客さんを楽しませるもの」
 である。大沢はそれがよくわかっていた。
「これでパリーグの野球の面白さが皆にちょっとは知ってもらえたと思うよ。俺はパリーグの宣伝部長になれればそれで満足さ。確かに負けたのは悔しいが」
 ここで邪気のない顔になった。
「お客さんに楽しんでもらえることがまず肝心だ。そして選手がよくやってくれりゃあいい。勝ち負けは常だからな」
 そう言って彼は悠然とその場をあとにした。その背は敗者のそれではなかった。
「相変わらず見事な人だな」
 記者達もその背を見て思わず感嘆の言葉を漏らした。大沢は記者達の心をも掴んでいたのだ。パリーグの野球、パリーグの人間、大沢は常にそう言っていた。そして今でも野球を純粋に愛し、パリーグを暖かい目で見守っているのだ。大沢啓二、彼もまた一代の名将であった。


奇策   完


                                 2004・8・18

 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル