人類の起源は本当にアフリカか
ここ一年来の中国学者による長江下流流域の安徽省繁昌県における発掘調査によって、現在の国際古人類学界の「人類の起源がアフリカである」という学説は再び挑戦を受けることになった。この学説は前にも一度、長江中流の三峡地区で考古学者たちが「巫山人」に関する一連の発見をしたことによって揺るがされたことがあった。
一九九八年の初めに、著名な古生物学者の邱占祥教授を首席科学者とする、これまでの最大規模の考古学テーマである「早期人類の起源および環境背景の研究」が正式にスタートした。この研究テーマの趣旨は雲南・貴州高原およびその東部の長江流域を含む青海チベット高原以東の広大な地域で二百万年ないし四百万年前の古人類の化石とその生活の遺跡を探すというもので、それによってここ数年来の古人類学界の「人類の起源が東アジア地域、特に中国の青海チベット高原の東部地区である可能性もある」という推測が裏付けられ、人類の起源のなぞのベールがはがされた。
中でも中国科学院古脊椎(せきつい)動物・古人類研究所の研究員金昌柱博士が率いる安徽テーマグループが、真っ先に突破的な進展を見せた。
驚くべき発見
約九十年ほど前、学者たちは安徽省を含む淮河以南地区で三百万ないし六百万年前のほ乳類の化石を大量に発見した。また、金博士のテーマグループも一九九八年五月に始めた発掘の過程で、同じ時代の保存状態のよい動物化石を発見した。
「三百万年から六百万年前という時代はちょうど人類起源の夜明けで、この地域で古人類の化石を探すことには大いに希望が持てます」。
金博士は一九七六年に長春地質学院を卒業し、後に日本の大阪市立大学で理学博士の学位を取得、長年にわたる考古学の豊富な経験を持っている。その金博士が敏感に意識したのは、より温暖湿潤であるため古人類をはぐくんできた可能性のある長江以南に発掘範囲を移すべきであるということであった。考古学資料が示すところに基づいて金博士は、果断にも考古学チームを率いて安徽省繁昌県孫村鎮の癩痢山へと赴いた。この決断は歴史的に重要な決定であって、それがこの地における世界の権威的学説を揺るがす驚くべき発見につながることは、その後の事実によって証明された。
金博士とその同僚はすぐにも癩痢山で新生代晩期の裂け目のある貴重なたい積層を発見し、それを「人字洞」と名づけた。さらに十五日間にわたる試掘と整理の末、霊長類の上顎(じょうがく)骨および下顎骨と歯の化石、五十種類以上の脊椎動物の化石、人工の打製石器と取りあえず判定できる石片が発見された。その後何度も検証が行われた結果、テーマグループによって同地の地質年代は、ちょうどグループが探し求めていた約二百万年前のものであることが認められた。
大規模な発掘は、一九九八年の九月に始まった。その発掘では厚さ約三十二メートルの人字洞から明らかな打製石器数十点、および加工の跡が明らかな骨器十点余りが見つかった。有名な旧石器専門家の張森水教授を含む何人かの考古学の権威が発掘現場に立ち会い、前記の出土した骨器や石器に対し真剣で詳細な鑑定を行い、それらが早期の人類の文化遺物であることを確認した。
程なく北京で開かれた中国の有名な考古学者賈蘭波アカデミー会員の九十歳の誕生日を祝う国際学術シンポジウムで、日本、韓国、および台湾を含む国内の専門家たちがこれら出土した石器や骨器を細かく観察し、詳細に研究・鑑定した結果、それらが人工物であることは明らかであると一致して確認し、人類の活動と関係があると評価した。
そればかりでなく、さらに人々を興奮させるような結論が発掘によって打製の石器や骨器と同時に出土した九百点余り、六十七種の化石標本から導き出された。人字洞で発見された脊椎動物の化石は種類が豊富で、その中でほ乳類に属する古い種が占める割合が比較的大きく、その上ほとんどがシノマストドン、ホモテリウム、エクウス・サンメンシス、タピルス、ヒポラグス、ボラチリノミス、ミモミスなどのようなすでに絶滅している種であった。それらの大多数は、鮮新世後期―更新世初期の地層でよく見られるものである。そして、これらは更新世初期においてはすでに絶滅していた。金博士によると、エクウス・サンメンシスの出現は、その生存年代が今から二百五十万年以上にはならないことを示している。「『巫山人』の考古学成果と対比させた後で、もう一度判断する必要がある」と、金博士は語った。
ここ十数年に、長江三峡地区の重慶市巫山県廟宇鎮の竜骨坡で発掘された古人類化石と脊椎動物化石は、さまざまな年代学の方法による測定で二百万年ないし二百四十万年前のものであることが確認されており、そのため「巫山人」もこれまでのアジアで発見された最も早期のホモ・ハビリスと認められている。
金博士の話では、繁昌人字洞の動物群と竜骨坡の動物群は非常に似ており、中でも十五種以上は比較的接近し、その時代は巫山竜骨坡の動物群と同じであるか少し古いだけで、ほぼ二百万年ないし二百四十万年前に属するはずであるという。
「だからわれわれは、二百万年ないし二百四十万年前の地層から発見された大量の石器と骨器はだれが作り、どういう人たちが使ったものかと思いをめぐらせてしまうのです」
この問題を明らかにするため、金博士と同僚たちは今年五月に再び繁昌人字洞を訪れ、より詳細でより大規模な発掘を行った。その発掘ではさらに多くの人工物であることが明らかな石器や骨器が出土し、それによって金博士らはあらためて「巫山人」の出現よりも古い二百万年ないし二百四十万年前には、長江の中下流において古人類が生存していた、と確信するようになった。
現在、繁昌県から北京に持ち帰った各種標本の整理、鑑定と体系的研究の仕事がすすんでいる。それと同時にこの研究課題グループはさらに古地磁気法、ESRなどの絶対年齢測定法などによって、人字洞の地質年代についてさらに検証をおこなうことを考えている。
懐疑と挑戦
現在の古人類学界における基本的共通認識によれば、人類の最も古い祖先はラマピテクスであり、その体格や形態の特徴は人類誕生より前のものに属し、約四百万年ないし五百万年前にラマピテクスはアウストラロピテクスへと進化したということになっている。アウストラロピテクスは直立歩行ができたばかりでなく、自然の道具をも使い始めていた。その後がホモ・ハビリスで、脳容積はアウストラロピテクスよりは大きいがホモ・エレクトスよりは小さく、石器を作るようになっていた。そのすぐ後に続くのがホモ・エレクトスとホモ・サピエンスで、ホモ・エレクトスは火を使用し、ホモ・サピエンスはその体格や形態が現代人とかなり似ていて脳容積もホモ・エレクトスよりはるかに大きく、それが進化して最終的に現代の人類になったと言われている。ホモ・ハビリスが生存した年代は、約二百万年ないし四百万年前である。
これまでの考古学的発掘記録ではアウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ホモ・サピエンスなどを含む完全に系統立った化石系列が出土したのはアフリカ大陸だけで、そのため人類の起源はアフリカ大陸にあるというのが考古学界で比較的流行している見方であった。また、今まで各大陸でホモ・エレクトスの化石が比較的多く出土しており、特にアジアに多かったことから、学者たちは大体百六十万年前にホモ・エレクトスはアフリカから「放射」されてアジアや欧州およびその他の大陸に移っていったと推測している。
八〇年代の人類起源アフリカ説が盛んだったころ、中国の学者は雲南省の禄豊と元謀で八百万年前の「禄豊猿人(ラマピテクス)」と四百万年前の「元謀猿人」、および藍田で「藍田原人(晩期のホモ・ハビリス。一説に初期ホモ・エレクトス)」の化石を発見していただけで、二百万年前から四百万年前の間の化石発見の空白はこのアフリカ起源説の明らかな裏付けとなっていた。
だがこの空白は、九〇年代に「巫山人」化石および石器の年代が最終的に確定されたことによって埋められた。このほか、青海チベット高原東部の長江の上中流流域でも大量のホモ・エレクトスの化石が発見されたが、その年代の多くは百万年前のものより新しいものであった。
実際に、中国の考古学の草分け的存在である賈蘭坡氏と楊鍾健氏は、中国の地質、地理条件、生態環境によると、この地区には豊富な古人類化石および文化遺物が豊富に埋蔵されているはずで、アジアと中国が古人類の発祥地である可能性は大いにあると早くから何度も指摘していた。
アジア地域で発見される古人類についての新しい材料が日増しに豊富になるにつれて、中国科学院古脊椎動物・古人類研究所の呉新智研究員を中心とする数多くの中国の考古学者たちも、類人猿の化石が発見された地層から人類の化石が発見される可能性はあると一般に認めるようになった。なぜなら、類人猿の生活に適合した環境は、人類にとってもふさわしいものだからである。
資料の分析によって、学者たちは一致して、東アフリカのオルドワイ峡谷の形成が猿からヒトへの変転の原因となったことが認めているが、それなら青海・チベット高原の隆起もこの変転の原因となり得たのではないかということになる。ましてや、オルドワイ峡谷の形成と青海・チベット高原の隆起は、ともに新生代後期に発生しており、年代的にもかなり接近している。中国の学者が、青海・チベット高原の隆起によって長江上中流流域(つまり雲南省、貴州省、四川省など)の熱帯密林が次第に亜熱帯の樹木のまばらな草原になり、その変化によって類人猿の運動方法と体格構造が変わり、次第にホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ホモ・サピエンス、そして現在の人間へと進化していったのである、と信じる理由もここにあるわけだ。
「巫山人」遺跡に次いで、繁昌石器の考古学上の重要な発見は、中国の学者にとってより大きな励ましとなったことは明らかである。
金博士の分析によると、繁昌は長江の下流にあり、自然地理的には北亜熱帯に属していて、古動物群の組み合わせの性質と生態状況から見て同地域は更新世初期には森林草原の環境であったが、気候の変化とりわけ第四氷河期の影響で森林は次第に消滅して小さな山間盆地が形成され、こうした地理的環境が初期の人類の生息にとって十分に有利に働いたということである。
さらに金博士は言う。人字洞から出土した大量の人工の打製石器と明らかに人の手によって砕かれた骨は、ここがアジア地域で現在知られている人類の最も初期の活動の遺跡であることを示している。この発見は、長江下流地区で古人類が生活していた年代がこれまで考えられていたよりもはるかに古いことを物語るものであり、この地区で初期人類の化石を探すことは多いに希望が持たれる。それはアジアの初期人類の活動を探る手がかりとなり、アジアの人類の起源のなぞの解明にとって非常に大きな意義がある。
人類の起源に関して金博士は、繁昌県での旧石器の大量の発見自体は二百万年前の「巫山人」の存在の検証にとって非常に意義があり、同時に二百万年前よりも長江流域に石器を使用していたと思われる初期のホモ・ハビリスが住み始めていたことをあらためて裏付けるものであると見ている。このことは、人類の起源に関する問題は新しい考え方で取り組むべきであると人々に訴えている。
もし青海チベット高原東部地域が人類の起源の地であると証明されたら、次の二つの可能性が生じてくる。
一つは人類の進化が多元的なものであり、アジアの人類は百万年余り前にアジアから来た可能性がある一方で、歴史上の中国地域の範囲内にも猿からヒトに独自に進化と発展を遂げた系統が存在した可能性も大いにある。
もう一つの可能性とは、人類の起源がアフリカではなくて、アジアこそが人類発祥の地であるということである。
そのいずれにせよ、中国の学者の研究はここ十年以上も人類学界を席巻(せっけん)してきた「人類アフリカ起源説」に挑戦状を突き付けることになったと金博士は言う。
現在、「早期人類の起源および環境背景の研究」テーマグループの学者たちによって、雲南省元謀地区、長江三峡地区、およびここ数年来百万年余り前の石器が大量に出土した華北地方の泥河湾地区で大がかりな発掘作業が進行中である。繁昌県での発掘作業はまだ六、七年は続くと見ている金博士は、「さらに人々を奮い立たせるような結果が、最後には必ず見つかるでしょう」と語った。