第六章          僥倖か運命か            
 人は時として恐ろしいまでの強運に恵まれる時もある。かって連合艦隊を指揮した東郷平八郎は類稀な強運の持ち主として知られていた。彼が司令官に任じられたのはその将としての資質もそうであったが強運も考慮されたのである。山本五十六も運の無い人物を使いたがらなかったという。いざという時に運に見放されるというのは戦場においては致命的な敗北に繋がるおそれがあるからだ。
 運、それは偶然である。これは人には如何ともし難くどうしようもないものである。人は時としてこれに大きく左右される。運に恵まれている時は何をしても上手くいく。しかし運が無いとその逆だ。落ちていくばかりである。
 それは運命だという人もいる。確かにそうかもしれない。人の一生はほんの数秒先でさえわからないものなのだ。それを知るのは運命の女神達だけである。彼女達の糸の紡ぎ次第でどうにでもなるものだ。それだけ不安定かつわからないものである。
 そうした運命論は非常に大きな主張となる場合がある。それはどんなものにおいてもそうである。戦争においても政治においても。そしてスポーツにおいても。
 スポーツ、そう野球においてもそうである。否、野球程それが大きな意味を持つものもそうないのではなかろうか。あの戦いの時のように。
 昭和三五年、この年の日本シリーズは以外な顔触れであった。
 パリーグは大毎オリオンズ、ミサイル打線で知られる強打のチームである。
 ミサイル打線、その名を憶えておられる年配の方も多いだろう。シュート打ちに名人として知られる山内和弘を筆頭に首位打者榎本喜八、阪神から移籍した田宮謙次郎、葛城隆雄等強打者が揃っていた。そしてエースとして小野正一がいた。そのそうそうたる顔触れを率いる将が西本幸雄。後に阪急、近鉄を優勝させた不世出の名将である。
 これ以上はない強力なチームであった。この時パリーグは野武士集団と言われた西鉄、名将鶴岡一人が率い杉浦、野村といったスター集団を揃えた南海等強力なチームがあったが大毎の力はそれ以上であった。
 打線は開幕早々爆発した。六月に入るとリーグタイ記録の十八連勝、そのうち小野が十五試合に登板して十勝をあげていた。打線は前述のように榎本が首位打者、二位に田宮、三位が山内と上位を独占、そして山内は本塁打王と打点王を獲得していた。小野は三十三勝で最多勝であった。まさに無敵であった。
 しかもそれを派手に宣伝する者がいた。大毎のオーナー永田雅一である。
 彼は大げさな身振り手振りと絶妙かつ威勢のいい言葉、派手好きな性格で知られていた。映画会社大映の社長としても有名であった。『ラッパ』と呼ばれとかく話題の人物であったのだ。
「いやあ、あれ以上はないという程の堂々たる優勝だな」
 彼は満面に笑みを浮かべて言った。
「京都の実家でお袋に会いに行った時こぼしたんじゃ。『わしゃあ何か前世で悪い事しかんかのお。一所懸命やっとるのに野球だけは報われん』とな。甘えてのう」
 彼は政界にも顔が利き映画人としては『羅生門』『忠臣蔵』『日蓮と蒙古襲来』等派手な大作で世界的に知られていた。ちなみに彼は熱心な日蓮宗の信者であり身延山に詣でる事が多かった。日活に若きスター石原裕次郎を取られていたが映画監督として市川コン、増村保造、俳優として勝新太郎、長谷川一夫、市川雷蔵、山本富士子と大物を揃え君臨していた。ワンマンであったが力があった。大映は実質的に彼のものであった。
 だが今まで野球では今一つパッとしなかった。大映スターズは伸び悩んでいた。
 しかし毎日オリオンズと合併し『大毎オリオンズ』になると意気上がった。そして優勝したのだ。
「けどそん時お袋は言うたんや」
 彼は得意気に言った。とにかく何でも話してしまう人物であった。
「『けどあんた、一所懸命に人に尽くすことは続けなあかんで』とな」
 彼は母親の口真似までして言った。これが永田独特の話術であった。時に激しく、時に人の情に訴える。いかなる場面でも人の心を掴む。そうした話術であった。
「それが今報われたのお」
 得意の大弁舌であった。彼は有頂天であった。
 それに対して大毎を率いる西本は表情を暗くしていた。
 彼は就任一年目にしてチームを優勝させた。早速若き名将と謳われるようになった。強力なチームを率い彼の運気は上昇気流に乗っていると思われた。
 だが彼は後にこの時を含めて八回のリーグ優勝を達成した男である。その眼は厳しかった。彼は冷静に自分のチームの状況を見ていた。
 オールスター明けに南海に首位を奪われたことがある。後半自慢の打線も下降線にあった。明らかに前半戦飛ばした疲れがあった。シリーズにまでその疲れが残っている怖れがある。
 そしてオーナーは舞い上がっている。選手達にまで吹聴して回っている。彼等が慢心すると危険であった。油断すればそこを付け込まれる、それは勝負の世界にあっては常識であった。そして相手のチームの将はそうした事が何よりも得意な人物であった。
 対するチームは大洋ホエールズ、将はかって巨人、西鉄を率いていた三原脩である。
 三原脩、球史にその名を残す男である。早稲田大学卒業後暫くは株で飯を食っていたと言われる男でありその智略と勘は恐るべきものであった。
 巨人においては別所を南海からいまだに語り継がれる強引なやり方で強奪に近い形で獲得した。そして優勝させた。西鉄においては自らスカウトまでして集めた戦力を育て上げ黄金時代を築き上げた。その時の水原茂率いる巨人との日本シリーズ三連戦は今でも最高の勝負として知られている。
 このシリーズの最後の戦いで雨を理由に試合を中止させたりオーダーを変更させたりした。これに水原が怒った。この二人は同郷出身であり大学時代からのライバル関係であった。そもそも三原が巨人から西鉄に移ったのは水原との確執もあったのだ。
 そして西鉄から大洋の監督になった。大洋は六年連続最下位。弱小チームであった。誰もが優勝は無いと思っていた。
 しかし智略を以って優勝した。ライバルに胴上げを許した水原はカメラマンを殴ってしまうという暴挙をしでかしてしまった。これが彼の辞任の一つの理由になる。彼はライバルを四度下したのだ。
 その強かさは不気味な程であった。激情家としても知られ荒くれ者揃いの西鉄を完璧に統率し審判室にバットを持って殴り込んだ事もある。西本も熱い男として知られるが彼には三原の持つドス黒さも無かった。三原は裏の世界の大物達ですら逆らえないどころか手足のように使えた男である。そこまで出来る者は彼の他に鶴岡か水原しかいなかった。底知れぬ沼のような男であった。
 西本はその彼の動きを警戒していた。向こうのベンチを見る。三原はただグラウンドを見ているだけである。だが彼には三原がこちらを見て不気味に笑っているように見えた。
(あの人は絶対に何かをやって来る)
 彼はそう思った。否、確信していた。それは何故か。既にやられていたからだ。
 シリーズ前の予想は誰もが大毎の圧倒的有利であった。毎年決まったように何処かの球団の圧倒的な優勝が言われるがこれは戦力の一面しか見ずに述べているか単なる提灯記事である。この程度の輩達が大手を振って偉そうに論調にもならない事を放言して回っているところに我が国の球界の問題があるのだが彼等は一向に気付かない。単に頭が不自由なのか媚を売っているのかはわからない。だが多くはその予想を見事に外している。だが毎年同じ事を繰り返す。もしかすると彼等は自分で考える脳味噌を持っていないのかもしれない。
 だがこの時は違った。戦力的にはどう見ても大毎が大洋を圧倒していた。ここまでの戦力差のあるカードも珍しかった。ミサイル打線が爆発して終わりだと殆どの者が思った。一人を除いて。
 その一人とは誰か。三原脩その人であった。
 三原は動いた。まず戦前の両チームを包む雰囲気を察しそれを逆手に取る事を考えたのだ。
 まず自分の意に合わない解説者を遠ざけた。そして次に西本との試合前の対談を約束した。
 西本はこれに喜び勇んだ。一代の知将の胸を借りて対談出来るのだ。彼は対談が試合前の前哨戦だと考えた。
 しかし三原はそれを直前になってキャンセルした。西本はこれに驚いた。そして屈辱に身体を震わせた。
 これで西本の心に強張りが出来た。彼はいよいよ強く決心したのだ。
「負けてはならぬ」
 本来は圧倒的な戦力を誇っている筈なのに。彼は妙に力んでしまっていた。
 三原はそれを見てほくそ笑んだ。そして西本がこう言ったのを聞いた。
「あの人は何を考えているのかわからない」
 彼はその言葉を聞いて笑った。まずは将の動揺を誘う事に成功したからだ。
 焦る西本。しかし永田は相変わらずであった。
 彼は完全に舞い上がっていた。連日マスコミの前に立ち彼等が言う大毎の優勢に鷹揚に頷いていた。
 オーナー同士の対談が行なわれた。大洋のオーナーは中部謙吉。永田より年上であったが永田は彼をこう呼んだ。
「中部君、中部君」
 と。もう完全に勝ったつもりであった。
 司会は報知新聞の社長が行なった。派手好きの永田にとって司会も記者クラスでは満足出来なかったのだ。
「中部君とこの大洋ホエールズというチームは実に理想的な素晴らしいチームだ」
 彼は言った。褒めているが完全に勝ってつもりでいる。
 彼は大洋の優勝を大阪出張中にラジオで聞いたという。
「全国の港、港の鯨か鮭の船かは知らん。しかしその船という船が汽笛を一斉にボーーーーッ、と鳴らしたんだな。大洋漁業という会社の団結の強さを知って感動したなあ」
 と言った。話はさらに続いた。
「土井捕手の奥さんが『女房役の女房として光栄に思う』という手記を発表していたなあ。わしはそれを読んで泣いた。一人で会社の屋上に上がって泣いたよ。大洋というチームはようまとまっとると感心した」
 最早彼の独壇場であった。ラッパ節全開であった。だがこの時彼は知らなかった。その土井に彼は奈落の底に落ちるきっかけを作られてしまうのだと。
 彼の話はある種の人の良さが出ていた。周りはそれを聞いて苦笑していた。これが彼の人間臭さの表れであった。彼は人の情けも心も知っていたのだ。それを知っているからこそ皆笑っていた。
 しかしそれが裏目に出る事も多いのが世の中である。仮にも一人で会社を動かしていた男である。それがわからぬ筈はなかった。しかし彼は舞い上がるばかりその事を忘れていた。そして試合は始まろうとしていた。
 まずはそれぞれのチームの帽子を被ったオーナー達が花束を手に握手する。双方のチームの選手達が入場する。その先頭には監督がいる。
「・・・・・・・・・」
 西本は三原を見た。だが三原は彼を見ない。戦いは始まろうとしていた。
 まずは始球式。この時の慣習では開催球場がある市の市長に頼むことになっていた。この場合は川崎球場で行なわれるので始球式は川崎市長。だが永田はそこでも派手にやった。
「わしのチームが出るシリーズや。ここは一国の宰相に投げてもらうか」
 この言葉に球界関係者は皆驚いた。そんな事は今まで考えられなかった。またやりやがった、ある球界の大物が顔を顰めたという。話を持ってこられた当時の首相池田隼人も驚いたという。
 だが頼まれて嫌と言えば男が廃る。池田は冷徹な切れ者の印象が強いがそうした事は快く引き受ける親分肌も併せ持っていたのだ。彼は喜んでその頼みを受けた。
 捕手は金刺川崎市長。永田はきちんと相手の大洋、そして川崎の顔を立てたのだ。
 彼はそれを中部と並んでネット裏に座った。彼にとってこの始球式は自分のチームが日本一になる前の幸先良い幕開けであった。彼は知った顔を見つけては声をかけていた。
 
 そして試合が始まった。大毎は速球派中西勝巳、対する大洋はチームの大黒柱である秋山登を送ってくるものと誰もが思った。
 秋山登、その名を球史に残す一代の名投手である。明治大学の頃より名を知られ高校の時からバッテリーを組んできた土井と共に弱小と言われた大洋を支えてきた。竜巻の様な独特のアンダースローから繰り出される速球とシュート、スライダーで知られる男である。この年二十一勝十敗、防御率一・七五という成績であった。両リーグで唯一五〇〇打点を叩き出したミサイル打線を抑えられるのはこの男しかいなかった。
 対する大洋打線はチーム打率二割三分、ホームラン僅か六〇本。長打力があるといえば桑田武しかいない。しかしその彼も十六本、大毎の主砲山内の三十二本の半分だ。このような頼り無い打線でも投げ勝てるのは秋山しかいないのだ。
「これは一体どういう事や・・・・・・」
 永田はマウンドにいる男を見て思わず声を漏らした。
 だが彼以上に驚いているのは西本であった。彼は思わず三塁コーチボックスにいる三原を見た。
「秋山でないんか」
 そこにいたのは左腕鈴木隆。この年五勝十一敗の男である。明らかに秋山とは格が違う。この時大洋には左腕で権藤正利という投手がいた。後に阪神に移籍し江夏豊にも慕われた温厚な人物である。彼は小児麻痺による左半身不随を乗り越えた男でその鋭いドロップで知られていた。
 その彼も出さなかった。西本も大毎ベンチも驚いていた。
 それは当の鈴木も同じである。青い顔をして三原を見る。
 だが三原はそんな彼に対し笑みを返すだけである。こういった時は彼が奇計を用いる時だ。このシーズンはそれにより勝ってきた。だがそれがシリーズでも通用するか。それは全くの未知数である。
 西鉄の時もそうやって巨人に勝ってきた。だがあの時は西鉄という強力なチームであった。今は大洋だ。その戦力は西鉄とは比べ物にならない。僅かなミスがそのまま惨敗に繋がる。
(何かやってくるの)
 西本はそう直感した。そしてベンチにいるナインに対し言った。
「鈴木を引き摺り落とすんや!例え秋山が出て来てもどうしようもないところまで追い込んだれ!」
「オオッス!」 
 選手達は叫んだ。そしてバッターボックスに入っていく。
「もし秋山が出て来ても策はある。それを見せたるわ」
 西本は言った。大洋のベンチを見る。そこにはその秋山が黙って座っていた。
 一回、ミサイル打線は早速鈴木の立ち上がりを攻める。まずは先頭打者の柳田利夫が出塁、田宮がレフト前ヒット。三番榎本は三振。そして四番山内だ。
「早速ミサイル打線爆発か」
 永田はほくそ笑んだ。マウンドの鈴木はまず初球でカウントを取った。ワンストライクノーボール。
(機、熟したり)
 三原は黙ってマウンドへ向かった。西本はそれが何を意味するかわかっていた。
(来るか)
 三原は主審のほうへ歩いていく。そして言った。
「ピッチャー秋山!」
 球場をざわめきが起こった。何とこのいきなりのピンチでエース投入だ。
「三原君も妙な事をするな。ここで秋山を投入するとは」
 永田は笑った。彼は自分のチームが大洋の誇るエースを打ち崩すと確信していた。
「よし、ここが絶好の好機や!」
 西本は言った。そして策を仕掛けてきた。
 マウンドで投練習をする秋山。その独特の竜巻の様な動きでボールを土井めがけ投げる。
 土井はそれを受けながらチラリ、と見た。彼が見たのは主砲山内ではなかった。
 土井は秋山ならば山内を抑えると信じていた。長い間バッテリーを組んできた間柄である。その日の調子は投球練習だけでわかる。今日の秋山の調子ならばいけると思った。
 しかしこの世に完璧なものなどない。秋山もそれは同じである。それは土井が一番よく知っていた。
(だからこそ俺がいる)
 土井は心の中で思った。そしてその心意気は三原も知っていた。
(さて、と。ここでこの試合は決まるな)
 三原はベンチで二人を見ながら心の中で呟いた。向こうのベンチを見れば西本が何やらサインを出している。
(西本君も動くか。だがあの二人に通用するかな)
 三原は西本の視線の先を見た。そこには秋山がいる。そう、秋山だ。彼は土井は見ていなかった。
 三原が名将ならば西本もまた名将である。だがタイプが違う。三原は選手の能力を引き出し奇計を縦横無尽に使う策士である。西本は選手育成からはじめ正攻法で攻める現場型の人間である。それは西本自身がよくわかっていた。彼は短期で勝負を決するタイプではなかったのだろう。三原とは正反対である。それが禍した。
 西本が見破った秋山の弱点、それはその投球フォームにあった。
 身体を思いきり捻る為動作が大きい。その為牽制球が苦手だ。二塁にいる柳田にリードを大きく取らせた。
(隙を見せたら走れ)
 柳田は西本のサインを確認した。リードが大きくなる。
(よし、それでいい)
 西本は柳田が塁を離れたのを見て思った。そうすれば秋山を引っ掻き回せる。そうすれば四番の山内が打ってくれる。秋山の決め球はシュート、しかし山内はそのシュート打ちの名人として知られている。普通の状態なら難しくとも動揺させれば打てる。西本の作戦だった。
 土井がサインを出す。三原はそれを見てほくそ笑む。その笑みは西本の目にも入った。
「!」

 秋山が動いた。投げた。だがそれは山内に投げたのではなかった。二塁にいる柳田に対して投げたのだ。牽制球だった。
 驚いたのは柳田である。だが遅かった。塁に戻れない。彼は挟殺されてしまった。
「な・・・・・・!」
 西本はそれを見て絶句した。彼だけではなかった。大毎ナインもバッターボックスに立つ山内も観客達も絶句した。そしてネット裏にいる永田も。
 土井は二塁ランナー柳田の動きを冷静に見ていた。そのうえで秋山に牽制球のサインを出したのだ。
 チャンスを潰された大毎はこの回無得点。これで流れを掴んだ秋山と土井はミサイル打線を抑え得点を許さない。
 試合は予想外の投手戦となった。秋山の右腕が土井のリードのもと唸ると中西も力投する。試合は六回まで両者無得点であった。
「何をやっとるんじゃ、ミサイル打線はどうしたんだ」
 永田はそう言いたかった。だが言えなかった。目の前の秋山と土井のバッテリーはまるで要塞の如きであった。
 七回裏バッターボックスには大洋の五番金光秀憲が入った。シーズンにおいては麻生実男と共に代打の切り札として活躍した。八十一試合の出場で打率二割五分六厘、ホームランは五本である。まさかこのような大試合で先発出場するとは誰も思わなかった。この起用も皆首を傾げた。オーナーである中部自身も妙な采配だと思った。
 だが三原の奇計にはいつもハッとさせられている。彼は三原に全てを託していた。ここが盛んにチームの事にも口を出す永田と違うところであった。これが良いか悪いかはまた別問題であるが。
 中西はまずストライクを取ろうと考えた。初球はストレートだ。速球が唸り声を挙げて放たれた。
 金光は初球はストライクで来ると思っていた。それもストレート。その通りだった。
 彼は振り抜いた。打球はそのまま上がっていく。そしてスタンドに入った。
「まさか・・・・・・」
 大毎ベンチは沈黙した。打たれた中西もナインもダイアモンドを回る金光を呆然とした顔で見た。
 金光はホームを踏んだ。大洋が一点を先制した。
「まだ一点や」
 西本は言った。だがそれが果てしなく重い一点であるのは彼もわかっていた。
 その後大毎が誇る筈の強力打線は秋山の好投の前に完全に沈黙してしまう。打ち崩す事は容易ではないことはわかっていた。それだけに試合の展開は大毎にとって苦しいものであった。
「やっぱりあの一回か」
 西本はポツリ、と呟いた。試合は結局一対零で大洋が勝利を収めた。
「何の、まだ一敗だ。まあこれ位は負けないと面白くない」
 永田は余裕たっぷりに言った。彼は自分のチームの戦力に全幅の信頼を置いていた。
 しかし全幅の信頼を置くのと過信、いや慢心は異なるものである。彼のそれは明らかに慢心であった。これが後々彼にとって大きな禍根となる。だが神ならぬ身の彼はその事に気付いていなかった。もし気付いていたとしてもそれはどうすることも出来なかったであろう。既に彼も三原の魔術に捉われていたのだから。
 この敗戦に最も危機感を募らせていたのは西本だった。選手達はまだ一敗、とその表情は明るい。だが彼の顔は暗かった。そのへの字の口をさらに厳しくし試合終了後のグラウンドを見据えていた。
「打てんか、秋山は」
 西本は一人呟いた。既に三原はグラウンドを引き揚げている。そしてマスコミ達に囲まれながら試合終了後のコメントを行なっているだろう。おそらく彼等もその魔術に捉われだしているだろう。
 打線の調子が下降線であるのは彼自身がよくわかっていた。それが出た一面は確かにある。打線は水物という。好不調の波は投手陣に比べて比較的大きい。打線のチームにとって最も恐ろしい事は不調の時に絶対的な投手が現われる事だ。そしてそれが今だった。秋山を打ち崩す事は普通にやったのでは困難であろう、そう考えた。
「ここはこれまで通りのやり方やったら負けるな・・・・・・」
 彼は思った。そして次の日の試合に備えその場を後にした。
 
 第二戦がはじまった。大洋の先発は島田源太郎、大毎は若生智男であった。
「今日は大毎が勝つだろうな」
「ああ、そしてミサイル打線がいよいよ爆発するぞ」
 球場に入った観客達はそう言っていた。永田が聞いていたがニンマリと笑っていただろう。
 しかしこの時永田は球場にはいなかった。彼はとある料亭である人物と共に試合をテレビ観戦と洒落込んでいたのだ。
 当時テレビは信じ難い勢いで普及していた。それまでは庶民にとって高嶺の花であった筈のテレビが次々に庶民の手に渡っていったのだ。そして瞬く間にその普及数が五百万台を突破した。
 これは映画業界にとって脅威になる得るものであった。それは永田も薄々感じていたかもしれない。
 だが彼はこの時は試合をテレビで見ていた。そして共に観戦する人物に話を聞かせてもらっていた。
 今この時その場にいた人物の名を聞けば多くの者は恐ろしいものを感じたのではないだろうか。永田も大物であろうが彼は何処か愛敬というか人間臭さがある。しかしもう一人の人物の名を聞けば政治家もギョッとするのではないだろうか。
「何であの人がそこに?」
 我が国の野球の歴史を語る上で欠かせない人物は幾人かいる。三原も西本も、そして永田もそうである。だが同時にこの人物を外しては到底成り立たないであろう。永田がこの時共にいた人物はそれ程の大物であった。
 その人物の名は鶴岡一人。南海ホークスの監督にして球界一の名将と言われる男である。
 広島県呉市に生まれた。広島商業に入り甲子園にも出場した。法政大学では好打堅守の内野手として活躍した。その当時から華のある選手として有名であった。そして鳴り物入りで南海に入団した。そしてルーキーでいきなり本塁打王となった。
 当時は戦争の暗い影が世の中を覆っていた。彼とて例外ではなく戦争に招集された。そこで陸軍将校として名を馳せた。この時から人の上に立つ人物として一目置かれていた。
 戦争が終わりプロ野球が再開されると彼は二十九歳の若さで監督となった。選手兼任である。それから彼の真の手腕が発揮されるようになった。
 時には百万ドルの内野陣、時には四〇〇フィート打線。その時のチームの状況を冷静に見極めそれに合ったチーム作りをする。これはと思った選手を獲得し育てる。そうして南海を常に優勝を争うチームにしていた。事実彼は二リーグ時代だけでも八回の優勝を成し遂げている。
「グラウンドには銭が落ちとる」
 彼はそう言った。彼は誰よりもプロ野球にいる人間としての意識が強かった。
 彼は常に高所高所からプロ野球界全体の事を考えていた。同時に野球を深く愛していた。これが野球のことは何一つ知らず金にあかせて長距離砲ばかり掻き集め選手を全く育てようとしない愚かな人物やその卑しい取り巻き、テレビや雑誌等でそれを無批判に礼賛する愚劣な提灯持ち共との決定的な違いである。彼は常にパリーグ、そして野球界の事を考えていた。そしてそれを見て行動していた。
 そのような人物であるから彼を慕う者は多かった。そして彼はカリスマ性だけでなく絶大な力も持っていた。
 おそらく長い我が国の野球の歴史で帝王学を実践したのは彼だけであろう。その力は裏の世界の人間ですら逆らえない程のものであったという。
 当時は選手の獲得等で不明瞭な金が動いていた。これはそういう時代だったからである。別に彼だけでなく多くの球団も大なり小なり同じであった。とある球団などはいまだに他のチームからそうしたやり方で選手を犯罪まがいの方法で強奪したりしているようであるが。
 その戦績は見事である。リーグ優勝は一リーグ時代と合わせると十一回、日本一二回、監督通算一七七三勝、勝率六割九厘は歴代一位である。これだけの将は最早出ないだろうと言われている。
 その鶴岡が今永田と共に試合を観戦している。鶴岡の目はテレビに映し出される試合に釘付けだった。
 永田はその鶴岡を見ていた。ワンマンな彼もこの人物の言葉なら問題無いと思っていた。
 試合が始まった。まずは一回、両者共無得点であった。
 西本は二回途中で動いた。マウンドにエース小野を投入してきた。
「昨日の秋山の時に似ているな」
 鶴岡はボソッと呟いた。
「だが状況が違う。これは吉と出るか凶と出るかわからんな」
 永田はその言葉を耳に残した。そう、この時点では試合はまだ動いていなかった。
 試合が動いたのは六回だった。表の大毎の攻撃で榎本がツーランホームランを放ったのだ。
 この先制点にファンは狂喜した。西本も微笑んで先制アーチを放った榎本を迎える。
 永田はこの時勝利を確信した。これで自慢の打線は爆発する、そして小野も大洋打線を僅か二安打に抑えていた。
 そう思っていた。だが勝利の女神の気紛れさを彼は忘れていた。
 大洋打線は確かに打率は低かった。しかしその集中力は凄まじかった。大毎側はそれを忘れていた。小野もこの程度なら楽に抑えられると油断したのであろうか。
 その裏であった。大洋の数少ない中心打者である近藤和彦と桑田が連打を放つ。これで同点となった。
 永田もファン達も沈黙した。そして七回裏にはシーズン打率僅か二割二分六厘の近藤昭仁と二割一分の鈴木武がこれまた連打を放ち逆転した。これには皆流石に唖然とした。
 この年三原は『超二流』という造語を造っている。
「うちのチームは他のところみたいに一流の選手は少ない。しかし打っても守っても超二流の選手が揃っている。彼等が力を合わせて一流の選手を超えていくん三原の言葉通りその超二流の選手たちが活躍する。第一戦の金光然りこの試合の近藤、鈴木然り。そして大毎を追い詰めていっていた。そして試合はいよいよ天王山を迎えた。
 八回表大毎の攻撃である。先頭の坂本文次郎がまずバント安打で出塁する。次は左の田宮である。三原はここでマウンドに向かう。そして投手を左の権藤に替える。だが四球で歩かせてしまう。
 西本はここで慎重策に出た。前の打席でホームランを放っている榎本にバントをさせた。これで一死二、三塁。次は主砲山内だ。
 三原はここで山内を歩かせた。敬遠策である。これで満塁。三原は遂に切り札を出した。秋山投入だ。
 マウンドにはエース、しかし一死満塁である。状況は大毎圧倒的有利であった。
「遂にミサイル打線爆発か・・・・・・」
 観客達は固唾を飲んだ。それはテレビで観戦する永田も同様である。鶴岡も黙って見ていた。
(下手をすればゲッツーやが)
 鶴岡は内心そう思った。だがあえて言わなかった。風は大毎に大きく傾こうとしていたのを察したからだ。
 三原は黙ってマウンドの秋山を見ていた。ここは全てを彼に託していた。
(ここを凌げれば流れはうちに大きく傾くな)
 しかし場内の雰囲気は違っていた。若しここで秋山が打たれると大毎は波に乗る。
 そうなれば戦力的に圧倒的な優位にある大毎はここぞとばかりに攻勢に出るだろう。西本はそうした攻撃的な野球を持ち味とする男である。そうなればこのシリーズで大洋の勝ちは無い。
 だからこそ秋山を投入したのだ。この場面を凌げる男は彼しかいなかった。
(任せたぞ) 
 彼は心の中で呟いた。そして静かに西本を見た。
 西本は何かサインを出している。それは三原にも、そしてテレビから永田にも見られていた。
 鶴岡は何か聞こえて来るのを耳にした。それは永田のほうから聞こえてくる。
(永田さんは何を呟いとるんや?)
 ふと彼の方へ顔を向けた。すると彼は一心不乱に念仏を唱えていた。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・・」
 彼が篤く信仰する日蓮宗の法華経であった。彼は今や仏にもすがっていたのだ。
(成程な。永田さんにもこの場面の重要性がわかっとるみたいやな)
 彼はそう思うとテレビへ視線を戻した。そして彼には言葉をかけなかった。あえてそっとしたのだ。
 彼は神仏にまですがろうとする永田を窘める気も軽蔑する気にもならなかった。彼もこれまで幾多の修羅場を潜り抜けてきた。野球においても戦場においても。実際に戦場で部下が好きな女性の毛を御守りの中に持って行っているのを見ている。極限の状況において人はどのようなものでもすがりたがるものである。それは彼もよくわかっていた。だから何も言わなかったのだ。
 打席には五番谷本稔が入る。キャッチャーを務めまた強打で知られる。ここは誰もが打って出ると思った。
「・・・・・・・・・」
 だが西本は無言でサインを出した。表情はいつも通りのへの字口である。そこからは何も読み取れない。
(西本君は何か考えているようだな)
 三原はその様子を冷静に見ていた。そして何かある、と悟った。
(外野フライでも一点入る。それだけで流れは大きく変わる。しかし)
 グラウンドを見る。そしてスコアボードを。一死満塁、大毎にとって確かに絶好のチャンスである。
 だがその逆とも言える。もしここでダブルプレーなりでこのチャンスを無駄にしたら。それで全ては終わってしまうだろう。少なくともこの試合の勝利はまず無い。
 一塁ランナーを見る。ランナーは途中から柳田と交代していた坂本だ。ベテランながら俊足で鳴らした男である。そう、彼は脚が速い。
 チラリ、と打席の谷本を見る。何処か顔が強張っている。そして蒼い。
(確かにこの大舞台でこんな場面ではそうもなるだろう)
 その時三原の脳裏で何から閃いた。直感が彼に対し何かを叫んだ。
(待てよ・・・・・・)
 もう一度坂本を見る。見れば彼の顔も緊張している。谷本としきりに目を合わせ妙にそわそわしている。
 西本は腕を組み動かない。まるで腹をくくったように。
 これまでの戦いの場で育った直感、それが三原を知将たらしめているものだった。それが持つ意味を彼は他の誰よりも理解していた。
 戦場ではその直感が生き死にを左右する。野球においては勝敗を。彼は戦場で、そして試合でそれを嫌という程教わった。
 秋山と土井のバッテリーを見る。彼等はそれにはまだ気付いていないようだ。
 二人がこちらを見た。そのとき彼はあるサインを出した。
(スクイズも考えておけ)
 そうサインを出した。だが本当にそれを仕掛けてくるか。それは彼の直感だけがわかっていた。
(これまでこの直感のおかげで生き延びてきたし勝ってきた。ここは信じるしかないな)
 そしてこうした場面で直感よりだ大事なものを。それは運だった。
 三原はこの時一塁側ベンチにいた。これはホーム球場だからである。そしてそこからは三塁ランナーの表情がよく見える。そして右バッターの顔もよく見える。そう、谷本は右打者だった。
(これは僥倖か)
 三原はあえてここで表情を消した。向かい側にいる西本に悟られない為だ。
 ここで彼は大毎はほぼ強攻策で来るだろうと思っていた。スクイズは殆どないと考えていた。
 だがあえてバッテリーにスクイズを警戒するようサインを出した。そうすればいざという時咄嗟に対処が出来る。
 人は頭に入れていたことに対しては対処が素早いが頭に入れていないとそれは難しい。三原はそれも踏まえて二人にサインを出したのだ。
 秋山と土井は頷いた。土井はナインにサインを出す。だがナインは普通にバックホーム用のシフトである。それを見て西本の目が光った。
(ふむ・・・・・・)
 ひょっとするとやるかもな、三原はその目を見てそう思った。だがそれはひょっとすると、だ。確実にくるとは思っていなかった。
 観客達は固唾を呑んでいる。さあいよいよミサイル打線が爆発するか。それとも秋山が抑えるか。どちらにしても目が離せなかった。
 秋山はセットポジションをとった。そして三塁の坂本を見る。
 坂本はそれに一瞬ビクッとしたように見えた。だが彼もプロである。それは悟られないうちに隠した。
 彼は目だけでバッターボックスにいる谷本を見た。谷本もそれに対し目で合図する。
 秋山の腕が捻られた。その右腕が竜巻の様に唸る。
 その時だった。坂本が走った。
(来たか!)
 三原は心の中で叫んだ。もしや、とは思った。だがまさか本当に仕掛けてくるとは。
 谷本はバントの構えを取った。もうウエストは出来ない。ボールはそのまま秋山の手を離れ谷本のバットへ向かう。
 大洋内野陣がダッシュする。しかしそれも間に合いそうもない。
(やったか!)
 西本は作戦が成功したと確信した。彼は頷いた。
(秋山、土井、頼むぞ)
 三原は腕を組んだままそれを見ている。既に秋山はダッシュに入り土井はマスクを外した。
 ボールがバットに当たる。ボールはそのまま地に落ちる。谷本は打球を上手く転がした。
 かに見えた。ところがその打球は奇妙な転がり方をしたのだ。
 普通ならそのまま前へ転がる。この場合は投手の秋山の方に。
 この時打球が前へ転がっていたならば。西本と大毎ナインはそう思っただろう。
 しかし何ということであろうか。打球は戻って来たのだ。打球を追う土井のほうへ。
 土井はそのボールを素早く掴んだ。そして三塁から突入しホーム寸前まで来ていた坂本にタッチしたこれでツーアウト。
(なっ・・・・・・)
 西本は絶句した。その間に土井はボールを振り向きざまに一塁へ投げた。
 アウトだった。一瞬の間のダブルプレーであった。
「なっ・・・・・・」
 観客達はその思いもがけぬ奇襲、そして併殺に絶句した。場内は静まり返った。
「土井め、上手くやったな」
 三原はそれを見て笑みを浮かべた。薄い笑みである。だがそれは勝利を確信した笑みであった。
「な、なななな・・・・・・」
 それを見てガタガタと震える男がいた。テレビの前の永田である。
「あの場面でスクイズはないな」
 その光景は傍らにいる鶴岡も見ていた。彼は一部始終を見てポツリ、と言った。
(そうやな)
 永田はその言葉にふと我に返った。そして次第にテレビに映る西本を険しい目で見るようになった。
(西本君にとってまずいことになったな)
 鶴岡はその永田を見ながら思った。試合だけではない。西本自身にとっても。
 試合はそのスクイズが全てだった。秋山は球界を二三振とサードゴロに抑えた。大洋は本拠地で連勝した。
 これは予想外の展開であった。マスコミは三原の周りを取り囲んだ。
「僥倖、運も試合の重要な要素だ」
 三原は彼等に対し含み笑いを浮かべて言った。これは彼の持論でもあった。
 短期決戦はリズムに乗っているかどうかで大きく違ってくる。運があるかないか。それを見極める事が将としての手腕。そしてその男を縦横無尽に使うのだ。それが三原マジックであった。
(だがあの場面は果たして僥倖かな)
 三原は僥倖と言いながらも内心そう考えていた。
(ああいった場面はそうそうあるものではない。これは運命かも知れないな)
 彼はそう思うとさらに笑った。今度は心の中でだ。
(だとすればこのシリーズ一体どういう運命になるか、楽しみにしておこう)
 彼は川崎球場をチラリと見るとバスに乗った。そして球場を後にした。
 収まりがつかないのは大毎側であった。怒りに震える永田は西本に電話をかけた。
「一体何を考えとるかあっ!」
 第一声はそれであった。いきなり怒鳴り声である。
「うちは打線のチームだ、チャンスにバントなぞしてはミサイル打線の名が泣くぞっ!」
 永田の声は怒りで震えていた。もし面と向かっていたならば殴りかかっていたかもしれない。
 だが西本はそれに対して冷静であった。
「監督は私です。オーナーは采配にあれこれ口を挟むべきではありません」
 そうなのだ。これは野球の不文律である。オーナーは現場の采配には一切口出ししない。まあ中にはチームが不調なのでオーナーのゴマをすってか監督やコーチがミーティングしている途中にズカズカと入り込んで醜く怒鳴り散らし野球の事も知らないくせに采配に口を出し首脳陣が一斉に辞任する異常事態を招いた愚劣な球団代表もいるようだが。そのような輩はまあ例外中の例外であろう。
 しかし永田も負けてはいない。何しろ当世きっての名物オーナーだ。後に拳骨と頑固で知られる西本にも臆しない。
「御前に任せて負けているだろうが!あの満塁の場面でスクイズを命じる監督が何処にいるんだ!」
「ここにおります!」
 西本も言った。彼も意地がある。戦争では高射砲部隊で小隊長をやり戦後はアマチュア球団星野組で一塁手兼任で監督をして優勝させている。ろくに食べ物も無い時代、選手達の食べ物を調達しながら優勝させたのだ。その時彼はまだ三十前後という若さである。
「バカヤローーーッ!」
 その言葉に対して永田は切れた。彼も一代で大映を築いた男である。血気も盛んだ。
「バカヤローーとは何だ!取り消して頂きたい!」
 西本も激昂した。だが永田はそれ以上だった。すぐに電話を叩き切った。
 永田は怒り来るってその場を後にした。そしてこの時点で西本の命運はほぼ決まってしまっていた。
 しかも彼のラッパは止まらない。彼は報道陣に対してこう言った。
「うちは豪快な打線が看板のチームだ。それがコソコソとしていては勝てるわけがない。わしは谷本がバントの格好をした時に負けたと思った」
 弁舌は続く。これには報道陣のほうが驚いた。
「西本は強打して内野ゴロの併殺を恐れたと言うとる。そんな風に考える時点でもう負けているんだ」
 前代未聞であった。シリーズの真っ最中にオーナーが自分のチームの監督の采配を批判するのだ。そんなことは今までなかった。無論その後もない。
「永田さん大丈夫か」
 インタビューの後報道陣の一人が首を傾げながら言った。
「まああのスクイズは確かに驚いたけれどな」
 別の記者が言った。
「それでも西本さんの采配にも一理あるだろ。あそこであの秋山を打てるとは限らないんだし」
「それがな、あの時永田さん球場にいなかっただろ」
 他の記者がそこで口を挟んだ。
「ああ。何処にいたんだ?」
「料亭でテレビ観戦していたらしい。ある人と一緒にな」
「ある人って・・・・・・誰だ?」
「親分さんだ」
 その記者はそう言って西の方を親指で指した。その場にいた記者達はそれであっとした顔になった。親分とは鶴岡の通称である。彼はその風格と実力からそう呼ばれていたのだ。
「あの人が言ったらしい。あそこでスクイズはないだろうって。確かにあの人ならそう采配するだろう」
「しかし天下の大監督とはいえ他所のチームの監督だろ。その人の言う方を信用するというのも・・・・・・」
 だが彼はそれ以上言えない。鶴岡の言う事は絶対的な重みがあるのも事実だ。何しろ関西球界のドンであるから。後に野村克也が南海の監督を急遽解任された時もその存在が噂された程だ。もっともこの件については野村の被害妄想とも言われている。真相は定かではない。だが存在が噂されるだけの力があったのは事実だろう。
「まああのスクイズが正しいかどうかなんて誰にもわからないよ。俺達は神様じゃないんだからな。ただこれだけは言えるな」
「何だ?」
 記者達は次の言葉に耳を傾けた。
「西本さんはこれだ」
 その記者は首を自分の左手でサッと切った。それを見て記者達は真摯な顔で頷いた。ワンマンで知られる永田だ。一度決めたら覆らない。それは皆よく知っていた。
 後永田がこの世を去った時であった。西本はこう言った。
「あの時はお互い若かった」
 それを聞いて冥土へ旅立つ彼はどう思ったであろうか。
 

 第三戦は場所を変えて後楽園球場。既に三原は勢いが自らの手の中にあるのを悟っていた。あとはそれを存分に使うだけだ。
 一回表一死から鈴木武がセンター前ヒット。三原は彼に盗塁のサインを出す。
 鈴木はまず二塁を陥とした。三原はまた盗塁のサインを出す。
 続いて三塁。大毎はこれに浮き足立った。
 二死で何とショート柳田がエラーをしてしまう。そしてそこに金光のヒットが加わる。相手を霍乱しそこに隙を生じさせる。そしてそこに付け込み崩していく。大毎は最早三原の魔術の中にあった。
 四回を終わって五対零。いきなり勝負は着いたかに思われた。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・・」
 永田の口からは法華経の声が響いてくる。記者達はそれを聞いて顔を見合わせた。
「こりゃ駄目かな」
 だがまだ諦めていない者がいた。誰であろう、前の試合でスクイズを命じた西本本人であった。
「まだ試合は終わっとらん!わし等の意地を見せるんじゃ!」
 選手達を前にして言った。後に闘将と呼ばれる男である。彼の気迫に大毎は息を吹き返した。
 まず五回裏に一回にエラーをした柳田がレフトスタンドへツーランホームラン。これが反撃の狼煙であった。
「遂に火が点いたな」
 三原はそれを見て動いた。マウンドに秋山を送る。
 しかし大毎が意地を見せた。六回、バッタボックスに第二戦のあのスクイズでホームでタッチアウトにされた坂本が入った。
 その坂本が打った。そしてその後に榎本が入る。
 後に二千本安打を達成する男である。彼はここで仕事を果たした。坂本に続く。これで三点目が入った。
 勢いは大毎に傾きかけていた。それは西本も感じていた。
 彼は攻撃の手を緩めない。まずは秋山をマウンドから降ろす事を考えた。
 七回、あのスクイズを失敗した谷本が打った。今日の秋山は明らかにミサイル打線に捕まっていた。
「よし」
 三原は再び動いた。こうした時彼の動きは実に素早い。投手交代だ。
「ピッチャー、権藤」
 三原は主審に告げた。アナウンスが球場に響き渡る。
「やっと秋山を引き摺り下ろしたな」
 西本は腕を組んで呟いた。これで勝機が見えたと感じた。
 戦前よりミサイル打線を抑えられる大洋のピッチャーは秋山だけだと言われていた。その秋山を遂にマウンドから降ろすことに成功したのだ。意気上がる大毎ベンチ。
 権藤も優れた左腕である。だが今の波に乗ろうとするミサイル打線を抑えるのは難しい。
 今一つ制球が定まらない。八回に四球で二人のランナーを出してしまう。そこで葛城が打席に入る。
 葛城のバットが一閃した。打球はそのまま右中間を割った。長打コースだ。
 ランナーは二人共生還した。葛城自身は二塁ベース上でガッツポーズを上げる。これで同点だ。
 歓声に包まれる一塁側スタンド。第三戦にしてのようやくのミサイル打線爆発であった。
「よし、あと一点で勝てるぞ!」
 西本は選手達に言った。こうした時彼は選手達に暗示をかけるのが上手い。これが名伯楽と呼ばれた所以でもある。
 そう、あと一点で勝てるのである。大毎は。しかしそれは大洋にとっても同じであった。
 九回になった。まずはワンアウト。打順は一番の近藤昭仁に回ってきた。
 近藤はバットを振り打席に入ろうとする。
「おい」
 その彼を呼ぶ男がいた。
「監督・・・・・・」
 近藤は彼を見て言った。三原が彼を自分の方に呼び寄せたのだ。
「近藤」
 三原は静かに彼の名を呼んだ。そして彼の耳元に顔を近付けた。
「君はリズムに乗っている。思い切って振ってみろ」
 この二人は同郷出身である。場所は高松。だからこそ何か通じるものがあったのかもしれない。
 三原はここで近藤がリズムにに乗っていると言った。だが実はそうでもなかった。第一戦では無安打、第二戦は四打数一安打。この試合も今までノーヒットである。こうして見ると不調と言っていいだろう。
 だが三原は第二戦の唯一のヒットを指してそう言ったのであった。あの試合の七回裏チャンスを繋ぎ鈴木武の決勝打を呼んだヒット。それを指していたのだ。
 近藤はその言葉に乗った。その気になったのだ。そして胸を張りバッターボックスへ向かう。
 大毎のピッチャーは六人目、第一戦で先発した中西である。彼はの武器は何と言ってもその速球だ。
 近藤はその速球に狙いを定めた。そしてそれを待つ。
 二球目にそれは来た。高めに入って来る。
「今だっ!」
 近藤はそれを振り抜いた。ボールは高々と舞い上がった。
「あ・・・・・・」
 ネット裏で観戦していた永田は思わず声をあげた。それまで時折法華経を漏らしていた彼の口が止まった。それは絶望的な声であった。
 ボールはそのままライトスタンドへ向かって行く。そこには大毎ファン達がいる。ボールは彼等の中に落ちた。
 球場は一瞬静まり返った。だがその直後それは大歓声に変わった。
 近藤はダイアモンドをゆっくりと回っていく。大毎ナインも西本もそれを唇を噛み締めて見ている。この試合はそれで決まったようなものであった。
 永田は顔を下へ向けた。そして黙り込んでしまった。そこにはつい三日前の自信に満ちた姿は何処にもなかった。
 第三戦は終わった。大毎は九回の攻撃は何無く抑えられてしまった。
 大毎ナインは力無くベンチを後にする。西本は無言のまま大洋のベンチを見た。御通夜の様な自軍とは違い向こうは勝利に沸き返っている。
「・・・・・・・・・」
 そして彼はベンチを後にした。無言で引き揚げていく。
 永田は顔を上げていた。だがその目はライトスタンドを見ていた。九回に近藤の決勝アーチが飛び込んだ場所だ。
 誰も声をかけられなかった。皆黙っている。
 試合は三戦全て大洋が勝った。そして次の試合に向かおうとしていた。

 第四戦、大洋の先発は島田、大毎は小野であった。第二戦と同じである。この試合でも秋山は先発させていない。
「最後までそう来るか・・・・・・」
 西本は大洋のベンチにいる三原、そして秋山を見て言った。これまでの三試合と同じくここぞという時に投入してくるのだろう。それはもう予定通りであった。
 大毎の先発小野は鬼の形相となっていた。もう負けられない。彼の左腕に全てがかかっていた。
 打線も必死である。何とか点をもぎ取ろうとする。
 しかし試合は双方無得点のまま進む。四回を終わって零対零である。
 だが均衡が破れる時が来た。五回表大毎の攻撃であった。
 まず七番の渡辺清がレフトへヒットを放つ。大毎のレフト山内へのドライブがかかった猛打であった。
 渡辺清。かっては阪急にいた。五五年にルーキーで一三二試合に出場、打撃五位の打率三割三厘をマークした。その年の新人王が榎本であった。彼の打率は二割九分八厘、打撃十位であった。彼にしては面白くなかったであろう。そしてこの六〇年に大洋に移籍して来た。
 このシリーズにぴて彼の起用は一定しなかった。もっともこれは三原の采配の特色であったが。
 第一戦は最後の守備固め。第二戦は三打数一安打。第三戦は代打で登場し四打数一安打。この試合も仮の偵察用メンバーを出した後相手投手が左腕の小野なので七番センターでの出場であった。この男は今日打つ、三原はそう読んでいたのだ。
 そしてそれは当たった。第一打席にはレフト前に打っている。そしてこの打席では二塁打だ。三原は笑みを浮かべた。
 次の打者はキャッチャーの土井である。彼は打撃はお世辞にも良くはない。そして次は投手の島田。何無くツーアウトまで取られる。ここで前の試合に決勝アーチを放った近藤がバッターボックスに入る。
 だが彼はこの試合ノーヒットである。小野は完全に抑えていた。彼は近藤を完全に抑える自信があった。
 カウントは忽ちツーストライクワンボールとなった。小野は近藤を捻じ伏せていた。そして四球目を放つ。
 人には運命というものがある。それは誰にも見えない。そして本人にも筋書きはわからない。それを知るのは神々だけである。しかし優れた眼を持つ者はそれをほんの少しだけ見ることが出来る。そしてそれが出来る人物がここにいた。
 それは誰か、言うまでもなかった。三原である。彼は近藤は打つと確信していた。だからこそ彼に対し前の試合でささやいたのだ。そしてそのささやきは今も生きていた。
 近藤はその四球目を打った。だがそれは詰まっていた。小野の足下に転がっていく。
 小野は口だけで笑った。抑えた、と思った。そして右腕のグラブを差し出した。
 だがそのボールは速かった。小野が思ったよりもそれは速かったのだ。
 打球は二遊間を抜けた。まるで測ったかのように。
 二塁ランナー渡辺は駆けた。彼の脚は速い。忽ちホームを陥れてしまった。
「よし」
 三原は歓声の中戻って来る渡辺を迎えて言った。彼はこの時次の手を考えていた。チラリ、とその手を見る。
「行くぞ」
「はい」
 彼の言葉に声をかけられたその男は一言返した。
 四回裏マウンドには島田がいた。彼はこれまでヒットを浴びながらも何とか抑えていた。
「今日は秋山は出ないのか?」
 観客席で誰かが言った。西本はそれを黙って聞いていた。
「いや、絶対に出て来る」
 彼はそう呟いた。その時三原が動いた。
 アナウンスがピッチャー交代を告げる。そしてその名は。
「ピッチャー、秋山!」
 場内がどよめく。西本の読みは当たったのだ。しかしこの場面で出て来るとは。
「もうこの試合で決着をつけるつもりやな」
 西本はマウンドで投球練習をする秋山を見て言った。そしてベンチに立っている三原も。
 秋山は大毎の並みいる強打者達を危なげなく抑えていく。そしてそのまま試合は進んでいく。
 永田はもう念仏を唱えるばかりである。彼の発言を取材しようとしていた記者達は試合の感想が聞けないことに戸惑いながらもこれはこれで記事になるな、と考えていた。
 しかし西本も大毎ナインも最後まで諦めない。意地を見せねばならなかった。
 七回秋山を攻める。一死二、三塁の絶好の好機である。
「ここで打ってくれ・・・・・・」
 永田の言葉は最早祈りであった。威勢のいい言葉を売りにする彼とは思えないものであった。
 打者は坂本。ここで強打かと思われた。流石に併殺打の可能性は少ない。
 しかし西本はここでもスクイズに出たのだ。だがもうそれは通用しなかった。西本の采配がまずいのではない。坂本の技量が劣っているのではない。もうそれは流れとして、運命として成功しないものだったのだ。
 秋山の速球は坂本の胸元をえぐった。かろうじてバットに当てたがそれは高々と舞い上がった。
「ああ・・・・・・」
 永田はそれを見て溜息をついた。それはファールフライだった。土井がマスクを外し追う。
 打球は土井のミットに収まった。そして二度目のスクイズは失敗に終わった。
「またここでスクイズをしてくるとはな」
 三原は空しくベンチへ引き揚げる坂本を見ながら呟いた。
「だがもう成功する筈が無い。ましてや坂本君ではな」
 坂本は第二戦のスクイズでホームでタッチアウトになったその人だ。その彼がスクイズをしても上手くいく筈もなかったのだ。それは流れであった。運命にも言い換えられよう。
 それで全ては終わった。九回裏遂に大毎の攻撃は終わった。
 歓喜に包まれる大洋ナイン。四連投で無事勝利を収めた秋山は笑顔でナインと握手をしている。
 三原が胴上げされる。二度、三度と高く天に舞う。
 戦いは終わった。結果は四戦全勝、大洋の圧勝であった。
 その全てが一点差、だが圧倒的戦力を誇る大毎を寄せ付けない見事な勝利であった。
 MVPに輝いたのは近藤昭仁、第三、四戦での決勝打がものを言った。シーズン打率二割二分六厘、ホームラン四本の男が獲るとは誰も思わなかった。
 秋山は最優秀投手に選ばれた。MVPではなかったが彼はそれで満足だった。日本一になったのだから。
 しかしそれは負けた者達にとって実に悔しい光景であった。
 大毎ナインは唇を噛んでその一連の光景を見ている。特に西本のそれは険しい。
「三原さんにしてやられたわ・・・・・・」
 彼は言った。そして無言でその場を去った。
 永田は既に決定していた。西本を解任する事を。それは第二戦の後のあの電話のやり取りでほぼ決定していた。
 この戦いで三原の名声は不動のものとなる。そして三原マジックは伝説の妙技として知られることになる。
 西本はこの後阪急、近鉄の監督を務める。このシリーズを合わせると八回のシリーズ出場を果たしたが遂に日本一になることは出来なかった。そして人は彼を『悲運の闘将』と呼んだ。
 永田はこれ以後もワンマンオーナーぶりを発揮する。だがチームは低迷し大映の経営も行き詰まる。そして最後には球団を手放し大映も倒産する。
「愛する皆さん、何時か私を迎えに来て・・・・・・」
 球団経営からの撤退を宣言する場で彼は言った。そして号泣した。哀しい男泣きであった。一代の映画人永田雅一は最後まで野球を、映画を愛していた。そして愛を残して去ったのだ。
 思えばあのスクイズが全てだったのだろう。三原、西本、永田、そして多くの選手達の運命を決定付けたあの場面が。
 あの場面で三原は僥倖と言った。しかしそれは果たして本当に僥倖であったのだろうか。その一言で片付けるにはあまりにも劇的であった。運命的であった。
 だがその真実を知る者はいない。僥倖か、運命か。それを知るのは時を司る女神達だけである。そして彼女達もそれを全て制御出来るわけではないのである。人の力はそれ程大きくなる時もあるのだ。
「こんな場面は西本さんやないと出来んわ」
 昭和五十四年の秋のことであった。雨の大阪球場で誰かが言った。目の前では広島が日本一の胴上げを行なっていた。
 それを黙って見詰める男、西本である。彼はスクイズで再び負けたのだ。
「けれど凄いわ。この場面であんな采配わしには出来ん」
 その人はこう行った。
「思えばあの大毎の時もそうやった。西本さんはこういった場面でも生きる。あの人やないとこうした負けでも生きるということは出来へん」
 言葉を続けた。
「運命っちゅうやつやろうな。西本さんは負ける運命やったんや。けれどな、それでもあの人が素晴らしい監督であり素晴らしいお人であるのは変わらへん」
 近鉄ナインは西本と共にその胴上げを見ている。西本はやはり口をへの字にしている。
「わしは幸せもんや。こんな凄い場面二回も見れたんやからな。こんな筋書き神様でも書けへんで」
 彼はそう言うと席を立った。そして酒屋へと繰り出していった。そしてその側にいる子供に言った。
「ぼん、酒はあかんけれど付き合わんか?わしが西本さんの話たっぷり教えたるで」
 その子供はそれについて行った。彼が顔見知りだから安心していたこともあった。だがそれ以上にあのへの字口の監督の話を聞きたかったのだ。
 それもまた運命であろうか。それとも僥倖であろうか。だが一つだけ言える。この勝負を知ることが出来た人は幸せ者であったと。


僥倖か運命か   完


                                   2004・1・19

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