第八章 最後の逆転劇
平成五年、このシーズンはヤクルトと西武の二年越しのシリーズの第二幕で名高い。このシリーズは足掛け二年に渡る西武とヤクルトの選手達の死力を尽くした激闘だっただけではなく野村克也と森祇晶、二人の知将がその全知全能をかけて火花を散らした戦いでもあった。
これに比べるとペナントは平凡だったかも知れない。その前の年はヤクルトと阪神のデッドヒートがありその中でヤクルトのエース岡林洋一のシーズンを通しての力投、荒木大輔や高野光の復活といったドラマがあった。それに比べるとこのシーズンはあまり面白みのないシーズンだったと言えるだろうか。
しかし個々の試合では面白いものもあった。時には息詰まる投手戦があり時には激しい乱打戦があった。そして思いもよらぬ逆転劇もあった。それがこの試合であった。
六月五日、藤井寺球場では近鉄バファローズと福岡ダイエーホークスの試合が行われていた。
両方共強打が売りのチームである。よく乱打戦になった。だがこの試合は少し様子が違っていた。
ダイエーはこの時その荒い野球が原因か中々勝てなかった。監督に西武のフロントで辣腕を振るっていた根本睦夫を招聘してもそれは変わらなかった。
元々根本の本領はその人材発掘と獲得方法、そして育成にあった。采配はそれ程定評があるわけでもない。だがその人材発掘と獲得により西武の黄金時代を築いたことからもわかるようにその手腕は際立っていた。ある人球界の裏の事情にも詳しい者は彼をこう呼んだ。
「球界一の寝業師」
「球界の裏番」
これは誹謗中傷と捉えられかねないが彼を語るうえではこれ程合った言葉はなかった。とかくその手腕は他の者の追随を許さず怖れられていた。西武では森も、その前任者広岡達郎も人事にはタッチしておらず彼がオーナーから一任されてそれを全て取り仕切っていたのだ。
その根本の存在は無気味であった。だがグラウンドではそれ程ではない。
この試合はダイエー優勢のまま進んでいた。九回表には岸川勝也が駄目押しのスリーランを入れていた。
八対ニ、六点差である。流石に誰もここから勝てるとは思っていなかった。
「今日はあかんな」
近鉄ファンの中にはとっくの昔に帰っている者もいる。残っている者も皆諦めていた。
だが運命の女神は残っていた者達に想いも寄らぬ恩恵を与えたのである。
この時ダイエーの先発は渡辺正和。サウスポーである。彼は八回まで二失点という好投であった。
「このまま完投かな」
試合を見ている者達はそう思った。そうそう波乱があるとは思えなかった。
まずは先頭の四番石井浩郎を歩かせてしまった。次にくるのは鈴木貴久。彼はパンチ力があった。
その彼が左中間にタイムリーを放った。ツーベースだった。
「今更打って何になるんや」
観客達はそれを醒めた目で見ていた。だが渡辺はこれ調子を崩した。
九回である。体力的にもそろそろ限界だ。特にコントロールが乱れてきていた。
「しかしこの回で終わりだ」
渡辺は余計気を立ててしまった。それがまたコントロールを悪くさせた。
村上嵩幸にも四球を出す。それを見て根本は首を傾げた。
「どう思う?」
そして傍らにいたコーチに声をかけた。
「もう九回ですけれどね」
彼も少し不安を覚えていた。
「けれどいけるのではないでしょうか」
「そうか!?」
根本はそれを聞いて眉を顰めた。
「ううむ」
根本は同じ考えではなかった。そして彼は自分の考えに従った。
「ここまでやってくれれば充分だ」
そう言うとマウンドに向かった。そして渡辺に対して言った。
「今日はご苦労さん」
「え、はい」
彼もこのまま完投させてもらえるとばかり思っていた。まさかこんな言葉を聞くとは思わなかった。
根本は主審に対して言った。ピッチャー交代、と。
「ピッチャー、池田」
それを聞いた当の池田親興は思わず耳を疑った。
「今俺ですか!?」
彼はこの時ストッパーを務めていた。だがこの点差では出番がない。そう思ってこの日はピッチングをしていない。
ブルペンで投げている投手は他にいる。何故自分なのか。
「あの、監督が本当にそう仰ったんですか!?」
彼はブルペンコーチに対して尋ねた。
「ああ、間違いない」
ブルペンコーチも半信半疑であった。
「悪いがすぐに行ってくれ。まあ今日の試合なら勝てるさ。心配するな」
「はあ」
バスタオルすらカバンの中だ。とりあえずはスパイクに履き替えブルペンで急いで何球か投げた。そしてマウンドに向かった。
「おいおい、本当に池田が出て来たぞ」
近鉄ファンも信じられないといった顔であった。
「今日はどう見てもあちらの勝ちだろうに」
だが根本は何も言わない。ただマウンドで投球する池田を見ていた。
「こんな点差じゃセーブもつかないだろうに」
彼はそうした声を聞いていた。自分も同じ考えだ。
「本当に俺なのかな」
そういう思いが消えない。心にも余裕がなくなっていた。
「おい」
それを見た近鉄ナインは池田のボールにあるものを感じていた。
「何かいつもとちゃうな」
最初に言ったのは石井だった。四番を任されているだけあってボールを見抜く目は大したものだ。
「そういえばストライクの幅が小さいな」
切り込み隊長の大石大二郎も見ていた。彼は打撃にも定評があった。
「それにボールも走っていない。今日の池田は打てるかもな」
皆それを見て囁いていた。だが流石にそれは池田の耳には入らなかった。
「よし」
ナインは頷いた。
「思いきっていくか。どのみち今日はこれで最後だ」
「ああ」
そして代打大島公一が打席に入った。
「早く終わらせよう」
池田はそのことだけを考えていた。代打が出たことは忘れていた。
この時近鉄の七番はサードの金村義明であった。だが彼は一回の守備で右膝を痛め退場していた。そのあとに守備の上手い吉田剛が入っていたのだ。
「吉田か」
彼はそこにいるは吉田だと思い込んでいた。そして投げた。
大島は打った。それは鈴木のものと同じく左中間のツーベースとなった。
「しまった」
池田は舌打ちしてスコアボードに顔を向けた。その時にルイベース上にいる大島が目に入った。
「えっ!?」
その時はじめて大島のことに気付いた。そういえば。
「左にいたな」
大島は左バッターである。それに対して吉田は右である。
それに背丈も違っていた。大島は吉田よりも小柄である。何故それに気付かなかったのか。
「何故気付かない・・・・・・」
池田は自分を恨めしく思った。それが余計にピッチングを余裕のないものにした。
だが後四点もある。安全といえば安全だ。彼はとりあえず気をとりなおそうとした。だがそれはうまくいかなかった。
一度乱れた気は容易には落ち着かない。彼は余計に乱れるばかりであった。
それを知っていたのであろうか。近鉄は次々と代打を送る。池田はそれをもう聞いてはいなかった。
今度の代打は安達俊也である。池田はただキャッチャーのミットに投げた。だがそのボールは思わぬところへ行ってしまった。
「なっ・・・・・・!」
それを見たダイエーベンチは思わず顔を顰めた。何とそれはワイルドピッチとなりバックネットにぶつかった。これで三塁の村上が帰ってきた。三点差。
池田の気は落ち着かない。安達に投げたボールは甘くなった。
それをセンター前に弾かれる。大島がかえり二点差となった。
「これはいかんな」
根本はそう言ってマウンドへ向かった。そして言った。
「ピッチャー交代」
次の投手は左腕の下柳剛であった。池田はトボトボとマウンドを降りた。
「結局俺は何だったんだ・・・・・・」
ベンチに戻ってもそういう思いだった。
「どうせなら最後まで投げさせて欲しいな」
彼にもストッパーとしての意地があった。だがそれをここで言っても何にもならなかった。
「ランナーも残しちまった」
その責任があった。
「こうなったら最後まで見なくちゃいけない」
そしてグラウンドに視線をやった。
下柳である。打席には中根仁がいる。
彼は守備がいいことで知られていた。そして彼にはもう一つ得意なものがあった。
それは左投手の攻略である。彼は左殺しとしても有名だったのだ。
下柳は先に書いたように左である。根本はそれをわかっていたのだろうか。
「よし!」
中根がバットを振った。それはセンター前に転がった。これで無死一、二塁である。
「おい、まさかしたら」
それを見て近鉄ファン達が元気を取り戻してきた。
「ああ、ひょっとしたらな」
逆転、それが脳裏をよぎった。
だが一番の大石、二番の水口栄二は凡打に終わった。あと一人で終わりである。
「終わりかな」
だが打席にはラルフ=ブライアントがある。当たれば大ホームラン間違いなしの男だ。
しかし三振もまた異常に多い。それが彼の弱点であった。
「しかしここで一発があればそれで終わりだ」
そう思った根本は彼を敬遠した。それは止むを得ないことであった。
打者一巡である。次に打席に立つのは石井だ。
違った。彼はこの時代走を出されていたのだ。
「というと」
この場合打席に立つのは内匠政博だ。足はともかくその打力は石井とは比較にならない。
「終わったかな・・・・・・」
「まあ所詮こんなもんや」
近鉄ファンはそう言って苦笑した。だが普通こうした場合には代打がある。近鉄にはまだそれがあった。
「代打、山下」
コールが告げられる。そして山下和彦がバッターボックスに入る。
彼は普段はこれといって目立たない捕手であった。だがいざという時にはとんでもないものを放つことで知られていた。所謂意外性の男であった。
その彼が打席に入った。観客達は不安と期待が入り混じった目で彼を見ていた。
「どうなる・・・・・・!?」
ゴクリ、と喉を鳴らす。下柳は彼に対して投げた。
「今や!」
それは絶好球であった。山下はそれを振った。打球はセンター前に抜けた。
「よし!」
まずは安達がかえる。そして中根が。これで同点である。
「まさかふりだしに戻るやなんて」
観客達はニンマリしていた。それだけでもう信じられなかった。
しかしそれだけではなかった。何と一塁ランナーのブライアントが三塁ベースを回ったのだ。
「えっ!」
これには皆驚いた。ブライアントはそれ程脚が速くはない。その彼がまさかこのような行動に出るとは。
「ここまでキたらイチかバチかだ!」
彼には思いきりのよさがあった。普段は物静かだか野球に関しては別だった。だからこそ豪快に振り回した。
「させるかい!」
ダイエーのセンター大野久はボールを捕った。そしてそのままホームへ返球する。
だがそれが逸れた。そしてよりによってブライアントに当たってしまった。
「クッ・・・・・・」
ボールはそのままファウルグラウンドを転がった。空しく転がるそのボールが全てを物語っていた。
「ウオオオオーーーーーーッ!」
ブライアントは雄叫びをあげながらホームを踏んだ。安達がそれを迎える。
「やった、やったぞ!」
他のナインも一斉に出て来た。そしてブライアントを取り囲む。
ブライアントは彼等にもみくちゃにされる。そして殊勲打を打った山下も。思いもよらぬ大逆転劇に近鉄ナインは興奮の坩堝と化した。
それは観客席も同じだった。皆奇跡の逆転劇に狂喜していた。
「やっぱりこれがバファローズの野球や!」
誰かが言った。そう、こうした思いもよらぬ逆転こそがバファローズであった。
運命の女神というのは非常に気紛れである。そして移り気である。だがバファローズは不思議とこの女神の恩恵を受けることが多い。
その中の一つがこの試合であった。そして女神は今もこのチームに対して不思議な微笑を向けているのである。
最後の大逆転 完
2004・7・3