三年目の花
「一年で種を撒き、二年で水をやり、三年で花を咲かせる」
 野村克也はヤクルトの監督に就任した時にこう言った。これを聞いて多くの者は笑った。
「幾ら何でも無理だろう」
 そう思っていた。
 この時ヤクルトは確かに若手が成長してきていた。だが優勝する戦力にはないと誰もが思っていた。
「確かに前よりは強くなったな」
 以前のヤクルトは万年最下位のしがない弱小チームであった。三試合して一勝すればいい、そうした雰囲気があった。当時最下位にはならなかった。阪神という他を寄せ付けない程の弱さを誇ったチームがあったからである。流石に阪神よりは強い、と冗談で言われていた。
「弱いからヤクルトが好きなんだ」
 こういったやせ我慢めいた台詞もあった。マゾヒズムと言えばそうなる。ヤクルトファンもヤクルトも長い間馬鹿にされていた。
彼等を最も馬鹿にしていたのが『自称球界の盟主』とその信者共であった。
 所詮この連中は野球を愛してなぞいない。そこまでの品性も知能もない。ただ長嶋や王を見ていればそれでよく偽紳士が勝つのを見たいだけである。劇場化された正義、いや偽善に酔いしれているだけなのである。
 そうした連中の嘲りにどれだけ耐えただろう。ファンは来る日も来る日もヤクルトを応援していた。
 だが弱いのは確かだった。チームの雰囲気はいい。フロントと選手の関係は他球団とは比較にならない位良好であった。ヤクルト程そうしたことに恵まれているチームはなかった。
 しかしそれは強さとは結びつかない。プロとしての気迫に欠けていたのだ。それはヤクルトのチームカラーと言ってしまえばそれまでだ。そういった執念を見せるチームではなくあくまで野球を楽しんでいるチームであった。
 そのカラーは野村の前任者関根潤三の時もそうであった。彼は戦術よりも育成に興味のある人物であった。
 彼はまずは若手の広沢克己、池山隆寛に目をつけた。試合前のバッティング練習は目を細めて見ていた。
「あいつ等は去勢しちゃ駄目なんだ」
 そう言って打席でも思いきり振らせた。三振してもよかった。それで関根は怒らない。ただし弱気なプレイには怒った。
「監督は消極的なプレイには厳しかったですね」
 こうした意見がよく出てきた。彼によりヤクルトの選手達は育てられていたのだ。
 そこに野村が入った。彼は当初ヤクルトに合うかどうか危惧されていた。
「関根さんは明るかったけれど野村さんはなあ」
 こうした意見があった。野村はその外見と囁き戦術等に見られる独特の知略からとかく陰気な人物と思われていたのだ。これは仕方ない一面もあった。そうした戦術を使うのは事実であるからだ。
 しかし野村程その実像を知られていない人物もそういない。彼は実際はなかなか洒落とユーモアのわかる人物なのだ。
「わしは陰気な男やからな」
 よく笑ってこう言った。自分を図々しくひねくれた人間であるとことさらに主張する。だがその本質は違うのだ。
 彼と長年に渡って戦ってきた闘将西本幸雄は彼を高く評価していた。こういう話がある。
 野村が南海の監督を解任され孤立無援の状況に陥った時のことである。新年の年賀状に当時近鉄の監督をしていた西本からのものがあった。そこには筆でこう書いてあった。
『頑張れ』
 と。西本は野村に何としてもこの苦境を乗り切って欲しかったのだ。
 西本は野村のことをよく知っていた。決して嫌いではなかった。だからこそ励ましたのだ。これが西本であった。彼はただの闘将ではなかった。人間としての度量の広さと温かさも併せ持っていたのだ。
「西本さんはわしを買い被ってくれとるわ」
 そう言いながらも西本への感謝の気持ちは決して忘れなかった。野村は西本に対してはあくまで誠実かつ謙虚に対応している。
「野村さんはああ見えても優しいんですよ」
「いい人ですよ。繊細で」
 こうした意見も多い。彼を知る者はよくこう言う。
「あの人ははにかみ屋かんですよ。だからわざとあんなことを言う」
「本当は困っている人を見捨ててはおけない。そういう人なんですよ」
 人生の辛酸を舐めてきた。だからこそであった。そして彼は心から野球を愛していた。
 暇があればテレビで試合を見る。高校野球もだ。彼は野球に全てを捧げていた。
 これについてもとかく言う人がいる。だが彼を批判する者は彼を全く知らないからだ。彼は野球を本当に愛しているのだ。
「愛とかそういった言葉はわしには合わへんな」
 そしてまた減らず口を言う。しかし常に野球のことを考えている。
「ほんの球遊びや。しかしそれが本当に難しくて楽しいんや。だから野球を止められへん」
 誰よりも野球を愛している彼はヤクルトの監督になっても当然の様に野球のことだけを考えていた。目指すのは一つしかなかった。
「優勝や」
 そして三年目で優勝する、と言ったのだ。
 ヤクルトで、である。巨人の様なチームではない。もっともこの当時の巨人は投手力を中心としたスマートなチームであり監督である藤田元司も至極まともな人物であった。あの『史上最強打線』という愚劣極まる滑稽な程醜悪で奇怪な看板を掲げた荒唐無稽な異常極まる打線を掲げたりはしなかった。この様なもので悦に入ることができるのは野球を冒涜しているからに他ならない。
 また当時のセリーグには巨人に匹敵するチームもあった。広島や中日も強かった。とりわけ広島の粘りは驚異的なものであった。
 そうした状況であった。野村は人材を着実に育てていった。まずは司令塔である。
 この時ヤクルトのキャッチャーは秦真司であったが彼はそれに満足していなかった。
「もっとええキャッチャーが必要や」
 ヤクルトの打線は揃ってきている。守備は池山のそれは雑だが運動神経がかなりいいのでショートは問題ない。セカンドの笘篠賢治はいい。ニ遊間はしっかりしている。サードのハウエルも普通に守備範囲こそ狭いが肩はそこそこある。ファーストの広沢が不安だがニ遊間がしっかりしていれば問題ない。
 外野は飯田哲也がいる。キャッチャー、セカンドとめまぐるしくコンバートしていたがその俊足と強肩を買った。彼をセンターに置けば守備はかなり固くなる。レフトには荒井幸雄だ。そして問題の秦はライトにした。
「守備は不安やがな」
 だがその打撃を買った。何よりも彼は貴重な左打者である。勝負強さと共にそれを考慮した。
 攻撃にもなかなか秀でていた。しかしそれだけでは勝てない。ヤクルトの弱点はそれではないのだ。
 投手である。人材がいなかった。
 エースには岡林洋一がいる。そして西村龍次。伊東昭光に内藤尚行。先発は数はいた。だが岡林以外は確実な人材はいない。甚だ心許なかった。
 それをカバーするにはやはりキャッチャーであった。その弱体投手陣を上手くリードし、勝利に導くことのできるキャッチャー。野村はそれ以上のものを考えていた。
「野球はまずキャッチャーからや」
 キャッチャー出身である彼の持論であった。野村はキャッチャーをリードするだけの存在とは考えていなかったのだ。
 リードやキャッチング、肩だけではない。グラウンド全体を見ることができ、的確な指示を出せるキャッチャー。文字通りの『司令塔』を欲していたのだ。
 それに白羽の矢を立てたのが古田敦也であった。野村は彼を徹底的に鍛えた。
「わしはグラウンドにまで指示を出すことはできん。あとは選手の問題や」
 その指揮官である。彼の采配や考え方を叩き込んだのだ。
 送球フォームもチェックした。打撃も。時にはロッカーの抜き打ち検査までしている。キャッチャーの在り方を教える為である。
「キャッチャーは繊細なもんや。そうでなくては指示も出すことはできへん」
 野村のキャッチャーの考え方は決して強気ではない。リードも作戦もデータに基づいた緻密なものであった。ここは強気のリードを旨とし、ピッチャーに怒声を浴びせることもあるダイエーの城島健児やかっての近鉄の有田修三等とは少し違う点である。
「つっぱり過ぎたら折れるもんや」
 野村はそういうところがあった。強引な采配やリードは好まなかったのだ。
 古田の考えにそれは大いに生かされた。そして彼は名実共に司令塔、そして野村の後継者としての地位を築いていったのである。
 人材はともかく揃った。そして野村率いるヤクルトは三年目の公約を果す為に出発した。目指すは一つ、優勝である。 
 だが下馬評は低かった。毎年のことで最早食傷気味であるが予想は誰もが彼もが巨人。そして対抗馬には広島や中日である。誰もヤクルトなどとは予想していなかった。 
 実際に野村もそれは危惧していた。特にストッパーがいないのだ。
「開花が遅れるかも知れへんな」
 野村も開幕直前に呟いた。かって江夏豊をストッパーに抜擢した彼である。ストッパーの不在がどれだけ深刻な問題であるか痛感していた。
 それが早速顕著に現われた。ヤクルトは継投に四苦八苦することになる。
「五点差守ることの出来ないストッパーなんてはじめて見たぞ」
「これが甲子園なら野村さん死んでるぞ」
 温厚なヤクルトファンはこの程度では怒鳴らない。怒ってはいても阪神ファンの様に過激にはならない。阪神ファンの熱狂ぶりは今更言うまでもないだろう。
 そう、阪神である。このチームは前年もその前の年も最下位であった。かっての優勝は最早遠い昔のことであった。この五年間で何と四回も最下位を経験していた。常に話の種になる程弱かった。弱いからこそ阪神だともまで言われていた。
それ程までに弱かったおだ。時には一〇〇敗まで言われる始末であった。全てにおいていいところがなかった。将にセリーグのお荷物であった。ヤクルトを最下位に予想する者は殆どいなかった。だが阪神の最下位はほぼ全員が確信を以って予想していた。
「首位はわかりませんがこれだけは確定です」
 こう言う者までいた。
「今年もやってくれるでしょう」
「高校野球の優勝チームの方が強いかもな」
「論外!」
 皆阪神の盛大な敗北を願っていた。そうでなくては面白くはなかった。阪神は幾ら惨敗しても許された。それが話の種になるからだ。敗北しても人気があるのが阪神の不思議なところであるが。その敗北の仕方があまりにも素晴らしい、だから阪神ファンは止められないというファンまでいる。勝った時の喜びはそれだけにひとしおであるらしい。
 この前の年の阪神も見事であった。六月には十連敗の後で一勝したがそこから華麗に七連敗を達成した。しかもその最後はよりによってこのヤクルトに十九対三で惨敗したのだ。関西、いや日本全国に散らばる阪神ファン達はこれに対し血の涙を流した。
「よりによってヤクルトに・・・・・・」
 無論この年も宿敵巨人には負け越している。
「かっては散々遊んでやったちゅうのに」
 しかしヤクルトは歯牙にはかけていなかった。しかしそのヤクルトに徹底的にコケにされたのだ。
 野村はここぞとばかりに嫌味を言った。彼の毒舌は巨人に対するよりも阪神に対する方が遥かに辛辣であった。
「御前は阪神に恨みでもあるんか!」
「阪神が御前に何かしたか!」
 黒と黄色のファン達が血涙を流しながら叫ぶ。野村はそれを聞きながら毒舌を発揮し悦に入るのであった。
 彼がもし巨人の監督だったならば命はなかったであろう。だが阪神ファンというのは不思議な人種であり巨人以外に対しては極めて寛容なのである。野村も恨みこそ買えど極端に憎悪されてはいなかった。
 ともかくこの年も阪神は最下位になることを予想されていた。記念すべき三年連続の最下位は最早十月を待たずして、いや三月で既に確実視されていた。
 バースもいない。江夏も村山も過去の伝説であった。最早阪神は何もなかった。いよいよか、皆その期待に胸を膨らませていた。しかしそれは見事なまでに裏切られた。
「もうダメ虎やないぞ!」
「わし等かてやれるんや!」
 それはかってのX戦士達が言った言葉ではなかった。いないと思われていた若手の選手達からのものであった。
 阪神は復活した。何の前触れもなく、だ。まずその先陣を切ったのは亀山努であった。
「前へ!前へ!」
 ヤクルトとの四月五日の戦いであった。試合はヤクルト岡林、阪神は猪俣隆の先発であった。二人は好投し八回まで二対ニの同点であった。だがこの回の裏に広沢のホームランが飛び出す。
「こっからが肝心や」
 野村は冷静な声で呟いた。
 ヤクルトの中継ぎ、抑えは弱い。だが阪神には多彩な変化球を誇る左のサイドスロー田村勤が抑えとしていた。一度逆転されると攻略するのは困難だ。しかし阪神ファンは既にその怒りに火を点けていた。
「また神宮で負けるんかい!」
「何回ここで負けたら気が済むんじゃ!」
 早速罵声が飛んでいる。とにかくヤクルトにはいつもの様に惨敗していた。甲子園でも神宮でも同じだ。どっちにしろ負けるのは気分が悪い。
 野村の危惧は不幸にして的中した。九回の土壇場で同点に追いつかれてしまうのだ。好機到来と見た阪神の監督中村勝広は動いた。
「代走、亀山」
 ここで亀山の名を告げたのだ。
「亀山!?」
「誰やそれは」
 見れば一塁に見知らぬ眼鏡の選手がいる。三塁側の阪神ファン達も首を傾げている。
「おい、あいつは誰や」
 野村が側にいるコーチ達に尋ねる。
「ええと」
 問われたコーチの一人が阪神のデータを調べる。そしてようやくその名前を発見した。
「若手の外野手ですね。今年から二軍に上がって来ました」
「今年からか」
「はい。どうやら足は速い様ですね」
 そのコーチはデータを見ながら野村に言った。
「あいつの武器は足か」
「そうみたいですね。その他はこれといって詳しいデータは」
「ふむ」
 野村はそこまで聞いて頷いた。
「どんな奴かはこれからわかる、ちゅうことやな。まあ今は様子見や」
「はい」
 野村はグラウンドに顔を戻した。そしてサインを出す。一応亀山の足に警戒するようナインには伝えた。
 続くバッターは八木裕である。彼のヒットで亀山は二塁に進む。そして問題は次の彼のとった行動であった。
 ベテラン真弓明信がレフト前に打つ。ここで彼は三塁を回った。
「回るか!」
 野村はそれを見て思わず声をあげた。レフト前だ。捕殺される可能性は高い。
 荒井はボールを上手く処理した。そしてホームへ送球する。だが亀山の足はそれよりも速かった。
「何ちゅう速さや!」
 それを見た三塁側スタンドが興奮の坩堝に覆われる。ホームでは古田が完全な防衛体制を整え彼の突入に備えていた。だが亀山はそれにも関わらず敢然と突撃する。
 ボールが返る。だが亀山はホームに突入していた。微妙な状況であった。
「アウト!」
 判定は亀山にも阪神にも不本意なものであった。一塁側は歓喜したが三塁側は声を失った。しかし一人声を失っていない男がいた。
「何でこれがアウトなんじゃ!」
 何と当の亀山本人が昂然と審判に対して詰め寄ったのである。一見大人しそうな外見であったがそれは外見だけのことであった。
 その思いもよらぬ行動にファンは一瞬呆然となった。だが彼等は日本一熱狂的な阪神ファンである。火が点くのは実に早かった。
「そうやそうや!」
 すぐに亀山に同調しだした。
「亀山、もっと言うたらんかい!」
「あれは絶対にセーフや!」
「審判、われどこに目をつけとるんじゃ!」
 彼等は口々にブーイングをする。どの国のサポーターよりも激しかった。
 中村も出て来た。監督としての役職上彼を止めざるを得なかった。
「それ位にしとけや」
「けれど監督」
「ええから。御前の気持ちはよおわかった」
 中村は誠実で生真面目な人柄で知られている。その彼に言われると亀山も黙らざるを得ない。
「わかりました」
「よし、じゃあそれを次に向けてくれ。ええな」
「はい」
 こうして亀山はベンチに下がった。だが彼の抗議はそれで終わりではなかった。 
 その瞬間から阪神ナインの目の色が変わった。彼等は忘れていたものを思い出したのだ。
「今日は負けやな」
 野村は三塁ベンチを見て呟いた。
「しかも今日だけやないな。今年の阪神はひょっとしたら巨人よりも厄介な相手になるかも知れへんな」
 彼の予想は当たった。試合は延長戦になり阪神は見事三点をもぎ取った。その中には亀山のヒットもあった。
「おい、勝ったで!」
「亀山、出て来い!」
 三塁側はお祭り騒ぎであった。彼等は意外な勝利をもたらした無名の男の名を叫んでいた。
 これで阪神は勢いに乗った。しかもチームを引っ張ったのは亀山だけではなかった。
 助っ人のトーマス=オマリーにジェームス=パチョレック。二人の助っ人が打線の主軸となる。そして八木もいた。それだけではなかった。
 二十歳のこれまた無名の男新庄剛志。彼が背番号がライトスタンドからも見える程の派手なスイングで初打席でホームランを出す。彼は足も肩も一流であった。守備も恐ろしいものであった。
「何だ、あいつの身体能力は」
「これはまた凄い奴がおったもんや」
 阪神ファンにとっての嬉しい誤算は終わらない。ショートの久慈昭嘉、キャッチャーの山田勝彦。若き虎の戦士達が打線を作り上げていた。そこに投手陣が上手く噛み合った。
 左の仲田幸司、右の中込伸。左右のエースに加えて技巧派の湯舟敏郎、バランスのとれたエースナンバーの野田浩司。猪俣と山田、葛西稔もいた。投手陣はヤクルトよりも上であった。これが阪神の強みとなった。安定した投手陣がここで獅子奮迅の働きをしたのだ。
 湯舟はノーヒットノーランも達成する。投打が噛み合った阪神とヤクルトは何時しか激しい死闘を演じていた。
 主役は巨人ではなかった。ここで実に不思議な現象が起こった。
『野球がつまらなくなった』
 前のシーズンからこうしたことがマスコミに書かれるようになった。特に読売の系列において。野球ファンはそれを見て首を傾げたものである。
 真相は単純明快である。単に巨人が優勝しないだけである。姑息かつ愚劣な行為であった。
 野球は巨人だけではない。巨人こそ球界の盟主と思い込んでいる愚か者は残念なことに実に多い。この連中は野球を好きなのではない。巨人さえよければいいのである。腐敗した愚か者共なのだ。
 翌年から巨人に長嶋茂雄が復帰すると急にこうした記事は消えた。その代償はマスコミのさらなる巨人偏重報道である。まるでどこかの国の将軍様の礼讃記事を彷彿とさせる記事まで散乱していた。関東ではそれが特に甚だしかった。
 球界が巨人のものと思い込んでいる輩は日本球界の癌に他ならない。この連中が日本の野球を腐敗させたのだ。この連中は知能が低い。その為他のチームの野球なぞ見ることが出来ないのだ。こうした連中は一刻も早く掃討されねばならないのは言うまでもない。
 だがヤクルトと阪神はそうした連中を嘲笑うかのように激しいデッドヒートを演じた。ペナントは完全に彼等のものとなっていた。
「どちらが勝つかな」
「阪神だろ。勢いが違う」
「いや、野村の頭脳が勝つ」
 真に野球を愛する者達はそう話をしていた。彼等にとって巨人は最早惨めな敗残者でしかなかった。巨人はこのシーズン優勝戦線から脱落していった。ヤクルトは後半戦が幕を開けるとすぐに首位に立った。
 だがこの九月が鬼門となった。
 勝てない。急に勝てなくなったのだ。野村の持論としてこういうものがある。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
 やはり投手の駒不足がここにきて出て来たのだ。
「所詮ヤクルトは打つだけだからな」
「岡林と西村だけの投手陣だよ」
 シュートを得意とする川崎憲次郎は故障していた。ストッパーに回した内藤もだ。岡林をフル回転させ、伊東と西村に先発を頼っていた。時にはルーキーである石井一久まで使っていた。
 特に阪神との戦いで苦戦した。十一日の甲子園での戦いは特に激しいものとなった。
 長い戦いとなった。三回を終わって三対三。試合はここから動かなかった。
 ヤクルトは七回から岡林を投入した。負けが続いている。その流れを何としても断ちたかった。この時彼はこの試合が後々まで語られるものになるとは夢にも思わなかった。
 九回裏ツーアウトランナーなし。ここで打席には八木が立つ。八木はバットを思いきり振り抜いた。
「大きいぞ!」
 それを見た甲子園を埋め尽くす阪神ファンは思わず顔を上げた。
「入るか!?」
「入ってくれ!」
 皆口々に叫ぶ。そして打球の行方を追う。
 打球はそのまま上がる。飛ぶ。ファンはその動きを見てその顔を次第に綻ばせた。
「入れ!入れ!」
 だが微妙なところであった。甲子園は広い。そして波風もある。ホームランを打つにはコツが必要なのだ。かって阪神でホームランアーチストとまで謳われた田淵幸一もあの伝説の優勝をもたらした助っ人ランディ=バースも波風に乗せて打っていた。この風が思わぬ曲者なのだ。
 打球はゆっくりと飛ぶ。そしてスタンドに入った。
「よっしゃあああああああーーーーーーーーっ!」
 一塁側だけではない。甲子園はその全てが阪神ファンに支配されている。球場全体が歓声で揺れた。 
 お立ち台が用意される。阪神ナインもファンも殊勲打を放った八木を迎える。阪神にとって非常に大きな一打であった。
 そう、ホームランだったならば。
 審判達が集まりはじめた。そして何かを話していた。
「ん!?あいつ等何話しとるんや!?」
「まさか八木のホームランにいちゃもんつける気ちゃうやろな」
 彼等は眉を顰めはじまた。何かがあればすぐに暴れそうな者までいた。
 だが彼等の危惧は不幸にして的中した。ホームランは取り消されたのだ。
「何ィ!!」
 怒ることか怒らないことか。甲子園は今度は憤怒と殺気に支配された。
「われは何処に目ェつけとるんじゃ!」
「ボケ!アホ!ふざけたこと言うとるといてまうぞこのカス!」
 罵声が飛び交う。メガホンまで投げる者までいる。事態は抜き差しならぬ事態になりかねなかった。
 だが審判団の説明に流石の彼等も次第に落ち着きを取り戻してきた。打球は外野フェンスのラバー上段に当たっていたのであった。
「それなら仕方あらへんわ」
 ファン達は憮然としてそれを認めた。
「二塁におるしな。こっからサヨナラ決めればええわい」
「そうでなかったら延長戦や」
 彼等はそう考えていた。だが岡林はこれで立ち直った。彼はこの後獅子奮迅の力投で阪神打線を抑えた。
 そして延長戦に入った。両者共相譲らず膠着状態となった。
 岡林が力投した。そして延長十五回まで阪神打線を寄せつけなかった。結局試合は引き分けに終わった。
「長い試合やったな」
 試合を最後まで観ていたファンもふう、と溜息をついた。
「惜しかったな、八木のあれは」
「仕方あらへんわ。明日打ってくれるわ」
 こんな時でも彼等はポジティブであった。そうでなければ阪神を応援なぞできはしない。
 だがこの試合は後々多いに響いてくる。勝てなかった阪神、負けなかったヤクルト。だがそれはこの時は誰にもわかりはしなかった。
 翌日の試合だ。だが阪神ナインには疲れは見えなかった。
 先発の猪俣が飛ばす。そしてヤクルト打線を抑えた。
「やっぱりええピッチャーは打てへんようやな」
 野村は歯噛みしてそう呟いた。選手達もそれは同じであった。
「救世主が欲しいですね」
 広沢がポツリと呟いた。そして彼等は球場を後にした。
 その次の日はそう言った広沢本人が致命的なミスをしてしまった。
 何とサヨナラエラーである。何の変哲もない一塁ゴロを誤って後ろに逸らしてしまったのである。
「何とやっとるんじゃ」
 野村はそれを見て憮然としてそう呟いた。
「これこそ不思議の負けなしや。守備ちゅうのはこうした時に出てくるもんなんや」
 そう言って広沢の守備を批判した。広沢はそれを黙って聞いているしかなかった。
 終わってみれば九連敗である。この試合で首位が入れ替わってしまった。あまりにも痛いエラーであった。
 だが阪神にとっては僥倖であった。阪神ファンはもうお祭り騒ぎであった。
「このままいけるで!」
「ああ、優勝や!」
 関西はそうした話題でもちきりであった。スポーツ新聞は連日阪神の勝利を大々的に伝えた。何と高校でスポーツ新聞を読んで満面の笑みを浮かべる女子高生までいたのだ。
「今までホンマに長かったわ」
 阪神ファンとは耐えることが仕事である。それは果てしなく長く、しかも何時終わるか誰にもわからない苦難の道である。ある日急に終わるものだ。だが次の日からその苦難の道は再開する。地獄かと言うとそうでもない。その苦難の道をファンは選んだのである。そしてその中で馬鹿騒ぎをしているのだ。阪神ファンとはそうしたものである。
 二十日まで怒涛の七連勝であった。最早終盤の疲れなぞ頭になかった。ただひたすら優勝に向かっていくだけだと誰もが思った。
 道頓堀では厳戒体制が敷かれた。ケンタッキーフライドチキンのカーネルサンダースの人形の土台には施錠が為された。それは何故か。
 あの八十五年の優勝の時である。日本中がタイガースフィーバーに湧いたあの時であった。
「二十一世紀まで優勝せんのや!思いっきり騒がせてもらうで!」
 不幸にしてこの言葉は的中したが彼等はここぞとばかりに騒いだ。特に道頓堀では凄まじく河に飛び込む者が続出した。ヘドロの中であったがそれに構う者はいなかった。
 その途中で思いも寄らぬ事件が起こったのだ。
「なあ、この人形バースに似とらへんか!?」
 似ていると思う者は少ないがこれが発端となった。
「おお、そうやそうや」
「バースやバース!」
 信じられない声が沸き起こった。そしてこの不幸な人形の運命は決した。
「バースも入れたるんや!」
「そやそや、神様仏様バース様!」
 ここまで言われた者は他には五十八年日本シリーズで超人的なスタミナで投げ抜いた鉄腕稲尾和久だけであった。バースの活躍はその稲尾の域にまで達していたのであった。彼は最早阪神ファンとっては英雄であった。
 そのバースに似ていると言われた人形はこうして狂乱状態のファン達によって道頓堀に入れられることとなった。このままでは単なるエピソードの一つとして終わった。だがそうはならないのが世の中である。警察さえ呆然となったこの事件には続きがあった。
 翌年から阪神は元に戻った。開幕から振るわなかった。
 それだけではない。翌年には最下位だ。主力は次々と脱落していった。そして遂には優勝をもたらした偉大な神バースまでも家庭の事情で哀しい退団となった。
「何かあるんとちゃうか!?」
 ファン達は続けて起こるこの不幸に不思議に思いはじめた。
「誰かけったいなことしたんやろ」
 こうした意見が出た。
「あの優勝の時えらい騒ぎやったしなあ。何処ぞのアホが神社にバチ当たりなことしたんちゃうか」
「住吉さんにやったら洒落ならんぞ」
「法善寺横丁のお寺にやった奴がおるかもな。道頓堀で飛び込んだ時に」
 大阪の法善寺は難波にある。狭い路だがここには美味い店が多い。特に夫婦善哉は有名である。織田作之助の小説『夫婦善哉』の舞台でもある。
「道頓堀か」
 誰かがここで気付いた。
「もしかすると」
「知っとるんか!?」
「ああ、実はな」
 そこでその時道頓堀にいた者が話をした。カーネル=サンダースの話を。話が終わった時そこにいた者は皆顔を青くさせていた。
「・・・・・・それホンマの話か!?」
「わしも信じられへんけれどな」
「じゃあもしかして今の阪神の不幸はケンタッキーのおっさんが」
 昔から甲子園には魔物が棲むと言われている。だがカーネル=サンダースとなると話はさらにややこしくなる。
「どないしたらええやろ」
「許してもらうしかないやろ」
「どないしてや!?」
「そうやなあ」
 ファン達は考えた。とにかく道頓堀に入れたのがまずかった。こうなったら引き出すしかない。
 早速ダイバー達が飛び込んだ。しかし人形は遂に見つからなかった。おそらく他の場所に流れてしまったのだろう。
 だがファンはそうは考えなかった。これはカーネル=サンダースが甲子園に移り阪神に祟っていると考えたのだ。そしてその呪いこそ今の阪神の不調だ。
「あんなことがあってはならん」
 こうして道頓堀のカーネル=サンダースの人形には施錠が施されたのだ。
 それだけではない。千日堂のすっぽんも亀山に通づるという理由で警戒されていた。とにかく大阪、そして関西は阪神の優勝を指折り数えて待っていたのだ。
 阪神圧倒的有利の雰囲気があった。ヤクルトは流石にもう無理だと思われた。
「ヤクルトもよくやってるけれどな」
「阪神には勢いがある。これはもうどうしようもないよ」
 世間はこう言っていた。流れは確実に阪神のものであった。
「流れか」
 野村はここに気付いた。
「勢いをこちらに引き寄せるには」
 彼はここで広沢の言葉を思い出した。
「救世主」
 それが出れば流れは変わるかも知れない。流れが変わればひょっとする。打線には自信がある。阪神投手陣といえど攻勢を仕掛ければ押し潰せる。野村はまだ諦めてはいなかった。
「しかし誰がおるんや」
 打線はいい。問題は投手陣だ。ならば救世主はピッチャーであるべきだ。長い間苦しんでいた伊東も高野光も出した。彼等は確かによくやっている。しかしそれだけでは駄目だ。もう一人必要なのは前からわかっていたことなのだ。
 だがいない。考えてみたが誰も思いつかなかった。
「いや」
 しかし野村はここで気付いた。
「あいつがおったわ」 
 彼はここで電話を手にした。程なくしてスタッフの一人が出て来た。
「おう、わしや」
 野村はスタッフに対して言った。
「あいつはいけるか」
「彼ですか!?」
 そのスタッフは電話越しながらも驚いていた。
「そうや、いけるかどうか聞いとるんやが。どや」
「そうですね」
 彼は明らかに戸惑っていた。だが暫くしてこう言った。
「いけます。すぐに一軍に上げることができます」
「そうか」
 野村はそれを聞いて頷いた。
「じゃあすぐ上げるで。もう一刻の猶予もないんや」
「は、はい。すぐですね」
「そうや。そして優勝するんや、ええな」
「わかりました」
 野村はここで電話を切った。そして受話器を置いて一言呟いた。
「あとはあいつ次第や。頑張ってもらうで」
 彼は監督室を後にした。そしてそこから新たな戦場に向かうのであった。
 九月二十四日、神宮での試合である。相手は広島だ。試合は四対三で広島有利に進んでいた。
「もう一敗もできないぞ」
「今日も負けたら大変なことになる」
 一塁側はもう戦々恐々としていた。七回表、二死一塁。広島の打席には主砲の江藤智がいる。文句なしのパワーヒッターである。
「監督、どうします!?」
 ここでコーチの一人が尋ねた。
「角もそろそろ限界ですよ」
 この時マウンドにいたのは角三男であった。左のアンダースローからの変則派である。カーブやスクリューを駆使して相手バッターを翻弄する。特に左打者に対しては強い。
 彼はかって巨人にいた。だが放り出され日本ハムに移った。ここでストッパーとして活躍した後ヤクルトに移っていた。
複雑な経歴の持ち主でもある。
「そうやな。じゃあ交代させるか」
 野村は動いた。ゆっくりとベンチから出て来た。
「誰だ!?」
「岡林じゃないのか!?」
 一塁側は話をしている。そして野村の動向を見守った。
「ピッチャー交代」
 野村は主審に告げた。
「ヤクルト、ピッチャーの交代をお知らせします」
 ウグイス嬢の声がグラウンドに響いた。

「ピッチャー角に替わりまして」
「岡林じゃろ」
「奴しかおらんからのう、ヤクルトは」
 三塁側の広島の応援席でもそうした話をしていた。彼等はウグイス嬢の次の言葉を予想していた。だがその予想は見事なまでに外れた。
「ピッチャー荒木。背番号十一」
「何ィ!?」
 それを聞いた球場の観客達が一斉に声をあげた。
「おい、間違いじゃないのか!」
「本当に荒木なのか!」
 一塁側、三塁側だけではない。外野も何処もかしこも皆驚愕していた。
「流石に驚ろいとるようやの」
 野村はそれを見てニヤリと笑った。
「おい、野村さん本当に荒木か!?」
「嘘じゃないだろ!」
 ファンは口々にそう叫んでいた。
「伊達や酔狂でこんなこと言うかい」
 野村はそれを聞きながら呟いた。その顔は笑っていた。
「まあ見てみい。荒木の投球を」
 マウンドには既に十一番の背番号をつけた男があがっていた。荒木大輔、かって甲子園を湧かせた天才投手である。
 リトルリーグの頃から活躍して。その速球は世界にも知られていた。
 甲子園には一年の頃から五回出場している。早稲田実業において押しも押されぬエースであった。
 そしてドラフト一位でヤクルトに入団した。プロでもその活躍が期待された。
 だが彼はプロでは怪我に苦しんだ。椎間板ヘルニアに右肘靭帯断裂。再起不能と誰もが思った。
 しかしその彼が今マウンドに上がっていた。そして投げているのである。神宮の観客は今完全に静まり返っていた。
「頑張れよ」
 誰かが言った。
「荒木、頑張れ!」
「復活したんだ、もう一度その姿を見せてくれ!」
 それは一塁側だけではなかった。
「荒木、とう戻ってきたなあ!」
「投げえや、思う存分打ったるけえのお!」
 彼等も彼等なりに荒木に熱い声援を送っていた。誰もが彼の思いもよらぬ復活に心打たれていた。
 初球はストレート。シュート回転した危ないボールだったが何とか助かった。荒木はホッと胸を撫で下ろした。
「頑張れ荒木!」
「勝て、勝つんだ!」
 ここまでの熱い声援はそうそうなかった。甲子園ですらなかった。彼は今多くの野球を愛する者達の熱い声を背に投げていた。
 ツーストライクスリーボール。泣いても笑ってもあと一球だ。
「さあ、どうする!?」
 古田がサインを出した。荒木が頷く。そしてセットポジションから投げた。
 ボールはフォークだった。それは見事なキレで古田のミットに収まる。
 江藤のバットが空を切った。荒木は見事復活を果したのだ。
「よくやった!」
「お帰り!」
 拍手が球場を支配する。そして荒木はその中を歩きベンチに戻っていった。
「最高の花道だ」
 荒木はポツリ、と言った。彼は今まで投げたくて仕方がなかった。だがそれが出来なかった。ようやく投げることが出来たので彼は感無量であった。
「おい、まだ投げてもらうで」
 野村はそんな彼に対して言った。
「その為に御前を呼んだんやからな。まだまだ御前の出番はあるで」
「本当ですか!?」
 信じられなかった。引退も間違いない、再起不能と言われた状態だったのに。
「わしは嘘は言わん。御前には期待しとるからな。どんどん投げてくれや」
「はい!」
 荒木は泣いていた。熱い涙が頬を覆う。それを見てヤクルトナインの心は奮い立った。
 その裏である。ランナーを一人置いて打席には荒木をリードしていた古田が入る。
「古田、打ってくれ!」
「荒木を男にしてやってくれ!」
 一塁側の声援は切実なものとなっていた。彼等は何から来ることを予感していた。
 古田のバットを持つ手に力がこもる。あまりにも強く握ったので両手が白くなった。
「打つ」
 古田は呟いた。
「そして荒木さんに勝利を」
 眼鏡の奥の目が光った。そしてバットを思いきり振り抜いた。
 打球は一直線に飛ぶ。そしてレフトスタンドに吸い込まれていった。
「やった、やったぞ!」
 思わず一塁ベンチに向かってガッツポーズをする。そして満面の笑みを浮かべてダイアモンドを回る。
「古田、よくやった!」
「あとは岡林だ!」
 ファンが喝采を送る。そして古田は今ホームベースを踏んだ。
 これで試合は一気にヤクルトのものとなった。あとは岡林がマウンドに上がり広島打線を抑えた。これでヤクルトは復活を果した。
「明日からが勝負や」
 野村はニヤリ、と笑って言った。明日からはその阪神との三連戦だ。
「ここで勝たな何にもならへん。明日からの試合に勝たへんとな」
 昨日まではとても無理なように思われた。だが今は違っていた。
「これはいけるかもな」
 不敵に笑った。
「勢いに乗ることが出来た。荒木を出したんは正解やったな」
 イチかバチかの賭けだった。ピッチャーの頭数が足りないという事情もあった。内心ヒヤヒヤした起用だったのだ。
 だがその賭けに勝つことができた。それだけにこの勝利は大きかった。
「確かに今の阪神は勢いがちゃう。けれどこっちもその勢いを手に入れた」
 大きかった。ヤクルトにとって実に大きな事件だった。
「やったるで。こうなったら最後まで諦めへん」
 彼にしては珍しく力のこもった言葉であった。野村はそう言うとベンチを後にした。
「こっからが本当の勝負や」
 彼は普段はそれ程自分を表には出さない。どちらかというとクールである。
 だがその本質はあくまで野球を一途に愛する一人の男だ。彼はこの時その本来の姿に戻っていた。
「勝ったる、絶対にな」
 そう言うと彼は球場を後にした。そして翌日からの決戦に備えるのであった。
 台風が接近していた。その中でいよいよ決戦の火蓋が切られようとしていた。
「まるでドラマみたいだな」
 神宮に詰め掛けたファンの一人が風を身体に浴びながら呟いた。
「ここで決めたらドラマなんてもんじゃないぞ」
 見れば一塁側も三塁側も満員である。両球団のファン達が駆けつけていた。
「頑張れ!」
「俺達がついているぞ!」
 ヤクルトファンが歓声を送る。
「優勝や!」
「また河に飛び込むんじゃ!」
 阪神ファンもである。野球はやはりファンあってのものである。
 そのファン達の歓声の中両軍はベンチから出て来た。そして遂に決戦がはじまった。
 七回裏ヤクルトの攻撃である。六対五、試合はヤクルト優勢の状況で進んでいた。
「このまま押し切れ!」
「逆転や!」
 両軍のファンが互いのチームに熱い声援を送る。試合は天王山を迎えようとしていた。
 ツーアウトランナー一二塁。打席には八重樫幸雄が立つ。長い間ヤクルトで正捕手を務めた男だ。
「八重樫打てよ!」
「ここで打ったらヒーローだぞ!」
 彼もまたファンに愛されてきた男である。初優勝の時もいた。数少ないX戦士であった。
「よし」
 八重樫はバットを強く握り締めた。
「ここで打たなければあの人達に申し訳ない」
 彼はかってヤクルトを支えた戦士達のことを思った。
 優勝の時に主砲だった大杉勝男。シリーズにおいては日本一をもたらしたアーチを放った。その前に疑惑のアーチも放ったがそれを吹き飛ばす程大きなアーチだった。
「打ったぞお!ホームランだ!」
 彼はそう言いたげに満面の笑みでダイアモンドを回った。そしてナインが待つホームベースを思いきり踏んだ。打つだけでなく常にチームメイトのことを思い、いざという時には身を挺して守る心優しき好漢であった。
 船田和英。ライフルマンと呼ばれバッテリー以外の全てのポジションを守ることができた。そして地味ながらその堅実な守備でチームに貢献した。
 その二人がこの年世を去っていたのだ。彼等のことをファンも選手達も決して忘れてはいなかった。
 八重樫は肝を据えた。どんな球でも打つつもりだった。
「来い!」
 心の中で叫ぶ。そしてマウンドにいる仲田を見据えた。
 仲田も敗れるわけにはいかなかった。この戦いには阪神としても落とすわけにはいかなかったのだ。
「負けへんぞ!」
 仲田は激しい形相で八重樫を見据えていた。いや、睨んでいた。
「わしにはファンがついとるんじゃ。何時でも熱い声援送ってくれたファンがな」
 阪神ファンの熱狂的な応援はあまりにも有名である。彼等は全力で選手を、そして阪神を愛しているのだ。
 仲田は投げた。左腕が唸り声をあげた。
「これは打てへんやろ!」
 鋭いカーブであった。まるで刃物の様に鋭く変化する。
 だが八重樫はそれにバットを合わせた。そして何とか当てた。
「やったか!?」
 しかしそれは平凡な内野ゴロであった。打球は一二塁間を転がる。
 セカンド和田豊が捕った。そしてファーストのパチョレックへ投げる。何でもない内野ゴロであった。
 だがここで思わぬ事態が起こった。
 ファーストのパチョレックがベースに戻る。しかし台風の影響か降雨でグラウンドはぬかるんでいた。彼はそこに足をとられて
しまったのだ。
「なっ!?」
 こけた。ボールは空しくグラウンドを転がった。
 その間に二人のランナーが走る。まずは一点。そして一塁ランナーも帰った。これで二点。ヤクルトにとっては幸運な、阪神にとっては不幸な出来事であった。
 これで試合は決まった。ヤクルトはまず一勝をあげた。
 だが不安材料もあった。
 主砲ハウエルがデッドボールを受けていたのだ。しかも左の手首に。これは左バッターである彼にとっては極めて深刻な事態であった。
 彼だけの問題ではない。これはチーム全体にとって嫌なムードを与えかねない出来事であった。だが彼はここで野村に対して言った。
「ボス、明日も試合に出させてくれ」
「明日もか」
「うん、俺は絶対に打つ。だから出させてくれ」
 野村は彼の目を見た。その目には燃えるものがあった。
「よっしゃ」
 彼はその目を見て頷いた。
「明日も出たらええわ。しかしな」
 野村の目が光った。
「そのかわり絶対に打つんや。わかったな」
「オーケー」
 ハウエルは頷いた。野村は彼の熱い心を信じることにした。
 だがどうなるか彼にもわからなかった。しかし野村は彼の熱い心に賭けることにしたのだ。
 翌日も激しい試合となった。伊東は踏ん張りながらも要所で失点を許し四回で一点をリードされていた。その四回裏にそのハウエルが打席に入った。
 悠然と左打席に入る。その全身にはオーラすら漂っている。
「今日のあいつはまた違うで」
 野村はベンチからハウエルを見て言った。いつもの嫌味な笑いはそこにはなかった。
 ハウエルのバットが一閃した。打球は一直線に飛ぶ。
「入れ!」
「入るな!」
 両チームのファンの声が交差する。打球は歓声と悲鳴を乗せて飛ぶ。
 歓声が勝った。打球はスタンドに飛び込んだ。
「オオオオーーーーーーーーーーッ!」
 ハウエルは思わず叫んだ。そしてダイアモンドを回った。
「やったぜボス!」
 ベンチを踏んで野村に声をかける。
「よおやった」
 野村はそんな彼に対して笑顔で言った。
「やっぱり御前はうちの主砲や」
「よしてくれよ、ボス」
 ハウエルはそれを聞いて顔を少し赤らめさせた。
「柄じゃないよ」
 野村の嫌味なキャラクターを意識しての言葉だった。だがナインは野村の本当の姿を知っていた。だからそれはうわべだけのことであった。
 本来は繊細で心優しい。寂しがり屋で困っている者を放ってはおけないのだ。
「野村さんはいい人やで」
 ジャジャ馬で有名な江本孟起さえこう言った。彼は野村に認められ成長した男であった。
「わしみたいな我が儘な人間を喜んで使ってくれたんや。バッテリー組んだら十五勝やってな」
 その時江本は東映の敗戦投手に過ぎなかった。その彼を野村は喜んで使ったのだ。
 そして江本は一皮剥けた。それまでの敗戦処理投手からエース格のピッチャーになったのだ。
 その長身から繰り出す多彩な変化球と負けん気の強さが武器だった。野村は彼の才能を上手く引き出すことに成功したのであった。
 江本だけではなかった。多くの選手が彼の下で脱皮し、復活していた。野村再生工場の名前は伊達ではなかったのである。
 そんな野村だからこそ多くの者が慕っていた。彼程マスコミに伝えられる姿と実像が違う男も珍しかった。
 しかし阪神も粘る。八回には同点に追いつく。
「負けてたまるか!」
「勝つ!そして優勝だ!」
 選手もファンも一丸となっていた。彼等もまた燃えていた。
 しかし勝利の女神はヤクルトに微笑んでいた。
 九回裏それまで奮闘を続けていた伊東が打席でも見せた。
 ヒットで出塁したのだ。そして打席には飯田が入る。
 俊足巧打で知られている。それにパンチ力も結構あった。
「どうでるかやな」
 野村は打席に入る飯田を見た。彼は古田、池山と並ぶチームの柱である。
「あいつで今日は決まるな」
 歴戦の勘がそう教えていた。その決まる時が来た。
 打った。打球は右中間を飛ぶ。
「どうなる!?」
 新庄と亀山が追う。二人共足は速い。守備もいい。特に新庄のセンスはズバ抜けていた。
「あいつは守備と肩だけでも超一流やな」
 口には出さないが野村は新庄をそう評していた。その新庄が今ボールを追っていた。
 だが打球は落ちた。伊東は既に走っていた。
「走れ!走れ!」
 ナインやファンだけではなかった。三塁コーチも叫んでいた。
 右腕を激しく振り回す。伊東は三塁ベースを回った。
 そしてホームを踏んだ。その瞬間球場は歓喜の渦に支配された。
 これでヤクルトは首位に返り咲いた。飯田の値千金の見事な一打であった。
 しかし阪神も負けてはいない。翌日の試合では痛恨のエラーをしてしまったパチョレックが汚名挽回のスリーランを放ち
勝利を収めた。これでまた首位が入れ替わった。
「敵も必死、こういうこともある」
 しかし野村は冷静であった。
「今度の直接対決が天王山やな。そこでいよいよ決まる」
 そう言って彼はグラウンドに背を向けた。
「いや、ちゃうな」
 彼は言い換えることにした。
「決めるんや。ヤクルトがな」
 そう言ってその場を後にした。その背には気さえ漂っていた。
 二度目の決戦の時が来た。十月六日からの二連戦であった。場所は神宮。
「勝て!」
「やったれ!」
 もうファンの声が木霊していた。神宮は先の三連戦の時と同じく激しい熱気に包まれていた。
 阪神は百二十七試合を消化して六十六勝五十九負二分。ヤクルトは百二十六試合を消化して六十五勝六十負一分。ゲーム差は一であった。
 引き分けの関係で試合は共にあと五試合、そのうち直接対決が何と四試合もあった。
「面白いな」
 野村はそれを聞いてニヤリ、と笑った。
「昔南海にいた頃のプレーオフみたいや。こういった試合では何が起こるかわからへん」
 彼はかっての阪急とのプレーオフを思い出していた。
 それは昭和四十八年のことであった。この年からパリーグにプレーオフが導入された。ペナントを前期と後期の二シーズンに分け、互いの勝者を争わせて優勝を決めるというものである。
 この時の下馬評は阪急有利であった。西本が育て上げた勇者達は他を寄せ付けない強さを誇っていたのだ。
「あの時は苦労したで」
 その時の死闘は今も語り草になっていた。
 阪急のエース山田久志をくまなく研究し、最後の五試合で攻略した。九回にまさかの連続アーチで仕留めたのである。
 その裏江本を投入した。そしてまさかのストレートの連投で抑えた。そして南海は見事優勝を果したのだ。
「死んだふりをしていた」
「いや、野村の知略だ」
 意見は食い違った。だが野村の頭脳で勝利を収めたのは間違いなかった。
「しかし今度はちゃうやろな」
 野村はそれを長年培ってきた勘で察知していた。
「今度は流れや。確かに今はうちが不利や」
 それは素直に認めていた。
「しかしな」
 口を横一文字に結んだ。表情がサッと変わった。
「流れならうちにもあるで」
 そしてベンチにいる荒木に顔を向けた。
「こいつがやってくれた。後はそれをどう生かしていくかやな」
 だが阪神が三勝すればそれで終わりである。ヤクルトはこの二連戦連勝が絶対条件であった。
 既にセリーグの運営側では会議が開かれもし決まらなかった場合のプレーオフについても討議されていた。流れはもうどちらのものになるか誰にも見当がつかなかった。
 阪神は活躍している助っ人のパチョレックを故障で欠いていた。だがそのハンデは感じさせなかった。
「それに引き換えうちは」
 野村は思わず舌打ちした。
 攻撃の要広沢が不調であったのだ。そうしたことを考えるとやはりヤクルトに不利か。関西ではもう阪神の優勝は予定されたこととして考えられていた。
「西武か。暫く振りやな」
「バースのかわりは新庄や」
 彼等はもう勝った気でいた。
「流れや、流れ」
「六甲下ろしが日本中に鳴り響くで!」
 恐ろしいまでの楽天思想に見えるがそうではない。これが阪神なのである。
 まともに負けたりはしないのだ。それはもう派手に、念入りい負ける。しかもそれが嫌になる程続く。
 それを知っているからこそ、だ。彼等は阪神の滅多に見ることのできない晴れ姿を待ち望んでいた。
 ヤクルトは岡林、やはり切り札だ。対する阪神は仲田。阪神も最強のカードを出してきた。
「ピッチャーのカードはうちの方がええで!」
「そやそや、野球はピッチャーや!」
 古くからのファン達が叫ぶ。彼等はかって阪神があまりにも貧弱な打線に甘んじ、江夏や村山が気迫で勝っていた頃を知っているからこその言葉であった。
 仲田はその期待に応えた。七回まで無得点であった。
「ええぞ仲田!」
「御前は阪神のスターや!」
 ファンが喝采を送る。流れはやはり阪神にあるかと思われた。
 だが七回に試合が動いた。
 打席には広沢が入る。ヤクルトファンはそれを黙って見ていた。
「打てるかな」
「わからないな」
 いつもは頼りになる筈の男に期待が持てなかった。
「あんな調子じゃな」
「ああ。今の広沢は」
 それは広沢本人の耳にも入っていた。
「・・・・・・・・・」
 彼はそれを一言も喋らずに聞いていた。それがかえって彼の心を落ち着かせた。
「よし」
 今までの迷いが切れた。思いきり振っていこうと決心したのだ。
「広沢の奴、ふっ切れたようやな」
 それは野村にもわかった。
「今のあいつは期待できるで」
「そうでしょうか」
 コーチの一人は不安そうであった。
「ああ。バッティングってのは相手のデータとかこっちのことも重要やけれどな」
 まず相手のデータから入るのが野村らしかった。
「まずは気持ちや。鎮めとかな打てるもんも打てへん」
「はあ」
「わかっとらんようやな」
 野村はそのコーチの反応を見て顔を顰めさせた。
「いや、そうじゃないですけれど」
 彼も野球をしている。それ位はわかっているつもりであった。
「だったらわかる筈やな」
「は、はあ」
 野村が言う言葉ではないのではないか、そう思いながらもここは口を閉ざした。
 そして広沢に目を向けた。
「大丈夫かなあ」
 彼はまだ不安であった。しかしそれは杞憂であった。
 仲田の左腕が唸った。そしてボールが放たれる。
 だがそれは失投であった。真ん中高めの甘いコースに入った。
「しまった!」
 仲田は顔を青くさせた。それは広沢にとっては正反対であった。
「もらった!」
 彼はバットを振り抜いた。そして打球を思いきり打ちつけた。
「いった!」
「やられた!」
 両者はほぼ同時に叫んだ。打球は一直線にバックスクリーンめがけ飛ぶ。
「いけ!」
 ヤクルトファンも叫ぶ。打球は彼等の思いも乗せて凄まじい速さで飛ぶ。
 そしてバックスクリーンに叩き込まれた。まさかのソロアーチであった。
「やったぞおお!」 
 広沢は猛ダッシュでダイアモンドを回る。会心の一打であった。
 そしてホームを踏む。これでヤクルトは見事勝ち越した。
「よし!」
「広沢よくやった!」
 ファンからの喝采も止まない。彼はようやく長いトンネルから脱出した。
「打つべき人が打ち」
 野村は試合を観ながら呟いた。
「投げるべき人が投げる」
 既にヤクルトの守備になっていた。マウンドでは岡林が伸び上がる様なフォームから投げている。
「それで勝てるんや。簡単やろ」
 先程のコーチに対して問うた。
「は、はあ」
 彼はまだ野村がこんなことを言うのが不思議で仕方なかった。何処か普段の彼とは違う気がしてならなかった。
「けれどな」
 ここで彼はいつものシニカルな笑みを作った。
「それがむつかしいんや」
「おや」
 彼はそれを聞き普段の野村に戻った、と思った。
「なんでやろな。口で言うのは本当に簡単なことや。せやけどいざやるとなったらむつかしい」
「はい、はい」
 彼は笑顔で頷いた。ようやく本来の野村になってくれたと思った。
「けれどな」
 彼はまた言った。
「そやからこそ面白いんやな、野球ちゅうもんは」
 野村は完全に普段の野村であった。
「面白い試合は明日もしたいな」
 そして彼はベンチから姿を消した。次の試合はもうはじまっていた。
 翌日ヤクルトの先発は伊東、阪神は中込だった。序盤は阪神が先制した。
 三回表にオマリーのヒットで一点が入った。阪神にとっては幸先良い先制点であった。
「まずは一点やな」
 中村はそれを見て呟いた。
「こっからコツコツいくで」
「はい」
 彼の言葉通り阪神は焦ることはなかった。着実に点を入れていく作戦にでた。
 五回に阪神はまた攻勢に出た。まずは先頭打者の和田が流し打ちで出塁する。
 亀山が倒れた後でオマリーが打った。打球は右に飛ぶ長打となった。
「よっしゃ、よう打った!」
 三塁側から歓声が飛ぶ。オマリーはその愛嬌のある人柄からファンに愛されていたのだ。
 まだピンチは続く。打席には四番のパチョレックが入る。故障から帰ってきていたのだ。
「まずいで、これは」
 野村はそれを見てすぐに動いた。そして主審に告げた。
「ピッチャー交代」
 マウンドには乱橋幸仁があがる。だが彼も打たれてしまった。
 これで三点差。次の八木にも打たれるが何とか一死をとった。
 ここでまた交代する。金沢次男だ。小刻みな継投策に切り替えた。
 そして阪神の攻撃を凌いだ。次の回からは小坂勝仁、そして西村龍次を投入し試合が動くのを待った。五回裏にパリデス、角富士夫の連打で一点を返したがまだ二点差。今の中込から二点を奪うのは難しいかと思われた。
「ここは我慢や」
 野村は言った。
「絶対チャンスが来るからな」
「絶対ですか」
 昨日のコーチはまた彼に尋ねた。
「そうや、この試合、このまま終わらへんで」
 彼には確信があった。だが試合は阪神有利のまま進んでいく。
 九回裏になった。あと三人で阪神の勝ちだ。中込はゆっくりとマウンドに登った。
「落ち着いていけよ」
 キャッチャーは若い山田からベテラン木戸克彦に替わっていた。あの優勝の時の正捕手である。
「任せて下さい」
 気の強い男である。少し疲れながらもニンマリと笑って応えた。
「勝ちましょう。そうしたら盛り返せますよ」
「ああ」
 木戸は中込のその心臓に賭けた。それはベンチにいる中村も同じであった。
「今日はいけるな」
「はい」
 コーチの一人がそれに頷いた。
「けれど九回ですし」
 それが問題であった。
「まあその時の為に備えも用意しとるし」
 チラリ、とブルペンの方を見た。
「あいつやったら大丈夫や」
「そうですか」
 中村は勝利を確信していた。中込と今ブルペンにいる男、その二人に対して絶対の自信があるからだ。
 ヤクルトの打順は四番のハウエルからだ。絶好の打順である。
「打て、ハウエル!」
「今のピンチを救ってくれ!」
 彼は今までチームの危機を救う一打を何度も放っている。こうした時最も頼りになる男である。
 だがこの時は中込が勝った。彼はあえなくショートゴロに倒れた。
「ああ・・・・・・」
「やっぱり今日の中込は無理か」
 一塁側を溜息が支配する。やはり無理かと思われた。
「あと二人!あと二人!」
 甲子園名物である筈のあと何人コールが木霊する。流石に阪神ファンはこうした時の熱い声援を忘れない。
 だが中込の疲れは彼自身が思っていたより溜まっていた。それは特にコントロールにあらわれた。
 次のバッター広沢を歩かせてしまう。そして打席にはズバ抜けた長打力を持つ池山が入る。
「池山、ホームランだ!」
「バックスクリーンで待ってるぞ!」
 彼のホームランは特徴があった。一直線にバックスクリーンに突き刺さる豪快なものだったのだ。ショートとは思えぬ大振りであり三振も非常に多かったがその破壊力はファンに愛されていた。
 その池山が打った。センターに飛ぶ。だがそれは幸いにしてホームランではなかった。センター前ヒットであった。
「・・・・・・・・・」
 中村はそれを見て暫し考え込んだ。
「どう思う」
 そして傍らにいるコーチに問うた。
「そうですね」
 彼も中村が何を問うているかよくわかっていた。
「そろそろ潮時かと。中込は今までよくやってくれました」
「よし」
 中村はそれを受けて動いた。マウンドに向かった。
「ご苦労さん」
 そして中込からボールを受け取る。
「すいません、もうすぐだったのに」
 彼は自分の疲れが悔しくてならなかったのだ。
「そんなことは気にせんでええ」
 中村はそんな彼を慰めた。
「御前はここまでホンマによお投げてくれたからな」
 この時だけではなかった。この一年を通じてのことである。彼はこのシーズン九勝を挙げていた。獅子奮迅の活躍であった。
「・・・・・・有り難うございます」
 彼はその言葉に頷いた。そしてマウンドを後にした。
 マウンドには湯舟があがった。中村はこうした時の為に先発ローテーションの彼をブルペンに送っていたのだ。
「大事な試合やからな。用心しとかんと」
 これはピッチャーの豊富な阪神だからこそ出来る戦術であった。それを見た野村は眉を顰めさせた。
「ピッチャーが揃っとるチームはええのう。思い切ったことができるわ」
「しかし厄介ですね、湯舟とは」
「・・・・・・確かにな」
 それは野村にもよくわかっていた。
「そうそう簡単に打ち崩せる奴やあらへん。普段はな」
「普段は、ですか」
「そうや、あいつの顔を見てみい」
 野村はそう言うとマウンドの湯舟を指差した。見れば蒼白となっている。いつも淡々と投げる彼にしては珍しいことであった。
「ああした顔の奴は打てるんや。普段がそれだけ凄くてもな」
「はい」
「まあ打たんでもええかもな。まずはコントロールや」
 野村の言葉は的中した。普段の冷静さがない湯舟はコントロールが全く定まらなかった。秦の代打八重樫を歩かせて満塁とする。そして続くパリデスも歩かせむざむざ押し出しの一点を献上してしまった。
「一人相撲やな」
 野村は醒めた声で言った。
「こらあかん」
 中村は首を捻ってベンチから出た。
「まさかの時を考えてもう一人ブルペンにやっといて正解やったかもな」
 そしてピッチャー交代を告げた。今度は中西清起が出て来た。優勝の時のストッパーである。甲子園においても力投し水島新司の漫画『球道くん』のモデルにもなったと言われている。実際に水島新司という人は阪神に対して好意的であり何かと漫画に出す。『野球狂の詩』においては水原勇気が出ていた頃はおそらく半分程が阪神との試合であった。それ以上だったかも知れない。その前から何かと阪神との試合が多かった。
 その中西がマウンドに上がった。阪神としてはこれ以上の失点は絶対に許されなかった。
 打順は九番だ。ピッチャーの西村には流石に期待出来ない。ここは代打を送ることにした。
「代打、橋上」
 橋上秀樹を代打に送った。だがここは中西が踏ん張った。
 浅いセンターフライだった。新庄の肩では動くことはできなかった。
 これで二死満塁。阪神にとっては依然としてピンチだがようやくあと一人というところまでこじつけた。
「あと一人!あと一人!」
 三塁側から木霊する。その中を一番の飯田が進む。
「飯田!この前みたいにやってくれ!」
「そうだ、今はあのサヨナラの時だ!」
「わしはタイムマシンは持っとらんぞ」
 野村はベンチの中からそれを聞いて思わず苦笑した。
「しかし飯田は粘りがあるからな。どうなるか見物や」
 彼は既に腹をくくっていた。そしてマウンドにいる中西を見据えた。
「ほう」 
 中西は飯田のその目を見て笑った。
「いい肝っ玉しとるな。流石は一番バッターだけあるわ」
 彼は急に楽しくなってきた。
「じゃあわしも思いきり投げたる。それを打てるもんなら」
 セットポジションから腕を大きく振った。
「打ってみいや!」
 渾身の力で投げた。右腕がまるで蛇の様にしなった。
 剛球が音を立てて来た。飯田はそれから目を離さなかった。
「今だ!」
 タイミングを合わせた。バットを全力で振った。
 ボールは龍の様にしなりながら三塁線を飛ぶ。
「やった!」
 ヤクルトファンが叫ぶ。
「やられた!」
 阪神ファンが絶叫する。だがそれをオマリーが止めた。
「させへんわい!」
 守備には不安のある彼が横っ飛びで止めた。そして倒れたままの姿勢で一塁に送球する。
「いけるか!?」
「終わりか!?」
 両軍固唾を飲む。だがここは飯田の足が勝った。
「やったぞ、同点だ!」
「クッ、まだいけるわい!」
 ファン達もそれぞれの顔でそれを見た。だが池山が帰ってことに変わりはない。これで勝負はふりだしに戻った。
「動いたで」
 野村は笑っていた。
「これで流れは大きくうちに傾いたわ」
「そうでしょうか」
 例のコーチはまだ不安そうであった。
「まだまだわかりませんよ」
「甘いな」
 野村はそれに対して言った。
「こうした時は一気に決まるんや」
「一気にですか」
「そや。御前もそれはわかっとる筈やけれどな」
「それはそうですが」
 だがヤクルトである。毎年下位に甘んじてきたチームだ。それは中々実感できない。
「確信は出来ませんよ」
「まあな」
 野村はそこではとりあえず頷いた。
「けれど動いたのは事実や」
「はあ」
 コーチの声はやはり力なかった。
「動くのはある時急に動くんやないで。前もって何かしらの力があって動くんや」
 物理の基本的な話をした。野村は話が上手い。選手達に対してもよくまず人生論等から入り話をした。頭の回転の速さだけでなく長年培ってきた経験もそこに深みを入れていた。
「これもや。そしてな」
 彼は言葉を続けた。
「一旦動いたもんを止めるのはそうそう簡単やないんや」
「そんなものでしょうか」
「そんなもんや。まあ見とくんやな」
 打席に荒井が入った。彼はプロとしては決して大きくはない身体であるがアマ時代には全日本で四番を打ったこともある。打撃には確かなものがある。
「もしここで打ったら」
 荒井はふと考えた。
「サヨナラか」
 野球をはじめてからサヨナラの経験はなかった。もし打ったらと思うだけで手が震える。
「打てるかな」
 逆に怖くなった。だがマウンドの中西にそれは気付かれなかった。
 投げた。荒井はバットを出した。
 だがそれはファウルに終わった。中西はまずはストライクを稼いだ。
「ファウルか」
 荒井は打球を見て呟いた。だが弱ってはいなかった。
「振れたな」
 それだけで充分であった。
 最初は振れるかどうか不安であった。しかし初球から振れたことで気持ちが楽になった。
「いけるな」
 彼はバットを見て頷いた。そして落ち着いて構えをとりなおした。
「来い!」
 そして中西を見る。マウンドにいる彼も抑える自身があった。
「左やがわしにはそうそう勝てへんぞ」
 彼も優勝の時のストッパーである。甲子園で気迫の投球を見せている。その自負があった。
 投げた。渾身の力を込めた。だが荒井のバットはそれに対して不自然な程に自然に出た。
「いける!」
 流した。打球は三遊間をライナーで抜けた。
「やったぞ!」
 三塁ランナーが笑顔で走り抜ける。これで激戦に決着が着いた。
「勝った、勝ったんだ!」
「連勝だ!」
 ヤクルトナインが一斉にベンチから出て来た。そして一塁ベースにいる荒井を囲んだ。
「え!?」
 彼はまだ何が起こったのかよくわかっていなかった。そんな彼をナインがもみくちゃにした。
「荒井さん、よくやってくれました!」
「あんなところで・・・・・・本当にな!」
 彼はナインの言葉を聞いてようやく事態を飲み込めてきた。そんな彼の前に一人の男が立っていた。
「荒井」
 それは野村であった。
「監督」
 だが野村は何も言わなかった。急に両手を大きく広げた。
「!?」
 荒井は何をするのかと思った。野村はそれより早く彼を抱き締めた。
「よおやった!」
 彼もまた泣いていた。そうした感情を表に出さないタイプの彼までもが泣いていた。
「凄い試合やった、これだけ必死になって野球をやったのははじめてやろ」 
 野村はナインに対して言っていた。
「は、はい」
 その通りであった。彼等は誰もが生まれてはじめてこれだけ必死に野球をした試合はなかった。高校の時よりも必死に野球をした。
「わしもこんな試合は滅多に見たことあらへん。そう、わしでもな」
 野村は今まで多くの死闘を経験してきた。杉浦忠の血染めのボールを受けたこともある。西鉄との死闘もあった。怪童と呼ばれた尾崎行雄と真っ向から勝負したこともある。頭から血を流しながらもホームランを打ったこともある。西本との戦い、阪急との優勝争い、鈴木啓示や山田久志といった名だたるピッチャーとも戦ってきた。思えばその野球人生のぶんだけ多くの死闘を経験してきた。その彼が言ったのである。
「そやからようやった、ホンマにようやった・・・・・・」
 泣いていた。彼は明らかに泣いていた。
 それがヤクルトの運命を決定付けた。この勝利によりヤクルトは単独首位に躍り出た。そして阪神戦に勝ち越しも決めた。流れは完全にヤクルトのものとなった。
「まだや!」
 だが諦めていない者達がいた。
「戦いはまだ終わってへんぞ!巻き返してこっちが優勝するんや!」
 阪神ナインとファン達であった。彼等は敗れこそしたがまだ闘志を燃やしていた。
 憤怒の形相で歓喜に包まれるヤクルトベンチを見ていた。誰もがその全身に炎を宿らせていた。
「行くで」
 高齢の縞の半被を着た男が周りの者に対して言った。
「ああ」
 彼等もそれに頷いた。そして神宮を後にする。
「名古屋や。そしてそっから反撃開始や。このままズルズルと負けてたまるか」
 ベンチを後にし廊下を歩く中村がコーチ達に対して言った。
「はい」
 いつもの落ち着いた様子はあまりなかった。声にはいささか激しさが宿っていた。
 だがその背には暗いものがあった。しかし誰もそれには気付いていなかった。当の中村さえも。
 九日の神宮でのヤクルト対広島はヤクルトの勝利に終わった。それに対して阪神は名古屋で中日に敗れた。
「終わったか・・・・・・!?」
「いや、まだや」
 それでも彼等は諦めてはいなかった。
「甲子園で最後の戦いや、そこで連勝や」
「連勝か」
「そうや、そうしたらプレーオフや。そこまでヤクルトを引きずり込むんや」
 三塁側は負けてもなお熱気に包まれていた。彼等とて優勝を見たかった。
 それはナインとて同じだ。いや、彼等こそその思いが最も強かった。
「勝つで」
 中村は一言だけであった。そして甲子園への帰路についた。
 阪神ファンは無言で頷き彼に従う。そして最後の戦場に向かうのであった。
「阪神が負けたか」
 野村はそれをベンチのラジオで聞いていた。
「負けましたか」
 コーチの一人がそれを聞いて野村に話しかけた。
「ああ。これでニゲームや」
 二ゲーム差。残り二試合。この時点でこれは確定的であった。だが。
「直接対決か、残りは」
「そうでしたね」
 そうであった。阪神の最後の戦いの相手は他ならぬヤクルト自身であったのだ。
 十日に両軍は甲子園に集結した。阪神ファンも甲子園を埋めた。
「連勝や!」
「そや、それでプレーオフにまで誘い込むんや!」
 ファンも必死であった。阪神ナインにとっては常にいる有り難い援軍であった。
 だがヤクルトは流れを完全に掴んでいた。彼等はもう負ける気がしなかった。
「気持ち良く投げて来い」
 野村はこの日の先発に対して言った。
「わかりました」
 それは荒木だった。彼は力強い顔で頷いた。
「この甲子園は御前の遊び場みたいなもんや。思う存分遊んで来い」
 かって彼が甲子園を湧かせた事をあえて言った。彼の気持ちを乗せる為だ。
「はい」
 彼は頷いた。そしてマウンドに向かった。
 この日の荒木は完全に復活していた。阪神ファンの必死の応援も空しく阪神は彼に為す術もなく抑えられていく。それに対してヤクルト打線は好調であった。ハウエル、広沢がアーチを放つ。試合はヤクルトのものとなっていった。
 抑えには伊東を投入する。彼も阪神打線を寄せ付けない。
 九回裏遂に試合は終わった。
「やったぞ!」
 伊東は思わず甲子園のマウンドで飛び上がった。
「やりました!」
 古田もそれに飛びつく。そしてそこにヤクルトナインが集まる。
 やがて野村の胴上げがはじまった。そしてヤクルトナインと駆けつけてきていたファンの喜びの声が木霊する。
「やった、やったぞ!」
「俺達は勝ったんだ!」
 それを阪神ファンとナインは黙って見詰めていた。
「・・・・・・仕方あらへんな」
「これも野球や」
 彼等はそう言って去って行った。彼等は確かに悔しかった。だが相手が球界の癌巨人でないだけ気が楽だったのだ。
 ヤクルトは絶体絶命の窮地から遂に優勝を果した。野村の知略だけではなかった。そこにはナイン全体のひたむきな野球があった。
 今我が国の野球は巨人とそれを支配する悪辣な男の手により瀕死の床にある。だがそれでも素晴らしいゲームは続く。そしてそれは永遠に語り継いでいかなくてはならない。守っていかなくてはならないのだ。

三年目の花   完


                                   2004・9・29



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