「北京原人」の頭がい骨捜しに希望はあるか


 中田光男氏という日本の老人が提供した「北京原人(ホモ・エレクトゥス・ペキネンシス)」の頭がい骨のありかの手掛かりは信ぴょう性に欠けると、九十一歳の著名な古人類学者でアカデミー会員の賈蘭坡氏は述べているが、それでも七十年にわたって「北京原人」の研究を続けてきたこの老科学者はいちるの望みを捨ててはいない。賈氏の言う通り、「北京原人」の頭がい骨を取り戻す希望は非常に希薄であるが、それでもわれわれはあきらめない。

 九月二十日、中田光男老人は、心の中で五十三年間温めてきた秘密を語った。

 中田氏の記憶によると、日本が無条件降伏した後の一九四六年一月四日、戦時中は関東軍の武官であった氏はその部下の大場宗剛と共にその岳父の遠藤隆次の家に行って難を逃れていた。遠藤隆次はかつて長春の旧『満州』国自然博物館自然科学部の部長であった人で、文明史以前の化石の研究する専門家でもあった。

 遠藤家から離れる前の夜、遠藤は白布でくるまれた箱を取り出した。箱の中身は一人分の頭がい骨であった。遠藤は手にその頭がい骨を持って、「これは『北京原人』の頭がい骨だよ」と言った。

 遠藤家で見たあの頭がい骨は茶色で、周りは脱脂綿が詰められていたことを中田氏は記憶しているという。後で中田氏は遠藤の独り息子が十二歳で若死にしていることを知り、例の頭がい骨の化石は若い人のものであると聞いた中田氏は、遠藤が地質や考古学の研究に携わっているといった職業的習慣から、その頭がい骨を自分の子供の墓の中に埋蔵した可能性は大いにあると推測した。

 そして、「北京原人の最初の頭がい骨発見七十周年記念国際古人類学学術シンポジウム」が十月十二日に北京で行われるという情報に接し、中田光男氏はできるならまた北京に行きたいという意志を表した。中田光男氏が提供してくれた手掛かりに対し、現任の周口店「北京原人」遺跡保存委員会主席である賈蘭坡氏は、「北京原人」頭がい骨が行方不明になる前に遠藤隆次は何度も関係するテーマについて研究をしてきており、頭がい骨を納めた箱の中に脱脂綿を詰めていたというような細かい点に至るまで完全に一致していたことを思い出した。賈蘭坡氏は、「北京原人」の頭がい骨は非常に貴重な世界レベルの文化遺産で、研究者が収蔵している可能性はたいへん小さいが、それでもゼロではないと考えた。

 聞くところによると、一九四一年末に「北京原人」の四つの頭がい骨といくつかの化石が紛失した後、関係ありそうな手掛かりを探す作業が一貫して続けられてきたという。それ以前、「北京原人」の頭がい骨のありかに関するうわさは二十以上もあった。外国の人々も「北京原人」の頭がい骨のありかについての証拠を示す細かな手掛かりを提供してくれたが、中田光男氏はその最初のものであった。

 最も早く周口店に化石を探しに訪れ、その科学的価値を認めた人はスウェーデンの地質学者アンダーソンで一九一八年のことであるが、アンダーソンは国際的に有名な学者であったばかりでなく、探検家でもあった。

 一九二九年十二月二日午後四時、保存状態が比較的完ぺきな原人の頭がい骨が発見され、この情報は世界にセンセーションを巻き起こした。

 一九三九年、周口店でまた三つの完全な頭がい骨が発見された。

 一九四一年、旧日本軍による真珠湾攻撃が行われ、日米関係は緊張状態に入った。周口店の作業員は貴重な化石をアメリカに送って保管することを決め、その年の十一月に関係者は四つの完全な頭がい骨を含む多くの化石をそれぞれ「SADE1」および「SADE2」と書かれた箱に入れて北京協和病院総務長の事務室に届けたが、そこからセキュリティールームに移送する間に化石は行方不明になってしまったのである。

 失われたものはまさしく非常に貴重な宝で、「北京原人」の頭がい骨がこのようになぞの失跡をした後、そのありかに関するうわさは今に至っても後を絶たない。最近では一九九六年にある日本人が臨終に際し、第二次大戦中に紛失した頭がい骨の化石は日壇公園の参道の付近に埋められていると語った。後に探査グループが発掘を行ったが、徒労に終わっている。                     

(『北京晩報』)

 

 

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