第二十章             マウンドの将
 野球において最も重要なポジションとは何処か。
 多くの人はこう尋ねられたらピッチャーと答えるであろう。それ程までに投手とは野球において重要である。
 近代野球においては総合力が求められる。守備、走塁、打線、采配・・・・・・。パワーヒッターばかり集めても勝てるものではない。それがわからないで野球をしていると負ける。
 中でも近年注目されているのがキャッチャーである。俗にいいキャッチャーがいるチームは負けないと言われる。それの代表がかっての西武でありヤクルトであった。伊東や古田のそれぞれのチームにおける重要性は最早言うまでもないだろう。とりわけ古田は日本の野球の在り方を変えたと言ってよい。 
 その二人を育てた二人の監督もまた捕手出身であった。森祗晶と野村克也。共に長い間巨人と南海において正捕手を勤めチームを優勝に導いた。そして監督としても何度も日本一の栄冠に輝いた。
 この二人はよく言われるように似ている。知将であり感情に走らない。采配はオーソドックスであるが時として思いもよらぬ奇計を用いる。俗に『知将』と呼ばれる。
 野村と長嶋茂雄の関係は有名であるが実は森は長嶋とは仲がいい。長嶋が監督に復帰した時は雑誌で対談を行いエールを送り合っている。シリーズにおいても互いを称え合っている。だが森と野村はそれ以上の同志的絆で結ばれている。それも彼等が捕手出身であるからだ。
 その二人が口を揃えて言う言葉は守備の強化である。まずはキャッチャーを中心とした野手の守備力。彼等の特徴はまずこれを確固たるものにしようとすることである。
 それから投手である。彼等は投手の重要性を認識はしている。だがまずはあくまで野手を求める。これは今までの野球からは考えられないことであった。まずはピッチャーであったのだから。
「ピッチャーちゅうんは我が儘な奴等や」
 野村がこう言えば森も言う。
「投手というのは身勝手なものだ」
 彼等はキャッチャーとして長い間投手と対峙してきた。それからくる考えであろうか。そして口を揃えてこう言う。
「プライドが高くて自己顕示欲も強い。要するにお山の大将だ」
 彼等はとかくピッチャーを批判する。ましてやそれが監督であった場合には特にだ。
 野村は97年のシリーズにおいてまずこう言った。
「あいつは野球を知らん」
 あいつとは相手の西武ライオンズを率いる東尾修である。長い間西鉄、太平洋、クラウン、そして西武においてエースを勤め名球界にも入っている。そして西武をリーグ優勝に導いている。高校時代は四番エースとして甲子園にも出場した。そうした経歴が強烈なプライドとなっている男である。
「あの爺そんなこと言ったんか!」
 これを聞いて東尾は激怒した。元々短気で有名な人物である。
 彼は怒りを爆発させたままシリーズに向かった。それこそ野村の思う壺であった。
「何も心配することあらへんわ」
 野村はこう言った。世間はヤクルト有利と見ていた。確かにこの時の西武とヤクルトの戦力差はかなりのものであった。しかしそれ以上の差があると世間は見ていた。
 それは勝負の結末ではっきるした。ヤクルトは危なげなく勝利を収めていき西武を四勝一敗であっさりと退けた。結果を見て驚く者はいなかった。皆当然だと思った。
「完敗だな」
 東尾は宙に舞う野村を唇を噛み締めながら見てそう呟いた。全てにおいて負けた勝負であった。
 この年ヤクルトは勝利の美酒を快くまで味わった。野村ID野球の面目躍如であった。
 だが翌年もそうなるとは限らないのが野球である。翌年横浜ベイスターズの監督に権藤博が就任した。
 かっては中日のエースであった。『権藤、権藤、雨、権藤』という程投げ続けた。そして二年連続三十勝という記録を打ち立てた。しかしそれにより野球生命を縮めてしまった。
 以後は投手コーチに就任した。中日、近鉄、ダイエーにおいてその手腕は多いに発揮された。
「投手の肩は消耗品である」
 彼の持論はこれであった。酷使され潰れた自らの現役時代からくる経験であろうか。練習においても投げるよりはランニング等に重点を置いていた。
 そして彼は投手の側に立った采配をした。四球を怖がらさせず心地良く投げさせた。そして流れを重視しバントや盗塁を少なくした。切れ目なく打っていく打線、『マシンガン打線』はここにもあらわれていた。
 『権藤イズム』と呼ばれる。その自由放任主義で選手の自主性に任せた指導はミーティングの少なさにも出ていた。それを見て真っ先に口を尖らせたのが野村であった。
「あんなんで勝てるわけあらへんやろが」
 彼は事あるごとに権藤を批判した。森も同じであった。口にはそれ程出さないが露骨に嫌った。彼等から見れば権藤のやり方は将にピッチャーそのものであった。
 だが権藤はそれに対しては反論は一切しなかった。
「言わせたい人には言わせておけ」
 そういった態度であった。権藤はそれでペナントに入った。
「監督になってまだ一年だしな。打線のことは殆どコーチや選手に任せているよ」
 彼は素っ気なくそう言った。これもまたチームの全てを統括し指示を出す野村や森のやり方とは全く違っていた。
「ほんまに野球を知らんのお」
 野村はまた言った。とかく権藤を何かにつけ批判した。長嶋に関しても批判も相変わらずであったがそれと同じ位権藤へも口撃を集中させた。
「打線は水物だ。まずはバッテリーを軸とした守りだ」
 これも野村や森の思想とは微妙に異なる。そして自分を監督と呼んだ場合罰金を取ったり夜間練習をしなかったりといったことも彼等の考えとは異なっていた。何処までも彼等と権藤の野球に関する思想は異なっていたのである。
「ミスを恐れるな。ただ全力でプレイしろ」
 権藤はこうも言った。敵のミスにここぞとばかり付け込むのが野村、そして森の采配の特徴である。ミスをしなければするように仕向ける。そしてそこから突破口を築く。これで長嶋はどれだけ負けたかわからない。
 それだけにミスの恐ろしさもよく知っている。野村、森はミスを嫌った。
 そうした野村や森の批判を権藤はものともしなかった。そしてそうした姿勢に深く共鳴する者もいた。
「流石は権藤さんだよ」
 東尾であった。彼もまた投手出身だけあり彼の考えをよく理解できたのだ。
「野球は面白くないとな。ああした野球がいいんだよ」
 彼等は私生活においても仲が良かった。投手畑を歩いてきた人間としてお互いに理解できる部分が多かったのだ。
 そうしてペナントは進んでいった。当初は躓いた横浜だが次第に勝ち星を積み重ねていった。
 もう毎年のことでありこうしたマスコミの提灯報道や勉強不足の解説者の意見にはいい加減食傷気味であるがこの年の優勝候補も例によって巨人であった。根拠は巨大戦力である。
 だが往々にしてその予想は見事に外れる。理由ははっきりしている。彼等が巨大戦力というのはホームランの数だけしか見ていないからである。野球を知らない無知、無学、思慮の浅い者の意見である。
 野球は総合力で見るものである。西武が黄金時代を築いたのもそれによるものである。かっての阪急もそうであった。
 巨人には抑えがいない。守備もお粗末である。その自慢の打線とやらもつながりなど皆無である。走ることもない。しかもコンディションも怠っているから怪我人まで多い。非常に幼稚な野球をしている。指揮官の識見を疑うレベルである。
 こうしたチームが優勝するかと言うとまぐれでしかない。そうしたことも理解出来ない人間が我が国の野球ファンに多い。悲しむべきことである。
 だが横浜の守備は固かった。内野も外野もレフト以外は隙がなかった。抑えにはあの佐々木主浩がいた。そして盗塁こそ少ないが機動力もあった。怪我は権藤が最も嫌ったことであった。彼は怪我人は何の躊躇もなく休ませた。
 次第に横浜は順位をあげていく。ヤクルトは不調であった。巨人は横浜に逆転されそこから坂道を下るように負けていった。所詮はホームランバッターだけでは野球はできないのである。おそらく野球を愛さず冒涜するような愚か者には未来永劫理解出来ないことであろうが。
 かわって中日が追い上げてきた。しかしそれでも横浜の勢いは止められなかった。
 場所は甲子園、大魔神と仇名される佐々木のフォークが唸った。最後のバッター新庄のバットが豪快に空を切った。
「やったな」
 それを見ていた横浜ファンが溜息と共に言った。佐々木がマウンドの上でガッツポーズをする。そこにナインが駆け寄る。横浜は今ここに三十八年振りの優勝を決めたのである。
「そうか、権藤さん勝ったか」 
 それを聞いて我がことのように喜ぶ男がいた。東尾であった。
「うちも早く決めないとな」
 今西武は劣勢にあった。ペナントは日本ハムが優勢であった。ビッグバン打線、驚異的な破壊力を誇るこの打線を背景に日本ハムは首位にいたのである。
 パリーグは混戦していた。しかしここで東尾は自慢の投手陣と機動力をフル活用しだした。
「野球を決めるのは何かわかるか」
 東尾はある時記者の一人に対して問い掛けた。
「何ですか?」 
 彼と親しいその記者はある程度はわかっていたが芝居っ気を好む彼に合わせて尋ねた。
「ピッチャーだよ」
 彼はニンマリと笑ってそう言った。
「野球はな、まずはピッチャーだ」
 ピッチャー出身の彼だからこそ言う言葉であった。
「ピッチャーがチームの柱だ、これがしっかりしていないチームは最後には負ける」
「はあ」
 その記者はある程度演技を入れて頷いた。
「まあ見ていてくれよ。最後にこのペナントを制するのが何処かな」
「監督、自信あるみたいですね」
「当たり前だよ、自信がなくてこんなこと言うわきゃないだろ」
 これが東尾であった。彼は常に自信がその胸の中に満ちていた。
「うちは十二球団でも一番の投手陣を持っている。これで去年の勝った。そして」
 彼は不敵に笑った。
「今年もな」
 そしてその言葉を残して監督室をあとにした。彼は戦場へと向かった。
 西武は日本ハムとの死闘を制した。頼みの綱の打線が停滞した日本ハムは西武投手陣の敵ではなかった。こうして西武は二年連続でペナントを制したのであった。
「今年のシリーズは楽しくなりそうだな」
 ペナントを制した後の東尾は上機嫌であった。彼は個人的にも親しく互いに認め合う仲の権藤と対決できることが何よりも嬉しかったのである。そこには昨年の野村へのあてつけもあった。
「そういえば今年ははじめてらしいな」
 対する権藤も機嫌は悪くなかった。彼は今回のシリーズが史上初の投手出身の監督同士の対決であることを聞いていたのだ。
「まあ私は内野もやっていたことがあるのだがね」
 彼はそう言って苦笑した。しかし権藤といえば誰もがあの連投を忘れはしない。
「ここは正々堂々といきたいな」
 これに対し野村も森も嘲笑を禁じえなかった。
「何を言うとるんじゃ、野球というのは騙し合いじゃ」
「作戦こそが勝負を決する。それがわからなくして野球は成り立たない」
 何処までも彼等は捕手であった。投手の言う言葉はやはりそりが合わない。
「言いたい奴には言わせておけばいいんだよ」
 東尾もそう言った。彼もまた野村や森とは現役時代からの不和である。
「俺は俺の野球がある。そして勝ってやるさ」
 彼はそう言うと車に乗った。行く先は横浜であった。
 横浜スタジアムの隣には中華街がある。横浜で最も有名な観光名所の一つでもあり行き交う者は皆中国の品物を愛で料理に舌づつみを打つ。そこに東尾はやって来た。
「ようこそ」
 店に入るとそこには権藤もいた。彼は微笑んで手を差し出した。
「どうも」
 東尾も微笑んで手を出した。そして握手をした。
「君達も来てくれよ」
 そして二人は周りにいた記者達を呼んだ。そして食事会場に誘った。
「またこれは洒落てますね」
 彼等は権藤と東尾の食事会を見て思わずそう言った。二人はスーツを着こなし優雅に食事を摂った。
「ここら辺もあの人達とは違うなあ」
 かってヤクルトを担当していた記者や前から西武を担当していた記者達は内心そう思った。彼等は九二、九三年のシリーズの開始前からの野村と森の駆け引きを思い出していた。
 それもまた野球であった。この二年越しの戦いは今でも伝説となっている死闘である。二人の知将がその全てを賭けて戦った激戦であった。
 それに対してこの二人は死闘を前に酒を酌み交わしている。これは彼等が投手であるということから来る独特のダンディズムであった。
「やっぱり投手ってのはこうなんだな」
 彼等の中の一人がそう呟いた。それは将というよりは侍であった。
「ところで一つ面白いニュースがあるんだけれどな」
 東尾は記者達に顔を向けて微笑んだ。
「何ですか?」
 東尾がこんな顔をする時は絶対に何かある、天性の博打打ちでもある彼の性格を誰もがよくわかっていた。
「おお、実はな」
 彼はここで権藤に顔を向けた。彼も薄っすらと笑った。
「今回のシリーズは互いに先発を予告しようと思うんだ」
「ええっ!?」
 これには皆驚いた。そんなことは今までなかったからだ。
 ペナントでは今まであった。だが短期決戦で手の内を容易に見せればそれがすぐに敗北に直結するシリーズにおいてそれは今までなかったことだ。実際に意表を衝く先発で勝利を収めた試合もある。そしてそれがシリーズの行方を左右するということもあるのだ。
「どうだ、驚いたか。じゃあまずうちからいくか。第一戦は先攻だしな」
 東尾は驚く記者達の様子を楽しみながら言葉を続けた。
「西口だ。やっぱりまずはエースからじゃないとな」
「西口ですか」
 西武の若きエース西口文也、これは容易に想像がついた。皆それしかないと思っていた。
「横浜はどうするんですか?」
 記者達は今度は権藤に対し尋ねた。
「うちか」
 権藤は微笑んだ。そしてゆっくりと口を開いた。
「働きに見合った年功序列といこう。野村だ」
 野村弘樹、この年十二勝を挙げ今までもエースとして活躍してきた左腕だ。
「野村ですか」
 中には斉藤隆や二段フォームで知られる三浦大輔を予想する者もいた。だが権藤が指名したのは野村であった。
「そうだ、まずは全て彼任せる」
 それで決まりであった。言い終わると二人は再び杯に酒を注ぎ込んだ。
「今夜十二時を以って犬猿の仲になる。それまでは酒を楽しもう」
 そう言って二人は杯を打ち合った。そして死闘の前の酒を楽しんだ。
「これが勝利の美酒になる」
 二人はそう思った。そしてそれぞれ中華街をあとにした。
 第一戦は一〇月十七日の予定であった。だがそこに台風がやって来た。
「こればかりはどうしようもないな」
 試合は当然流れた。権藤は記者達に対して言った。
「ゆっくりやttらいいさ。もう雨には慣れているよ」
 横浜も西武のこのシーズンは雨に悩まされた。
「今日本で真剣勝負をやっているのはうちと西武だけだしな」
 その口調には余裕があった。だが内心では安堵していた。
(恵みの雨だな)
 そう思わざるをえなかった。それは何故か。
 当時の横浜の切り札は二つあった。止まることなく連打を浴びせるマシンガン打線と最後を締めくくる絶対的な守護神佐々木。だがその佐々木が風邪で倒れていたのだ。
「佐々木の調子はどうだ」
 権藤はスタッフの一人に問うた。
「いいとは言えませんね」
 彼は首を横に振って言った。
「そうか」
 権藤はその顔を少し曇らせた。一時佐々木は点滴を打つような状態であったのだ。
「今は少しでも時間が欲しいな」
「はい」
 権藤は雨が降り注ぐ空を見た。そして佐々木を調整する時間を少しでも欲していた。
 それは西武も同じであった。エースの西口が風邪を引き体調が思わしくなかったのだ。
「おい、頼むぞ」
 東尾はそんな彼を元気付けるべくハッパをかけた。
「ビースは幾らでもいる。しかしエースは御前しかおらん。いけるところまで頼むぞ」
「任せて下さい」
 責任感の強い男である。監督の気持ちが痛い程よくわかった。二人は同じ和歌山出身ということもありウマが合ったのだ。
 彼は焦っていた。何とか試合までにコンディションを整えておきたかったのだ。
「あの時は絶好調でも負けたのだから・・・・・・」
 ふと彼の脳裏に昨年の忌まわしい記憶が甦った。
 九七年日本シリーズ。彼はこの時も第一戦に先発で登板した。相手は奇しくも野村と同じ左腕、剛速球で鳴る石井一久であった。
 試合は投手戦になった。西口は飛ばした。七回までヤクルト打線に得点を許さなかった。
 だがそれは石井も同じであった。石井の荒れ狂う剛球とそれをリードする古田の知略を攻略することが出来ず試合は膠着していた。西武は頼みの機動力も古田の強肩と智謀の前に発揮できずにいた。
 そして八回。バッターボックスにヤクルトの助っ人ジム=テータムが向かう。
「おい」
 ここで野村が出て来た。そして西口をチラリ、と見た。
(俺を見て何を言ったんだ!?)
 彼はふとそう思った。彼もまた野村のことはよく聞いていた。
 野村は西口を横目で見ながらテータムに囁いていた。
「初球を狙っていくんや、わかったな」
「オーケー、ボス」
 テータムは頷いた。そして打席に入った。
(また何かやるつもりかな)
 彼は少し不安になった。ここに少し焦りが生じたとしても不思議ではない。
 まずはカウントをとることにした。得意のスライダーを投げた。
 それが失敗だった。テータムのバットが一閃した。
「しまった!」
 叫んだ時には既に遅かった。打球は神宮のレフトスタンドに突き刺さっていた。
「やられた・・・・・・」
 彼は落ち着きを取り戻し、そして後悔した。不用意にカウントをとりにいってはいけない時だった。テータムはゆっくりとダイアモンドを周り野村は笑顔でそれを出迎えた。会心の笑みだった。
 結局それが決勝打になった。西武は石井と古田のバッテリーを攻略することが出来ず十二三振を喫して完敗した。只の一敗ではなかった。投打において完敗した試合であった。それがこのシリーズの西武の行方に暗い影を落とした。
 シリーズは終始ヤクルト有利に進んだ。第三戦では古田が決勝アーチを放ちシリーズの流れを完全に掌中に収めた。西武は手も足も出ず第五戦に挑んだ。
「ここで流れを引き寄せなくては」
 マウンドには西口が上がった。彼は全てを賭けてマウンドに立った。
 だが打たれた。五回で無念の降板だった。
 ヤクルトはその試合巧みな継投で西武を何なく退けた。まるで赤子の手を捻るようにあっさりと勝負を決してしまった。
「やっぱり野村には勝てなかったな」
「ああ、予想通りの結末だよ」
 皆そう言った。誰もがヤクルトの絶対的な有利を信じその通りに進んだシリーズであった。
 西武にとっても、彼にとっても苦い思い出だった。そのことは一日たりとも忘れたことはなかった。
 彼のシーズンはその時からはじまった。あの雪辱を晴らす為に。
 しかしここにきてこの体調不良である。彼は焦っていた。そしてその焦りを遂に打ち消すことができなかった。
 
 それに対する横浜は少し事情が違っていた。彼等もまた雨が降り注ぐ横浜スタジアムを見ていた。
「あれっ、こんな時でもランニングですか?」
 記者の一人はウェアを着込もうとしている一人の選手を見て声をかけた。
「ええ、案外雨の中を走るのも気持ちがいいですよ」
 彼はウェアを着終えるとそう言った。横浜の遊撃手石井琢朗である。
 幾度も盗塁王に輝いている。守備も素晴らしくサード、そしてショートでゴールデングラブ賞を獲得している。またトップバッターとして、チームリーダーとして活躍し横浜の柱といってもいい人物だ。
「そうなのですか、また気合が入っていますね」
「そりゃそうですよ」
 彼はにこやかに笑って答えた。
「シリーズですからね」
 彼はそう言いながらグランドに向かっていた。
 グラウンドには誰もいない。ただ雨が滝の様にグラウンドを支配していた。
 本当に誰もいないな、石井はそれを見てそう思った。
「西武ナインはいませんね」
 彼は記者の方を振り向いてそう言った。
「ええ、今は横須賀にいますよ」
 その通りであった。彼等は今この雨を避け横須賀の二軍室内練習場で汗を流していた。そこで試合前の最後の調整をする為だ。
「ここに来て守備練習はやっていないんですね」
「ええ、していませんでしたね」
 記者はそう答えた。石井はそれを聞いて一瞬考える顔をした。
「そうですか」
 そう言うと彼は顔を元に戻した。
「ここの人工芝今年張り替えたんですけれどね」
「あ、それは知っています」
 なかなかよく勉強している記者だ。最近の記者はろくに試合もキャンプも見ず特定の球団に媚び諂っている輩もいるというのに。これはテロ国家の下僕と化している者も多かった我が国のマスコミの病理のほんの一部である。
「ボールの転がり方に癖がありましてね。結構独特なんですよ」
「そうなんですか。それは知りませんでした」
 横浜内野陣の守備には定評があった。ショートにこの石井がおりサードには進藤達哉、セカンドには主砲でもある助っ人ロバート=ローズ。そしてファーストには駒田徳広。その守備の良さは他チームをして『併殺網』と言わしめる程であった。だからこそさ程気付かなかったのだろうか。
「じゃあこれで」
 石井はそう言うとグラウンドに出て行った。そして雨の中走り続けた。グラウンドを丹念に見ながら。
 それが終わると彼はロッカールームに戻った。そこには横浜ナインが集まっていた。
「お、西口か」
 ロッカールームに戻った石井は二台のモニターに映し出されている一人のピッチャーを見て言った。
「ええ、何せ第一戦の先発ですからね」
 彼等は西口の投球に見入っていた。やはりその球は良かった。
「スライダーがいいな」
「時折混ぜるチェンジアップも効果的に使ってるな」
 彼等は口々にこう言った。そして彼の投球を細部まで見ていた。そのフォームも実に綺麗なスリークォーターである。スリークォーターである。ワインドアップではない。ここに難点があった。
「ん!?」
 最初にそれに気付いたのは横浜きっての好打者鈴木尚典である。首位打者を獲ったこともある男である。
「どうした?」
 鈴木が首を傾げたのを見て石井が声をかけてきた。
「いえ、西口ですけれどね」
 彼は思いきり投げる西口を指差しながら言った。
「投げ終わったあとやけに一塁に身体が流れますね」
 確かにそうであった。スリークォーターで思いきり腕を振る為だろうか。身体が大きく左に動いていた。
「御前もそう思うか」
 石井はそれを聞いて言った。
「俺も今それを言おうと思ってたんだよ」
「石井さんもですか」
 鈴木はそれを聞いて言った。
「ああ」
 石井は考える目をしながら答えた。
「西武のサードは鈴木健だな」
「はい」
 お世辞にも守備はいいとは言えない。特に前のボールには弱かった。
「成程な」
 彼は再び考える目をした。
「一つ試してみる価値はあるな」
 石井の脳裏にある奇計が思いついた。こうしてシリーズ開始前の雨は両チームに多くの影響を与えた。だがこの時には誰にもわからなかった。

 十月十九日、遂にシリーズが幕を明けた。先発は両監督の発表どおり野村と西口であった。
「やはりな」
 石井はベンチにいる西口を見て呟いた。
「見たところあまり落ち着いてはいないな」
 西口は投手としてはあまり気が強くはない。その為かここぞという時に打たれることもままある。
「最初が肝心だな」
 石井はポジションに向かいながらそう思った。そしてプレーボールとなった。
 まずは簡単にツーアウトとなった。野村の立ち上がりは悪くはない。
 だがここで高木大成がレフト前ヒットで出塁する。ここで東尾は動いた。
「まずは先制点だ」
 サインを出す。高木はそれを見て頷いた。
 打席にいるのは西武の助っ人ルディー=ペンパートン。その四球目だった。
 高木は走った。それに対し横浜のキャッチャー谷繁元信は素早い動作で二塁に投げた。
 その肩は定評がある。高木はあえなく二塁で死んだ。
「谷繁さんっていい肩してるな」
 西口はそれを見て言った。彼はベンチ前で投球練習をしていたのだ。
「頼むぞ」
 東尾は彼に声をかけた。
「任せて下さい」 
 西口は強い声で言った。そしてマウンドに向かった。
「さて、と」
 彼はロージンを握りながらバッターボックスに向かう石井を見ていた。
「このバッターだけは出塁させたくはないな」
 石井の足のことはもう聞いていた。まず彼から横浜のマシンガン打線ははじまるのだ。
 攻撃の芽を潰しておきたい、そして何よりもまずはワンアウトが欲しかった。それで気持ちが楽になる。
 石井がバッターボックスに入った。西口はロージンを落としボールを握った。
「まずは」
 その独特のフォームで投げた。外角いっぱいに入るスライダーだった。
「ふうん」
 石井はそれを見て心の中で呟いた。そして西口の顔を見る。
 やはり焦っていた。とにかくアウトをとりたいのが手にとるようにわかった。
「あれをやるか」
 石井は焦る西口を見て思った。そして身構えた。
 二球目はストレートだった。一球目と同じく外角だ。石井はここで動いた。これがシリーズの流れを半ば決定付けた。
「なっ!」
 それを見て西口は叫んだ。彼だけではない、西武ナインも、東尾もアッと驚いた。
 何とバントだ。石井は西口のその外角へのストレートを三塁側に転がしたのである。
「しまった!」
 西口は咄嗟に動こうとする。だが態勢が一塁側に流れていて反応が遅れた。
 打球はその間にも転がっていく。水を含んだ横浜の人工芝は独特の動きをする。
 サードの鈴木が向かう。しかしやはり前の打球には手間取っている。石井はその間にも俊足を飛ばして一塁へ向かう。
 結果はセーフだった。何といきなりバントを仕掛けてきたのだ。
「横浜でバントかよ」
 東尾は思わず顔を顰めた。思いもよらぬ奇襲であった。
 西口は一塁にいる石井を見た。その顔はあきらかに嫌そうなものであった。
「よりによって・・・・・・・」
 無理をしてストライクを取りに行かなくてもよかった。焦る西口が判断を間違えたのだ。
 やはり身体のきれもよくない。彼の焦りは益々深くなっていった。
「気をつけろよ」
 彼の脳裏にバッテリーミーティングでのスコアラーの言葉が甦る。
「横浜は早いカウントからでも容赦なく打って走ってくるからな」
 そうであった。特にこの石井は隙を見せると確実に走って来るのだ。
 バッターボックスには二番の波留敏夫が入った。だが西口は彼よりも一塁にいる石井を見ていた。
「クッ!」
 牽制球を投げる。そしてまた何と波留に一球目を投げるまでに五つの牽制球を投げていた。
「西口の奴焦ってるな」
 それは横浜ベンチからもわかった。
 石井は捕まらない。冷静に西口の動きを見ていた。それが逆に西口を苛立たせた。
 一塁で黙ってマウンドの西口を見ている。西口も彼にばかり目を向けているわけにはいかない。
 投手にとって難しい技術がある。それはランナーを塁で止めることだ。かって阪急との日本シリーズでその時巨人の正捕手だった森は阪急のトップバッターであり当時驚異的な盗塁を誇っていた福本豊の足を封じた。これにより巨人を日本一に導いたのだ。ここには森がピッチャーにランナーに対するクイック投法や癖盗み、そして牽制球の有効な使い方を伝授していたことも効果があった。後に彼は西武の監督としても同じことをしている。
 野村のヤクルトでもそうである。ヤクルトには古田がいる。彼の捕殺は天下一品である。ランナーは余程上手くやらないと彼から塁は盗めない。西武がシリーズにおいてヤクルトに完敗すると皆予想したのは古田には機動戦が全く通用しないと思われたからである。それは事実であった。
 ここでも古田は投手陣にクイックや牽制を教えていた。そうしてランナーの動きを封じるのも戦術なのである。
 西口はそれを忘れていた。彼は焦るあまり石井に不必要に牽制球を投げ過ぎていたのだ。
「監督、どうしますか」
 コーチの一人が権藤に対して尋ねた。
「いつもの通りだ」
 権藤はそれに対してクールに答えた。
「あいつに任せる」
 これは横浜の方針であった。石井が一塁に出た時は彼とバッターボックスにいる波留に任せる。そうして勝ってきたのだ。
 四球目、キャッチャー伊東勤はサインを出した。スライダーである。西口は投げた。
「!」
 その瞬間石井は走った。ボールがミットに収まった時には石井は既に二塁を陥れていた。
「やっぱりやられたか・・・・・・」
 西口は苦渋に満ちた顔で二塁ベース上で砂を払う石井を見た。その石井に対し球場の九割以上を占める横浜ファン達が喝采を送る。
「やはりシリーズだけはあるな。凄い声だ」
 東尾はその声を聞いて呟いた。ベンチにいる彼ですらそう思うのだからマウンドにいる西口にはそれが余計に大きく聞こえた。
 波留は何とか打ち取った。そして打席には鈴木尚典が入る。
 鈴木のバットが大きく振られた。打球はそのまま一直線にライト前に打ち返された。
 石井の足はやはり速い。彼は苦もなくホームを踏んだ。シリーズの先制点は横浜が手中にした。
 球場は大歓声に包まれる。それが西口を余計に焦らせた。
 その回はエラーもあったが何とか抑えた。だが流れは明らかに横浜にあった。西武は毎回ランナーを出すが攻めきれない。
 試合は進んでいく。そして石井がまたバッターボックスに入った。
 伊東はチェンジアップを連投させた。だがストライクが入らない。そして結局歩かせてしまった。
 西口の表情がまた暗くなる。やはりまた走られた。彼は集中力を分散させてしまっていた。
 波留に打たれた。石井は無理をせず三塁で止まった。マシンガン打線に銃弾が装填されようとしていた。
 次の鈴木は粘った。初回のタイムリーが西口と伊東を圧迫する。
「ここを抑えてくれればいいが」
 東尾は苦しむ西口を見ながら言った。西武にとっては正念場だった。
「ここで点を入れればこの試合は勝ちだ」
 権藤は顎に手を当てながら呟いた。横浜にとっては試合を決める絶好の機会であった。
 鈴木のバットが一閃した。打球はレフト前に落ちた。
 これで一点。東尾はそれを見て苦い顔をした。
 続いてローズにも打たれた。今度はツーベースだ。彼は完全にマシンガン打線に捕まっていた。
「これは駄目だな」
 東尾は顔を顰めた。そしてマウンドに向かった。
 ピッチャー交代を告げた。西口はこれでマウンドを降ろされた。
 だが攻撃は続く。横浜はこの回三点を追加した。
 これに気をよくしたのが横浜のマウンドにいる野村である。彼は打席でも活躍した。
 打てばツーベースである。これに肝を冷やしたのだろうか。西武は守りに乱れが生じだした。悪送球や暴投で不必要に失点を重ねていく。
 最早点差は開く一方だった。野村は高木大成にツーランを浴びるも崩れなかった。それそころかまた打った。そしてまた追加点を入れられた。
 野村は七回で降板した。四失点ながら試合を見事に作った。
 そして八回となった。二死二塁、ここで権藤が動いた。
「五十嵐か?」
 この時マウンドにいたのは阿波野秀幸。かって近鉄のエースとして活躍した男であり今は横浜の貴重な中継ぎであった。
 横浜のリレーを考えると次はその五十嵐英樹、通称ヒゲ魔神だった。
 だが権藤は彼の名を言わなかった。ここで何と切り札を投入してきたのだ。
「ピッチャー、佐々木」
 権藤は彼を調整させる意味でもマウンドに投入したのだ。
 リリーフカーに乗り姿を現わす佐々木。横浜の観客達はそれを見て歓声を送った。
 佐々木の球は思ったより速かった。だがやはり風邪明けである。制球が定まらない。
 四球を出し二死一、二塁。忽ち窮地に追い込まれる。
 ここで西武は得意の機動戦術に出た。盗塁を仕掛け調子の良くない佐々木を揺さぶろうというのだ。
 だがそれは失敗した。三塁を狙った高木が谷繁により刺されてしまったのだ。
 その裏西武は中継ぎの柱の一人デニーをマウンドに送った。
「横浜のお客さんにもサービスしとかなくちゃな」
 東尾はニンマリと笑って言った。デニーはかって横浜にいた男である。その長身と整った顔立ちにより横浜時代より人気は高かった。
 横浜の観客達からも歓声が起こる。鈴木健のエラーにより失点を許したが満足のいく投球であった。彼は横浜のファン達にも温かく迎えられながらベンチに戻った。
 九回は佐々木が三者凡退で締めくくった。横浜にとっては幸先よい勝利だった。だが西武にとっては嫌な幕開けとなった。
「石井さんのバントとスチールで自分を見失ってしまいましたね。調子が悪かったので余計に気になったかも知れません」
 試合後西口は記者達に対して唇を噛んで言った。
「全てが悪かったな。ゲームになっていなかったよ」
 司令塔である伊東も憮然として語った。西武のベンチは沈滞していた。
 逆に勝った横浜は上機嫌だった。石井は記者達に対して言った。
「何度も牽制球を出してくれましたからね。かえってタイミングを掴めましたよ」
 その言葉が全てだった。西武は半ば自ら敗北を招いてしまった。
 試合後東尾はホテルで呟いた。
「この一敗は大きいな・・・・・・」
 ただの一敗ではなかった。両チームの流れを決定付けるような西武にとって後味の悪い一敗であった。

 第二試合もまずは予告先発からであった。横浜はその整った顔立ちが人気の右のエース斉藤隆、西武も男前で評判のある豊田清だった。両方共顔には定評のある好投手なので試合開始前からスタンドでは話題だった。
 だが観客席にいるのは殆どが横浜ファンであった。これには西武ナインも苦笑した。
「おいおい、俺達の援軍はあれだけかよ」
 西武ファンはほんの僅かであった。だがその声援は熱かった。
「その援軍に応えるぞ」
 東尾はナイン達に対して言った。こうして試合がはじまった。
 まず西武は斉藤の立ち上がりを攻める。ノーアウト一、二塁。だが彼を攻めきれず結局無得点に終わる。
 その裏の横浜の攻撃である。またしても石井にヒットを許した。
「またかよ・・・・・・」
 東尾は唇を噛んだ。そして例によって走られた。
「伊東の肩に問題があるな」
 そして同じように鈴木にタイムリーを許す。まるで昨日の試合のVTRを見ているようだ。
 だが違うところがあった。残念ながら西武にではない。横浜にであった。
 斉藤は絶好調であった。西武打線を見事に抑えている。まるで打たれる気がしなかった。
「斉藤の調子はいいですね」
「ああ」
 権藤は全く動かなかった。斉藤はなおも飛ばしていく。
 五回の横浜の攻撃。まずは石井がホームランを打った。
「またあいつか」
 東尾は苦い顔をした。そして鈴木にも打たれた。
 一塁には鈴木がいる。彼にはバッティングの他にもう一つ武器があった。
 スチールを決めたのである。初回にも走られている。これで二盗塁である。
 そしてローズに打たれた。これで豊田はマウンドから降りた。
 七回にも追加点を入れる。タイムリーを放ったのはやはり鈴木であった。
「石井とあいつは何とかならんのか・・・・・・」
 東尾は顔を顰めて呻いた。この二人には特にやられていた。
「打たれるのは構わんがな」
 彼は目の前で累上で誇らしげに笑う鈴木を見ていた。
「走られては元も子もない。これだけやられたら黙っているわけにはいかんな」
 試合は結局横浜の勝利に終わった。斉藤はシリーズ初登板ながら見事完封勝利を収めた。
「今日は監督もコーチも必要なかったな」
 権藤は記者達に対して言った。斉藤の好投のことを言っているのである。その言葉が横浜の雰囲気を表わしていた。
 逆に西武は沈む一方であった。
「このままだと四連敗もあるぞ」
 東尾は一人腕を組んでいた。
「ここは一つ思い切ってやってみるか」
 彼は何かを決した。元々博徒として知られた男である。ここぞという時の奇計は有名であった。
「舐められるわけにはいかん、そして勝つ為にはな」
 東尾はそう言うと北西の方を見た。次の試合からは舞台が変わる。西武の本拠地西武球場だ。彼はここで一か八かの大博打を打つことにした。
 翌日行なわれる筈だった試合はまたしても雨で流れた。

 十月二三日、第三戦は西武球場で行なわれた。西武の先発は潮崎哲也、黄金時代から抑え、そして先発で活躍してきたサイドスローである。武器はシンカーである。横浜はリーゼントで有名なハマの番長三浦大輔、立ち上がりに不安はあるもののその独特の二段フォームで知られる実力派である。
 ここで観客達が驚いたのはキャッチャーである。何と西武のキャッチャーは中嶋聡である。
「伊東じゃないのかよ!?」
 皆目を見張った。実はこのシリーズにおいて注目される対決が二つあった。一つは石井対松井稼頭夫。ショート、そして切り込み隊長同士の対決。そしてもう一つは谷繁対伊東。キャッチャーの対決であった。ここで東尾はその伊東を外してきたのだ。
「また思い切った作戦に出ましたね」
 コーチの一人がそう言った。
「これが博打ってやつだ」
 東尾は不敵な笑みを浮かべて答えた。
「相手に舐められたら勝負の世界ではそれで終わりだ。今からそれを見せてくれるさ、中嶋がな」
 彼はそう言って潮崎のボールを受ける中嶋は頼もしそうに見た。こうして試合がはじまった。
 伊東のリードは一つの特徴がある。それはピッチャーに最もいい球を投げさせるというものである。どんな球でもキャッチする。そうした彼の卓越したキャッチング技術があるからこそできるリードである。古田も卓越した技術があるが彼の場合はピッチャーの最もいい球を引き出す。これもまたリードの違いである。
 それに対して中嶋は強気のリードで知られる。グイグイと押すタイプのリードだ。
 中嶋のリードはストレート主体であった。それが功を奏した。初回石井を四球で出し嫌な雰囲気を作ったものの次の波留を併殺打に打ち取った。これには彼の肩があった。中嶋の強肩はよく知られていたのだ。
「流石に走ってこないな」
 東尾はダブルプレーとなりベンチに戻る石井の背を見ながら言った。彼の采配は的中したのだ。
 横浜はチャンスを作るものの得点を入れられない。逆に西武は立ち上がりの不安定な三浦からチャンスを作ることに成功した。
 いや、それは三浦の自滅であった。彼は四球を連発しピンチを自ら拡げてしまった。そこでローズがまさかのエラーだ。まずは一点だった。そして内野ゴロの間にまた一点、こうして西武はノーヒットながら二点を手に入れた。
「四球は構わない」
 権藤はこう言う。だが彼は同時にこうも言う。
「エラーの点は返って来ない」
 守備の乱れにより生じた得点はホームランを打たれた時よりも後味は悪い。そこから傷口が広がる恐れもある。ピッチャーにとっては打ち取った筈のものが得点になるのだ。これはたまらない。守備のよいチームが強いと言われる根拠もここにある。ましてや横浜は守備、特に内野のそれは定評があるのでピッチャーのとっては尚更である。
 三浦は三回もコントロールに苦しんだ。二回のエラーで完全に緊張の糸が切れたのだろうか。遂に高木浩之にタイムリーを許し降板した。西武はそれからも追加点をあげ四点を取った。
 横浜は毎回ランナーを出しながらも中嶋の強肩を警戒し盗塁を敢行出来ない。そしてダブルプレーでチャンスをことごとく潰してしまっていた。
「この試合いけますね」
 コーチの一人が東尾に対して言った。
「ああ」
 東尾はニンマリとして笑った。横浜のピッチャーは三浦から福盛に替わっていた。だが彼も制球に苦しんでいる。五回からは三番手サイドスローの戸叶尚だ。だが彼もコントロールが悪いことで有名である。しかも球質が軽いせいか長打を打たれることも多い。内野安打のあと連続四球で満塁のピンチを作った。
「ここで点が入ったら勝ちだ」
 東尾は言った。そしてバッターボックスにいる男を見た。
 松井である。西武が誇る遊撃手、その俊足と強肩、そして長打は有名である。抜群の運動神経を誇り西武の攻撃の柱の一人であった。
 その松井が思いきりバットを振り抜いた。打球はレフトの頭上を越えた。
「行け、そのまま走れ!」 
 三塁ベースコーチが右腕を大きく振り回す。西武のランナーは次々に三塁ベースを回った。
 松井は二塁で止まった。流石に三塁は無理だった。だが会心の走者一掃のツーベースだった。これで試合は決した。
 そのあとは西武は自慢の中継ぎ陣を投入して横浜を抑えにかかった。そして最後はこの年日本ハムから移籍してきていた西崎幸広である。彼が九回を無事抑え西武はこのシリーズ初勝利となった。
「これで一つ取り戻したな」
 東尾はニンマリと笑った。
「今日はあいつのおかげだな」
 彼は中嶋を親指で指して言った。
「あいつの気の強さと肩がうちを救ってくれたよ」
 流れは完全に横浜にある。ここで負ければそのまま四連敗の危機であった。それを周りの肝を抜く采配で切り抜けたのであった。
「今日は完全に向こうのペースだったな」
 権藤は球場を引き揚げる時そう言った。
「まだまだ勝負は長い。焦らずいくとしよう」
 そしてバスに乗った。横浜は十一四球というシリーズの不名誉な記録を更新してしまっていた。
「戦っていっればそういうこともある」
 だが権藤は全く焦らない。そしてバスは宿舎に去って行った。

 次の試合の先発は西武は石井貴であった。一五〇キロの速球を武器とする正統派投手だ。しかも気の強さでも有名であった。対する横浜は第一戦で好投した野村である。
 この試合でも西武のキャッチャーは中嶋であった。彼は試合前に昨日の試合を振り返っていた。
「横浜はどうも変化球には滅法強いな」
 西口もそれにより打たれた。
「だが速球には思ったより強くないな」
 潮崎はシンカーを武器とする。だがそれをあえて使わずにストレート主体で攻めると意外と効果があったのだ。
「よし、ここは腹をくくるか」
 気の強い中嶋は意を決した。そしてキャッチャーボックスに入った。
 彼のリードは当たった。横浜は石井のストレートを攻められなかった。凡打の山を築いていく。
 西武はアーチで二点を先制した。だが横浜も石井の速球を黙って見ているだけではなかった。
 四回石井を二塁において打席に鈴木が入る。ここで彼は石井貴の打球を完璧に捉えた。
 打球は西武球場の外野スタンドに消えた。勝負はこれでふりだしに戻った。
 だが中嶋と石井はここで踏ん張った。六回のボークにより招いてしまった危機も乗り切り横浜に勝ち越しを許さない。
 そしてその裏であった。高木大成がヒットで出塁すると打席には西武の主砲ドミンゴ=マルチネスが巨体を揺らしながら入って来た。
「頼むぞ、マルちゃん!」
 ベンチもスタンドにいる西武ファンも彼に声援を送る。ここは彼のパワーにかけたのだ。
 彼はそれに応えた。野村のボールをスタンドに叩き込んだのだ。
「よっし、これで勝ったぞ!」
 観客達が総立ちになった。ベースをゆっくりと回る彼をナインが出迎える。
「あとは頼んだよ」
 マルチネスはニコリと笑って石井と中嶋に声をかけた。二人はそれに対しニヤリ、と笑って頷いた。
 だが横浜も諦めない。九回に決死の粘りを見せ満塁のチャンスを作る。バッターボックスにはチームのムードメーカーであり思いきりのいい佐伯貴弘が入った。
「土壇場でこんなことになるとはな」
 東尾はマウンドにいる西崎を見ながら呟いた。
「替えますか?」
 コーチが問うた。西崎は右、それに対して佐伯は左である。佐伯は右ピッチャーには強い。
「いや」
 それに対して東尾は首を横に振った。
「ここはあいつ等に賭ける」
 そう言ってマウンドの西崎と中嶋を見た。
 中嶋は迷わなかった。四球連続で外角にストレートを要求した。
「おいおい、四球続けてかよ」
 西崎は四球目のサインを見て思わず心の中で呟いた。中嶋の目に迷いはなかった。 
 ならば投げるのがピッチャーである。佐伯はボール球に手を出してしまいあえなく三振した。これで西武はシリーズをふりだしに戻した。
「おい、よくあんなリードが出来たなあ」
 東尾は中嶋を満面の笑みで迎えた。
「ええ、ここは腹をくくろうと思いまして」
 中嶋は会心の笑みをたたえていた。
「そうか、腹をくくったか」
「はい、変化球は最初から捨てていました」
 その言葉に西武ナインは驚いた。
「頼もしいな、これからもその心構えでやってくれ」
 東尾は彼のその気の強さが有り難かった。彼により西武は生き返ったかに見えた。
 一方宿舎に戻った権藤は一人考えていた。
「これで五分と五分か」
 彼は悩んではいなかった。だが何か考えているのは明らかである。
「こうなったら悔いのないようにやるか」
 そう言うと椅子から立った。そしてビールの缶を開けた。
「勝負に迷いは禁物だ。そして悔いがあってはならない」
 彼はここでも独自の哲学を脳裏で呟いた。それは投手であるということからくる哲学であった。

 第五戦、これはこのシリーズの趨勢を決める戦いであった。この試合を制するということは王手をかけること、将に天王山であった。
 両チームの予告先発である。横浜は第二戦で完封した斉藤、やはり最も頼りになる男であった。それに対して西武は当初西口が予想された。この試合には当然エースを出してくると思われたからだ。
 だがマウンドにいたのは西口ではなかった。横田久則であった。
 何故西口ではなかったか。東尾はここは何としても彼を出したかった。だが出来なかったのだ。
 この時西口は風邪を再発させていた。しかも腰まで痛めてしまっていた。シリーズ中の登板は絶望的とまで言われていたのだ。
 替わりの横田であるが明らかに調子は悪かった。だが東尾は彼を先発に指名した。
 これには理由があった。
「監督」
 シリーズの途中であった。彼は自チームの投手陣に呼び止められた。
「どうした?」
 彼は投手達の方を振り向いた。
「シリーズの登板のことですが」
「ああ」
 彼等はここで顔を決した。
「横田を出してやってくれませんか?」
「横田をか」
 彼はそれを聞いて顔を俯けさせた。
 横田はこの年父親を亡くしていた。西武投手陣はその彼にシリーズで投げさせ弔いをさせたかったのだ。
「・・・・・・・・・」
 東尾は沈黙した。勝負は非常にならなければならない。まして今の横田の調子では横浜のマシンガン打線を抑えられるとは到底思えない。結果は火を見るより明らかである。
 彼はここは退けるべきだと思った。野村や森なら迷わずにそうしたであろう。だが彼は野村でも森でもなかった。
「・・・・・・わかった」
 彼は頷いた。そして横田をマウンドに送ることを約束した。
「御前達の気持ちはよくわかった。俺はそれをくもう」
「監督・・・・・・」
 中には涙する者もいた。彼は非情になりきれなかった。それよりも一年間死闘を共にくぐり抜けてきた選手達の気持ちを大切にしたかったのだ。
「行って来い」
 東尾は彼の背を叩いてマウンドに送り出した。たとえ結果が見えていようと彼は後悔しなかった。
 試合がはじまった。やはり横田は打たれた。石井に打たれるとローズにタイムリーを許した。
 二回にもだ。佐伯のツーベースから指名打者の井上に打たれた。権藤は彼を指名打者にしたのだ。これも一種の勘であった。皆守備に不安のある鈴木を指名打者にするものと思った。だが彼はあえてそれをしなかったのである。
「権藤さんも時々わからないことをするな」
 観客も首をかしげていた。鈴木は足は速いが打球への反応はすこぶる悪かった。しかも肩も極めて弱い。当時の横浜において守備での唯一の弱点とさえ言われていた。
 だが権藤は何も言わなかった。そしてこの意外な采配は何と的中する。
 二回裏西武の攻撃である。鈴木健の打球はレフトへの大きなファールフライであった。
「これは無理だな」
 誰もがそう思った。打球はフェンス際へ向かっていく。
 しかし鈴木は諦めなかった。その打球を必死に追う。
 追いついた。そして何と捕ったのだ。
「えっ!」
 これには観客達も驚いた。東尾も鈴木健も驚いた。
「おい、鈴木ってあんなに守備よかったか!?」
 東尾は思わず傍らにいるコーチの一人に尋ねた。
「いえ、そんな話は・・・・・・」
 そのコーチも信じられないといった顔であった。西武は横浜の守備の弱点を衝くとしたら鈴木だと分析していたのである。
 敵の守備の穴を衝くのは西武の伝統であった。かって巨人との日本シリーズではクロマティの緩慢な動きを衝きそこで思いもよらぬホーム突入を敢行しシリーズの流れを決めている。
 だが横浜の他の守備は固く鈴木もカバーしていた。その為思うように攻めきれていなかったのだ。だが機会は狙っていた。しかし今の守備を見せられては。
「参ったぞ、これは。鈴木は攻められん」
「はい」
 東尾とそのコーチはほぞを噛んだ。守備の穴は衝けそうにもない。
 しかもその守備が試合の流れを大きく横浜に引き寄せた。特に鈴木は波に乗った。
 三回、鈴木の打順である。彼はここでツーベースを放った。
「まずいな」
 東尾はマウンドに向かった。そしてピッチャーを交代させた。
 横田は結局それでマウンドを降りた。彼の背中は泣いていた。
「横田、胸張れ!」
 肩を落としベンチに戻る彼にファンの一人が声をかけた。
「天国で親父さんが見とるぞ!御前はよう投げた!」
 彼はそれを聞き顔を上げた。見れば観客達が彼に対し温かい眼差しを向けていた。
「・・・・・・有り難うございます」
 彼はそれを見て帽子をとり深く頭を下げた。そしてベンチに戻っていった。
 美しい光景であった。死闘の中にも彼等は人の温かさを忘れてはいなかったのだ。
 だが死闘は続く。横浜はその波を止めてはいなかった。
 ローズは三振に終わった。だが次のバッター駒田が打った。このシリーズでは今一つ調子がよくなかったがここで打った。
 打球はセンター前に抜けた。これで鈴木がホームを踏んだ。
「駒田まで打ったか」
 東尾は表情を険しくさせた。彼の脳裏にこの試合で最も恐れていたことが浮かんできた。
 それは森も同じであった。その恐れが制球を乱した。暴投でその駒田を進塁させてしまった。
 そして谷繁のヒットで追加点を入れられる。横浜ファンは喝采を送る。
 西武は反撃に出た。その裏大友進が出塁し高木のヒットで返った。だが斉藤は動じない。
 彼の今日の投球は前回のそれとは違っていた。決め球である高速スライダーはあまり使わない。ストレートとフォークが主体であった。
「今日の斉藤のストレートはあまりよくは思わんが」
 東尾はマウンドで投げる斉藤を見ながら呟いた。
「要所要所で占めているな。中々手強い」
 西武はその彼を攻めきれなかった。
 それに対して横浜の攻撃は止まらない。東尾が最も怖れていたマシンガン打線の爆発が現実のものになろうとしていた。
「今日の森の制球は悪いな」
 権藤は森を見て呟いた。石井に打たれると波留の内野ゴロで進塁を許す。好調の鈴木は敬遠した。何と主砲ローズとの勝負に出たのである。東尾の面目躍如の采配であった。
「東尾も思いきったことをする」
 権藤はそれを見て呟いた。
「だが今日の森でそれはどうか」
 森は制球が定まらない。ここでローズを歩かせてしまった。
 二死満塁。ここで打席には先にタイムリーツーベースを放った駒田が入った。満塁では驚異的な強さを発揮する。この場面では最も相手にしたくない男だ。
「落ち着け」
 中嶋はマウンドに向かい森に対して言った。
「このシリーズ、駒田さんはあまり調子がよくない。落ち着いていけばそんなに怖い相手じゃない」
 そして森の気を宥めた。
「満塁だからといって気にするな。普通に投げればいい」
「はい」
 森は頷いた。そして中嶋はキャッチャーボックスに戻った。
 だが彼はまだ動揺していた。それがボールにもあらわれた。
 駒田は打った。打球はそのままライトへ飛んで行く。
「させるかあっ!」
 ここで得点を許せば試合の流れは決定的なものとなる。それだけは許してはならない。ライト小関が果敢に突っ込んだ。
 だがそれが裏目に出た。彼は打球に追いつけずその横を抜けさせてしまった。
 ランナーが次々にかえる。打った駒田は二塁に向かった。走者一掃のツーベースであった。
 横浜ナインが狂喜する。最早その流れを止めることは不可能かと思われた。
「まだ試合は負けちゃいない」
 東尾は歯噛みしながら言った。その裏西武は一点をかえしまだ満塁のチャンスを迎えていた。ここで打席に立つのは駒田の打球をとれずタイムリーを許した小関であった。
「あの三点は俺のせいだ」
 彼はボックスに向かいながら心の中で呟いた。
「だから俺のバットで取り返す!」
 彼は全身に力をみなぎらせていた。だがあまりにも力が入りすぎていた。
 彼はショートゴロに終わった。西部の攻撃はここであえなく終わった。
「・・・・・・しまった」
 彼は肩を落とし呟いた。その姿がこの試合の西武を象徴するようであった。
 横浜の攻撃は終わらなかった。八回には新谷博から三点を奪った。ここでも駒田がまたしてもタイムリーを放った。
「駒田まで打ちだしたな」
 権藤はそれを見て呟いた。
「今日は打線がいい」
 これは西武にとっては全く逆となる。
「監督、今日は・・・・・・」
「わかっている」
 東尾の顔は苦渋に満ちたままである。その顔は晴れない。
 その裏登板した五十嵐から二本のアーチで三点をかえす。だが最早全てが遅かった。そしてそれがかえってマシンガン打線をたきつけてしまった。
 九回になっても攻撃は終わらない。井上のヒットを狼煙にしてそこから攻撃が収まらないのだ。
 波留が、鈴木が、ローズが。続けざまに打つ。それでもまだ終わらない。駒田が、佐伯が。それはまさにマシンガンであった。
 よくホームランバッターだけ集めればいいという者がいる。これは野球を知らぬ愚か者だ。そうした打線は繋がらない。守備のバランスも悪くなる。どこぞの品性も人格も劣悪極まる愚か者がそうした愚行を繰り返しているがこれは野球そのものへの冒涜に他ならない。残念なことに我が国にはそうした輩を褒め称える人間があまりにも多いが。こうした者は野球ファンでも何でもない。マスコミの提灯記事に踊らされているだけの愚者だ。そうした人間がテレビで喚き散らし他の者に嘲笑われている。自分では得意になっているが他の者にはその浅はかさを侮蔑されその醜い人柄を嫌悪されている。そうしたことにすら気付かないのだ。まさしく愚か者である。どういうわけか世代も共通している。そうした人間が若い者がどうとか言っても何の説得力もない。少なくとも彼等が馬鹿にする若い者は暴力と民主主義を混同したりはしない。
 九回には大差ながら佐々木が出て来た。そしてあっさりと三者凡退で締めくくった。彼の登板は流れを完全に掴む為であったのだろうか。
「勢いだけはつけさせたくはなかったが」
 東尾はその圧倒的な結果を見て呟いた。
「勝ち負けよりも酷いことになったな」
「はい・・・・・・」
 傍らにいたコーチも声のトーンが低かった。そこへ選手達が戻って来た。
「おい、しょげるなよ」
 だが東尾は彼等に対してはあえて大きな声で言った。
「二敗したわけじゃないんだ、横浜には気分を入れ替えていくぞ!」
 しかしその声は何処か空虚であった。誰もが試合の結果に沈み込んでいたのだ。
(まずいな)
 それは東尾が最もよくわかっていた。
(ここまできたら腹でも何でもくくるしかないな)
 彼はある覚悟を決めた。
「やられたらやりかえせ、か」
 権藤は記者達に問われ思わずそう呟いた。
「はい、監督のお言葉ですよね」
 記者達は次の試合の先発について尋ねているのだ。試合の結果のインタビューは既に終わっている。
「ああ、その通りだ」
 権藤はそれに対して答えた。
「そうでなくては勝てるものも勝てない」
 俗に権藤イズムと呼ばれる。それは彼独特の野球哲学であった。
「では次の先発は」
 誰もがそれは予想していた。第三戦で打ち込まれた三浦だと。格から言っても彼しか考えられなかった。
「それはもう決まっているよ」
「おお!」
 記者達の間でどよめきが起こる。予告先発だ。
「川村だ」
「え!?」
 皆それを聞いて一瞬目が点になった。
「川村ですか!?」
 皆驚いて権藤に対して問うた。
「そうだ、何か問題があるか」
「いえ・・・・・・」
 川村丈夫。確かにいい投手である。癖のあるフォームから投げられるカーブとチェンジアップが武器である。だが彼には不安材料もある。
 それは気の弱さである。ピンチになると顔が青くなり打ち込まれる。そして甘いところにボールがいき長打を浴びることも多かった。その為彼のシリーズでの登板はないだろうと誰もが思っていた。その彼を。
「二勝二敗になった時に決めた、勝ち負けよりもいい試合をしたいとね」
 権藤は彼等に対して語った。
「それなら川村だ。うちがここまで来れたのも前半の川村の頑張りがあったからこそだしな」
「はあ」
 確かにそうだ。だがこおでの彼の起用は普通では考えられないことであった。だからこそ記者達は呆気にとられたのである。
「私のコメントはこれでいいかな」
 権藤は彼等に対して言った。
「え、ええ」
 彼等はまだ狐につままれたような顔をしていたが何とか頷いた。
「ではこれで。明日もやることが多いし」
 彼はそう言うと球場をあとにした。そしてバスに乗りホテルに戻っていった。
「そうか、権藤さんらしいな」
 記者達からその話を聞いて東尾はそう呟いた。
「君等もそう思うだろう」
「ま、まあ」
 彼等は口ではそう言った。だがとてもそうは思えなかった。だが東尾には権藤の心理がよくわかったのである。
「俺もそうさせてもらうか」
「明日の先発ですか?」
「まあな」
 彼はそれに対して静かに頷いた。
「それは明日話すよ。今日はこれでな」
 東尾はそう言うと彼等の前から姿を消した。そして翌日の移動日のことである。
「おい」
 彼は宿舎のホテルに着くと一人の男に声をかけた。
「明日行けるか」
 その男はそれを聞くと顔を引き締めた。
「行かせて下さい」
「わかった」
 東尾はそれを聞くと頷いた。こうして西武もその先発が決まった。
 西武は球場で練習をしていた。そこに記者達がやって来た。
「監督、昨日のことですが」
「おお、早速来たな」
 東尾は記者達が来たのを見てニンマリと笑った。
「ネタを探すのに君達も大変だな」
「それが仕事ですから」
 彼等も顔を崩して答えた。
「では明日の予告先発は」
 そして本題に入った。
「それだがな」
 東尾はゆっくりと口を開いた。記者達はある程度予想していた。
「潮崎か石井だろうな」
 第三、第四戦で好投した二人である。日も開いている。彼等の登板が最有力だと考えられたのだ。だが東尾はここで思わぬ男の名を口にした。
「西口だ」
「えっ!」
 記者達は再び驚かされた。権藤のそれにも驚かされた。それも意外なものであったが今東尾が言った名はさらに驚くべきものであった。
「本当に西口ですか!?」
 彼等は驚いて東尾に問い質した。
「おいおい、俺が嘘を言ったことがあるか!?」
 彼は笑ってそれに返した。
「いえ、それは・・・・・・」
 元々が根っからの投手人間である。直情的で感情が顔にすぐ出る男だ。思っていることはすぐにわかる。
「だろう、西口がいたからここまで来れたんだ」
「はあ」
「よくても悪くてもエースと心中なら皆納得してくれるだろう。それにこうした大一番はエースでなければ勤まらん」
「それはそうですが」
「この試合に勝てばうちはグッと楽になる。大丈夫だ、ここはあいつを信じてくれ」
「わかりました」
 こうして記者達はその場を去った。東尾はそれを黙って見送っていたがベンチで一人になると腕を組んで考え込んだ。
(ここまで来たらもう賭けるしかない)
 彼はナイン、そして西口を見ていた。
(頼むぞ)
 そう言うとベンチをあとにした。そして一人横浜の予想できる攻撃をシュミレーションしていた。
 双方共投手の心理でなければ考えられない采配であった。野村と森はそれを聞いて思わず呆気にとられた。
「あいつ等は何を考えとるんじゃ」
「ああした場面ですることではない」
 すぐにバッサリと切り捨てた。やはり彼等にとってそれは受け入れられるものではなかった。
「どちらが勝とうがアホなことをしとるわ」
「野球というものが本当にわかっているか疑問だ」
 彼等の言葉は辛辣そのものであった。そこにはあからさまな拒絶反応があった。
 しかし当の二人はそれを全く意に介していなかった。ただ次の試合に向けて策を練るだけであった。

 そして十月二七日、遂に第六戦がはじまった。先発は予告通り川村と西口であった。
「おいおい、本当にあの二人かよ」
 観客達もまだ信じられなかった。
「こりゃ打撃戦になるぜ」
 彼等は口々にそう言った。だがマウンドに立つべき二人と指揮官は違っていた。
「この試合は接戦になる」
 指揮官達はそう見ていた。彼等は二人の目を見ていたのだ。
 初回西武はいきなりチャンスをつくる。一死三塁でバッターボックスには高木である。
 やはり川村は精神面で問題があるのか。ストライクが上手く入らない。
「・・・・・・・・・」
 キャッチャーの谷繁はそれを冷静に見ていた。強気のリードで知られる彼だがここでは完全に落ち着いていた。
 ここで川村は谷繁のサインに頷いた。そして投げた。
 それはチャンジアップだった。高木はそれに泳がされサードへのファウルフライに終わった。
「あそこで緩い球を投げるとはな」
 東尾はそれを見て呟いた。
「あんなリードはそうそうできるものじゃない。これも権藤さんの教えか」
 その通りであった。谷繁はピンチにおいても緩い球を投げる度胸を権藤から教わっていたのだ。
 これで西武の先制のチャンスは潰れた。四番鈴木健もあえなく倒れ西武結局この回無得点に終わった。
 それは西口も同じだった。得意のチェンジアップが決まると彼の顔に生気が戻ってきた。これで彼は本来の調子を取り戻した。
 それを見た中嶋もリードを組み立てた。非力なバッターにはストレートを、バットコントロールに長けたバッターにはチェンジアップを、と的確に攻めていった。
 だが川村もそれは同じである。彼のピッチングの前に西武打線はホームを踏めないでいた。
「遠いな」
 四回表、東尾は呟いた。
 一死一、三塁の絶好のチャンスである。ここでバッターボックスに入るのは中嶋である。彼はバットでもこのシリーズ貢献していた。五球目であった。
 ここで西武はエンドランを仕掛けた。一塁にいた高木浩之が走った。中嶋はボールを的確に打った。
「いった!」
 西武ベンチはその打球を見て確信した。センター前を抜けるクリーンヒットだった。
 普通だったらそうであろう。しかしそこに高木の動きを見て二塁へのベースカバーに向かっていたローズがいたのである。打球はローズのグラブに収まりあえなくゲッツーとなった。
「ツキがないな・・・・・・」
「いや、采配ミスじゃないのか、あれは」
 西武ファン達はそう言い合って嘆息した。あまりにも悔いの残る併殺であった。
 こうして西武は得点できないでいた。こうして試合は進んでいく。
「得点が欲しいな」
 川村も西口もそう思った。だが互いに踏ん張り得点を許さない。こうして思いもよらぬ投手戦が続いた。
 七回裏川村はバッターボックスに入った。ここまで両チーム共無得点である。
「今日はこのまま川村でいくつもりかな?」
「そうじゃないの?今日は調子がいいし」
 観客はそれを見て囁きあった。
 だがそれはなかった。八回先頭打者の松井にヒットを許し大友が送り一死二塁となる。打席には左の高木。西武にとっては先制のチャンスだ。
「よし、ここで打てばヒーローだぞ!」
 東尾はバッターボックスに向かう高木に対してハッパをかけた。こういう時の東尾の声は非常に大きい。権藤はそれを
黙って見ていた。
「今だな」
 彼はそう呟くとベンチを出た。
「おや、交代か?」
 観客達はそれを見て呟いた。
「川村を最後まで引っ張らないのか」
 権藤は背中からそれを黙って聞いていた。そしてマウンドにいる川村に対して声をかけた。
「今までよく投げてくれた」
「はい」
 温かい言葉だった。川村はそれに対して頷いた。
「ピッチャー交代」
 権藤は川村に声をかけたあとで審判に交代を告げた。
「誰だと思う?」
 一塁側スタンドにいる観客達は予想を言い合った。
「阿波野じゃないのか?相手は左の高木だし」
「だろうな。このシリーズの阿波野は絶好調だ」
 予想通りだった。リリーフカーに乗ってきたのは阿波野だった。彼は権藤の見守る中投球を開始した。
「やっぱり阿波野か」
 東尾はマウンドの彼を見て呟いた。高木のあとは鈴木健、予想された継投であった。
「まあいい。思いきり振っていけ」
 かれは作戦を伝えた。高木はそれに頷いた。
 だが粟野は絶好調であった。高木をセカンドゴロに打ち取り次の鈴木健もレフトフライとした。西武の攻撃はこれで終わった。
 チャンスを作りながらも得点ができない。こうした状況はピッチャーにとっては大きな精神的負担となる。西口は顔にこそ出さなかったが内心追い詰められだしていた。こうした時の彼は危険だった。これが巨人の桑田真澄のように安定感の強いピッチャーや阪神の井川慶のように図太いピッチャーなら問題はなかっただろう。彼等はあくまで自分の力と技で相手を抑えてみせると飲んでかかれるからだ。
 だがそれが出来ないピッチャーもいる。精神的に脆いピッチャーは特にそうだ。やはり西口は精神的にはそれ程強くはない。覇気がないとも言われるが投手特有の繊細さが特に出ている男なのである。
 八回裏の横浜の攻撃である。まずはこのシリーズで散々苦しめられた石井を三振にとった。次のバッター波留を四球で歩かせる。ここで石井以上にこのシリーズでは痛めつけられている鈴木を迎えた。
「走らせはしないぞ」
 キャッチャーボックスに座る中嶋は一塁にいる波留を見た。石井程ではないが彼も脚は速い。警戒が必要であった。西口にはバッターにだけ集中させた。そうでなくては到底打ち取れる相手ではなかったからである。
 彼は投げた。カーブである。明らかに打たせて取る為だ。
 それは当たった。鈴木は泳がされ打球は詰まった。そしてセカンドに転がっていく。
「よし!」
 西口の顔から笑みが零れた。これでダブルプレーとなる筈であった。
 だが打球があまりにも弱かった。セカンド高木浩之は一塁に向かう鈴木を諦めランナーである波留を殺そうとした。ボールを収めタッチに向かう。
 だがここで運命の女神は西武を振った。何とタッチする瞬間に波留が転んだのである。
「えっ!」
 これには西口も驚いた。前屈みになりタッチを逃れた。そして判定はセーフであった。
「おい、ちょっと待て!」
 これに血相を変えたのが東尾であった。彼はヘッドコーチである須藤と共にセカンドベース上に向かった。
「タッチしてるだろうがっ!」
 そして抗議を行なう。彼の抗議の激しさは有名である。よく退場にならないものだといつも観客達が不思議に思う程である。それ程激しい抗議である。
 だが判定は覆らない。結局一死一、二塁というピンチになってしまう。
「糞っ、ついてない」
 東尾はまだ顔を怒らせている。そして審判達を睨みつけていた。
「だがこうなっては仕方がない」
 彼は気を取り直して試合に戻った。
「西口に頑張ってもらうか」
 西口も気を落ち着かせた。そして四番のローズをセンターフライに打ち取った。次のバッターは駒田である。
「ここは慎重にいこう」
 西口はまずチャンジアップを投げた。駒田はそれを平然と見送った。
「見送ったか」
 中嶋はそれを見て思った。そしてその顔を見ながら考えた。
(ストレート狙いか?)
 バットコントロールには定評がある。ここで不用意なストレートは命取りになるかと思われた。
 ましてや今は得点圏にランナーがいる。ここで打たれると全てが終わってしまう怖れがあった。
(もう一球いくか)
 彼は用心した。そしてもう一球チェンジアップを要求した。
 西口は頷いた。そしてチェンジアップを投げた。
「もらった!」
 駒田の目が光った。それを見た西口と中嶋の目に怖れが走った。
 バットが一閃された。そして打球はセンターに一直線に伸びていく。
「いったか!」
 横浜ナインも観客達も思わず立った。二人のランナーはツーアウトということもあり一斉に走った。
 だが風があった。打球は押し返されてしまった。
 だがフェンスを直撃した。ランナー一掃のツーベースだった。
「やったぞお!」
 観客達は狂喜する。遂に均衡が破られたのだ。駒田の値千金の一打であった。
「第五戦で何かを掴んだようだな」
 権藤はそれを見て言った。その言葉通り駒打は第五戦以降バットが唸り声をあげていたのだ。
 これで西口は崩れた。その後連続して四球を出した。
「監督」
 コーチの一人が東尾に声をかけた。交代を促したのだ。
 だが彼は黙って首を横に振った。そして西口を見た。
「ここはあいつに全部任せろ」
 そう言って動かなかった。
 西口はそれを受けた。そして何とか復活し満塁のピンチを切り抜けたのだ。
「よくやった」
 東尾はその彼が戻って来るとそう言って左肩を叩いた。
「あとは任せたぞ」
 そして攻撃に移るナインに声をかけた。
「はい」
 こうした時はかえって静かな返答の方が気合が出た。彼等は東尾に対して低い声で答えた。
「さあ、出て来るぞ」
 最早横浜のファン達は勝利を確信していた。二点差で九回、それは横浜の完全な勝ちパターンであった。
 皆スコアボードを見る。そこには両チームのナインの名がある。
「横浜ベイスターズ、ピッチャーの交代をお知らせします」
 ウグイス嬢の声がグラウンドに響き渡る。
「ピッチャー阿波野にかわりまして」
 これはもう規定路線であった。リリーフカーが出るドアが開いた。
「佐々木。背番号二二」
「おおーーーーーーーーっ!」
 場内がどよめきに包まれた。皆彼が登板する時を待っていたのだ。
 大魔神と謳われた横浜の誇る最強の守護神がマウンドに登った。やはり最後を締めくくるのは彼しかいなかった。
「終わったか・・・・・・」
 最早日本一を確信して歓喜に包まれる横浜ファンとは正反対に西武ファンは全てが終わったと思った。最早佐々木を打てるとは誰も思わなかった。
 だがいきなり先頭打者大塚が打った。ここでレフト鈴木尚典の目に照明が入った。
 打球は後ろに逸れた。これで大塚は三塁に進んだ。
「おい、もしかして・・・・・・」
 西武側のスタンドで誰かが言った。
「それはない」
 しかし周りの者がそれを否定した。
「相手は佐々木だぞ。あんなの打てる筈がない」
 リーグは違うといっても彼の存在は誰もが知っていた。その豪球とフォークは到底打てるものではなかった。
 それは当たるかと思われた。代打ペンパートンはあえなく三振した。だが佐々木はやはり風邪の影響か本調子ではないようだ。次の代打マルティネスを歩かせてしまう。そしてこのシリーズにおいて西武をここまで引っ張ってきた中嶋がボックスに入った。
「こいつの運にかけるか」
 東尾は呟いた。だが打球はサードゴロだった。万事休すか。
 しかし運命の女神というのはやはり気紛れであった。もう少し遊びたいと思ったのかここで名手進藤がセカンドへフィルダーチョイスを出してしまった。その間に三塁ランナー大塚が入り一点、そしてなおもチャンスが続く。
「おい、もしかして・・・・・・」 
 先程期待の声を漏らした観客が再び言った。今度は周りの者も頷いた。
「ああ、ひょっとして・・・・・・」
 ここで西口の打順である。東尾は迷うことなく代打を送った。
 金村である。ここは彼のバットに全てを賭けた。
「全部思い切って振れ!」
 東尾はそう言うだけであった。そして金村はそれに頷いた。
「いけ、ここでサヨナラだ!」
 西武のファンは彼に最後の望みをかけた。金村はそれに対し頷いてバッターボックスに入った。
 だが一球で全ては決した。金村は打ち損じてしまいそれが併殺打となった。最後のボールは駒田が取った。
「終わったな」
 東尾はそれを見て呟いた。目の前で横浜ナインが一斉にベンチから出て来ていた。
 青い星達が歓喜に包まれる。グラウンドも観客席も同じであった。
 権藤が宙を舞う。横浜は遂に三八年振りの栄冠を手にしたのだ。
「うちはまだこれからのチームだ。いい勉強をさせてもらったよ」
 彼はその胴上げを見ながら呟いた。
「しかし」
 彼はここで表情を曇らせた。
「大トロと赤身の違いが見事に出たな」
 どちらがトロでどちらが赤身か、聞くまでもなかった。
「成熟度の違いだよ、ここまでやられるとそれがはっきりとする」
 彼は苦渋に満ちた顔で言った。誰もそれを否定できなかった。
「二年続けて負けた。三年目はプレッシャーが凄いだろうな」
 彼はそう言うとベンチをあとにした。これが彼がシリーズに出た最後の試合であった。
 以後西武は三年続けて優勝を逃した。投の西武が強打を誇るダイエー、近鉄に打ち破られ続けたのだ。
「よく日本シリーズだけでチームを見る人がいる」
 シリーズ後権藤は言った。
「だがそれだけではわからない。九九・九パーセントはペナントの優勝なんだ。それがどれだけ大変なことか」
 これはお互いに激しく嫌悪し合う森も全く同じ意見であった。
「そうした意味で二年続けてシリーズに出て来た東尾も西武も立派だ。それは皆わかっているだろうか」
 そうなのだ。ペナントに勝つことがどれだけ苦しいか。それは実際にやってみないとわからないことだろう。
 権藤はよく西本幸雄を褒め称えた。シリーズに八度も出場しながら一度も勝つことができなかった人物だ。俗に『悲運の闘将』と呼ばれる。
「君達は西本さんについてどう思う?」
 彼はある時親しい記者達に対して問うた。
「どうと言われましても・・・・・・」
 誰もが西本の偉大さを知っていた。弱小に過ぎなかった阪急、近鉄を一から鍛え上げ何度も優勝させた名将である。だが結局日本一にはなれなかった。
「私は西本さんが一番素晴らしいと思う」
 彼はそんな記者達に対して言った。
「八回も優勝したんだ、それも違うチームでな。こんなことはそうそう出来るものではない」
「はあ」
 それは知っていた。だがそう言われても記者達は今一つピンとこない。
「うちも二年続けて優勝してようやく本物だ。西本さんのチームがそうだったようにな」
 あの野村が決して嫌味を言うことなく謙虚な態度を崩さない人物がいる。それがこの西本なのだ。彼は一匹狼であり関西球界から半ば追放された身であったが西本の言葉には素直に従った。後に阪神の監督になった時にも阪神OBの言うことには頑として耳を傾けようとしなかったが西本の言葉だけは別だった。
「私よりもこのチームのことはご存知ですから何かと教えて頂けたらと思っています」
 彼はインタビューに来た西本に対しこう言っている。
「おい、あのノムさんがか!?」
 それを聞いた者は皆驚いた。野村がそのようなことを言うとは。
 だがそれは野村の偽らざる本心であった。野村はその毒舌から色々と言う人が多い。だが本当は苦労を重ねてきたせいか繊細で心優しい男なのである。尾羽根打ち枯らした者を見棄てることなど出来ない男なのだ。
 野村再生工場という。彼はそこで多くの選手を甦らせている。他の球団から戦力外通告を受けた多くの選手達をである。
 彼を知る者は言う。野村は本当はとても優しいのだと。新庄もそう言った。
 そうした野村が認めているのが西本である。彼は西本の下で野球がしたかったのだろうか。
「その為には驕ることなくいきたいな。西本さんがそうだったように」
 彼は最後にそう言った。だが現実は難しい。結局横浜の連覇はならなかった。それが野球なのである。優勝して当然と考えるのは思い上がりに他ならない。
 こうして九八年の史上初の投手出身監督同士による対決は終わった。互いに正面からぶつかり合い力を競ったこの戦いは横浜の勝利に終わった。だが西武ナインにも東尾にも心に残る素晴らしい勝負となった。二つの戦場は今もその記憶を残している。



お山の大将    完



                                 2004・6.4
 



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