「支那」の語源についての考察
東京都の新任の知事石原慎太郎氏は「支那」という言葉で中国を蔑称したのちに、「支那」の語源についてはさだかではないと弁解している。しかし、石原氏は一九九六年、香港の記者のインタビューに応じた際、「世界じゅうでは一般的に貴国を中国と称しているが、私はそれを『支那』と呼んでいる。聞いた話では『支那』と呼んではいけないそうだが……。その理由はこの二つの漢字がよくないからだ」と語った。この発言を見ても分かるように、石原氏は誠実さに欠ける人で、氏が中国を「支那」と呼ぶのは下心があってのことである。ここに掲載されている文章は「支那」という言葉の意味とその歴史的変化を明らかにし、それによって世人に正しいことをお伝えしたい。
――編集者
言葉は思想を表すキャリアーとして、常に時代の烙印を押され、歴史の変遷の痕跡を残すものである。「支那」という呼称もそうである。考証によると、「支那」はCinaの音声に基づいた漢語訳で、古代インドにおける古代中国の呼称であって、サンスクリットの仏典の中に一番最初に現れたものであると言われる。Cinaは異なった言葉では、その発音の変化は大きくなく、「China」、「支那」、「脂那」、「至那」、「震旦」と音訳されている。Cinaの語源に対するさまざまな見方に基づけば、そのもともとの意味合いも違ってくる。代表的な見方は四つある。一、Cinaはサンスクリットで中国の「絹糸」を示すものだとされている。古代インド、ペルシア、古代ギリシアの人々は中国の絹糸(サンスクリットのCina)を用いて中国を呼称していた。二、Cinaは秦国の「秦」のサンスクリット音訳で、Cinaのサンスクリットの意味は「秦の国」であり、古代インド人の秦・漢時代の中国に対する呼称である。三、Cinaはサンスクリットで「辺ぴで遠いところ」を示す言葉である。四、Cinaはチャン(羌)族のことを指す。
Cinaがインドに現れてから西洋に伝わり、中央アジア経由でヨーロッパに伝わり、英語の中に入って、今日の英語の中の「China」として次第に定着した。ローマの宣教師が一六五五年に一番最初に提出したChinaは秦国の「秦」の音訳である。Chinaという言葉が現れる以前はヨーロッパの中国に対する呼称はほとんどCinaの発言から来るものであったが、ただ異なる言語によって違いが少しあっただけである。サンスクリットのCinaが東方に伝わり、中国と日本に伝入すると、「支那」、「脂那」、「震旦」などに漢訳された。サンスクリットのCina が古代中国に伝来してから、古代中国ではサンスクリットのCina は「震旦」と漢訳された。Cina(震旦)は外国人(最初はインド人)による古代中国の呼称として用いられたが、中国人は一般にそのようには使わない。
一衣帯水の隣国として、日本と中国は昔から密接な付き合いがあり、日本人が使っている漢字は二千年近くの歴史をもっている。唐文化に代表される中国文化の極めて深い影響を受けたため、日本は中世以前、中国の王朝の変化にしたがって、中国に対する呼称の主なものとして「唐国」、「大宋」、「大明」、「清国」などを用いるようになった。
Cinaが日本に導入された後、大多数の音訳は「支那」となった。『広辞苑』の解釈では、「支那」は「外国人の中国に対する呼称(「秦(しん)」の転訛)。初めインドの仏典に現れた」となっている。日本では「江戸時代(一六〇三〜一八六七)中期以降、用いられていた」。十九世紀中期までは日本人は「支那」を用いて中国を呼称していたが、それは「唐国」、「清国」などの呼称とは意味の上での違いはなく、特別な政治的意味合いもなかった。中日甲午戦争(日本では「日清戦争」と言われている)以前、日本で一八八八年に印刷された日本軍必読の『宇内混同秘策』という本では、「支那」の呼称で中国を指し、しかも軽蔑的な態度で中国人のことを取り上げていたが、「支那」という言葉は中国に対する差別とはまだ直接つながっていなかった。
日本の社会が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意味を込めて称し始めたのは、中日甲午戦争で清が敗れた時からである。一八九五年、清政府は余儀なく日本政府を相手に、主権を喪失し国が恥辱をこうむる馬関条約(日本では下関条約と言われている)を締結して、近代中国のこうむった恥辱は極点に達した。昔から中国のことを「上国」として尊敬してきた日本人は最初は驚き、続いて勝ったあとの陶酔に走り、町に出てデモ行進を行い、「日本は勝った。『支那』は負けた」と狂気のように叫んだ。そのときから、「支那」という言葉は日本では戦敗者に対する戦勝者の軽蔑的感情と心理を帯びたものになり、中性的な言葉からさげすむ意味合いの言葉に逐次変わっていった。十九世紀から第一次世界大戦までのオランダの辞書の中では「支那」に対する解釈は「支那すなわち愚かな中国人・精神的におかしい中国人のことである」となっていた。西洋のその他の辞書では「支那」に対する解釈も大同小異であった。
日本などの外国が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意を込めて呼称することは海外に在住する華僑の間で強い反感を買った。一部の留学生と華僑は日本の新聞社に投書して、日本人が「支那」という言葉を今後使わないで、その変わり「中国」を用いるよう要求した。これによって、中国の国名の呼称をめぐる論争が引き起こされた。一九〇八年、インドネシア在住の華僑はインドネシアを統治していたオランダ植民地当局に抗議を提出し、「支那」という侮辱的な呼称に反対した。中日二十一カ条条約締結、パリ講和条約調印、「五四」運動以降、中国国内では「支那」という蔑称に抗議するより激しいキャンペーンが巻き起こされた。辛亥革命後、中国政府は日本政府に照会し、中国を「支那」と呼ばないよう要求したが、日本側は拒否した。一九三〇年に、当時の中華民国中央政治会議では決議が採択され、当時の中国の国民政府外交部は日本政府に覚書を送った。決議にはこう述べられている。「中国政府中央政治会議は、日本政府とその国民が『支那』という言葉で中国を呼称し、そして日本政府の中国政府に宛てた公式公文にも中国が『大支那共和国』と呼称されているが、『支那』という言葉の意味はたいへん不明確で現在の中国となんらの関係もないため、今後『中国』を呼称する場合、その英語では必ずNational Republic of Chinaと書き、中国語では必ず大中華民国と書かなければならないことを外交部がすみやかに日本政府に要求するよう促す。もしも日本側の公文に『支那』いう文字を使われたなら、中国外交部は断然その受領を拒否することができる」。一九三〇年末から、日本政府の公文は全部「支那共和国」を「中華民国」に改められたが、社会一般の書面用語や話し言葉では依然として中国が「支那」と軽蔑的に呼称され、中国侵略の日本軍が「支那派遣軍」と称され、中国人が「支那人」と呼ばれていた。第二次世界大戦終結後、中国は戦勝国として代表団を東京に派遣し、一九四六年六月「命令」の形で日本の外務省に今後は「支那」という呼称を使ってはならないと通達した。同年六月六日、日本外務次官は各新聞社、出版社に、日本文部次官は七月三日各大学の学長宛に、「支那」という名称の使用を避けるようにという内容の公式公文を前後して配った。
戦後、特に新中国建国以後、「支那」は次第に死語となり、用いられなくなった。しかし、日本の社会において、今でもごく少数の右翼分子は依然として故意に中国を「支那」と呼び、ごく少数のものは飲食店のおそばのことを「支那ソバ」と言っている。日本で出版されている一部の地図にも中国の東中国海を「東シナ海」(「支那」の二文字を片仮名に変えただけ)と称していて、広範な華僑同胞の反感を買った。東京で料理店を経営しているある華僑は「支那」という呼称をなくすよう、数十年もたゆまぬ抗争を続けている。この華僑はお店のマッチ箱や箸袋に悲憤をこめて、謹しんで申し上げる、と次のように書き入れている。「……日本の人が中国を『支那』と呼ぶとき、私たちはどうしても日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起してしまうのです。……」と。ある人は怒りをこめて、中国を「支那」と呼ぶことは以前西洋人が日本人のことを「ジャップ」と呼び、東方の人たちが日本を「倭」と呼ぶのと同じではないか、どうして中国人民の感情を尊重しないのか、とただした。
日本では、孫文もかつて「支那」という呼称を使ったことがあるではないかと弁解する人もいる。孫文は一八九九年、一九〇三年の少数の場合に確かに「支那」という言葉を使ったことがある。当時は「支那」という言葉がさげすむ意味へと変わる初期にあったことも理由の一つとしてあげられよう。一九〇五年以後、「支那」のさげすむ意味が逐次濃厚になり、そのときから孫文は二度と「支那」を使わなくなり、そのかわり「中国」を用いるようになった。もう一つの理由は、孫文は革命者として、「支那」は清王朝と等しいと考え、「中国」はその革命を進めて樹立をめざす中華民国であり、中華民国の建国以前「支那」と呼称したのは清王朝を指すものであって、辛亥革命後、「中国」と改称した。
「中国」という語は最初は『詩経』の中に出ていて、首都、みやこを指すものであった。その後、漢民族、華夏族の居住地を指し、当時の中原漢民族以外の地は「四夷」と称され、「東方の一隅が中国となり、残ったのは皆夷狄」ということだったのである。漢民族、華夏族の居住地が中央部にあって、「中国」と称され、すなわち中央の国であり、それは地理的概念であった。おおむね十九世紀中葉になって「中国」という名称はようやく国家という概念として現れ、辛亥革命によって初めて正式に中国が国名として定着した。一九一一年十月十一日、革命軍は諮議局で十三カ条の重要方針を議定したが、その第二条は「中国を中華民国と称する」ことである。一九四九年、中華人民共和国が成立し、毛沢東主席は天安門城楼でおごそかに「中国人民はこのときから立ち上がったのだ」と宣言した。そのときから中華人民共和国が新中国の正式の呼称となったのである。
(五月七日付け『人民日報』からの訳載)