第十六章        土壇場の意地
 最後の最後、ここで決まるという場面がある。
 これは何事にもある場面であり野球だけに限らない。その最後に全てが決まると思うと人は不思議な高揚に包まれるものだ。
 だが勝負の世界において敵にそれを見せ付けられることほど嫌なことはない。悔しいことはない。それが勝敗の常だとわかっていても受け入れられないものだ。
 それはこの日の近鉄バファローズもそうであった。
「今年は何かがおかしいな」
 ファンはよくこう言った。かっては常に優勝を争っていたというのにこのシーズンは順調に勝つことができなかった。
「戦力は同じなんやけれどな」
 それが不思議で仕方なかった。それでどうして勝てないのか。
「監督のせいちゃうか」
 誰かが言った。このシーズンから近鉄の監督は知将と謳われた仰木彬から三〇〇勝を達成した往年の大エース鈴木啓示に変わっていたのだ。
 鈴木は徹底した根性論者であった。選手達にはとにかく走るように言った。 
 そして選手が怪我をしても出させ続けた。流石に選手達もこれには反発した。
 その為選手と監督の間に深い溝ができていた。これでは満足に勝てる筈もなかった。
「あのままやとまずいんちゃうか」
 心あるファンはそう思った。だがフロントは動かなかった。
 これから二年後近鉄は最下位になる。チームが完全に崩壊したせいであった。
 鈴木の下では選手達の顔も暗かった。とかくチームは沈んでいた。
「しかし野球は好きや」
 ナインはそう思っていた。だから球場でプレイを続けていた。
 このシーズンもやはり西武の独走であった。全てにおいて隙のない戦力であった。
「それにひきかえ西武は」
 ファンは溜息混じりに向こうの青いユニフォームを見た。
「一体何時になったら負けるんやろうなあ」
 そう思わせるだけの圧倒的な戦力であった。その前のシーズンも日本一になっていた。西武の黄金時代はまだまだ続くかと思われた。このシーズンも既にマジック一となっていた。
 そして今日の試合に挑んでいた。一〇月六日、藤井寺である。
「よりによって西武の胴上げ見なあかんのかい」
 近鉄ファンにとってはしゃくでならなかった。この数年毎年優勝を争ってきた当のチームである。
「それも藤井寺でやで。やっとれんわ」
 皆口々に不満を言い募っていた。お世辞にもマナーのいいファンとは言えない。
「いや、わからんで」
 ここで年老いた一人のファンが呟いた。
「何でや、おっちゃん」
 彼等はシーズン中は毎日のように球場に通っている。だからもう顔馴染みである。
「いや、昨日西武に勝ったやろ」
「ああ」
「昨日の西武見てどう思った?」
「どうと言われると」
 彼等はそこで考えた。
「まあ一時みたいな強さは感じんかったな」
「あおやな。ちょっと前までの西武やったら負けとったかも知れん」
 五日の試合は一点差で近鉄の勝利であった。
 そこでファンが微かに感じたのがそれであった。
「デストラーデがおらんからな」
 西武の黄金時代を象徴する男の一人であった。陽気で大柄なキューバ出身のスラッガーである。秋山幸二、清原和博と共にクリーンアップを組んでいた。
「しかし鈴木健がおるで」
 西武の期待の若手だ。バッティングセンスの良さで知られている。
「あいつはデストラーデ程怖ないしな。それに今一つ西武に合っとらん気がする」
「そういえば」
 これは後に的中する。鈴木健はヤクルトにトレードで出され、そこで思いもよらぬ活躍をするのだ。彼は満面に笑みをたたえてヤクルトに来てよかった、と言った。
 尚西武から他の球団にトレードで出た選手は多い。先に挙げた秋山はダイエー、清原は巨人に行った。二人共その球団に完全に馴染んでいた。秋山はダイエーでは誰もが一目置くチームリーダーであり王貞治からも絶対の信頼を置かれていた程である。
 セカンドの辻発彦もヤクルトに行って復活した。バントの名手平野謙はロッテに。奈良原浩は日本ハムに。吉竹春樹は阪神に帰った。やはりこうして見ると人材流出が激しい。工藤公康もダイエーから巨人に移っている。これだけの主力の放出をフロントが一切止めていないのもまた妙ではある。
 だがこの時はそのキラ星の如き人材が揃っていた。西武はまだまだ圧倒的な強さを誇示している筈であった。
 しかし何かが違っていた。どうもあの強さや覇気が感じられないのだ。
「とにかく今までの西武とは何かちゃうで」
 その老ファンはまた言った。
「優勝にプレッシャーなんか感じへんチームやけれどな」
 何度も優勝しているチームはもう慣れたものである。マジック一だからといって緊張することはない。
「ただ、何かがちゃうんや」
 そして西武のベンチを見た。見れば普段と全く変わりのない西武ベンチであった。
「渡辺の調子はどうだ」
 西武の将森祇晶はコーチの一人に今日の先発である渡辺久信の調子を聞いていた。
「いいですよ。今日はいけます」
「そうか」
 森はそれを聞くと頷いた。
「では今日で決めるとするか」
「はい」
 彼等は今日で優勝を決めるつもりであった。
 見れば西武ナインは皆そういう考えであった。
 こうして試合ははじまった。近鉄の先発は吉井理人である。
「さて、どうなるかな今日は」
「案外あっさりした試合になったりしてな」
 ファンは口々にそう言っていた。
 試合は投手戦となった。渡辺も吉井も好調で互いに一点を許しただけであった。
 しかし九回表に試合が動いた。秋山がホームランを放ったのだ。
「おい、これで決まりやで」
 一塁側はもう諦めた雰囲気になった。
「西武の胴上げなんか見たくもないわ」
 中には帰り支度をはじめる者までいた。
「今日の渡辺は打てへん」
 それが共通した意見であった。誰も殆ど期待していなかった。
 だがあの老ファンだけは違っていた。
「最後まで座って見とかんかい」
 彼は去ろうとする周りの者に対して言った。
「しかしなあおっさん、今日の渡辺見てみいや」
 三色の近鉄の帽子を被った中年の男が言った。
「ああした時のあいつは打てるもんやないで」
 作業服の男も言った。見れば今日の渡辺はストレートがかなり走っていた。
「黙って見とくんや」
 だが彼は頑として引かなかった。
「バファローズのファンやったらな」
「・・・・・・ああ」
 その言葉に負けた。彼等はまた座った。そして試合を観た。
 その時マウンドの渡辺は何処か不安を覚えていた。
「大丈夫かな」
 彼はふとそう思った。
「近鉄が相手だからな」
 近鉄の打線はパワー打線で知られていた。一点リードしているとはいえやはり怖い。
 自軍のベンチを見る。もう優勝を今か、今かと待っている。
「皆は待ち遠しいみたいだな」
 やはり優勝は嬉しい。西武ナインは胴上げの瞬間を待ち望んでいた。
 渡辺はその期待を一身に背負っていた。彼もまた優勝が待ち遠しかった。
 渡辺は慎重に投げることにした。近鉄の四番石井浩郎にツーベースを浴びるものの後続を無難に抑えた。
「よし、あと一人だ」
 西武ベンチは総立ちになった。身を乗り出し、その時に備える。
 バッターボックスには大島公一がいる。小柄で俊足が売りのルーキーだ。
 忽ちツーストライクに追い込んだ。
「これで終わりだ」
 渡辺も優勝を確信した。球威は落ちていない。
 投げた。ストレートだ。大島は手が出せない。外角に見事に決まった。
「やった!」
 渡辺はその瞬間ガッツポーズをした。優勝だ、その場にいるほぼ全ての者がそう思った。
 そう一人以外は。
「ボール!」
 主審の判定は無慈悲なものであった。
「えっ!?」
 渡辺もキャッチャーの伊東勤もその瞬間自分の耳を疑った。
「ボールですか!?」
 伊東が驚いた顔で主審に問うた。
「ボールだ」
 だが判定は覆らない。こうして仕切り直しとなった。
「何てこった」
 西武ベンチはいささか落胆した。これで決まったと思ったから当然であった。
「けれどあと一球だ」
 森は彼等を宥めるようにして言った。
「それで全てが決まる。ここは落ち着くべきだ」
「そうですね」
 ナインもこれで鎮まった。そして渡辺に顔を戻した。
「頼むぞ」
 だが渡辺はボールの判定に完全に調子を崩していた。
「あれがボールになるか」
 彼はまだ納得できないでいた。
 野球においてピッチャーはとりわけ特殊なポジションである。野球はまずピッチャーからだ、と言われる程重要だ。
 繊細なものである。ちょっとした心の動きが投球に影響するものだ。
 この時の渡辺もそうであった。彼はそれまでの勝利を確信した顔ではなかった。
「落ち着け」
 だがそこにキャッチャーの伊東がやって来た。
「あと一球じゃないか」
「はい」
 だが彼はまだ気落ちしていた。伊東はそんな彼を元気付ける為に言った。
「三塁側を見るんだ」
 渡辺は言われるまま三塁側を見た。
「あと一球!」
 所沢から駆けつけた青い半被のファン達が声援を送っていたのだ。
「見たな」
「はい」
 渡辺は頷いた。
「お客さんが待っている。だからここは気を鎮めるんだ」
「わかりました」
 渡辺は伊東のそうした細かい心配りを受け取った。
「じゃああとほんの少しだけ頑張ろう。そうしたら後は胴上げだ」
「はい」 
 伊東はこれでいいと思った。そして安心してキャッチャーボックスに戻った。
 渡辺はこれで落ち着いていた。少なくとも心は。だが投球んそれが伝わるのはもう少しだとだった。
 投げた。ストレートだ。だが僅かだがコントロールが狂った。
「ム!」
 伊東はそれを見た瞬間まずい、と直感した。そしてその時にはもう遅かった。
 大島のバットが一閃した。そしてボールはセンター前に弾かれていた。
 石井は当然の様にホームインした。まさかの同点であった。
「こんなところで・・・・・・」
 渡辺は思わず顔を顰めさせた。だがこの回は何とか後続を断った。
「おい、こんなところで同点やで!」
「大島、よくやった!」
 一塁側の近鉄ファンはもうお祭り騒ぎである。まさかの同点タイムリーに皆大騒ぎだ。
 見れば帰ろうとしていた客も戻っていた。こうした時のファンは実に現金だ。
 だが森はこうした状況でも冷静だった。
「こういうこともある」
 ごく普通のこととしてとらえていた。
「むしろプラスに考えなければいけない」
「プラスにですか」
 コーチの一人が問うた。
「そうだ。あれを試すいい機会じゃないか」
「あれですか」
 そのコーチはそれを聞き顔を険しくさせた。
「その時が来ればだがな。どうだ」
「そうですね」
 彼は問われて暫し考え込んだ。だが顔を上げた。
「やりますか」
「よし」
 まずマウンドに渡辺にかわって守護神潮崎哲也を送った。
「ん、潮崎か」
 近鉄ファンはそれを特に不思議に思わなかった。
「渡辺も九回投げとるし妥当なとこやな」
 老ファンは予定事項の様にそれを見ていた。同点とはいえ延長に守護神が登場することは充分考えられたことであったからだ。
「今日は流石に何をしても勝ちたいやろからな」
「しかし森はここからがわからへんで」
 三色帽のファンがそこに口を挟んだ。
「そやな、あの男はホンマに頭が回るやっちゃからな」
 作業服の男も言った。近鉄は今まで森の知略に対しても数限りない死闘を繰り広げていたのだった。
 敵だからこそよく知っていた。森はそれにあえて気付かないふりをしていた。
「今気付かれると何にもならん」
 それは彼が最もよくわかっていることであった。
「ふむ」
 見ればファンの中には何かを察している者はいるようだ。だがそれが何かまではわかっていない。
「当然といえば当然か」
 森はそれを見て安心した。
「流石にこれはわからないだろう」
 彼はニンマリと笑った。
 試合は進む。近鉄のピッチャーも守護神赤堀元之に替わっていた。
「赤堀、がんばらんかい!」
 一塁側から声援が飛ぶ。近鉄の誇る絶対的な守護神である。彼もまた敵の目の前での胴上げは何としても阻止するつもりであった。
 制球に苦しみながらも抑えていく。十回は両者共目立った動きはなかった。
 十一回表、西武の先頭バッターは鈴木健であった。
 鈴木は赤堀のボールを引きつけた。そして思いきり振った。
「いったか!」
 その打球を見た西武ナインもファンも思わず総立ちになった。
「入るな!」
 近鉄ファンとベンチは思わずそう叫んだ。打球は際どいところを飛んでいく。
「どうなる!」
 今にもきれそうだ。だが中々きれない。打球はそのままライト線ぎりぎりをかすめるようにして飛ぶ。
 巻いた。打球はポールを巻いた。鈴木の値千金のソロアーチだった。
「やった、やった!」
 鈴木は満面の笑みでダイアモンドを回る。森はそれを見て今度こそ勝利を確信した。
「よくやった」
 そして帰って来た鈴木を出迎えた。
「有り難うございます」
 鈴木は監督に迎えられ笑顔のままで答えた。
「これで勝ったな」
 森はベンチに引っ込む鈴木の姿を見て言った。そしてスコアボードに目を移した。
「よし」
 森はここで先程から考えていることを実行に移す決意をした。
 彼は電話を手にした。ブルペンに電話をかける。
「行くぞ」
「わかりました」
 電話の向こうから元気のいい声が聴こえてきた。
「ライオンズ選手の交代をお知らせします」
 ここでアナウンスが入った。
「ん、守備固めか?」
 近鉄ファンはそれを聞いてまずそう思った。
「レフト潮崎!?」
「何!?」
 近鉄ファンだけでない。西武ファンもこのアナウンスには仰天した。
「ピッチャー杉山賢人」
 左のルーキーである。速球を武器としこのシーズンの新人王を獲得した。
「杉山はわかるが」 
 劣勢の時でも冷静だったあの老ファンですらすっかり狼狽していた。
「レフト潮崎やと!?森は何を考えとるんじゃ!」
 思わず絶叫していた。潮崎がレフトに入り杉山がマウンドに登っても球場はまだざわついていた。
「ふふふ」
 森はそのざわめきを不敵な笑みを浮かべながら聞いていた。
「これには誰も気付かなかったようだな」
 彼の声は自信に満ちていた。
「それはそうでしょう」
 傍らにいたコーチもそれに頷いた。
「こんなことは今までなかったことですから」
 ピッチャー複数を同時にグラウンドに置く。しかもマジック一のこの場面で。森は何を考えているのか。誰にも理解することができなかった。
「監督ホンマに森か!?」
 作業服の男が思わず口にした。
「長嶋とちゃうやろな」
 長嶋茂雄はこのシーズンから巨人の監督に復帰していた。相も変わらず奇妙な采配を執っていた。
「あんな太った長嶋がおるか?」
 だが三色帽の男が森を指差して彼に対して言った。
「いや」
 作業服は首を横に振ってそれを否定した。
「確かに森や」
「そうやろ、あれは森や」
 そう言う三色帽も信じられなかった。一体何を考えているのか、と思っていた。
「わからへんな、いや」
 ここで老ファンがハッとした。
「そうか、わかったで」
「何や、おっちゃん」
「これはな」
 他の二人はゴクリ、と喉を鳴らした。次の言葉を待った。
「日本シリーズへの対策や」
「シリーズのか!?」
「そうや」
 彼は険しい顔で他の二人に頷いた。
「セリーグはもう決まっとるやろ」
「ああ、ヤクルトやな」
 このシーズンのセリーグは長嶋茂雄が戻ってきた年であったがそれだけで優勝出来る程野球の世界は甘くはない。この年のセリーグ昨年の最後の最後まで、そうシリーズまで見る者を離さない程の死闘を展開し、それで実力をつけた野村克也率いるヤクルトが優勝していたのだ。
「野球は頭でするもんや」
 野村はニンマリと笑ってこう言った。これは勘、いや思いつきだけで野球をする巨人に対しての痛烈かつ爽快な皮肉であった。
 野村と同じく森もまた知略で知られている。だが彼は野村とは少し違う。
「知略とはそのチームに合ったものでなければならない。こちらにも敵にもな」
 彼はこう考えていた。ここも野村と同じだが少し違う。野村は自分の考えにチームを合わせようとするところがあるが森はその選手を見て策を練るのだ。
「その選手が私を嫌っていても構わない」
 森はよくそう言った。
「使える選手は誰だろうが使う」
 そうした考えの持ち主であった。巨人時代からかなりシビアな考えの持ち主であった。
 その考えのもとこの策を使った。そう、シリーズにおいての秘策だ。
「どういうつもりだ」
 ヤクルトの偵察隊も藤井寺に来ていた。彼等もまた我が目を疑った。
「うちのクリーンアップ用か」
 誰かがそれを見て言った。
 当時ヤクルトのクリーンアップは広沢克己、ハウエル、池山隆寛であった。右、左、右とジグザグになっていた。
 三人共長打力に秀でていた。三振も多いがそれは脅威であった。
 ここで最大の問題は四番のハウエルだ。彼はここぞという時に打つ男であった。この前のシリーズでは徹底的にマークして抑えている。
 だが今回はそれだけでは危ないことが考えられる。見たところヤクルトは昨年より遥かに強くなっているようだ。
「だからこそハウエルを抑えなければならない」
 森はそう考えていた。彼には一つの持論があった。
「敵の主砲は何としても封じろ」
 である。
「そうすればそのチームの得点力は大幅に減る」
 これはその通りであった。彼はかってこの論理で勝利を収めてきた。
 ならばハウエルを封じなくてはならない、彼には都合のいいことに一つの弱点があった。
 それは彼が左打者というところにあった。そう、彼は左投手を苦手としていたのだ。
「うちの左といえば」
 ワンポイントで使えるとなればやはり杉山だ。しかし。
「広沢と池山がいるしな」
 その後には古田敦也もいる。森は彼には妙に警戒心を抱いていた。
「古田もいるしな」
 確かに古田は打撃もいい。しかしそれだけではないと感じていた。
「もしかするとあの男は」
 古田を見る度に思うことがあった。
「私以上の男かもな。野村さんも凄い男を育てているものだ」
 後に野村も森も古田に一敗地にまみれる。その時にそう思ったことを噛み締めるのであった。
 ヤクルトの打線はそうした強さがあった。だがそれを何処かで断ち切らなくてはならない。
「それは敵の主砲であるべきだ」
 そうでなくては意味がないのだ。
「主砲の一発で全てが変わる」
 かっての巨人がそうであった。王と長嶋がいたことはやはり重要であった。
 昭和四七年のシリーズはその好例であった。第三戦、阪急のマウンドにいたのはサブマリン投手山田久志であった。
 山田はこの試合好投を続け九回まで巨人打線を完封に抑えていた。だが九回に王の逆転サヨナラスリーランを浴びてしまった。
 これでシリーズの流れは変わった。巨人は勢いを掴みシリーズを制覇したのであった。
「あれがシリーズの怖さだ」
 森はそのことがよくわかっていた。シリーズは一打で流れが変わるものなのだ。
 だからこそ万全を期さなくてはならない。そう、ハウエルは何としても抑えなくてはならなかったのだ。
 その為に秘策がこれであった。おあつらえ向きに近鉄のクリーンアップには左打者がいた。
 ブライアントだ。まずは彼を仮想のハウエルに見た。
「さて、ここからだ」
 森はヤクルトの偵察陣に目をやった。
「これを見てどうするかな」
 彼はあえて手を見せたのだ。これでヤクルト側を少しでも惑わせる為に。
「野村さんは賢い。だがな」
 森はニヤリ、とここでも笑った。
「私としても負けるわけにはいかない」
 彼もまたここで野村を牽制しておくつもりだったのだ。
「頼むぞ」
 そしてマウンドにいる杉山に目をやった。
「ブライアントとハウエルはかなり違うタイプだが」
 ブライアントはとにかくバットを振り回す。ハウエルはそれに対して時としてミートに徹することもある。
 しかし左にあることにかわりはない。絶好の仮想敵であった。
 杉山は森の期待に応えた。ブライアントをショートフライに討ち取った。
「よし」
 それを見て森は満面に笑みをたたえた。
「では交代だ」
 そして杉山をレフトに送った。そして潮崎がマウンドに立った。
「考えたもんやな」
 老ファンは感心したように言った。
「こんな抑え方があるんやな。流石にここまではわからんかった」
「おっさん、そんなこと言うてる場合ちゃうで」
 ここで三色帽が言った。
「そうや、このままやと西武の胴上げやで」
 作業服も言った。彼等は明らかに焦っていた。
「そん時はそん時や」
 老ファンはそれに対して突き放したように言った。
「それも野球を見てたらあることや。観念せんかい」
「しかしなあ」
 彼等はそれでも食い下がった。
「あとあんた等何年近鉄ファンやっとるんや」
「いきなり何言うんや!?」
 二人はそれを聞いてハァッ!?とした顔になった。
「聞いとるんや。ファンになって大分経つやろ」
「そりゃまあ」
「物心ついた時からや」
 二人は頭を掻きながら答えた。
「じゃあわかってる筈や。このチームが今までそういう勝ち方してきたかな」
「ああ」
 二人は老ファンのその言葉に頷いた。そうであった。近鉄の野球はある意味奇跡的なところがあった。
 絶体絶命の状況から立ち上がり勝利を収める。そうしたことが何度もあった。
「九回で六点差ひっくり返したこともあったやろ」
 この年の六月のことであった。ダイエー戦で誰もが諦めた状況から勝利を収めたのだ。
「それがうちの野球や。忘れたわけやないやろ」
「そらまあ」
「わしもパールズの頃から知っとるし」
 彼等はまだ戸惑いながら言った。
「じゃあよく見とくんやな。そしてあかんかったらそこではじめて諦めるんや」
「そやな」
 二人は老ファンのその言葉にようやく納得した。そしてまたグラウンドに目を戻した。
 その間に潮崎は石井を三振に討ち取っていた。遂にあと一人だ。
「さて」
 ここで森は再び考えた。
 次のレイノルズはスイッチヒッターだ。だが左投手には弱い。
「どうするべきか」
 ここで杉山に代えるべきか。それとも潮崎でいくべきか。彼は迷った。
「止めておくか」
 彼は杉山を引っ込めた。代わりにレフトに垣内哲也を送った。
「あれ、杉山をおろすんか!?」
 これには誰もが驚いた。
「折角の秘策やのにな」
 実は森には彼を使わなければ引っ込めざるを得ない理由があったのだ。
 杉山と潮崎に外野の守備練習を行っていた時だ。杉山の動きが悪いことに気が着いたのだ。
「これはまずいな」
 森は思った。彼は守備を特に重要視することで知られていた。
「相手の戦力を見る時はまず守備からだ」
 彼はよくそれを言った。間違っても打線から見ようとはしなかった。
「打線から見たら戦力を見誤る」
 それが理由であった。打線は確かに派手だ。だがその派手さに惑わされるのだ。
 だから彼はまず守備から見た。そしてそこから攻略法を見出すのだ。
 そして八七年の巨人との日本シリーズにおいては決定的な勝利を収めている。
「巨人の守備には致命的な弱点がある」
 彼は巨人のデータを調べてそう看破した。
「センターのクロマティだ」
 彼は巨人の主砲であった。その打撃センスの良さは折り紙つきだった。
「バッターとしては脅威だ。だがその守備は穴になっている」
 まず彼はクロマティの動きを見た。
「動作が緩慢だな」
 確かにクロマティの動きは遅い。打球への反応が悪い。特に内野への送球が遅かった。
「そして肩も弱いな」
 そのボールにも注目した。そして彼は結論を出した。
「彼のところにボールがいったならば積極的に次の守備を狙え」
 そうノートに書いた。そしてその機会がやってきた。
 第六戦。ここで勝てば西武の日本一である。遂にその作戦を実行に移す機会がやってきた。
 二塁には清原がいる。彼は西武時代は足もあった。
 ここでセンターフライがあがった。深い。森の目が光った。
「行け!」
 清原がタッチアップした。クロマティも巨人ナインも誰もが三塁だと思った。
 だが清原は三塁ベースを回った。三塁ベースコーチ伊原春樹の右手が大きく回った。
 清原はそのままホームへ突進する。中継の川相が慌ててボールをホームに送球する。
 ホームで激しい激突があった。アウトか、セーフか。場内は判定を固唾を飲んで見守った。
「セーフ!」 
 主審の右手が横に切られる。何と二塁からのタッチアップであった。
「これでよし」
 森はそれを見てほくそ笑んだ。だがそれで終わりではなかった。
 今度は一塁に辻がいた。今度は秋山がセンター前にヒットを放った。
「流石に今度はない」
 辻は一塁だ。如何に彼の走塁が名人芸でも精々三塁までだ。そう、どの様な機動力であっても。
 だがまた三塁を回った。クロマティは驚愕した。
「こんな野球は見たことがないぞ!」
 彼ははっきり言えば油断していた。今度ばかりはないものと思っていたのだ。
 だが西武は違った。やはり彼の隙を狙っていたのだ。
 また慌てて返球する。だがやはり肩が弱かった。守備は普段からの練習がものを言う。ましてや彼は三十代後半であった。衰えもあった。
 辻は見事ホームを陥し入れた。これで巨人の流れを完全に潰し、そして勝利を確固たるものにした。
「守備でのミスは取り返しがつかない」
 彼はこう考えていた。奇しくも彼と犬猿の仲で知られる権藤博もこう言っている。
「エラーでの失点は返って来ない」
 投手出身の彼もまた同じことを言った。守備はそれだけ重要なのだ。
 絶好の例を挙げるとすれば『史上最強打線』という破廉恥な名前を掲げている巨人がそうである。確かにホームランは多い。だが守備は穴だらけだ。おそらく今まででも屈指のお粗末さであろう。そういう意味では球史に永遠に名を残す。その為優勝を逃した。もっともこれは無能なフロントと監督のせいでもあるが。とある巨人の提灯持ちのスポーツ新聞紙は『史上最強球団代表』という北朝鮮のプロパガンダに匹敵する下品な礼賛記事を載せた。笑い話にしても性質が悪い。己の保身にしか頭が回らず、オーナーの茶坊主としてヒステリックに喚き散らし、挙句の果てには裏金で解任される知能の低い男をここまで賛美できるのもまた日本のマスコミだけであろう。こうした愚か者が作り上げたチームである。満足に勝てる筈もない。監督は負ければ選手の責任にする。愚将の見本の様な男であった。
 こうした愚劣で滑稽なチームの野球と森の野球は根本から違う。彼は野球とは何かをその灰色の頭脳でよくわかっているのだ。
「だからこそだ」
 彼は杉山の守備を信用できなかったのだ。
「もしレフトに打球が飛んだら」
 そう思うとやはり怖かった。だから垣内を送ったのだ。
 そして彼にはもう一つ読みがあった。
「今日の潮崎はいい」
 そう、潮崎の調子を見て安心していたのだ。
 武器であるシンカーのキレがよかった。十回も三人で無難に抑えていた。
「これならば抑えられる。問題はない」
 こうして潮崎続投を決めたのだ。
 そして彼はこのシーズン近鉄に相性が良かった。ホームランは一本も打たれていない。特に今打席にいるレイノルズはノーヒットに抑えている。
「続投だ」
 こうして潮崎続投を決定したのだ。
「流石にもうあかんで」
 近鉄ファンは流石にもう観念していた。
「レイノルズは潮崎が大の苦手や。幾ら何でもこれでお終いや」
 三色帽も作業服もそう言って諦めていた。
「何度も言わすな」
 それを老ファンが叱った。
「最後まで見とけ、ちゅうとるやろが」
「おっさん、そうは言ってもこらあかんで」
「そうや、せめて胴上げだけはこの目で見んようにしようやないか」
 二人はそう言い返した。だが彼は動かなかった。
「わしは最後まで見る」
 そしてグラウンドから目を離そうとはしなかった。
「・・・・・・わかったわ」
 二人はそれを見て観念した。再び腰を下ろした。
「じゃあ最後まで観ようやないか」
「ただし負けたらビール奢ってもらうで」
「好きなだけ奢ったるわ。負けたらな」
 売り言葉に買い言葉である。彼もそれに乗った。
「そのかわり、最後まで観るんや」
「・・・・・・ああ」
 二人はようやく腹をくくった。そしてグラウンドに顔を移した。
 潮崎は投げた。サイドスローから右腕が唸る。
「シンカーか」
 レイノルズの身体の外へ逃げる様に斜めに落ちていく。見事なシンカーだ。
「決まったな」 
 潮崎も伊東も思った。だがレイノルズのバットはその軌跡に動きを合わせた。それでも二人はまさか打たれるとは思いもしなかった。
「このシンカーは打てない」
 そう確信していた。だがそれは誤りであった。
 レイノルズはバットを渾身の力で振りぬいた。凄まじい唸り声が響いた。
「何っ!」
 森はそれを見た瞬間思わず声をあげた。今コーチ達と共に胴上げの準備をしているところであったというのに。
 打球は大きな弧を描いて飛ぶ。そして藤井寺のレフトスタンドに吸い込まれていった。
「まさか・・・・・・」
 潮崎は今スタンドに入ったボールを見た。西武ファンの沈黙は絶叫のそれであった。
 その場にしゃがみ込む。ナイン達もだ。
「まさかここで打たれるとは・・・・・・」
 流石にこれには落胆した。まさかの一撃であった。
 レイノルズはダイアモンドを回る。そしてホームを踏んだ瞬間にナインとファンから歓喜の声で迎えられる。
「どや、これが近鉄の野球や」
 老ファンは満足した笑みで言った。
「こういった土壇場にこそ力を発揮するんや。今年は少ないがな」
「そやったな」
 二人はそれに納得した。
「なあおっさん」
 ここで二人は老ファンに恐る恐る語り掛けた。
「何や?」
 彼はそれに対しゆっくりと顔を向けた。
「ビールやけれど」
「ビール!?」
 彼はそのことは完全に忘れていた。だが二人はそれに構わず言った。
「わし等が奢るわ。好きなだけ飲んでや」
「・・・・・・まあくれる、ちゅうんなら貰うけれどな」
 彼はそれを了承した。だが何故奢られるのかはわかっていなかった。
 試合はこれで流れが止まった。結局延長十二回引き分けに終わった。
「勝てなかったか」
 森は疲れきった顔で言った。
「一勝するのは難しいということはわかっているつもりだが」
 その顔は土気色になっていた。
「それでも今日は勝ちたかったな」
 そしてベンチから姿を消した。西武が優勝するのはこれから一週間後の十三日であった。長く苦しいトンネルであった。
 近鉄ファンは彼とは好対照であった。思いもよらぬ引き分けに安堵していた。
「これが近鉄バファローズの野球や」
 球場を出る時老ファンは満足した顔で言った。
「見たやろ、最後の最後までお客さんを帰さへん野球や」
「ホンマやな」
 二人はその言葉に首を縦に強く振った。
「じゃあ後は酒屋でゆっくりと話しようか、胴上げみんで済んだし」
「ああ、約束通りじゃんじゃん奢ったるで!」
 三人は酒場へ消えた。そしてその言葉通り心ゆくまで酒を楽しんだ。
 これが近鉄の野球であった。それは藤井寺から大阪ドームに変わろうと何時までも変わらないものである。


土壇場の意地   完


                                  2004・8・23

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