第九章          奇跡のアーチ
「天国の佐伯オーナー、見ていますか!?」
 アナウンサーの声が響き渡る。
「近鉄が優勝したんですよ!」
 その声は明らかに興奮していた。一九八九年一〇月一四日、藤井寺球場は歓喜の声で爆発していた。
 九年振りの優勝であった。それだけではない。複雑な因縁のある優勝であった。
 この時近鉄バファローズのオーナーであった佐伯勇はその少し前にこの世を去っていた。
「バファローズはわしの子供達の中では一番どうしようもないドラ息子や」
 彼はよくこう言った。
「しかしそんな息子が一番可愛いんや」
 近鉄グループの総帥であり一代で近鉄を日本最大の私鉄にまで押し上げた彼の唯一の不肖の息子であった。だが彼はそんなバファローズを心から愛していた。
「バファローズの日本一を最後に見たいな」
 それが晩年の口癖であった。だが彼はそれを見ることなくこの世を去ってしまった。このアナウンサーの言葉はそれを受けてのことであった。
「ようやく優勝となりましたね」
 それを報道する久米宏の目も温かかった。
「昨年は本当に悔しい思いをしましたけれど」
 彼は感慨深げにそう言った。
「今ようやく優勝しました、本当によかったですよ」
 彼はよく公平性を著しく欠く報道をしていると批判されていた。確かにそうであった。だが今彼を批判する者はこの番組を見ている者では全くといっていい程いなかった。
 それは昨年のあの無念を知っているからだ。
 一〇月一九日、近鉄はロッテオリオンズとの最後のダブルヘッダーを戦っていた。第一試合は梨田昌孝のヒットで何とか勝った。だが第二試合で無念の引き分けに終わった。
「色々と報道したいことがあるのですが」
 久米はその日番組がはじまる前にこう言った。
「その前にこの試合を御覧になって下さい」
「また久米の奴好き勝手やりやがって」
「何様のつもりだよ」
 彼を嫌う者はまずこう言った。だがその試合を見て皆黙ってしまった。
「勝ってくれ・・・・・・)
 皆死力を振り絞って戦う三色のユニフォームの選手達を見てそう思った。
「ここまできたらそれしかない、そうでなかったらせめて決着をつけてくれ」
 だがそれはならなかった。無念の表情でグランドを去る近鉄の選手達を見て何も思わない者はいなかった。
「ここまできて、ですか」
 久米の声も沈んでいた。彼はその一年前のことを思い出していた。
「長かったですね」
 本心からそう言った。
「やっとここまできた、という思いです」
 皮肉屋の彼から出たとは思えぬ言葉であった。彼は珍しく悪意もなく言葉を口にしていた。それ程までのこの年の近鉄は辛く、長い死闘を続けていたのであった。
 
 その無念の最終戦のあと近鉄はキャンプに入った。今年こそは、そういう意気込みがあった。
 だが出だしでつまづいた。そこで阪急が身売りしてできたオリックスブレーブスが台頭してきた。
 その強さの秘密は打線であった。ブルーサンダー打線と銘打たれたこの打線はブーマー、門田博光、石嶺和彦で構成されるクリーンアップを中心に強打を誇っていたその圧倒的なパワーで他の球団を大きく引き離していた。
「オリックスには西武みたいなどうしようもない強さはない」
 近鉄の監督仰木彬はこう言った。
「弱点はある。ピッチャーや」
 その通りであったオリックスの投手陣は長年投手陣の柱であった山田久志が引退してしまい支柱がなかった。だが
それでもブルーサンダー打線は打ちまくり勝利を手にし続けた。
 気付いた時には八・五ゲーム差。最早優勝は絶望的かと思われた。
 だが七月中旬のオリックス戦で勝利を収めると一気に間合いを詰めた。しかしここであの西武が姿を現わしてきた。
「やっぱり出て来たか」
 仰木だけではなかった。選手もファンも何時かはくるものと思っていた。それ程西武の戦力は他と比して圧倒的であったのだ。
 シーズンは遂に三つ巴となった。オリックス、西武、そして近鉄が激しく刃を交える死闘となった。その行方は誰にもわからないものであった。
 だが次第に結果を予想できるようになった。やはり西武が出て来たのだ。
「やっぱりこうなるか」
 多くの者はそう思った。対する近鉄は一〇月五日にオリックスに敗れ自力優勝が消えた。佐伯が亡くなったのはこの日であった。
「まさかこんな日に・・・・・・」
 ナインもファンも意気消沈した。これで終わるかと思われた。
 だがここで近鉄は踏ん張った。次の試合で助っ人リベラのサヨナラスリーランで勝利を収めた。これで西武との差は2ゲームとなった。
「あと少しだ・・・・・・」
 近鉄ナインを闘志が覆った。いよいよ決着を着ける時が来た。場所は敵地西武球場、ここで西武との三連戦だ。
 まずは第一戦、先発は右のエース山崎慎太郎だ。
「山崎か、大丈夫かな」
 西武球場に駆けつけたファンからこんな声が出た。彼は中二日である。流石に疲労が心配だった。
 対するは西武の誇るエースの一人渡辺久信。その荒れた速球が最大の武器だ。近鉄は彼に七連敗を喫していた。
 だが山崎が踏ん張った。打線が苦手とする渡辺を攻略し勝利を収めた。あと二つだ。
 翌日は雨で中止となった。選手もファンも何かを感じていた。
「明日はダブルヘッダーか」
 そうであった。ダブルヘッダーであった。
 彼等の脳裏に昨年のことが思い出される。あのロッテとのダブルヘッダーだ。
 だが相手が違っていた。西武である。まさに決戦である。
 近鉄の先発は高柳出己。二年目ながら仰木の信頼厚い先発の一人である。
「頼むぞ」
 仰木はベンチから高柳を見守っていた。
 だがその高柳が西武打線に捕まってしまう。二回で四点を献上してしまう。やはり西武はここ一番という時に無類の強さを発揮してきた。
 だが近鉄も諦めるわけにはいかない。昨年の悔しさがあった。最後まで近鉄のことを愛してくれた佐伯オーナーのこともあった。
「絶対勝つぞ」
 仰木だけではなかった。コーチも、選手達もその思いは同じであった。
 しかしマウンドに立つ男を攻略することは困難であった。郭泰源、台湾から日本にやって来た助っ人である。『オリエンタル超速球』とまで言われた速球と高速スライダーが武器である。
 そして抜群のコントロールを誇っていた。精密機械の如きそのコントロールは他を寄せ付けずどのバッターも三振の山を築いていた。とりわけホームランを打たれることが少なくその割合は0・六という驚異的なものであった。
「あいつを打つのは不可能やろ」
 三塁側にいる近鉄ファンの一人が口を歪めてそう言った。
「あんな奴打てるもんじゃない」
 多くの者がそう言って諦めかけていた。だがここで一人の男が奇跡を起こす。
 ラルフ=ブライアント。アメリカから渡ってきた近鉄の助っ人である。
 ドジャースのドラフト一位で入団した。しかし芽が出ず日本に渡ることになった。中日の助っ人であった。
 だがこの時の中日には郭源治、ゲーリーという二人の助っ人がいた。彼の出番はなかった。
「俺は試合に出たいのに」
 そういう不満があった。ここで彼に転機が訪れる。
 近鉄の主砲デービスが麻薬の不法所持で現行犯逮捕されてしまうのである。当然彼は退団となった。
 主砲を失った近鉄は慌てて彼の穴を埋める人材を探す。そこでブライアントに白羽の矢が立ったのである。
「使えるのか!?」
 こういう声もあった。だが今はそんなことを言っている暇ではなかった。とにかく時間がなかった。藁にもすがる思いであった。
 こうして彼は慌しく近鉄に金銭トレードで入団した。そしてすぎに試合に出た。彼は怖ろしいまでに打ちまくった。
「何だあれは」
「あんな奴見たことがない」
 相手チームのピッチャー達はその強烈な打撃に怖れをなした。いや、最早それは『畏れ』であった。
 シーズン後半の七四試合だけで三四ホーマー七三打点、鬼神の如き活躍であった。
 だがこのシーズン彼は一時不調に陥った。彼は豪快なアーチを飛ばす一方で三振の多い男であった。またその三振が桁外れに多かったのだ。
「三振か、ホームランか」
 そういう男であった。だがチャンスには必ず派手なホームランを飛ばした。普段は寡黙で読書が好きな男だがその身体には激しいパワーがみなぎっていた。その彼が打席に向かった。
 四回表、四対零。西武圧倒的優勢という状況であった。
 郭は投げた。スリークォーターの投球フォームから白球が放たれた。どのような強打者も容易には打てないボールだ。
 しかしブライアントのバットが一閃した。そしてそれをスタンドに放り込んだ。
「あいつが打ったか」
 仰木はそれを見て言った。だが表情は硬いままだ。まだ三点差だ。勝利には程遠い。
 西武はまだ攻撃を仕掛けてきた。すぐに追加点を入れる。これで勝負あった、かと思われた。
「終わりかな」
「西武の優勝やな」
 近鉄ファンの間からそういう声が聞こえてきた。だが勝負は意外な展開を見せる。
 近鉄は攻撃に出た。郭を攻め立て満塁とした。
「監督、どうしますか?」
 西武ベンチではコーチの一人が監督である森祇晶に話しかけた。
「そうだな」
 森は少し考え込んだ。
「郭の調子は決して悪くはない。あのホームランは仕方ない」
 彼は今日の郭の投球を思い出しながら言った。
「ここは続投だ。あの男を抑えればそれでこちらの勝利だ」
 彼はそう言って郭の続投を決定した。確かにここが勝負どころであった。森の采配は間違ってはいなかった。
 だが彼は予想される範囲内での采配をしただけであった。確かに彼は知将である。その采配には隙がない。後に横浜ベイスターズの監督となった時ヤクルトの正捕手古田敦也の前に一敗地にまみれるまでその知略は野村克也と並んで球界でも最高と謳われていた。しかしそれはあくまで予想される範囲内である。野球は時として信じられない出来事が起こる。それがまさにこの時であった。
 打席にはブライアンとが立つ。郭は彼を黙って凝視していた。
「抑える」
 表情を変えることなくそう言った。そして無言で投げた。
 ブライアントの目が光った。そしてその巨大なバットを振る。
 硬球がまるで毬の様に曲がった。そしてそれは弾丸の様に解き放たれた。
「まさか!」
 西武ナインだけではなかった。森も思わず打球の方向を見た。
 普段は冷静そのものの郭がその顔を蒼白にして打球の行方を追った。それは一直線に飛ぶ。
 速い、あまりに速かった。そして西武ファンのいるライトスタンドに突き刺さった。
「そんな馬鹿な・・・・・・」
 何と満塁ホームランである。あまりもの出来事に球場にいた者は皆言葉を失った。
「あの郭のボールをああまで簡単に」
 西武ベンチは呆然となっていた。ブライアントは一人静かにダイアモンドを回る。
 ホームを踏む彼を近鉄ナインとファンの歓声が出迎える。彼は一人で試合をふりだしに戻したのだ。
 流れは近鉄に大きく傾こうとしていた。それを察した森はすぐに動いた。
「あいつを抑えるしかない」
 そして主審にピッチャー交代を告げた。
「ピッチャー、渡辺久信」
 一昨日の先発である。だがブライアントには抜群に相性がいい。ホームランはおろか、打点さえ許してはいない。そして調子も良かった。
「頼むぞ」
 森はマウンドに降り立った渡辺に対して言った。
「任せて下さい」
 彼は笑顔で言った。彼しか今のブライアントを止められる男はいなかった。
 勝負の時は八回表にやってきた。ブライアントがバッターボックスに入った。
「来たな」
 彼は敵が間合いに入って来るのを見ながら全身に力を込めていった。
 渡辺はブライアントを抑えるには絶対の自信があった。今までホームランは全く打たれていない。完璧に抑える自信があった。
 そしてすぐに追い込んだ。カウントはツーエンドワン。あと一球で仕留められる状況にあった。
「ここまできたら大丈夫だ」
 渡辺はボールを受け取りながら考えていた。
「あとは内角高めのストレート」
 ブライアントの最大の弱点である。
「そこに投げればそれで終わりだ。この勝負もらった」
 彼は振り被った。そしてしなやかなフォームから投げた。
「決まった!」
 渡辺は投げ終えたボールを見て思わず笑った。自信に満ちた笑みだった。
 だがブライアントはそのボールに対してバットを向けた。そして渾身の力で振り抜いた。
「!」
 追えなかった。それは人の目で追えるものではなかった。カメラでさえそれを追うことはできなかった。
 打球はライン際を飛んでいく。そしてライナーでスタンドに入った。切れなかった。切れようとする動きをブライアントのパワーが押さえたのだ。
「あれが打たれるなんて・・・・・・」
 渡辺も唖然とした。そしてガクリ、とマウンドに崩れ落ちた。
「終わった・・・・・・」
 森は一言そう言った。勝敗がこれで決してしまったのだ。
「アンビリーバブルッ!」
 ブライアントは珍しく感情を露わにして叫んだ。そしてダイアモンドを回った。
 また近鉄ナインとファンの歓声が彼を出迎えた。そして彼は逆転のホームを踏んだ。
 この試合はそれが決勝打になった。あとは問題なく試合は進み近鉄の勝利となった。
 これで並んだ。しかしもう一試合残っていた。
 近鉄はここでエース阿波野秀幸を投入してきた。万全の態勢で挑んだ。
 この試合で勝てなければ優位に立てない、しかし勝つことができれば優勝への道が大きく開かれる、そうした状況であった。
 双方共に総力戦の状況であった。どちらも負けることは許されなかった。
 まずは近鉄が先制点を入れた。流れはこのまま近鉄に向かうかと思われた。
 しかし肝心の阿波野が固くなっていた。コントロールが定まらず暴投等で二点を献上してしまう。
「おい、何やっとるんや」
「ここで勝たな意味あらへんねんぞ!」
 近鉄ファンが怒りだす。彼等もまたわざわざ藤井寺から駆けつけてきているのである。その想いは選手達と同じであった。
 ブライアントは一回表の打席では敬遠された。流石にもう勝負をする気にはなれなかったのだ。
 だが三回表、ランナーなしの状況で彼を迎える。ここは勝負するしかなかった。
 ここでまた打った。勝ち越し、四打席連発のアーチはまたもや西武ファンのいるライトスタンドに突き刺さった。
「勝ったな」
 仰木はこれを見て頷いた。流れは完全に近鉄のものとなったのを実感した。
 ここまできては攻撃を仕掛けるまでである。近鉄は意気消沈する西武を完全に潰しにかかった。
 それからは近鉄の一方的な試合であった。西武は大量得点を許し敗北した。何と敵地西武球場においてウェーブが起こった。西武ファンが近鉄の勝利、そして優勝を祝って起こしたのだ。
「おい、マジかよ・・・・・・」
 テレビで試合を観戦していた者もそれを見て驚いた。だがその彼等の心も同じであった。皆近鉄の勝利を心から祝福していた。スポーツを、野球を愛する者としてごく自然な心であった。
 最早もう一つの敵オリックスも問題ではなかった。彼等の前にあるもの、それは優勝の二文字だけであった。
 十三日オリックスはロッテに敗れた。あのロッテにである。
「これも天命やろな」
 オリックスの将上田利治はサバサバとした顔でこう言った。悔いはなかった。彼もまた野球を深く愛していた。
「今年は近鉄のもんや。あの連中には負けたわ」
 そう言って微笑むとベンチをあとにした。そして静かに球場を去った。
 そして十四日近鉄はダイエーに勝ち優勝した。彼等は昨年の無念を遂に晴らしたのだ。
「長かった・・・・・・」
 仰木の胴上げのあと選手の誰かが言った。
「けれど遂にここまで来れた・・・・・・」
 戦いの後の勝利にようやくひたることができた。それを日本中の野球を愛する者が祝福した。
 あれからどれだけの年月が流れようとこの戦い、そしてブライアントのアーチの記憶は残っている。もう藤井寺で公式の試合が行われることはない。しかしその時の熱き戦いの記憶は大阪近鉄バファローズの戦士達全てに残っている。それは永遠に残る、野球の神がこの世にいる限り。

奇跡のアーチ    完



                                 2004・7・18

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