改革のために啓示となる二大ハイテク企業指導部の葛藤

 この九月に、中国最大のハイテク企業から注目すべき二つのニュースが伝わってきた。

 一つは、九月二日、中関村にある聯想グループ株式公司の曽朝茂取締役会長によると、聯想グループの技師長、中国工学院アカデミー会員の倪光南氏が聯想グループに正式に解任されたことである。倪氏の異動先について、人材の双方向選択の原則に基づいて中国科学院にあらためて任命を行うことになる。聯想取締役会は、倪氏の聯想発展初期における貢献にかんがみ、倪氏が新たな部門で仕事をする資金として中国科学院に五百万元を渡すことを決めた。

 二つは、九月十六日、香港方正の二番目の株主が香港方正取締役会長王選氏の辞職を要求したことである。九月二十日方正グループの一部の中・高級管理者は連名で、王選氏が留任し、方正グループ取締役会長・香港方正取締役張玉峰氏の辞職を要求した。

 この二大グループ指導部の人事の矛盾が連続してさらけ出されたことは、一般的な偶然の一致ではなく、中国のハイテク企業が数年の改革で、企業のさらに深い矛盾がつかれ、管理危機、体制危機、人事矛盾の形で爆発したものである。

 中国のハイテク企業は創業、発展、拡大という過程を経てきたが、歴史的な制約によって、規範的な現代的会社体制を確立しなかったので、日増しに激しい市場競争に直面して、企業はどのように持続的に発展するか。この面で、管理体制、財産権制度の改革は、企業の直面する、回避することのできない問題である。これにかんがみ、四通、聯想、方正などいくつかのハイテク会社はこの面の改革に着手し始めた。

。。素晴らしいコンビから違った道を歩むまで

 聯想指導部の人事の矛盾を分析すれば、ハイテク企業が十数年の発展の中で、経てきた意識の変化、体制の制約、および改革の模索の跡を見てとることができる。

 一九八四年、柳伝志氏は中国科学院計算研究所の十一人の研究者と一緒に、二十万元の資本で創業を始め、科学・技術を生産力に転化する困難に満ちた過程が始まった。同年の十一月、カナダでの研修を終えて帰国したばかりの倪光南氏を技師長として招聘した。倪氏の開発した中国語カードによって聯想公司の資産は数年で一億元にのぼるようになった。聯想中国語カードの名声が高かったため、会社の「中国科学院計算研究所公司」の名称を「聯想グループ」に変えた。

 その時、柳伝志氏と倪光南氏はいずれも敏腕の経営者と権威ある技術専門家のイメージで業界内で中関村の素晴らしいコンビだと見なされている。

 一九九三年の初めになると、中関村の多くのハイテク企業は聯想と同じように一つの目玉製品で市場に進出し、原始資本の蓄積段階を完成した。例えば、四通グループのプリンター、北大方正グループの電子写植など。これらの企業の原始資本蓄積の速度は驚くべきものであり、年成長率は三〇〇%に達し、非ハイテク企業の数倍であった。

 強い危機意識と競争意識をもつ中関村科学技術企業は資本の原始蓄積を完成すると同時に、企業の単項目製品が長期の財源になることができず、一部製品の売上げが下がって、市場から退出していく形になったことが明らかになった。一九九四年には聯想中国語カードは危機に直面し、コンピューター性能の強化によって漢字処理ソフトが中国語カードの機能に取って代わるようになった。それだけでなく、漢字処理ソフトは、コストが低く、製造が速く、利潤が高いなどの多くの強みをもつため、中国語カードの市場退出は動かせぬ事実となった。

 どのような新たなハイテク製品を開発し、どのような道を歩むかは、ハイテク企業の直面する重大な選択になった。研究者と経営者は異なる発展方向と目標を提出した。

 それ以後、聯想グループの柳氏と倪氏の間には、研究と発展の路線の上で重大な食い違いが生じた。

 倪氏の一部の開発プロジェクトの失敗で多額の欠損が出たことにつき動かされ、柳氏は技術崇拝の経営者から市場崇拝の企業家に変わった。一九九六年、柳氏は十年提唱した「技術・工業・貿易」を「貿易・工業・技術」に変えた。

 倪氏は、これらに同意せず、聯想発展の道は「貿易・工業・技術」ではなく、「技術・工業・貿易」であると考えている。

 倪氏と柳氏の矛盾によって多くのことが考えさせられるようになり、ある人はだれが企業を主導するのか、科学者の企業か、企業家の企業かという問題を提出した。

。。だれが企業を主導するのか

 この問題の実質は指導権の問題であり、それは主に次のような三つの面に現れている。第一は、企業内部の研究開発はいかなる原則によって問題を出すべきかということである。第二は、どのような研究開発の立件プロセスがあるべきかということである。第三は、だれがこの立件の決定権をもつかということである。 

 柳氏は、企業内部の命題は二つの基本的な要因によって決まると見ている。第一は、この技術は将来売れる商品になれるかどうか。第二は、この売れる商品になる技術を、会社はサポートする資金があるかどうかということで、もしなければ、決めることはできないと述べた。

 柳氏の話では、だれが決定権を持つかの問題は討論する必要がなく、もちろん社長が第一であると考えている。企業の最高原則は利潤であるべきで、最も利潤に関心を寄せる人は社長である。研究開発は一環だけであるが、技術を製品に転換して販売するのは総合的なシステム工学である。科学院の多くの古い研究所はこのミスを犯しかねず、素晴らしい製品があるだけでそれでよしとし、その結果は数年後かつて素晴らしい製品はだんだん市場から退出せざるを得なくなった。

 倪氏は、ハイテク企業について言えば、企業家と科学者は切っても切れない関係にあり、だれがだれを指導することを大まかに語るのは間違いであり、正しい方のことを聞くのが正しいという以外にないと考えている。

 しかし、ハイテク企業の科学技術研究者が提出した多くの研究プロジェクトは、自分の熟知した好きなプロジェクトであり、市場のニーズを考えてはいなかった。社長の考えは、企業の研究方向は市場を主とし、商品に転換されないいかなる技術製品もすべて放棄しなければならないことである。

 四通グループの王緝志前技師長は、企業家の企業か、科学者の企業かという問題を提起するのは問題があり、まるで赤い球を持っているが、これが白い球か黒い球かと質問するようであると述べた。

 王氏の話では、社長と技師長はどちらが最後の決定権を持つのかということは、規範的な現代株式制企業の中では問題にはならない。公司の重大な意思決定は株主会と取締役会に決定権があるべきである。会社の日常の運営について取締役会を代表して会社を管理する社長が決定権を持ち、技師長に至っては、管轄の範囲内だけで決定権を持つのである。しかし、この問題が提起されたのは、八〇年代の初めに中関村で創業した一部の民営技術企業にとっては、歴史的条件の制約で規範的な株式制を実行することができなかったこともあろう。

 最近出版された『知本家のあらし』の著者の一人劉じん氏の話では、ここには、片方は研究開発するものであり、もう一方は企業を経営するものであり、両方の矛盾はある意味では、知識と資本、技術と市場の矛盾だと言える。

 劉じんさんはこう語った。

 中関村では、「貿易・工業・技術」が最も奥深い理論と見なされている。中関村の世界は社長の世界であって、技師長の世界ではない。そこにはどっちが正しい、どっちが間違っているという問題はない。中国が知識経済を発展させるためには、知識と資本の矛盾を解決しなければならない。

 黄検良氏は次のように見ている。

 技術は重要であるが、決して万能のものではない。一種の技術の現実的な生産力への転換は重要な前提と条件を必要とするが、この前提と条件はほかでもなく、制度である。制度の更新が技術、あるいは科学技術の現実的な生産力への転換に必要な前提と条件である。制度の更新がなければ、科学技術の分野における大きな突破も自発的に生産力へ転換することはあり得ない。従って、中関村からの貢献は王緝志氏の四通ワープロでもなければ、倪光南氏の聯想中国語カードや王選氏のレーザー写植システムでもない。これらの技術と発明は企業に飛躍的な発展をもたらしたが、でもこれだけでは足りない。世界の大企業五百社が長続きしてきた原因は技術ではなくて、それなりの科学的な制度と方法が取られたことにある。

 柳伝志氏の論議では、当初、厳密な制度が取られていたならば、少なくとも「いったいだれに従うべきか」といった紛争は起こらなかったはずである。

 しかし、制度の問題は表面的現象にすぎず、体制の問題こそ根本的な問題である。

 聯想は典型的な国有の性格を持つ民営企業である。このタイプの企業では問題を自分で解決することができない場合、上級機関に援助を求める以外に道はないが、上級機関は事実そのものについて論じ、きっぱりと解決するわけにもいかない。この体制によって、企業の意志決定、市場行為と政策、司法との間の限界が画定できなくなった。しかしながら、この体制を規制緩和することで、企業にこの上ない激動と活力をもたらしたこともあるとはいえ、緩和できる規制がすべて緩和された後、企業の発展には制度の更新を通じて新たな内在するモチベーションを形成させなければならない。つまり、規制緩和のエフェクトが衰えていく際に、企業の主体性をすかさずに強調するべきだと思う。

。。所有権の改革

 七月六日、中国最大の民営ハイテク企業である四通公司は北京で、十二年にわたって下準備をしてきた所有権の改革のスタートを切ったことを明らかにした。同グループの六百十六名の会社員が登録資金五千百万元で社員株主会を発足させると同時に、同株主会が五一%、四通グループが四九%の出資で創設された北京四通投資有限公司もこのほど登記を行った。この「新四通」は不定期に資金調達と増資を行い、四通グループの資産と業務を逐次購入し、最終的に国内外で上場会社となることを目指している。

 四通公司は一九八四年に中国科学院の七名の技術者が借入金二万元で創設したものであり、一九八七年には二千五百万元の利益を上げ、中関村の新興ハイテク企業のスター企業になった。しかしそれ以来、四通は差し迫った形で執念深くメカニズムの更新を模索せざるを得なくなったのはなぜだろうか。それは所有権という難問を解決し、企業に創立当初の活力と結束力を取り戻させるためだと四通公司の指導層は答えた。

 創立初期の四通は活気に満ちていた、人員の編成が自由、採用も自由という弾力的なメカニズムがあり、信賞必罰が厳正に行われ、しかも自分で製品、価格および経営方式を決めてから市場に進出する企業であった。しかし、初期の目覚ましい発展を経た後、かつては非常に優れたものとされていた体制に制約性が段々と現れ、それは所有権が不明確ということだった。こういう企業は企業全体の人たちに属するものだと言ってもよいが、特定の人に属するものではない。そのため、数量の画定がなく、はっきりしない所有権の構成は、財産の実際の無所属と所有者の見せ掛けの設置というものをもたらした。規模の拡大だけをひたすらに追求することや、企業行為の短期化、意志決定における慎重さの欠如、投資の盲目性、資産状況の悪化など、一連の弊害がそこから生まれてきたのである。

 所有権が不明確であることによってもたらされた四通の悩みを、段永基社長は痛感している。一等地の中関村には十二階建ての四通公司のビルがそびえ立っているにもかかわらず、その土台が丈夫ではなさそうだと常に感じとっていた段社長は、四通に近代化された企業制度の枠組みが出きないカギは、制度基礎としての所有権が不明確であることだとつくづくと分かっていた。そのため、四通は一九八七年から、所有権が不明確な集団所有制企業を近代化された株式会社に改造することを旨とする、十二年に及ぶ体制改革の模索を行った。

 一九九二年以来、四通公司は株式制改革を毎年のように日程に組み入れてきたが、今だに実質的な進展を見せていない。その重要な原因の一つは、株式化の重点が現有資産の画定と分配に置かれていたことが上げられる。誰が四通の資産の形成にどれほどの貢献をしたかは、いつまでもはっきりすることのできない問題となったようだ。数年の模索を経て、四通は国際慣行のMBO方式を取り入れ、所有権の具体化を通じて企業の運営メカニズムの再確立を行った。その基本的な構想は、新規資産で現有資産を改造し、「買い戻し」で所有権を数量化するというものである。そこで、MBOを「株主融資購買」に改めるという新しい構想が生まれた。

 経済学者の呉敬れん氏は次のように語った。

 所有権がはっきりすることは効果的な企業制度確立の基本的な前提である。早くも改革・開放の初期に、中関村を中国の「シリコンバレー」に築き上げ、四通のような新興企業を中国のIBMに成長させようという雄大な抱負を持つ人が多かったが、所有権が不明確な区域や企業について言えば、このような雄大な目標を達成することはとてもできない。しかし、長年の努力が実って、四通はようやく新たなスタートを切った。これまでの所有権関係の変更が複雑なため、企業が所有権をはっきりさせる過程で、すべての問題を解決することは殆どできないが、それでもできるだけ各方面の利益を配慮する必要がある。四通の今回の方法は百パーセントすばらしいとは言えないかもしれないが、重要なのはそれによって生じた結果である。つまり、所有権がはっきりするという、企業らしい企業としての制度面で最低限に要求されることを満たすようになった。

 一九九八年、四通、聯想などの有名な企業を含めた中関村の二千余社のハイテク企業は所有権が不明確であることで悩んでいる、という情報が北京市商工局から伝わってきた。北京市党委員会書記の賈慶林氏は一九九八年の北京市人民代表大会で「これら大手企業の所有権帰属の問題を必ずはっきりさせる」と約束した。

 四通の体制改革は、ハイテク企業にとって良好なスタートとなった。

 七月二十一日、聯想グループは自分の株式改造についての計画を明らかにした。その中心となる内容は二つある。第一に聯想グループ持株公司が正式に株式会社になること、第二に一九九四年に中国科学院から手に入れた、三五%の会社員利益配当権を財政部などの関係部門から認可を経て株権に変えてから、一人一人に分配されることである。このことによって、聯想が国有民営体制から完全に手を引くことが可能となった。

 八月六日、方正グループも所有権の改革を始めた。方正香港上場公司代表取締役の王選氏はこう語った。方正の所有権改革は北京大学のすべての指導者の大きな支持を受け、市政府からも大いに重視された。われわれはしかるべき時期に、この活動を始めることにした。

 八月下旬、王選氏はさらに「科学教育による国家振興」国際シンポジウムで、方正は所有権の改革に取りかかっていることを明らかにした。

 中国の経済改革は所有権など、カギとなる一部の分野ではいくら突破しようと思っても、なかなか突破しえない状態に置かれている。今年、四通、聯想、方正などの一部のハイテク企業が期せずにして所有権の改革を始めたことは、大きな意義を持つことだと世論は見ている。

 中関村の中小型科学技術企業では、すでに所有権の改革を行った企業もあれば、これから改革を実施しようとしている企業も一部ある。

 例えば、用友財務ソフト公司は王文京氏が一九八八年に五万元の借入金をもとに創設したもので、今では中国最大の財務ソフト製造メーカーとなっている。業種カバー率は九九%、国内の市場シェアは四〇%に達し、一九九八年の販売高は三億二千万元、登録資本は五千万元、無形資産と用友ビルを含む資産総額は数億元にのぼっている。王氏は同公司の株の八五%を持っている。いま、用友公司は株式制の改革を行い、上場によって資本の社会化を実現することも考えている。

 所有制の改革によって中科大洋科学技術発展有限責任公司に変わった大洋影像では、グループの法人株が五一%、自然人株が四九%をそれぞれ占めている。創業者の姚威氏(三六)はほかの創業者とともに自然人株の三分の二以上を持っている。五十万元の借入金から事業を始めた大洋影像は今では五千万元の総資産を持つようになった。

 国家発展計画委員会のコンピューター技術者だった劉長興社長は、一九八八年に登録資本五万元で北京竜興医療設備科学技術開発公司を創立した。同公司は十数年の発展を経た現在、総資産八千万元、純資産二千五百八十万七千元を擁している。純資産の八〇%の株(約二千万元に相当する)は劉氏が持っているが、残りの二〇%の株は働きぶり、勤続年数、技術サポート能力などの条件に従って会社員に特典として譲渡されている。

 中関村に代表される中国の一部ハイテク企業は所有権制度の改革の模索に取り組んでいる。この改革は社会各界から大きな関心を寄せられている。この改革について評価されることは三つある。第一に、会社の所有制改革、株の数量化およびイノベーションの絶え間ない発展につれて、より多くの知識資本家が輩出するようになること、第二に巨額の資本と高給を取るこれらの知識資本家の出現は社会構造、経済構造に大きな影響を及ぼすこと、第三に中関村の体制更新、メカニズム更新およびイノベーションは国有企業の改革に参考となる経験と智恵を提供することである。

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