第十八章       二つの意地
 勝たなければいけない時がある。それが一方だけならば問題はない。しかし双方に勝たなければならない何かがあると話は複雑になり激しくなる。
 あの日もそうであった。伝説の前に掻き消されてはいるが決して記憶に残らないようなものではなかった。
 昭和六十三年十月十七日、この日近鉄は西宮球場にいた。
「あと三勝か」
 近鉄の監督仰木彬はポツリと言った。この時近鉄には優勝マジック3が点灯していたのだ。
 あと三勝、口で言うのはたやすい。
 しかし残り試合は僅か四試合、一敗も許されない状況である。
 そうした中近鉄ナインは必死に戦っていた。最後の最後まで諦めてはいなかった。
「優勝するんや!」
「絶対西武に勝つんや!」
 彼等は口々にこう言った。一時は八ゲーム差と絶望的なまでに開いていた状況を何とかここまでもってきたのである。
 今日の相手は阪急であった。
「今日も勝つぞ!」
 その様子を阪急の監督上田利治は一塁ベンチから見ていた。
「近鉄は凄い気迫やな」
 彼の顔は普段と変わらず穏やかであった。
 だが普段とは何かが違っていた。何処か陰があるのだ。
「ええな、ああして気迫がみなぎっとると」
 このシーズン阪急は絶不調であった。長い間チームを引っ張ってきた山田久志と福本豊に限界が囁かれていたのだ。
 阪急の黄金時代を支えたこの二人の衰えはチームにとって深刻であった。そう、この時阪急は世代交代の荒波の中にあったのだ。
 世代交代はまだよかった。上田には陰を作らざるを得ない事情があった。
「お客さん等には何て言うたらえんやろな」
 観客席を見る。彼等はいつも阪急を応援してくれている。
 数こそ少ない。阪急はお世辞にも人気のあるチームとは言えなかった。
「阪急の素晴らしさを知らへん奴や野球を知らへん奴や!」
「そうや、野球は阪急、パリーグや!」
 だがファンはそれにはめげなかった。昭和五十一年のシリーズにおいてはまさに全国から駆けつけてきた巨人ファンなぞものの数とせず後楽園で応援してくれたのだ。
「それを思うと」
 上田はそのことを一日たりとも忘れたことはない。あれ程有り難いと思ったことはなかった。
「そしてこいつ等にも」
 目の前では阪急ナインが試合前の練習を行っている。彼等は阪急のユニフォームに誇りを持ってプレイしていた。
 阪急ブレーブスとしての誇り。彼等はそれを常に心に持っていた。
 それは隠してなぞいなかった。人気の問題ではない。どこぞの球団に金に目が眩んで入り何の活躍もせず無様に退団する様な男達ではなかった。
 彼等もまた上田の誇りであった。彼等と共に野球ができることが何よりも嬉しかった。
「だからこそ勝ちたいんや」
 上田は思った。
「いや」
 ここで首を横に振った。
「勝ち負けはええわ。それも野球の常や」
 そう思うことにした。だが野球人の心が彼にこう言わせた。
「全力でやったる。そして悔いのないようにしたる」
 彼は後でナインに対して同じ言葉で激を飛ばしている。彼には必死にならざるを得ない事情があった。
 近鉄もそれは同じだ。優勝がかかっているのだ。
「あの試合は仕方なかったけれどな」
 仰木は振り返るように言った。
 あの試合とは十五日のことだ。大阪球場での南海ホークスとの試合だ。
 この試合は南海の大阪球場での最後の試合であった。この時既にダイエーに身売りされることが決まっていたのだ。
 球場にるのはほぼ全て南海ファンであった。彼等はその目に南海の雄姿を焼きつけようとしていた。
「最後や、これが最後や!」
「納得いくまで見たるで!」
 ファンの中には泣いている者もいた。南海もまたファンに心から愛されていたチームであった。
 勝てる筈がなかった。南海の選手も必死だった。結局近鉄は相手に鼻を持たせる形となった。
「では行って参ります!」
 南海の監督杉浦忠は大阪球場を埋め尽くす南海ファンに対してこう言った。球状全体に緑の鷹の旗が翻っていた。
 最後のパレードでは花吹雪が舞った。彼等は最後までこのチームとの別れを惜しんでいた。
「負けて悔いがないわけやない」
 痛い敗北であった。翌日の藤井寺ではその南海に勝っている。それでも痛かった。
「不思議やな」
 仰木は上田を見て呟いた。
「ウエさんにはあの時のスギさんに似たもんを感じるわ」
 近鉄、阪急、南海。この三球団は親会社が関西の鉄道会社同士であったこともあり何かと縁があった。チーム同士の中も決して悪くはない。特に近鉄と阪急は西本幸雄という監督を共に戴いていただけあり兄弟球団と言ってもよかった。好敵手同士であった。
 多くの死闘を演じてきた。近鉄の監督に三原脩が、阪急の監督に西本がいる時からであった。
「昭和三十五年のシリーズの再現やな」
 ファンはこの対決にいろめきだった。これは西本が勝った。
 そして次の戦いのピークはその西本が近鉄の監督になった時であった。
「口で言うてもわからんかあ!」
 西本の拳骨が飛んだ。阪急でもこれで選手達を鍛えていた。鉄よりも硬く、炎よりも熱い、心がこもった拳であった。
 それが近鉄を変えた。そしてかって自らが鍛え上げた阪急との戦いとなった。
 負け続けた。阪急には西本が育て上げた弟子達だけではなかった。山口高志という恐るべき剛速球を放つ男がいたのだ。
 しかし最後にはその山口を打ち崩した。そして近鉄は遂に阪急に勝ったのだ。
 それからも両球団の戦いは続いた。だが彼等の心には共に西本の志が息吹いていたのだ。
 そうした歴史がある。仰木もそれはよく知っていた。
「阪急にだけは負けたくないわ」
「近鉄の勝ちなんぞ見たくもないわ」
 ファン同士もよくこう言った。だがそれでも彼等は連帯意識があった。
 そうした両球団の関係はこれからも続くものと誰もが思っている。そう、この時もそうであった。
「今日も阪急電車で帰らせたれや!」
「御前等こそ近鉄電車で帰らんかい!」
 ファン達は今日も試合前のエールを送り合う。こうした中でプレーボールが告げられた。
 阪急の先発は星野伸之、とてつもないスローボールとスローカーブを武器とする変則派だ。
「あんな奴は見たことがない」
 彼の投球を見てこう言う者が多かった。
 ストレートが異常に遅いのだ。普通ピッチャーといえば速球を武器とすると考えるのが普通だが、彼はそれとは正反対であった。
「遅いボールも武器となる」
 彼はそれを証明してみせたのだ。相手の勢いをかわす柔のピッチングであった。
 それに対して近鉄の先発は阿波野秀幸。星野とは対照的に力で押すタイプだ。速球とスライダー、スクリューが武器だ。
 両投手の投げ合いで試合ははじまった。まずは二回表、近鉄の攻撃だ。
 オグリビー、羽田耕一が連打を放つ。打席にはここで鈴木貴久が入る。
「どうhします?」
 コーチの一人が仰木に尋ねた。
「そうだな」
 彼は考えた。そしてサインを出した。サインはバントであった。
 しかし鈴木は硬くなっていた。初球を失敗してしまう。ファウルになった。
「まずいな」
 仰木は鈴木が硬くなっているのを見て顔を暗くさせた。
「今の鈴木にバントは無理だ」
 元々あまり器用なタイプではない。バントを命じたのは酷だと思った。
 作戦を変更した。強打を命じた。
「鈴木にはこっちの方がいいだろ」
 彼はパワーがある。それに賭けることにした。
 だがそれが裏目に出た。星野のスローボールを引っ掛けてしまった。
 打球はショートゴロになった。あえなく併殺打となった。
 近鉄はこれでチャンスを潰した。星野の投球術にしてやられた形となった。
 今度は阪急の攻撃であった。三回裏である。
 ヒットと四球二つで無死満塁となる。阪急にとっては絶好のチャンス、近鉄にとっては絶体絶命のピンチである。
「どうなる!?」
 両チームのファンは固唾を飲んで見守る。ここで点が入れば試合は一気に阪急に傾く。
 だが阿波野はここで踏ん張った。何と三者連続三振に討ち取ったのだ。
「よっしゃあ!」
 近鉄ファンは思わず立ち上がった。
「クッ・・・・・・!」
 阪急ファンはそれに対して思わず歯噛みした。あまりにも対照的であった。
 阿波野はこのシーズン二年目であった。その投球は新人王と獲得した一年目から大きく成長していた。
「投手の肩は消耗品だ」
 この年から投手コーチに就任した権藤博はまずこう言った。
「あまり投げる練習をするな。最低限でいい。それよりも足腰を鍛えろ」
 連投により短いものに終わった自身の選手時代から得た経験でこう教えたのだ。実際にトレーニングはランニング主体のものとなっていった。
 これが阿波野には大きなプラスとなった。スタミナが飛躍的に伸びたのだ。
 そして権藤は投手陣に対してこうも言った。
「四球は四つ出して一点だ。だからそれ程怖れる必要はない」
 これが投手陣にとって精神的に大きな余裕になった。
「四球を怖れてコントロールに乱れが生じたらそれだけで駄目だ。甘いところに入ってホームランを打たれたら何にもならない」
 権藤はここでも独自の理論を展開させたのだ。
 これに気を楽にした投手陣はかえってノビノビと投げた。ピッチャーが繊細なものであることをよく認識しているからこそ言える言葉であった。
 彼は時には仰木と衝突した。それは投手を庇ってのことであった。
「どんなチームに勝っても一勝は一勝だ。西武にこだわる必要はない」
 彼の意見はこうであった。西武を何としても倒そうとする考えは同じでも一勝に対する考えは違っていたのだ。
 仰木の采配は知略ではあった。だがそれは師である三原脩のそれに近いものであった。『仰木マジック』とさえ呼ばれていた。
 権藤の考えはこれとは違う。彼もまた独自の考えを持っていた。
 これには元々のポジションが関係していた。仰木はピッチャーとして入団したが現役時代はセカンドであった。
 それに対して権藤はピッチャーだ。野手に転向したりもしたがやはり彼はピッチャーであった。その独自の指導も投手の視点からくるものであった。
 権藤は流れを重要視する。仰木は時として流れを強引にこちらに引き寄せようとする。
 これはどちらが正しいとは言えない。だからこそ二人は衝突するのだ。ピッチャーとセカンドでは見るものが全く違ってくるのだ。
 権藤の考えは投手陣にとっては有り難い。だが仰木にとっては目の上のタンコブだ。二人の亀裂は次第に深まっていくのであった。
 阿波野はその権藤の考えに深く感じ入っていた。そしてその愛弟子とも言える存在であった。
「よくやった」
 彼は帰ってきた阿波野に声をかけた。
「今日の調子なら大丈夫だ」
 さりげなく安心させる言葉もかけた。
「有り難うございます」
 それが阿波野には有り難かった。彼は落ち着いた様子でベンチに座った。
「さて」
 ここで権藤はマウンドに顔を移す。そこには星野がいた。
「今日の星野もまたいいな」
 彼は星野の投球を見ながら呟いた。
「今日は投手戦になる」
 二人の調子からそれはすぐにわかった。
 小雨が降っている。こうした日は投手の肩が心配だ。
「この程度の雨ならまだいいが」
 それでも肩は心配だ。見れば阿波野は既にトレーナーを上から着ている。投手として当然の心がけであった。
 権藤はそれを見て安心した。肩が冷えるのは安心していいようだ。
「だが」
 もう一つの気懸りがあった。それは相手の打線のことである。
 阪急は伝統的に打線が強いチームだ。この試合も主砲ブーマーこそいないもののパワーのある打者が複数いた。長打が怖い。
「特に」
 権藤はここでベンチにいる一人の男を見た。この試合四番指名打者として出場している石嶺和彦だ。その長打力はパリーグでも屈指のものである。
「あの男は要注意だな」
 権藤は石嶺から目を離さなかった。そして彼の危惧は的中した。
「策を出せないな」
 仰木は顔に陰をささせていた。こうした試合では中々動けない。それが彼にとってはいささか不愉快であった。
 試合は進む。六回裏阪急の攻撃である。
「さて、どうなるかな」
 権藤は呟いた。この回は二番からはじまる。当然四番の石嶺には確実に回ってくる。
 まずはワンアウトをとった。三番の松永浩美だ。
「この男も怖い」
 スイッチヒッターでありながらパワーも併せ持っている。技巧派が多いスイッチヒッターだがこの松永は別であった。その身体能力はズバ抜けたものであった。
 その松永が三遊間を抜くヒットを放った。一塁に進む。
「松永は足もあるな」
 盗塁王も獲得したこともある。そうした意味でも厄介な男であった。
 しかし阿波野は左投手である。そして牽制球には定評があった。それは安心できる。
 松永は走ってはこない。阿波野の牽制球を警戒してのことだった。
「芸は身を助ける」
 ランナーに気をやる分をバッターに向けることができた。打席には石嶺がいる。
「ここで決まる」
 権藤は言った。その目は阿波野と石嶺から離さなかった。試合の流れからいって石嶺に長打が出ればそれだけで試合が決まってしまう、それが嫌になる程よくわかった。
 一球目はファ−ルになった。まずはストライクを一つ稼いだ。
 二球目だ。阿波野は詰まらせるつもりだった。
「ゲッツーだ。それでこの回を終わらせる」
 胸元へのストレートを投げた。ベルトの高さだ。
「これなら確実にアウトにできる」
 近鉄内野陣の守備ではいける。ましてや石嶺は膝の故障を経験しており脚は遅い。転がせればそれで終わりだ。
 投げた。ストレートだ。
 だがコントロールが狂った。ボールは左にそれた。
「まずい!」
 阿波野も権藤もそれを見て咄嗟に思った。石嶺の目が光った。
「真ん中だ!」
 言わずと知れた絶好球である。打てない筈がなかった。
「行け!」
 打球はそのままレフトスタンドへ向かっていく。そしてその中に消えていった。
「よし!」
 石嶺は一塁ベースコーチと手を叩いた。そしてダイアモンドを回る。
「しまった・・・・・・」
 阿波野は呆然としていた。思いもよらぬ失投だった。ボールが入ったスタンドから目を離さない。
 だがまだ諦めてはいなかった。左腕にはロージンがあった。
「打たれたが」
 権藤は彼より早く立ち直っていた。そして阿波野がロージンを持っているのに気付いていた。
「まだ投げるつもりか。ならいい」
 彼はそれを見て仰木のところに行った。
「阿波野は続投です」
「続投か!?」
 彼は丁度この時替えようかと考えていたのだ。
「まだ目は死んでいません。これからはそうそう打たれませんよ」
「そうは思わへんがな」
 彼は顔を曇らせていた。
「ここは阿波野に任せて下さい。あいつ以外には今日のマウンドは務まりませんよ」
「そう言うけれど今日はな」
 何としても勝たなければならない、そう言おうとした。
「わかってますよ」
 だが権藤はそれよりも前に行った。
「ですから阿波野に投げさせるのです。ここで交代させてもそのピッチャーが打たれます」
「そう言うけれどな」
 権藤はここでは何も言わなかった。だがスッと顔を右に傾けた。
「!?」
 するとそこにはベンチに座る選手達の顔があった。当然そこには控えのピッチャー達もいる。
 見れば皆顔が硬かった。明らかに疲れが見える者もいた。
(こういう試合やからか)
 仰木はそれを見て思った。今日は優勝への大きな足掛かりとなる試合だからだ。
 そうした試合はどうしても緊張してしまう。思えば彼が現役時代優勝した時もそうであった。
(あの時は監督が色々言うてくれたがな)
 三原はそうした選手の心理を読むのが神技的に見事だった。それが伝説的な知略に繋がっていたのだ。
 それが仰木もよく覚えている。今選手達の顔を見てそれを思い出したのだった。
「・・・・・・わかった」
 彼はようやく頷いた。
「ここは阿波野に任せるで」
「はい」
 権藤はそれを聞きこれでいい、と思った。
 こうして阿波野続投が決まった。彼は権藤の予想通り後続を何なく断ち切った。
「だが流れはこれで大体決まってしまったな」
 それが彼にとっては残念なことであった。
「あとは打線に期待するしかないが」
 今日の星野の投球を見る限りそれは難しかった。
 その次の回近鉄の攻撃である。まずはオグリビーがツーベースを放つ。そこで鈴木がセンター前にヒットを放つがオグリビーの脚は遅い。残念ながら三塁で止まった。次の山下は四球となった。これでツーアウトながら満塁となった。
「羽田と梨田は仕方ないな」
 この二人も出たが星野に抑えられてしまった。打席にはここで真喜志康永が入る。
「打って欲しいが」
 だが真喜志は打撃は悪かった。あくまで守備の男である。打率は二割にも達していない。ましてや今日の星野を攻略できるとは到底思えなかった。
 仰木は動かなかった。代打を送ろうにもまだ早い。それに真喜志の守備を考えるとやはり必要だった。
「ここは仕方ないか」
 真喜志に代打は送らなかった。もし代打が打てたにしてもそれからの守備を考えると怖かった。エラー等での失点は終盤では致命的になるからだ。
 やはり彼は星野を打てなかった。空振り三振に仕留められてしまう。
「やはりな」
 仰木も権藤も当然の様に受け止めた。そして次の機会を待つことにした。
「あればやな」
 今日の星野の調子を見るかぎりそれは望み薄であった。仰木はさらに表情を暗くさせた。
 試合はそのまま進む。八回にはブライアントがホームランを放つ。これでい一点差となる。
 攻撃はさらに続く。オグリビー、羽田の連打で一気にチャンスを作る。二、三塁だ。
「よし」
 仰木はここで動いた。鈴木の代走に送っていた安達俊也に代打を送る。尾上旭だ。
 だがその尾上が三振に終わった。やはり今日の星野は打てない。
「いつも思うがあれだけ遅いとかえって打ちにくいな」
「はい」
 権藤もそれには同意した。星野がピッチャーとして活躍しているのはひとえにこのあまりにも遅いボール故であったのだ。
「球種もそれ程多くはないのに」
 フォークとスローカーブ位しかない。だがそのボールが曲者であったのだ。
 特にスローカーブは絶品であった。コントロールと投球術がそれを支えていた。
 どうにもなるものではなかった。結局試合はそのまま終わった。両投手の力投が光った試合であった。だが近鉄にとってはあまりにも痛い敗戦であった。
「負けたか」
 仰木は一言呟くと背を向けた。そしてベンチか消えた。
「・・・・・・・・・」
 権藤はその背中を見送っていた。彼も一言も言葉を発しない。
「三勝か」
 権藤はようやく言葉を出した。あまりにも思い言葉であった。
 口に出すのは容易い。だが実際に行うとなれば非常に難しい。だが諦めるわけにはいかなかった。
「残り試合全て勝つ!」 
 選手達は満身創痍の状況でもまだ立っていた。彼等は最後の最後まで諦めてはいなかった。
 負けるわけにはいかなかった。だがそれは近鉄だけではなかった。
「うちも負けるわけにはいかんかったんや」
 上田は試合が終わった後ポツリ、と言った。
「近鉄の事情はよくわかっとるわ。しかしな」
「しかしな!?」
 記者達はその言葉に注目した。上田の顔が一瞬泣きそうなものになったからだ。
「いや、何でもあらへん」
 上田はそれに対して首を横に振った。
「けれどすぐわかるかもな」
 それだけ言い残して球場から消えた。
「上田さんどうしたんだ!?」
 記者達はそんな彼の背を見ながら首を傾げていた。
「まるで奥さんに死に別れたみたいな顔をして」
「ああ、そういう顔だったな、さっきのは」
 彼等はこの時にはまだ知らなかったのだ。二日後のもう一つの舞台を。
『阪急ブレーブス、オリックスに身売り』
 その衝撃的なニュースが川崎球場の死闘と共に日本中を駆け巡った。記者達はこの時ようやく理解した。
「だから上田さんあんな顔しとったんか・・・・・・」
「そら悲しいやろな・・・・・・」
 彼等も上田の心情を察した。彼にとって阪急は何にも替え難いものであるのは言うまでもないからだ。
「残念なことやけれど事実や」
 上田は選手達にそのことを説明した。しかし涙は流さなかった。
「球場はここや。今までと同じようにやったらええ」
「はい」
 選手達は頷いた。だがそれでもその心は動揺していた。
 阪急百貨店にあった阪急の選手達の写真も全て取り外された。かっては宝塚の女優達と共に百貨店を飾っていたものがなくなってしまった。
「寂しいもんやな」
 阪急ファンはそれを何とも言えない悲しい気持ちで見ていた。それを遠くから見る一人の白髪の老人がいた。
「これも運命なんかの」
 かって阪急を率いた闘将西本であった。阪急は彼が育て上げた球団であった。
 彼が育てたもう一つの球団近鉄は川崎で無念の涙を飲んだ。あの日は彼にとって忘れられないものであった。
「しかし阪急やなくなってもブレーブスはブレーブスや。そして」
 彼は言葉を続けた。
「その名前が変わってもその心までは変わらへん。わしの愛した球団や」
 西本はそう言うとその場を立ち去った。そしてその場を立ち去った。
 このことは上田にも伝わった。
「西本さんがそんなこと言うてたんか」
 彼もまた西本に育てられた男である。彼のことはよく知っていた。
「有り難い。その言葉一生忘れまへん」
 上田はこの時になりようやく目に熱いものを宿らせた。
「例え阪急やなくなっても野球をするのはわし等や。こうなったら最後の最後まで阪急の、わし等の野球をしますわ」
 そしてその目のものを拭いた。
 彼はベンチに向かった。そこでは選手達が上田を待っていた。阪急のユニフォームだ。
「皆」
 上田は彼等を見てまず声をかけた。
「練習や。まずはいつも通り準備体操からや」
「はい」
「そしてそれからランニングや。いつも通りいくで」
 彼の顔は微笑んでいた。
「これからもそうや。いつも通り毎日練習して試合するで!」
「はい!」
 選手達は力強く頷いた。そして一斉にベンチを出た。
 彼等はそれぞれ準備体操をしている。それを見る上田の目は温かいものであった。
「これでええ」
 彼は笑っていた。
「わし等がおる限り阪急ブレーブスの心は永遠に残る。例え名前が変わってもこの球場やなくてもな」
 チラリとスタンドを見る。もうシーズンオフで試合もない為客はいない。
「だからずっといつもと変わらん野球をやる。そして全力を尽くす」
 選手達は準備体操を終えていた。そしてランニングを開始した。
「ランニングやからって気を抜くんやないで!一生懸命走るんや!」
 彼は選手達に檄を飛ばした。
「来年は優勝や!そしてこの西宮のお客さんに優勝旗見せたるんや!」
 彼の言葉が球場に響いた。それは永遠に西宮に残るようであった。
 死闘を終えた近鉄は藤井寺に帰っていた。そして彼等もまた西本の話を聞いていた。
「西本さんしか言うことができへん言葉やな」
 仰木はそれを聞いて呟いた。
「あの人にしか言われへん、ホンマに重い言葉や」
 彼は腕を組んでそう言った。
「そしてそれはうちにも言えるな」
「近鉄にもですが」
 権藤はそれを聞いて尋ねた。
「そうや。わしもあの人にはよう教えられたもんや」
 彼は長い間近鉄のコーチをしていた。西本の下でもコーチを務めていた。
「三原さんとはまた違う。ホンマに頑固でおっかない人や」
 鉄拳制裁なぞ日常茶飯事である。かって陸軍において高射砲部隊の将校として戦っていたのは伊達ではなかった。烈火の様に激しい気性の持ち主である。
「しかしそのおっかなさは優しさと同じや。心から野球も選手達も愛しとった」
 西本により近鉄も変わった。多くの選手達が彼に育てられた。
「わしもあの人には今まで気付かんかったことをよく見せてもらった。そして今のわしがあるんや」
 仰木の采配はただ三原のコピーをしているだけではない。そこには西本の野球も入っていたのである。
「この近鉄も同じや」
「近鉄もですか」
「そや。うちも西本さんが作り上げた球団やからな」
 そう言う仰木の目の前では選手達がそれぞれ練習に励んでいる。投手陣はランニング、野手陣はバッティング練習で汗を流している。
「よし、その調子や!」
 シート打撃では打撃コーチの中西太が選手達に声をかけている。彼は西鉄時代チームの主砲であり『怪童』とさえ呼ばれた。仰木の同僚であったのは言うまでもない。
 中西の打撃理論は定評がある。彼もまた多くの選手を育てている。
「この近鉄の野球もまた独特なもんがある。打線が強いとは言われとるな」
「はい」
 近鉄の看板であるパワー打線を作り上げたのも西本であった。『いてまえ打線』とも呼ばれる強力打線は近鉄の代名詞であるがそれも西本により作り上げられた。
「厳しくて激しい練習やったで。けれどそこからあの打線が出て来たんや」
 七十九年、八十年いてまえ打線は派手に暴れ回った。そして見事優勝をもぎ取ったのだ。
 それが近鉄のカラーとなった。おそらくかっての貧打線を知っている者はもう少ないであろう。
「昔は全然打たへんかったのにな」
 仰木はそれに言及した。
「変われば変わるもんや。これも西本さんのおかげや」
 西本道場とまで呼ばれた。極寒の中の練習で近鉄も変わったのだ。かっての阪急がそうであったように。
「これだけは変わることはあらへん。わし等がおる限りはな」
 仰木はここで上田と同じ言葉を口にした。上田がそれを言ったことは知らなくとも。
「我々がですか」
「そうや」
 仰木は彼にしては珍しく強い口調でそう断言した。
「見てみい、選手を」
 彼は選手達を指差した。
「あの連中にもそれはある。近鉄の、西本さんの志はあいつ等がおる限り消えはせんで」
 仰木はにこりと微笑んだ。そして選手達に対して言った。
「野球は来年もある。まだまだ終わりやないで!」
 そして言葉を続けた。
「来年こそは優勝や!そして日本一になるで!」
「はい!」
 選手達の声が聞こえた。それは藤井寺を包んだ。
 近鉄の野球も永遠である。それは選手とファンがいる限り永遠に残る。例え愚劣な輩が姦計を弄してもだ。
 二つの意地が激突した。だがそれは散らなかった。それは何時までも野球を、近鉄と阪急を愛していた者の心に残っているのだ。そしてこの二つの球団もそれと共に永遠に残る。野球を愛する者がいる限り。野球を愛する者は野球を冒涜する者には決して敗れはしないのだ。

二つの意地    完


                                 2004・9・4

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