第七章          奇蹟が起こる時
 二〇〇一年九月二六日、大阪は熱い熱気に包まれていた。
「今日で決まるか」
「いや、わからんぞ。相手も必死やろ」
 大阪ドームに向かう者は皆口々にそう言っていた。
 この時大阪近鉄バファローズはマジック一、あと一勝で優勝である。
 近鉄は長い間沈滞していた。かって知将仰木彬に率いられ一世を風靡したのは今は昔、投手陣の崩壊を主な原因としてパリーグの底に沈んでいた。とりわけこの二年は連続して最下位という有り様であった。
 あの投手陣では駄目だ、評論家達は口々にこう言った。そしてその殆どが最下位を予想していた。
 だがこのシーズンは違っていた。ペナント開幕から打ちまくり弱体な投手陣をカバーした。打たれたら打ち返せ、いてまえ打線はそれを合い言葉にするように派手に打ちまくり絶体絶命の危機を幾度も乗り越えてきた。
 その中心だったのが主砲中村紀洋と助っ人タフィ=ローズ。そしてその脇を礒部公一、吉岡雄二、大村直之、川口憲史等が固める強力な打線であった。
 その打線で勝利を奪ってきた。そして遂にここまで来たのだ。
 前の試合で西武の誇る若きエース松坂大輔を打ち崩した。ローズが日本タイ記録となる五五号を放つと中村がサヨナラツーランを放った。これで松坂を撃沈した。
 この試合で決まるかも知れない、ファン達は喜び勇んでドームに入っていった。
「そうか、今日で決まるかも知れないのか」
 その時かって近鉄を優勝に導いた仰木は対戦相手オリックスブルーウェーブの監督になっていた。ここでもその知将ぶりを発揮し天才打者イチローを見出しチームを二度のリーグ優勝、そして日本一に導いていた。
 だがイチローがメジャーに行ったこのシーズンオリックスは苦戦が予想された。イチローの存在はバッティングだけではなかった。その脚も守備もチームにとっては欠かせないものだったのだ。
 しかし仰木はそれを智略で補おうとした。途中までは首位を争った。しかし戦力のなさが響きこのシーズンはAクラスになれるかどうかという微妙なところであった。
 そうした状況で実は彼はある決意を胸に秘めていた。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことである。
「もう歳だしな」
 本心は違っていた。やはり監督をやりたい。だが様々な事情がそれを許さなかった。
「最後に近鉄の優勝を見るかも知れないな」
 彼は向かいのベンチにいる近鉄ナインを見てそう呟いた。
「だがそう簡単に負けたくはない」
 勢いは近鉄にあるのはわかっている。しかし彼にも意地があった。
 意地をなくしてはプロは務まらない。彼は最後まで戦うつもりであった。
 それは近鉄も同じである。彼等は互いに火花を散らしつつプレイボールを待った。近鉄とオリックス、阪急時代から続く長年のライバルである。その日このカードであったことも天の配剤であったのだろうか。
 近鉄の先発はバーグマン、シーズン途中からやって来た助っ人である。長身から繰り出す速球とチェンジアップが武器だ。
 だが四回のファーストを守る吉岡のエラーがもとで失点を許す。そこからは継投策に入っていった。
 対するオリックスの先発北川智規は好投を続ける。試合はオリックス有利に進んでいった。
「あのエラーが痛いなあ」
 観客達は試合を見ながら言った。今日は無理だろう、という声もちらほらしてきた。
 しかし今シーズンそうした試合が幾度もあった。諦めていない近鉄ファン達の熱気は回が進むにつれて高まっていくばかりであった。
 だがオリックスは順調に得点を重ねていく。このシーズン近鉄等に隠れて地味だったがオリックスの打線もよく打ったのである。
 九回表、この回にも相川良太のソロアーチで一点入れたオリックスはなおもランナーを出して攻め立てていた。そこで近鉄の監督梨田昌崇が動いた。
「ピッチャー、大塚」
 彼はそう告げた。近鉄のストッパー大塚晶文、一五〇を超える速球と落ちるスライダーが武器である。
「えっ、ここで大塚!?」
 これには客席にいた殆どの者が驚いた。時折梨田はそうした継投をする。それで敗れたことも多いが試合の流れを変えたことも多い。
 その時は流れを変えることを狙っていた。そして大塚はそれに応えた。
 あえなくオリックスの攻撃は終わる。そして九回裏近鉄の攻撃が始まろうとしていた。
「おい」
 ここで梨田はベンチに座っていたある男に声をかけた。
「はい」
 その少し太めの男は顔を上げた。北川博敏、今シーズン阪神から移籍してきた男である。
 阪神に入団当初は強打の捕手として期待されていた。だが中々芽が出ず近鉄にトレードに出された。当初は二年連続最下位のチームなので何の期待もしていなかった。
 だがチームの雰囲気は違っていた。明るく勝利への執念に満ちていた。
「何かが違うな」
 彼はそう思った。そして不思議と練習に身が入り何時しか代打の切り札として重用されるようになった。
 こうなると俄然やる気が出てきた。彼は元々明るい男である。近鉄の水がよくあったのだ。
 時にはサヨナラ打も打った。そして近鉄の一員として活躍した。
「実績も何もない俺にここまでやらしてくれるなんてな」
 彼はそれが嬉しかった。そして監督からの信頼も得た。だからこそこの日も声をかけられたのだ。
「今日は出てもらうぞ」
 梨田は彼に対して代打の用意をするよう告げたのである。
「わかりました」
 彼は答えた。そして気合を入れなおしマウンドに視線を送った。そこにはオリックスのストッパー大久保勝信がいた。彼は仰木に見出されそのシーズンはストッパーを務めていた。ルーキーながら見事な投球であった。
 だがこの日の彼は好調とは言えなかった。まずは先頭打者の吉岡にいきなり甘い球を投げてしまう。
「来た」
 物静かな男である。その声も小さい。だが意外な程のパワーがありそのバッティングは侮れない。
 吉岡はほぼ無心でバットを振った。それはレフト前に行った。
 続いて川口が入る。そのバットが唸り打球は右へ飛んだ。
 それはツーベースとなった。一点入るか。だがそれは三塁ベースコーチが止めた。
 次は助っ人ギルバートである。だがここで梨田は代打を送った。
「代打、益田」
 増田大介、中日から移籍してきた男である。近鉄で頭角を現わし代打の切り札的存在となったところは北川と似ている。この時の近鉄の特徴としてこうした移籍組が活躍したことであった。派手なスラッガーだけで野球ができるのではない。それをわかっていない者が多いのも我が国の野球ファンの悲しい部分の一つだ。
 益田は四球を選んだ。これで無死満塁である。
「満塁か・・・・・・」
 観客達はゴクリ、と喉を鳴らした。
「もしかすると・・・・・・」
 北川は以前にもサヨナラヒットを打っている。明るく波に乗りやすい男だ。
「一気に形勢が変わるかもしれへんな」
「そうやな。そやけど」
 無死満塁、それを聞いて年配の近鉄ファンの間であの時のことが思い出された。
 昭和五四年日本シリーズ第七戦。近鉄は九回裏に広島の守護神江夏豊を無死満塁にまで追い詰めた。今日のように。
 だがその時は江夏の神懸りのピッチングにより抑えられた。この時の勝負は伝説になっている。
「けれど今日はあの時とは違うで」
 誰かが首を横に振って言った。
「はっきり言ってしまえば明日勝っても優勝や」
 そうであった。最早近鉄の優勝はほぼ確実である。だがファンの考えは違っていた。
「けれど今日優勝を見たいな」
「ああ」
 それは皆同意見であった。次の試合からはロードだ。やはり優勝、そして胴上げは本拠地で見たい。そういうファンがドームに詰め掛けていたのだ。
 北川は打席に入った。そして大久保を見た。
「よし」
 だが大久保も負けてはいない。ここで意地を見せた。彼もルーキーで抑えを任されたプライドがある。
 忽ちツーナッシングに追い込む。それを見たファンは駄目かと思った。
「ゲッツーだけはやめてくれよ」
 北川は併殺打の多い男であった。どういうわけか勝負強さとそれは裏返しのような関係であったのだ。
「あの二人にまで繋ぐのは難しいかな」
 梨田は北川を見てそう呟いた。あの二人とは言うまでもなく近鉄の二人の主砲ローズと中村である。
 大久保は一球外した。これでツーストライクワンボール。だが投手有利な状況には変わりない。
「ゲッツーだけは勘弁してくれよ」
 それは近鉄ベンチ、そしてファンの共通の考えであった。皆北川を祈るような目で見ていた。
「ここで見たいんや」
「頼むで」
 祈るように見る者もいた。だがそこにいる者は皆奇蹟を信じていたわけではなかった。ただ繋いでくれることだけを期待していた。
 大久保が投げた。そのボールを見た瞬間北川は思った。
「いける!」
 打てる、そう確信した。ボールの動きにバットを合わせる。
 スライダーであった。北川はそれをすくい上げた。そしてバットに乗せそのまま振り切る。
 ボールは高く上がった。そしてそれはゆっくりと天を舞った。
「何ッ!」
 それを見た近鉄ベンチが思わず総立ちになった。そしてボールの行方を見守る。
「まさか・・・・・・」
 ボールは落ちていく。その場所は。
 バックスクリーンの左奥であった。ボールはそこに飛び込んだ。
「な・・・・・・」 
 それを見て呆然となったのは近鉄ナインやファン達だけではなかった。オリックスのベンチにいる仰木も思わず我を失った。
 入った。ホームランである。サヨナラだった。
 ただのサヨナラではない。代打逆転サヨナラ満塁ホームラン。長い我が国のプロ野球の歴史においても数える程しかない極めて稀少なサヨナラアーチである。
 それがまさかこの時に出るとは。誰もが予想しなかった結末であった。
「えっ、まさか!?」
 それを見た北川も信じられなかった。こんなことが有り得るとは夢にも思わなかった。
 だがそれは本当だった。その証拠に近鉄ベンチは最早お祭り騒ぎである。
「やった、やったぞ!」
 中村が何回転もしながら跳び回る。その他のナイン達も一斉にベンチから出ていた。
「おおーーーーーーっ!」
 北川も一塁ベースを踏む直前にガッツポーズをしていた。そしてそのまま満面の笑みでベースを回った。
「まさかこんなのを打たれるなんてな」
 打たれた大久保はまだ狐に摘まれたような顔をしている。だが球場の爆発的な喜びの声がそれが真実であるということを教えていた。
 北川は三塁ベースを回った。ホームでは近鉄ナインが総出で待っている。
「さあ、帰って来い!」
 その中心にはローズがいる。このシーズン、打って打って打ちまくってチームに貢献してきた男だ。その彼が逞しい両腕で彼を待っていた。
 そしてホームを踏んだ。ローズはその彼を抱き締めた。
「よくやった、優勝だぁっ!」
 ローズと北川だけではなかった。ナインが一丸となってその歓喜の輪に加わっていた。
 そしてそれは球場全体にも伝わっていた。近鉄ファンは皆総立ちでナインに激しい声援を送っていた。
「おい、こんな凄い結末あるかい!」
「夢ちゃうんか、これは!?」
「夢やない、見てみい、あの胴上げ!」
 梨田が胴上げされている。前の年には最下位だったチームの監督が胴上げされているのだ。
「嘘みたいや・・・・・・」
 梨田だけではなかった。ナインもファンも同じ言葉を口にした。
 オリックスナインは無言で引き揚げていく。だが仰木はそれを見てはいなかった。
「ここでこんなのを見るとはな」
 ただ梨田の胴上げを見ていた。いや、正確には胴上げを見ていたのではなかった。
 彼はかって近鉄の監督を務めていた。その時のことは今でもはっきりと覚えている。
 一度優勝した。その時には彼が胴上げされた。
「あの時のことは忘れたことはないが」
 だが今は敵の、しかも敗軍の将として近鉄の胴上げを見ている。
「何故だろうな」
 彼はポツリ、と言った。
「悔しくはない。負けたというのに」
 自分でも不思議であった。むしろ別の感情がその胸を支配していた。
「正直ホッとした。最後にいいものを見せてもらった」
 そう言い残すと彼はベンチから姿を消した。そしてこのシーズンの最終戦で彼はユニフォームを脱いだ。その時の相手は奇妙な因縁で近鉄だった。そしてオリックスと近鉄、双方の球団から胴上げされた。
 かって最後の試合で二つのチームから胴上げされた監督は一人しかいなかった。阪急と近鉄の監督を務めた闘将西本幸雄。彼は最後の試合で近鉄、そして阪急両方の選手達から胴上げされたのだ。彼は西本と並ぶ最高の花道の去り方をおくれた幸運な男であった。
 球場はまだ歓喜の渦に包まれていた。選手達は旗を手にグラウンドを回る。
「何時までも続いて欲しいな」
 誰かが言った。それはその場にいた全ての者の考えであった。
 あの時の熱い想いは今も大阪近鉄バファローズの中に残っている。そしてその熱い心をそのままに今日もグラウンドで戦いを繰り広げているのだ。



奇蹟が起こる時    完



                                    2004・7・1

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