第四章            無慈悲な時の流れ
 その日、最早解体寸前であった川崎球場は異様な熱気に包まれていた。
 球場に赤、青、白の三色の派手なユニフォームに身を包んだ戦士達が姿を現わすとその熱気は頂点に達した。この日は特別な日であった。近鉄バファローズとロッテオリオンズの最終戦、そう、パリーグの最後の試合であった。
 その試合は近鉄にとって特別な意味があった。この時マジック2、連勝すれば近鉄の優勝なのである。
「去年最下位のチームがここまでやるとは・・・・・・」
 そう驚く人達もいた。誰もがまさかここまでやるとは思っていなかったのである。
 その立役者がこのシーズンから監督になった仰木彬であった。彼は長い間近鉄でコーチを務めてきていたのだ。
 現役時代はあの野武士軍団と言われた西鉄ライオンズにおいてセカンドとして活躍した。だが当時の西鉄は魔術師とまで謳われた名将三原脩に率いられた個性派スターの集まりであった。
 ピッチャーには不死身とも思える強靭な肉体を持つ鉄腕稲尾和久がいた。彼は巨人との日本シリーズにおいて殆ど一人で投げ抜き奇蹟の勝利をものにしたことで知られている。一シーズン四二勝というあのスタルヒンに並ぶ記録は破る者がいないのではないかと思える程の偉業である。それは将に神であった。
 そして青バットとして名を馳せた大下弘。怪童と呼ばれ打ったボールが焦げていたという信じられない話まである剛打を誇った中西太。暴れん坊として知られたショート豊田泰光。彼等が綺羅星の如く集まっていたのだ。
 仰木は彼等が羨む程女性にはもてた。だがやはり野球選手として彼等には適わない、という思いが常にあった。
 近鉄においては三原、そして闘将西本幸雄の下でコーチを務めた。それが彼にとって大きな力となった。
 三原は策士である。何をするかわからない。それに対し西本の采配はオーソドックスである。しかし選手に、そして野球に対するひたむきな愛情がありそれで選手達を引っ張って行った。仰木は彼等をそのすぐ側で見てきたのであった。
「わしの師は三原さんや」
 彼はこう言う。だが西本のことを知ったのも大きかった。何故ならその激しい闘志を学ぶことができたのだから。
 三原は裏の世界の人間ですら逆らえぬ程の凄みもあった。だが西本にはそれがない。彼はあくまで選手、そして野球と正面からぶつかり合ってきたのである。
「野球はやっぱり面白いわ」
 西本はこう言ったことがある。それを聞いた仰木は思った。
「その通りや。わしもこれから離れることはできん」
 改めて野球の面白さを教えられたのであった。
「あいつは切れる男や」
 彼を知る者はそう言った。知る人は知る、そうした男であった。
 監督になったのは?ぎだと思われていた。当時近鉄には最後の三〇〇勝投手と言われた鈴木啓示がいた。彼はそれまでの中継ぎだと思われていた。
「おい、酒は飲むのはいいが程々にしろよ」
 彼は選手達を拘束したりはしなかった。あくまで放任主義だった。だが同時にこうも言った。
「遊び過ぎると俺みたいに二流どまりだぞ」
 それは三原に期待されながらも普通の選手で終わった自分のことを自嘲気味に言ったのである。そして同時にこうも言った。
「わしは自分が出来んとこを他人にやれとは言わん」
 それがマスコミやファンに受けた。この時パリーグ、いやプロ野球は西武ライオンズの黄金時代であった。
 その野球は隙がなかった。攻守走、そして投手陣に至るまで万全の戦力であった。そして監督である広岡達郎、森祇晶の采配は的確でありそこにも隙がなかった。だがそれが人気に繋がるかといえばそうではない。
 よくX9時代の巨人が人気があったように言われるがそれは間違いである。後期には人気は落ちていた。単に強いだけのチームなぞ面白みがない。そう思う者が少なくなかったのである。
 この時も西武であった。ファンは強いだけで面白みに欠ける西武の野球に飽きだしていたのである。
 そうした中で彼が監督に就任したのである。彼は次々と変わった作戦を展開し勝利を収めてきた。
 ローテーションは西武を中心に組んだ。そして勝ってきた。
 だがこれには反発があった。この年から投手コーチに就任した権藤博である。
 彼はかって中日で押しも押されぬ大エースであった。『権藤、権藤、雨、権藤』というふうに投げ続けた。そしてそのせいで選手生命は短かった。
 その経験から彼は言った。
「投手の肩は消耗品だ」
 と。彼は投手を酷使することを嫌ったのである。そして四球を出しても怒らなかった。そうした独自の育成により近鉄の投手陣を甦らせたのだ。
 だが仰木はそれに不満を持った。彼は彼の考えで勝利を追及していたのだ。
「監督は全ての試合でエースを使いたいものだ」
 彼はよくこう言った。
「そしてそれを止めるのが投手コーチの仕事だ」
 そして淡々とした顔でこう言った。彼は後に横浜ベイスターズの監督になるがその時もこの考えを変えなかった。
 そうした意見対立もあったが彼等は勝利の為に野球をしていた。打線はかって西鉄で暴れ回ったあの中西が打撃コーチに就任した。彼の打撃理論は定評がある。元々定評のあった打線はさらに強くなった。打ちまくる打線に好投する投手陣。チームは昨年最下位だったとは思えない程の快進撃を続けた。
 だがこういう言葉がある。
『好事魔多し』
 近鉄は突如としてこの言葉を味あわされることになる。
 好調の打線の柱は助っ人であるデービスだった。彼は持ち前のパワーで長打を量産していた。
 だが彼は気性の激しい男であった。乱闘事件を起こしたこともあるし死球で出塁した時にはぶつけた相手チームの投手だけでなく野手に対してまでも歯をむき出しにして闘志を露わにしていた。
 元々問題のあった男である。その彼が何と大麻の所持で現行犯逮捕されたのである。
 当然彼は退団となった。主砲を失った近鉄は勢いをなくした。西武に水をあけられていく。
「まずい・・・・・・」
 近鉄ベンチを不安と焦燥が支配した。たまりかねた彼等は急遽として助っ人を呼ぶことにした。
 だが海外ではもう間に合わない。その時たまたま中日の二軍で燻っていたラルフ=ブライアントという男に目をつける。
 そして金銭トレードで手に入れた。
 慌しく入団発表を済ませると彼はすぐに一軍の試合に参加した。そしていきなり打ちまくった。
「何だ、あいつは!?」
 これに驚いたのが他のチームの投手陣であった。何処の馬の骨ともわからぬ男に打たれまくったのだ。そのバットがチームを甦らせた。彼は後半戦だけで三四本のホームランと七四打点を挙げた。まるで鬼神の様であった。
 その彼がチームを最後まで生き残らせた。だが苦しいことには変わりがなかった。
 そしてこのダブルヘッダーに挑んだのである。最早引き分けも許されない状況であった。
「勝てえ!勝って優勝や!」
 藤井寺から駆けつけてきたファン達が叫ぶ。それは仰木の耳にも届いていた。
「行くで」
 仰木はナインの方へ顔を向けて言った。
「はい」
 彼等はそれに対し頷いた。先発は左腕の小野和義である。彼もまた悲壮な覚悟でマウンドに向かった。
「絶対に勝つ!」
 彼はそう決意し投げた。だがその立ち上がりを攻められた。
 まずロッテは二点を先制する。三番の愛甲猛がツーランホームランを放ったのだ。打球は珍しく満員になったスタンドへと消える。この球場は古臭く人気がないことでも知られていた。下には虫が歩き回りお化け屋敷と悪口を言う者すらいた程である。
「まずいな」
 それを見て仰木は呟いた。だが小野はこの後立ち直り粘り強い投球を続けた。
 近鉄は五回表に五番の鈴木貴久がホームランを放つ。彼はその持ち前のパワーをここで発揮したのだ。
 だがロッテも粘る。このシーズン最下位のチームとは思えない戦いぶりであった。
 七回裏に追加点を入れる。この状況での失点は近鉄にとってまことに痛かった。
「小野はこの回までやな」
 仰木はそれを見て呟いた。
 ロッテの先発は小川博。この試合で彼は好投を続けていた。
 しかし八回表突如としてコントロールが乱れる。四球とヒットでランナーをためたところで仰木は出て来た。
「ピンチヒッター」
 そして審判に対して告げた。
 代打は村上隆行であった。強打で知られる男であった。
 だが守備は悪かった。それはショートとは思えぬ程であった。
 その為仰木により外野にコンバートされた。この試合ではベンチにいた。
 その村上が出て来た。彼のバッティングは思いきりの良さと勝負強さが持ち味である。仰木はその二つに賭けたのである。
 賭けは当たった。村上は見事左中間にツーベースを放った。これで同点である。
 仰木はさらに攻めたてる。またしても代打を送った。かって二連覇を達成した時の左のスラッガーであった栗橋茂である。ベテランの技に期待したのだ。
 だが彼はここでは三振した。一気にチームの熱気が醒めようとした。
 しかし小川は連続して四球を出す。これでクリーンアップにまで回った。近鉄側の観客席は一斉に騒ぎ出す。バッターボックスにはあのブライアントが向かう。
「行けぇ、ホームランや!」
 だが彼の長打は三振と隣り合わせであった。彼はその長打力と共に三振の多さでも知られていたのだ。
 彼は三振に打ちとられた。そしてこの回近鉄は同点に追いついただけに終わった。
 近鉄は八回から守護神吉井理人を投入した。もう一点もやるわけにはいかなかった。
 吉井はそれに応えた。その回彼はヒットを許しながらも無得点に抑えた。
 そして最後の攻撃である。この回得点できなければ近鉄の夢は費えてしまう。四番を打つオグリビーがバッターボックスに向かった。高齢ながらその打撃でチームに貢献してきた男である。
 だが彼はショートゴロに終わった。観客席に絶望が漂いはじめる。
「やっぱり牛島を打つのは無理ちゃうか」
 だがここで淡口憲治がツーベースを放つ。それを見た仰木はすぐに動いた。
 代走を出した。俊足の佐藤純一である。ヒットが出たならばすぐにホームへ突入できるように、だ。
「頼むで」
 仰木は佐藤の足にかけていた。だがそれを見たロッテの監督有藤道世もベンチを出た。
「ピッチャー牛島」
 そして主審に告げた。ここが勝負の分かれ道と見た彼は守護神を投入してきたのである。
 牛島和彦。浪商においてドカベンと仇名された香川伸行と共に甲子園で活躍し中日ではその伝家の宝刀フォークボールでもって抑えとして活躍してきた男である。浪商においては不良達を取り纏めていたという話もある程の気の強さと頭脳も併せ持っていた。落合博光とのトレードでロッテに来ていた。
 その牛島がマウンドに上がった。仰木もその目を光らせた。
「牛島ァ!」
 三塁側にいる近鉄の応援団が彼に声を浴びせる。
「御前も関西出身やろがぁ、勝たせろやあ!」
 近鉄ファンの野次の汚さはこの時から有名であった。だがこの時は只の野次ではなかった。そこには熱い想いがこもっていた。
 見ればこの川崎球場を埋める三万の観客の殆どが近鉄ファンである。それを聞いていたのはここにいる者達だけではなかった。
「これは大変な試合だぞ」
 それを見たテレ朝の幹部の一人が言った。
「放送できるか」
 そしてスタッフに言った。
「予定を変更してですか!?」
 その言葉には思わず誰もが驚いた。
「これを見ろ」
 彼はそう言ってテレビに映る試合を見せた。
「うあわ・・・・・・」
 それを見た誰もが思わず息を呑んだ。
「野球は巨人だけじゃない、高校野球だけじゃない」
 彼はスタッフに対して言った。
「今こうして戦っている死闘、それも野球なんだ」
 彼の言葉には熱気があった。
「俺の言いたいことはわかるだろう、いいか」
「・・・・・・はい!」
 彼等は頷いた。
「よし、社長には俺が話をしておく」
 彼はそう言うと社長室に向かった。
「・・・・・・わかった」
 社長もそれを認めた。そしてこの死闘は全国で中継されることとなった。
 だが両軍の戦士達はそのことを知らない。ただグラウンドで火花を散らすだけである。
 バッターボックスには鈴木貴久が入る。強打が売りの男である。
「鈴木ィーーーーーッ、打てやぁーーーーーーっ!」
 観客達の声が響く。鈴木はそれに応えるべきバットを握り締めた。
 牛島のボールを引きつける。そしてそれを思いきり打った。
「いった!」
 それを見た中西が叫ぶ。ナインはベンチから出た。
 佐藤は三塁を回った。三塁ベースコーチの滝内弥端生も我を忘れてホームへ駆け寄る。
 だがロッテのライト岡部明一がその打球を上手く処理した。そしてホームへダイレクトで投げ返す。
「何っ!」
 それを見た近鉄ナインが思わず硬直した。何と佐藤が挟まれたのだ。
 必死に生きようとする佐藤。だが逃げ切れるものではなかった。彼はあえなくアウトになった。
「何でこうなったんや・・・・・・」
 近鉄ナインだけではなかった。観客達も、テレビの前にいる者達も呆然とした。
「終わったか・・・・・・」
 誰もがそう思った。一人を除いて。
 仰木が黙ってベンチを出た。そして代打を告げた。
「代打、梨田」
 それを聞いた観客達が皆地を揺らす程の驚愕を見せた。
「梨田かぁ!」
 梨田昌孝。近鉄の正捕手を長い間務めてきた男である。西本幸雄のキャッチャーとしての在り方を一から教わり時には鉄拳制裁も浴びた。だが彼はそれに応え近鉄の守りの要となったのだ。
 その打撃もパンチ力があった。だがそれよりもその独特の打法で知られていた。
 こんにゃく打法。身体をぐにゃぐにゃと動かすその打法は一度見たら忘れられないものであった。
「わしの打撃理論から見たら反対やけれどな」
 西本はそれを見てこう言った。
「そやがあれで結構打ってくれとるしまあええやろ」
 西本は選手の個性を否定するような男ではなかった。確かに炎の如き厳しさを持つ人物であったがそれ以上に温かい人物であった。
 その西本が育て上げた弟子の一人、だが寄る年波には勝てずこのシーズンでは限界が囁かれていた。実際に彼は今シーズン限りで引退するつもりであった。
(これが最後かもな)
 彼はそう思いながらバッターボックスに向かった。牛島は梨田から目を離さなかった。
「どうするか、やな」
 彼は逡巡していた。歩かせるか、それとも勝負か。彼は常に物事をクールに考える男であった。
 だが同時に熱い心を持っていた。そうでなければストッパーは務まらない。
「梨田さんは引退するかも知れん」
 それは彼も聞いていた。
「これが最後かもな」
 そう思うと何か熱いものがこみあげてきた。そしてグローブの中の白球を見る。それは無言で白く輝いていた。
「よし」
 彼は決意した。こんな状況で逃げては男がすたる、彼は勝負を挑むことにした。
「勝っても負けても全部俺の責任や」
 今は同点である。そして今二塁にいる鈴木は彼が出したランナーである。ここまできて悩むこともないな、と思った。
 梨田は無言でバッターボックスに立っている。二塁にいる鈴木は足は決して速くはないが勘がいい。おそらくヒットで帰ってこれるだろう。
 梨田はそれ以上考えなかった。ただ無心に近くなってきた。

「来たボールを打ってやる」
 それだけであった。だがある程度は狙いを定めていた。
「外角の変化球や」
 牛島がモーションに入った。そしてボールを放ってきた。
 それは内角へのシュートだった。狙いが外れた。
 だがバットが出た。そしてそれはセンターに上がった。
 そしてそれはセンター前に落ちた。誰も追いつけなかった。
「やった!」
 鈴木は懸命に走る。三塁ベースを回った。
 ツーアウトだ。もう怯むことはない、前に立ち塞がる者がいても吹き飛ばすつもりだった。
 鈴木はそのままホームへ突入した。そしてそのままホームへ転がり込んだ。
「やった、やったでぇ!」
 真っ先に中西が飛び出して来た。そして鈴木を抱き締める。
「ようやった、ようやったぞぉ!」
 これ程嬉しそうな中西は今まで誰も見たことがなかった。ナインがそれに続く。
 梨田は一塁ベース上でガッツポーズをしていた。彼もまたガッツポーズをしたのははじめてであった。
 試合はこれでほぼ決まりであった。仰木は梨田をそのままキャッチャーに送りピッチャーには切り札を投入した。
「ここでもか・・・・・・」
 皆彼のその采配に驚愕させられた。何とここでエース阿波野秀幸を投入してきたのである。
 この時阿波野は押しも押されぬ近鉄の看板であった。一年を通して投げ続けチームをここまで引っ張ってきた一人である。
 そのノビのある直球とスクリューが武器だった。そしてそれはこの試合でも冴えた。
 彼は一回を無事に抑えた。こうして近鉄はマジック1、最後まで望みを繋いだ。
「良かった・・・・・・」
 それを見て大粒の涙を流す者がいた。先程ホームで死んだ佐藤であった。
 彼は自分が刺された時全てが終わったと思った。だがこうしてチームは何とか最後の最後まで生き残ることができたのであった。
 この時阿波野が最後に投げたのはスクリューであった。彼は梨田のリードに忠実に従い一回を抑えたのであった。そう、この日の阿波野はスクリューが特に冴えていた。
「よし、次や!」
 中西がナインに声をっかえる。こうした時の彼は実に頼りがいがある。
 両軍は素早く軽食を腹に入れ次の試合に向かった。ここで両軍ははじめてこの試合がテレビで中継されていることを知ったのである。
「野球の神様のくれた配剤かな」
 この時番組の準備をしていた久米宏はこう言ったという。普段は嫌味に満ちたコメントを得意とする彼が珍しくその本音を漏らしたのであった。
「こうしたチームが負けると残念だよな」
 そしてスタッフの一人に対して声をかけた。
「はい」
 それは彼も同意見であった。皆近鉄の勝利を心から願って試合がはじまるのを見守っていた。
 所沢においてもそれは同じであった。
「これはまた凄い試合だな」
 西武ナインはテレビを観ながら口々にそう言った。
「ああ、俺達も今ここにいなかったら近鉄を応援したいな」
 彼等は近鉄が負けるか引き分ければそれで優勝である。その胴上げの為に今こうして西武球場に集まっているのだ。
 「最後の試合で、か」
 それを見る森は思わず呟いた。
「あの時みたいにならなかればいいがな」
 彼は現役時代のことを思い出していた。
 昭和四八年、このシーズン阪神が異様な強さを見せていた。そして阪神と巨人は甲子園の最終戦でぶつかり合った。勝った方が優勝である。
 だがここで阪神は敗れた。何故か巨人に対しては異様な強さと気迫を見せるエース江夏豊をこの日に登板させずに、である。これには優勝すると金がかかる、と考えた阪神のフロントの幹部である久万俊二郎の薄汚い思惑もあったという。この男をよく言う者は野球を愛する者ではいない。こうした下劣な輩が永久追放もされず大手を振って歩けるという異常事態は我が国だけに起こることであろう。
 九対零、これ以上はない程の惨敗であった。それに憤ったファンが敗戦の瞬間グラウンドに雪崩れ込んだ。
「何負けさらしとんじゃ!」
「こんな無様な結末があるかい!」
 今も球史に伝わる事件である。これ以前から阪神ファンには定評があったがこれによりそれは確固たるものとなった。そうしたファンだからこそ優勝した時の狂騒は凄まじいものとなる。この時巨人は胴上げどころではなかった。すぐさま暴徒と化した阪神ファンから逃げなければならなかった。
 森はあの時のことを思い出していた。だからこそそうした一抹の不安が脳裏をよぎったのである。
「まあ川崎球場だとそんなに暴れる観客もいないだろうがな、しかし」
 彼はここで目を光らせた。
「波乱は絶対ある。こうした試合ではな」
 彼はそう言うとテレビに視線を戻した。そして試合開始を見守った。
 近鉄の先発はルーキー高柳出巳。新人ながら肝が座っておりここまで四連勝と絶好調であった。
 だが二回、ロッテの助っ人マドロックに一発を浴びる。
 かってメジャーで何度も首位打者を獲得した男だ。だが流石に高齢であり日本の野球にも馴染めなかった。今シーズンで退団することが決定している男である。川崎球場には『マドロックお断り』という書き込みや看板まで出る始末であった。それ程期待されていない男であった。
 その男が打った。そして先制点を挙げたのだ。
「まさかこんな場面で打つなんてな・・・・・・」
 観客達も思わず言葉を失った。それは彼が日本で見せた最後の意地であった。
 だが勢いは近鉄にあった。五回、大石が出塁すると新井が送る。ブライアントは四球であった。
 そしてバッターボックスに四番のオグリビーが入る。彼も高齢の為退団することが決まっている。
 しかし彼は今まで見事な活躍をしてきた。これまで多くの殊勲打でチームに貢献してきた。
 マウンドにいあるのは園川一美。ロッテの左の主軸である。
「園川か」
 オグリビーは彼を見ながらふと考えた。
「こうした時にはプレッシャーがかからない方が不思議だ」
 彼は長い選手生活でそれを熟知していた。
「ならば必ずボールにもそれは出る。そこを必ず打つ」
 大振りは考えなかった。ただヒットを狙っていた。
 二塁にいる大石は俊足だ。これまで三度の盗塁王を獲得している。おそらく外野にヒットを打てばそれで生還できるだろう。オグリビーはそう読んでいた。
「よし!」
 彼はヒットを狙っていた。そして園川のボールをセンター前に弾き返した。
「やったぞ!」
 大石は三塁ベースを回った。それだけで近鉄ベンチはお祭り騒ぎであった。
 大石がホームへ突入する。最早近鉄は逆転したような騒ぎであった。
「よっしやあ!」
 ベンチも観客も大騒ぎである。テレビの前にいる者達もそれは同じである。
「何か凄い試合になっているな」
 久米はもうテレビから離れられなかった。
「ええ。まさかこんな時にここまで凄い試合が見られるなんて」
 他のスタッフ達も同じ意見だった。だが番組の時間はもう近付いている。
「ちょっと考えがあるんだけれど」
 久米はふと顔を上げてスタッフに言った。
「この試合ニュースステーションでも中継できないかな」
「えっ・・・・・・」
 流石にこの言葉には誰もが驚いた。そんなことは前代未聞である。
「これは視聴率がとれるよ」
 その通りであった。今この時点でも常識外れの視聴率であった。
「それに今こうして死力を尽くして戦っているチームを見せないのはもう犯罪だよ」
 久米は言った。普段に嫌味で皮肉屋の彼からは全く想像ができなかった。
 テレビ朝日の上層部もそれを認めた。彼等もまたこの試合から目が離せなかったのだ。
 元々朝日の系列は近鉄に対しては好意的である。ライバルである読売に対抗してか野球は阪神を贔屓していた。だがパリーグも忘れてはいなかった。何かとその報道では批判を浴びることの多い朝日であるが野球に関してはかなりまともであるのだ。
「こんなこと言うのはどうかと思うがな」
 テレ朝のある幹部は部下に対して言った。
「どっちが勝って欲しい?」
「決まっていますよ」
 その部下は答えた。
「だろうな、俺もだ。こんな試合は今まで見たことがない」
 彼等は皆近鉄の勝利を願っていた。それはテレビの前にいる者、川崎にいある観客達皆そうであった。
 近鉄もそれに応えた。七回に吹石徳一、真喜志康永がアーチを放つ。これで勝負あったかに思えた。
「いけえ、そのまま押し切れ!」
 だがロッテは不自然なまでに粘った。何とその回岡部明一がツーランを放ったのだ。
「しぶといな」
 仰木はそれを見て呟いた。そして吉井をマウンドに送った。
 吉井はヒットを許しながらも後続を抑えた。そして八回表近鉄の攻撃となった。
 バッターボックスに立つのはブライアント。ここまで近鉄を引っ張ってきた男である。
 そのブライアントが打った。打球はそのままスタンドに突き刺さった。
「これで決まりじゃあっ!」
 観客席は総立ちとなった。ブライアントはその歓声の中ゆっくりっとベースを回る。彼はその派手なアーチに似合わず物静かな男であった。
 これで勝負は決まった。誰もが思った。だが運命の女神は何処までも残酷であった。
「ここで決める」
 仰木はマウンドに阿波野を送った。第一試合と同じくリリーフでだ。
「俺が最後ちゃうんかい!」
 それに怒ったのが吉井であった。彼はストッパーである。その彼を投げさせないとは。吉井が怒るのも無理はなかった。だがそれを権藤が止めた。
「落ち着け」
「しかし・・・・・・」
「これもチームの為だ。わかったな」
「・・・・・・はい」
 権藤は投手陣から全幅の信頼を寄せられていた。彼の指導の下投手陣は立ち直ったという実績もあった。
 その権藤に言われ吉井は落ち着きを取り戻した。そしてロッカーに引き揚げて行った。
 たら、やれば、という言葉は野球にはないと言われる。だが若しこの時吉井だったならば。運命の女神はどういう配慮を示したであろうか。
 阿波野は愛甲を何なくサードゴロに打ち取った。そして打席には四番の高沢秀昭を迎える。
 俊足巧打で知られる。落合博光が去った後はチームの四番を任されていた。
 その彼を打席に迎える。阿波野の顔が急に張り詰めたものになった。
「どうするべきか」
 彼は迷っていた。だがまず投げたボールは外れた。
 そしてスクリューを投げる。今日最も調子のいいボールだ。高沢はそれを空振りした。
 続けてスクリューを投げる。これも空振りした。
「いけるな」
 阿波野はそう思った。今日のスクリューだと高沢を抑えられると確信した。
 ストレートとスライダーを外した。これでフルカウントだ。
「ストレートやな」
 ベンチにいる梨田は次に投げるべきボールをそう予想した。それならば確実に抑えられると思った。
 マスクを被る山下和彦もそれは同じであった。高沢は阿波野のストレートにタイミングが合っていなかったのだ。
 だが阿波野はそれに首を横に振った。彼は自分の今日のストレートに自信がなかったのだ。
「完投したばかりだしな」
 そして今日既に第一試合で投げている。だからこそ疲れを気にしていたのだ。
 ストレートは打たれると長打の危険がある。高沢は一発もあるのだ。
「それに高沢さんはスクリューを二球共振っている」
 それを見て彼はスクリューでいきたいと思ったのだ。
「今のストレートだとこの人は抑えられないかも知れない」
 その不安を拭い去ることが出来なかったのだ。
「それに低めなら長打にはならないだろう」
 彼はそう思い投げた。低めへのスクリューだ。決して甘いコースではない。
 高沢はスクリューを狙っていた。だがヒットを狙っていたのだ。このシーズン首位打者がかかっていたこともありそれだけを考えていたのだ。
 高沢は阿波野のスクリューを拾うようにして打った。それは低いライナーとなりレフトに向かった。
「入るな!」
 そう思ったのは阿波野や近鉄ナインだけではなかった。球場、そしてテレビの前にいる皆がそう思った。
「ヒットか!?いや、まさか」
 それを見た高技も一瞬まさか、と思った。そして一塁ベースに向かった。
 風は逆風だ。川崎球場は狭いがそのぶんフェンスが高い。しかも低い弾道だ。誰もがまさか、と思った。
 しかし打球は無慈悲にもレフトスタンドへ突き刺さった。近鉄ファンの絶望の声と共に。
「あれが入るか・・・・・・」
 高沢も呆然となった。そしてダイアモンドを回った。
「これで終わりか・・・・・・」
 この一打には誰もが絶望した。だが近鉄ナインはまだ諦めてはいなかった。
 九回表近鉄は二死から大石がレフトへツーベースを放つ。
「よし、また一点や!」
 続くは新井である。そのバットコントロールはリーグ屈指である。
 その新井が流した。それはサードを襲った。いける、ヒットになるのは確実であった。
 だがそれをサードも水上善雄が止めた。無念の無得点であった。
 近鉄は明らかに焦っていた。そして九回裏、この試合、いや球史で最も悪名高い抗議が行なわれた。
「あいつは何考えとるんじゃ!」
 それを見た日本全国の野球ファンが皆激怒した。
「わざとやっとるやろ!」
「おい、あいつ引き摺り下ろさんかい!」
 何と有藤が牽制球を巡って抗議をしだしたのだ。時間稼ぎと言う者が多いが真相は今尚不明である。元々血の気の多い男である。抗議などはしょっちゅうであった。
 だがこの時は場が普段とは全く違っていた。有藤はそれがわかっていたのであろうか。
「時間稼ぎなら悪質ですね」
 テレビ朝日のアナウンサーはこう言った。彼もまた近鉄の優勝を願っていたのだ。
「やめんかい!」
「引っ込め!」
 ファンから罵声が飛ぶ。そして有藤はようやくベンチに戻った。
「阿呆が・・・・・・」
 日本の殆どの者がそう思っただろう。無駄に時間を浪費してしまった。それは何よりも近鉄ナインにとっては致命的なことであった。
 十回表、羽田耕一の打球は空しく併殺打となる。ヘッドスラィディングも空しくアウトとなった。
 羽田は一塁ベースの上に崩れ落ちた。無念であった。
 かって西本幸雄にそのスイングを見出されて近鉄のスラッガー候補として手取り足取り教えてもらった。だが不器用な男でありその成長は遅かった。時には鉄拳制裁も浴びた。
「高めのボールに手を出すなというのがわからんかあ!」
 阪急戦であった。彼は阪急の誇る速球王山口高志のボールを空振りした時そう怒鳴られ殴られた。その拳は確かに硬かった。だがそれ以上に熱かった。彼もまた西本の想いを拳を通じてわかっていたのだ。
 彼は地道に努力を続けた。そして遂に近鉄のスラッガーの一人となったのである。
 西本はよく羽田を話に出した。彼にとっても羽田は愛弟子であったのだ。
「西本さんを悲しませることだけはせん」
 彼はいつもそう思ってプレイしていた。だが今こうして無念の一打となった。
 後日西本はそんな彼を全く責めようとはしなかった。ただ普段通りに接しただけであった。
「野球をやっていれば色んなことがあるもんや」
 西本はこう言った。
「気の抜けたプレイや不真面目なプレイはいかん。そやけどな」
 彼は言葉を続けた。
「全力を尽くした上でやと仕方がない。その時の運不運もあるしな」
 八度のリーグ優勝を果たしながらも遂に日本一にはなれなかった男の言葉である。
「わしっちゅう人間の甘さかも知れんけれどな」
 彼は苦笑してそう言った。
「けれどここまで来た、それだけでも凄いと思う時があるやろ。選手達はようやった、ってな」
 その言葉に反論を唱えられる者はいなかった。それこそが西本の持つ人間としての優しさ、そして温かさなのであった。だからこそ多くの者が彼を師と慕うのである。
 羽田は無念に思った。だが時は流れている。彼は起き上がるとすぐに守備に向かった。あと九分。
「もう投球練習なんかいらんわい!」
 その回マウンドを任された加藤哲郎はこう叫んだ。最早近鉄にとっては少しでも時間が欲しい。しかし。
 時間となった。延長十回、遂に時間切れ引き分けとなった。
「こんな終わり方あるかい・・・・・・」
「これで優勝せんなんて嘘やろ・・・・・・」
 観客達もテレビを観ていた者も全て落胆した。誰もが望んでいない最悪の結末であった。
「残念な幕切れとなりましたね・・・・・・」
 久米は首を横に振ってこう言った。
「折角ここまで来たのに」
 彼は明らかに近鉄を応援しちえた。普段から公平性を著しく欠く報道をしてきたが今回は特にそれが顕著であった。だが今それを咎める者は誰もいなかった。誰もが彼と同じ考えだったからだ。
「優勝か」
「そうだな」
 テレビを切った西武ナインは口々にそう言った。そしてグラウンドに出た。
 森が胴上げされる。だが誰もいない、ナインだけでの胴上げだった。
「日本一になろうな。さもないとあいつ等に悪い」
 誰かがこう言った。
「そうだな、絶対に」
 彼等は口々にこう言った。そしてシリーズに備えた。
 その時近鉄ナインは空しく川崎を後にした。誰もが口を固く閉ざしている。
「また来年・・・・・・」
 それを見る記者の一人がそう言おうとした。だが言えなかった。彼はそこまで無神経ではなかった。
 無念、その言葉が球場を支配していた。ロッテナインも何も語らずその場をあとにした。
 だがその無念は死んではいなかった。少なくとも近鉄ナインの心には。
「何時か必ず・・・・・・」
「俺達はやってやる・・・・・・」
 誰もがそう思っていた。そして彼等は次なる戦場へ向かう心構えをしたのであった。



無慈悲な時の流れ    完



                                   2004・6・30


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