夕貴たちの通っている学校は御桜高校という古い学校である。
その校舎は築数十年と古めかしいが、現在は改築が進み新校舎へと変わりつつある。
しかし工事が完了していないため生徒の間では新校舎、旧校舎と呼び分けられている。
ほとんどの生徒が正門から登校するなかで、人気の無い裏門から旧校舎へ入る影があった。
(右……良し、左……良し!)
靴箱を過ぎて、教室にさしかかろうかという廊下の角から頭が覗く。
顔を出したのは夕貴である。
清清しいはずの朝になぜ、というくらい厳しい面構え。
その顔には焦りが浮き出ており、やや疲労も帯びているようだ。
それでも流石というべきか。
忍び歩く足音や呼吸音、気配などは極力抑えているようで音一つしていない。
浮かべている表情は至極真剣。
その技術は凝視されない限り常人には認識することも出来ないほど精錬されている。
魔と闘うときも余程の強敵にしか見せないくらいの形相をしていた。
「ふむ……」
夕貴の後ろを歩く勇介は慣れたもので、いつものように心の中で念仏を唱え始めていた。
勇介をそうさせたのは他でもない、夕貴が警戒する対象を目にしたからであった。
勇介の横を通り過ぎた少女はそのまま夕貴へ向かって歩く。
(よ、ようやく着いた……)
そんなことは露も知らない夕貴は何事も無く自分の教室へ着いたことに安堵している。
いまだに夕貴は気付いていない。
少女は夕貴の背後へ忍び寄ると静かに、ゆっくりと息を吸った。
(……はっ!?)
緩みまくっていた気が収束して再び張り詰めるまで1秒とかからない。
しかし少女がその一秒を待つ道理は無かった。
「久谷君っ!!」
少女が発した科白の「く」の部分で夕貴は脱兎の如く駆け出した。
退魔士という職業柄、危険に対する理解と判断は優れているだけあっていち早い。
「黒星、と」
そこで、一人離れて見ていた勇介が呟いた。
いつのまにか取り出したメモに書き込んでいるのが謎である。
「くっ……!!」
瞬時に勢いよく駆け出した夕貴だが、数メートル進んだところで停止してしまっていた。
動きを止めたのは足だけではない。
夕貴の手はおろか、全身が硬直しているらしく微動だにしない。
紡縛。
それが少女――前澄雪野が放ったものである。
異常な気迫を伴ったそれは不意打ちもあってか、夕貴の動きを止めるに十分だった。
言霊の一種である紡縛は彼我の精神状態に大いに左右されるが、
自身が怒るなどして興奮状態にあるときは桁違いに強くなるのが特徴である。
「今日は、逃がしません」
自分に言い聞かせるように呟いた雪野はゆっくり歩み寄る。
「洗いざらい吐いてもらいますから」
雪野が言っているのは夕貴がサリスとやり合った時のことだろう。
前澄雪野は高校に在籍する退魔士との連絡役と同時に事務処理を担当している。
退魔庁では魔に関する事件は全てファイリングすることになっているため、
書類にしようにも元となる情報が無いと話にならないのだ。
あのとき夕貴は場所のみを告げて即座に通話を終えている。
現場へ向かった雪野が見たものは破壊されたベンチや、切り倒された樹木、えぐられた芝生など。
最初に発見した夕貴が何か知っているはずだが、携帯の電源を落としたらしく繋がらない。
あの件についての書類は既に提出、受理されている。
場所以外の欄を「不明」の文字で埋めるわけにもいかず、雪野は適当に埋めてしまっていた。
以来、記載欄の真偽について呼び出しを受けないかと心臓に悪い日々を送っている。
そしてこの溜まりに溜まった鬱憤を晴らせる対象は目の前にいた。
「ふふ…」
にこにこと笑顔を浮かべている雪野。
腕を組み、その表情には余裕が窺える。
現に雪野は追い詰めているのだ。
後は夕貴を捕まえるだけである。
しかし、夕貴も黙ってやられるつもりは無い。
今までに数度味わった紡縛の性質はすでに理解している。
(落ち着け……縛はすぐに解ける。問題はその後だ)
雪野が好んで使用する紡縛は、多くの言霊の例にしたがって精神に作用する。
本来なら相手の精神を錯乱させ身体の自由を奪うものなのだが、
もとから雑念が多い夕貴にはあまり効果は無かった。
押し黙った夕貴に雪野は怪訝な視線を向ける。
(やけに潔いですけど……気のせいでしょうか?)
雪野は一瞬疑うが、都合良く考えることにした。
自分の仇敵は目の前にいるのだ。
ここで逃す手は無い。
もちろん夕貴はまだ諦めていない。
すでに縛は解いているため、身体は自由に動く。
しかし夕貴にとって問題なのが逃げ出すタイミングだ。
廊下のような遮蔽物が無い場所で言霊から逃げるにはいささか分が悪い。
加えて相手が野郎なら手荒な真似も出来るが、いかんせん女子である。
それを踏まえて夕貴はなんとかこの場から逃げる算段を考える。
まず逃げ出した瞬間に背後から言霊をくらうことになる。
例えすぐに縛から逃れても雪野との距離が近いせいでアウトだ。
退魔士ではない雪野でも言霊で動けない夕貴を抑えるのは容易い。
硬直の隙に襟首を掴まれて終焉を迎えるだろう。
その後に待ち受けるのはこれでもかというくらいの説教の嵐。
夕貴の精神に壊滅的なダメージを負うことは想像に難しくない。
(こ、ここまでか!?)
絶体絶命かと思われたが、ちょうど横合いから声がかかる。
「HR始めるわよー」
そこには日誌を小脇に抱えたサリスの姿があった。
昨夜、夕貴と別れたときは幾分か疲れの色が濃かったが杞憂だったようだ。
夕貴の眼に映るサリスに疲労の様子はない。
「た、助かった」
ふう、と息をついた夕貴だが雪野の刺すような視線を受けて呻く。
「ずるいですよ……」
朝から修羅場となりつつあった廊下はサリスが来たことで一先ずの終わりを見せた。
サリスの姿を見た勇介は既に教室へ入って席に着いている。
いまだ雪野は鋭い視線で夕貴を睨んでいるが、すぐに視線を逸らす。
「あなた達も早く教室へ入りなさい。……久谷君?」
サリスは背を向けていたのが夕貴だとわかると、昨日から懸念していた怪我の具合を確認する。
(……大丈夫なようね)
昨日と変わりない夕貴を見て安心すると教室へと入っていった。
去り際に視線が夕貴に一瞬留まったが、すぐに逸らされたため本人に気づかれた様子は無い。
『キーンコーン……』
サリスが消えるのと同時に始業のチャイムが鳴り響いた。
廊下に残っているのは遅刻者以外は夕貴と雪野だけだ。
俯いて微かに震える雪野にかける言葉が見つからない夕貴は手をこまねいた。
が、次の瞬間には顔を上げてニッコリと微笑んでいた。
「放課後、帰らないでくださいね♪」
そう呟いた雪野はその場から去っていく。
当座の危機を回避した夕貴は嬉々として教室へ入ったが、
雪野の言葉に『絶対に逃がさない』と暗喩されていることに気がついて
肩を落としたのは言うまでも無かった。