帰国留学生の黄金時代

葉楼

 華南地域で最も発達した広州と深せんの二都市では、このところ帰国留学生の争奪戦が盛んに繰り広げられている。

 昨年十一月、帰国留学生の起業奨励面で早くから多くの優遇政策を取っていた深せん市は新しい政策を重ねて打ち出し、起業環境が最適化された。

 同月に深せん市で催された中国国際ハイテク成果交易会(ハイテク・フェア)では、李子彬深せん市長がアメリカ、カナダ、日本、フランス、オーストラリアなどにいる百四十名余りの留学生を特別に招待し、無料で特設コーナーを提供し、留学生たちは今回のビッグイベントに最先端の内容の濃い百二十五のプロジェクトを持ち込んだ。しかし、散会後にこれらの留学生の多くは、深せんから車で二時間の距離の広州へと行ってしまった。

 広州市留学生管理センター主任の李樹均さんの話によると、それは広州市が帰国留学生の起業のために非常に手厚い優遇条件を提供したためであるという。深せん市長が留学生たちに招待状を出す前に広州市の林樹森市長はすでに政府令を出し、その内容は元手をいとわないで留学生の人材を引きつけるという広州市政府の姿勢を表明するものであった。こういった状況は一年前の一九九八年末に広州市が催した第一回中国広州市留学体験者交流会で、国外から自らの科学技術プロジェクトを持ち込んできた三百人余りの留学生が深せん市の優遇条件に引きつけられ、そのうちの二百人余りが会の後で深せんに行ってしまったのとちょうど逆になったのだと李主任は語った。

 中国科学院副院長の白春礼アカデミー会員は、「今は海外在住の学者の帰国黄金時代です」と語る。海外在住の学者たちの研究分野の多くは中国の科学技術と社会の発展にとって必要なもので、そういった学者たちが向こう十年以内に帰国してその穴埋めをしてくれるはずであるという。今後の五年間が人材の需要のピークになると、白副院長は見ている。

 教育部の張保慶副部長は、次のように説明する。一九七八年から九八年の年末までに中国から累計三十二万人が百三カ国に留学し、そのうち十一万人余りはすでに学業を終えて相次いで帰国している。ここ数年来、留学から帰国して仕事に就く人数がますます増え、今ではイギリス、フランス、日本などいくつかの先進国へ留学に赴く人の数より同じ年ではこれらの国から帰国する人数の方が多い。また、国外で働くか永住権を獲得した後で帰国する留学生の割合も絶えず増加しており、またますます多くの留学生が短期帰国して学術会議、学術講演、科学研究協力の展開に参加し、さまざまな形で国に奉仕するようになっている。

真のチャンスの到来

 九〇年代初期、米カリフォルニア大学サンフランシスコ校で博士号を取得した李晶さんは、中国国内の友人が起業優遇に関する数多くの事例を語るのを耳にし、帰国して自分の目で状況を見てみようと決意した。

 李さんの専門は薬物合成で、帰国後は政策の状況を理解する一方で友人と情報交換を行ったが、しかし吉林大学など多くの大学が帰国することについて優遇条件を与えてくれるにもかかわらず、最終的にはまたアメリカへと戻ってしまった。「わたしは大学と企業の間における発展の支えとなりたかったのです。しかし、国内におけるカリキュラムと科学研究システムはこれまでと大差がなく、国有企業改革の足どりもそれほどではないと気づきました。まだ帰国する時期ではないと感じたのです」

 しかし、一九九七年李晶さんは自らの技術を持って突然帰国し、しかもその時にはいかなる部門あるいは職場も何ら優遇を与えてはくれなかった。「ビジネスチャンスが到来した。今このチャンスをつかまなければきっと後悔する」と思った李さんは、その年に北京留学体験者海淀起業団地で自分の会社を設立した。李さんは研究と同時にその成果を市場に押し出し、今では黒竜江省の製薬工場と提携している。ほんの二年間で、李晶さんの開発したリウマチとぜんそくを治療する新薬はすでに臨床実験段階に入った。

 十五年前、ある著名な中国系の学者が、中国の在米留学生のうち一〇%が帰国するならまあまあの状況で、もし二〇%が帰国すれば祝杯ものだと言ったことがあった。しかし、教育部の最近の統計によると、一九九二年から今に至るまで留学生の帰国は年々増加しており、九五年から九八年までの帰国留学生の就業率は年平均一三%の割合で増え、九八年だけでも七千四百人余りに達した。

 馬江河さんもその一人である。その足どりは中国政府の世界貿易機関(WTO)加盟の過程に密着しており、一日も遅れたくないといった感じである。

 一カ月前、アメリカで法学博士の学位を獲得した馬さんは、一切の仕事を放棄し、慌ただしく旅支度をして帰国した。「わたしの帰国目的は、国内の法律サービス市場をできるだけ早く独占することです」と、馬さんは言う。「中国のWTO加盟後におけるわたしの強みはとても明らかです。わたしはアメリカと中国の法律に精通しており、アメリカ市場に進出する中国人にとっても、また中国でビジネスに携わるアメリカ人にとっても、わたしの資格とキャリアは十分信頼できるものです」

 WTO研究会副会長の張漢林博士の分析によると、WTOは中国の留学生の新たな帰国ブームを誘発することになるという。「WTO加盟」の後で、中国が国際社会と軌道を接する範囲は絶えず拡大され、人材の需要は大きくなると思われるが、このことは国際慣習に詳しく二カ国語に精通する留学生により多くの発展のチャンスをもたらすであろうことは疑う余地はない。

 チャンスは準備のある人にほほ笑む。

 一九九四年にアメリカで会社を設立した王維嘉さんが昨年開発した手のひらサイズのコードレス・コンピューターが、機が熟して上海で産声を上げた。「このチャンスを、わたしは十年待ちました」と、王さんは言う。王さんは端末生産を中国に置き、アフターサービスと最も重要な情報サービスも中国で行った。「中国は世界一の大市場で、しかも発展の黄金時代に入ったところです」

 王維嘉さんは一九八五年に渡米し、スタンフォード大学電気工学部のドクターコースで学んだ。「企業設立とはある朝目覚めたらできていたなどというものではなく、心理、精神、知識、経験などあらゆる面で準備を重ねた末に、ある時点になってようやくチャンスに巡り会えるのです」。こうして王さんはチャンスを手にしたわけだが、今日の中国の人たちは最終的に次のような共通の意識を持つに至っている。すなわち、中国というこの世界一の市場は最大規模の産業を育成すべきで、コードレス・ネットワークのブームは上海から火がついたが、これは中国が五百年来初めて世界のハイテク分野で打ち立てた金字塔である。

往来自由の天地

 一九九六年のある日、会社から上海に事務所開設のため派遣されていた劉暢さんがカナダ本部に戻ると、オーナーはその仕事ぶりに非常に満足し、「事務所はできたし、君は中国で大活躍できるではないか」と言った。だが、劉さんの答えはこうだった。「わたしが中国に帰って大活躍するには、まずこの会社を辞職しなければなりません」

 劉さんは、帰国して会社を設立することを決意したのである。「もともと帰国して事業を始めることを考えたこともありましたが、最も心配だったのは帰国したら二度と海外へ行かれなくなることでした。ところが今では国の『出入国自由』の政策が保証となっています」

 一九九二年八月、「留学をサポートし、帰国を奨励し、出入国自由」を主な内容とする政策が打ち出されたが、それは中国人留学生にとって一里塚ともなるべき変化であった。それ以前に中国が遂行していた留学生政策は依然として一九八六年に制定された「需要に基づく派遣、質的保証、学業と仕事の一致」というもので、そのころのあるサンプリング調査によると、留学生のうち帰国希望者が大部分を占めていた。いつ帰国するかについては、大多数の人が「もう少し待ってみよう」と回答する。

 現在、劉さんは中国外文局と提携して、生活情報に関する英文雑誌を主宰している。「最初にカナダから帰国して中国に事務所を設立したいと自ら思ったのは、帰国して両親とともに暮らしたいという願いがあったからでした。ところが今では、両親が逆に海外で老後を過ごしています。でもわたしは、中国国内にとどまりました。少なくとも現時点では、わたしは再び出国する意志はありません」と、劉さんは言う。「国内にいる人びとは恐らくはっきりとは分からないでしょうが、われわれ国外からの帰国者は国内の変化が非常に大きく、至る所に新しい息吹が満ちていると感じています。実のところ、国外に在留している人びとにとっては、帰りたいか帰りたくないかという意志の問題にすぎません。今、わたしの多くの友人たちは帰国し、国内で仕事を探したいと思っています。われわれの考え方はとても簡単で、仕事がなかったらまた留学先に戻ればいいのです。どうせ出入りは自由なのですから」

 汪潮涌さんも同じ考えである。汪さんは百万ドルの年俸があったアメリカの投資銀行を辞職して帰国し、中国で民間投資機構を設立した。汪さんは言う。「水を百度に沸騰させる最後の一度に当たる株式上場は別として、証券取引をするなら、現在の政策の環境によってわたしは残りの九十九度をやり遂げることができます」

 一九九六年、広州市にある中山医科大学は留学生グループを受け入れたが、顔光美さんをリーダーとするこのグループのメンバーは総勢十二人であった。

 九〇年代の初めに、中国の改革・開放の最先端を行く地域としての広東省は、帰国留学生に対する「出入国自由、仕事選び、住宅の購入、戸籍の移動」などの面での優遇政策を全国に先駆けて実施し、海外にいる留学生がさまざまな方法で帰国して働くことを歓迎した。

 一九九五年、中山医科大学は思い切った改革を行い、若者が自分の才能をあますところなく発揮するよう励ました。このことはアメリカにも伝わり、顔光美さんはその妻に「帰国して何かする時が来たよ」と言った。顔さんはすぐに助教授クラスの顧軍副研究員に電話をかけ、二人はすぐに意気投合した。その後、顔さんはさらに何人かの友人にも電話したが、相手の反応は非常に熱心であった。打ち合わせの段階を経て、中山医科大学は「顔光美グループ」に一人当たり四十万元の研究費の提供と出入国の自由ということを認めた。そこで、アメリカで博士号を取得していくつかの有名な研究機構あるいは大学の職務に就いていた十二人の留学生たちは、母校である中山医科大学に戻った。

 顔さんは言う。「中国人の事業は、国外では不可能です。中国はわたしが生まれ育った地でもあれば、わたしの腕を発揮する場所でもあります」

 昨年八月、二十六歳の邵亦波さんはハーバード大学のMBA(経営学修士号)学位取得証明書を持って帰国し、ウェブサイトの易趣ネット(eachnet・com)を開設した。これは中国大陸部初、および現在世界最大の電子商取引の中国語ウェブサイトである。

 「わたしは自分で納得できる事がやりたい」と、邵さんは言う。「アメリカでは、中国人は大きな機械の歯車の一つにすぎません。中国に帰るのは、自分の機械を造るためです」

起業は楽をするためではない

 王濤さんのオフィスは現在深せんの笋崗工業団地の五階建てビルの四階にあり、内装は至って簡単である。王さんが四年前に設立した益心達医学新技術有限公司が開発した中心静脈カテーテル(導管)をはじめとする二つのシリーズ製品はすでに市場に出回っており、価格は国外の同類製品の三〇ないし五〇%も安い。そのため七社の海外企業が中国市場から撤収した。王さんのこの会社の現時点における利潤はかなりのものとなっている。

 しかし、アメリカの永住許可証であるグリーンカードを持ち、米ミシガン大学の客員研究スタッフであった王さんであったが、深せんに帰ったばかりの創業当初は廊下が狭くて一人通るのがやっとの場所に住んでいた。「わたしが帰って来たのは企業設立のためであって、享楽のためではありません。楽をするためなら、アメリカの環境の方が中国よりずっと恵まれています」

 王濤さんの研究の方向性、すなわち医学へのリンケージは、新しいタイプの学問である。帰国当初、王さんは世界の進んだ医学の成果をカテーテル技術に取り入れた。「わたしは一銭のお金の勘定からはじめなければなりませんでした。会社は自分自身のもので、自分自身が働いているのです。コスト管理をマスターしなければ、どうして成功することができましょう」。三年の間、王さんは研究と開発の仕事に専念し、数十万元の研究費用を費やして、ついに今の成功を得たのである。

 アメリカと中国の両方にわたって、田溯寧さんは十分な準備を行った。「最初に外国へ行った時と同じように、帰国とりわけ起業の道を歩むのは、もう一度奮闘する準備が必要です」

 一九九四年、田さんと何人かの中国人留学生は、ある愛国的な華僑からの五十万ドルのベンチャーキャピタルによる支援を受けてアメリカでインターネット会社を設立し、翌九五年には帰国してそれを拡大した。

 「わたしは国のために帰国するのだといった認識は、絶対に必要なものです。もし、わたしは技術があって、自分にああしろこうしろと言い、拍手と花束を期待するような認識があれば、行き詰まるのは運命付けられています。なぜなら、これは起業なのですから」と、田さんは言う。

 帰国後、田さんの会社は資金回転に困るといった苦境に陥った。田さんと仲間たちは一つの銀行から次の銀行へと渡り歩き、口が酸っぱくなるほど説明しても、その雄大な青写真を信じる人はいなかった。王さんは会社の契約を銀行の抵当にしたが、銀行は田さんに担保にできるような固定資産がないとして、依然としてその才能を認めなかった。十数人の駆け出しの若輩者を、だれも信じなかったのも無理はない。中国の当時の現実は、不動産の売買をするものが貸し付けを得るのは容易であったが、最も前途のあるネットワーク技術を顧みる人はまだいなかったのである。

 田さんは言う。「当時は本当に苦労しましたが、それは中国のネットワーク事業がようやく発展したばかりのころでもあったのです。それから十年ないし二十年が過ぎて、中国のさまざまな面での条件はよくなりましたが、チャンスは減ってしまいました」

 数年間の努力の結果、田溯寧さんはついに成功した。その会社はチャイナネット、上海ホットライン、北京169マルチメディア・プラットフォーム、広東163ネットなど百に近いネットワークプロジェクトを開設し、同社の技術サービスの売上げは六億元を上回って、世界全体でもかなりの投資価値のある企業の一つに数えられている。

 企業の設立は、国内と国外ともに困難に直面していると田さんは見ている。「アメリカに行った時、わたしたちは一文無しでしたが、数年後には家を買い、自動車を手に入れ、仕事も見つかりました。しかし、これらで自己満足するべきではなく、また起業の足かせにもなるべきではありません。そしてもう二度と昔の苦しみを味わいたくないと思ってはならないのです。こういったものは、われわれが引き続き奮闘していくためのベースとなるべきです」

 深せん市の青年問題研究所の田傑所長は、長期にわたって帰国留学生による起業問題に関心を持ってきた。「帰国留学生の起業は、完全に自主的な選択です。留学生たちは自分の行為に対して敢然と責任を持ち、またそれができる人びとです。つまり、成熟した理性的な集団なのです。このような人びとが日増しに増えていくことによって、われわれのこの社会の近代化プロセスを真の意味で前へと推し進めることができるのです」

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