考古学上の発見と進展

葉楼

 近ごろ、北京市西郊外の老山で、完全な形で保存されている前漢(前二〇六〜二五)時期の古墳が発見されたことが話題となっている。この古墳は北京市の公安部門が昨年末古墳盗掘事件を検挙したときに発見されたもので、考古学上重要な意義がある。いま国家文物局の許可を得て、古墳の発掘作業が急ピッチで進められている。

 古墳の外観は升をかぶった形をし、南北の長さは五十五メートル、東西の幅は六十メートル、高さは約十二メートル、墓体は末広がりに傾斜している。ボーリングをして、古墳の盛り土が上から下へと何層にもなっていることがわかり、盛り土の中から漢代の陶磁器の破片が出土した。厚さ八メートルの盛り土を取り除いてできた平面の上で、考古学者はボーリングをして、墓室と墓室に通ずる道の正確な位置をつきとめた。古墳は「凸」字形を呈し、入口の南北の長さは二十四・五ないし二十六メートル、東西の幅は二十二ないし二十三・五メートル、墓室に通ずる道の長さは二十四メートル。墓室の輪郭ははっきり現れている。今度盗掘されたところを除いて、その他のところで盗掘の痕跡がまだ発見されていない。

 初歩的な調査の結果に基づき、歴史文献の関係記載と漢代の諸侯の墓の特徴と結びつけて、専門家たちはこの古墳が前漢の諸侯の大型の木椁墓であると初歩的に確定した。

 北京市文物研究所副所長で、発掘現場の総指揮を務める王武氏の説明によると、この古墳の発掘は北京地区の考古発掘史上、一九五六年の昌平の明十三陵の定陵発掘と一九七四年の豊台区大葆台の前漢墓発掘に次ぐいま一つの重要な考古発掘であり、前漢時代の北京地区の政治、経済、文化、都市の変遷および漢代の陵墓制度など多くの学科の研究に貴重な実物資料を提供する。中国社会科学院考古研究所の徐苹芳研究員は、これほど大きな前漢の陵墓から金縷の玉衣、副葬した車馬、絹織物、漆器など貴重な文物が出土する可能性が大きい、と見ている。

 ここ数年、中国の考古学は多くの面で進展をとげ、しばしば重要な文物が発見され、考古学のいくつかの重要な課題の研究も大きな成績をあげた。その中には、人類の早期の文化遺跡の探査、中国文明の起源の研究、夏・商・周時期の文化の研究、歴代の都、陵墓と手工業技術および内外文化交流などの研究が含まれている。

 最近最も注目されている考古学の研究は夏・商・周の時代区分である。この課題の研究はすでに段階的な成果をあげ、いま学術界で広く意見を求めている。

 以前、中国の歴史年表は西周晩期の共和元年、すなわち紀元前八四一年までしか遡ることができず、それより前の年代は、時代は分かるが年が分からない。つまり、エジプト、バビロン、インドとともに世界で最も古く、独自に発展した四大文明古国の一つと称される中国の五千年にも及ぶ文明史の中に、まだ年代を確定できない部分が二千余年もある。この期間の歴史には、伝説の五帝の時代と夏・商・周(西周)の三時代が含まれており、夏・商・周の三時代はまさに中国の古代文明が繁栄した重要な時期で、中国文明史の基本的な枠組みが形づくられた時期でもある。

 一九九六年に始まった夏・商・周時代区分の課題研究は科学技術部が夏・商・周の三時代の年代確定の問題を解決するために決定した重要な課題である。考古学、歴史学、天文学、古代文字学、年代区分学などの七十数名の専門家と学者が研究に参加したが、新たな古代文献資料が発見されないため、研究は難航した。それ以来の四年間に、中国の考古学者はこの課題研究で突破をとげるため、野外の考古発掘にこの上なく多くの心血を注ぎ、一連の重要な成果をあげた。関連あるその他の学科の専門家はこれを踏まえて多学科の共同研究を行った。

 一九八三年、河南偃師で商代早期の都が発見されたことは、夏、商二時代の区分に重要な手がかりを提供した。しかし、その都づくりの始まった年代がずっと的確に結論を下されていなかったため、二つの時代の区分が影響を受けた。一九九六年から、多くの青壮年の考古学者は偃師の商代の都に対し大がかりな発掘を行い、またも年代がもっと長く、つまり商族が夏朝を滅ぼしてまもなく建造した小さい都を発見した。学者たちは、この小さな城およびその中にある宮城の建造年代を夏、商の二時代を区分する基準とすべきであることを提出した。その観点はすぐ学術界に認められた。

 商代と周代の年代区分は商代の滅亡を基準とすべきだと一般に考えられ、周の武王が商の紂王を討伐した年を商代と周代の分界とすることが共通の認識となっている。しかし、商王朝が滅んだ後も商代の人たちがもとの都で一時期生活したため、商王朝滅亡前後の遺跡と遺物だけで商王朝の滅亡した時間を確定するのが難しい。つまり、商代晩期の都だった殷墟で商王朝と周王朝が交替する基準を探すのが非常に難しいことである。一九九七年、考古学者たちは別のところから手がかりを探しはじめ、今の陜西省西安市にある周代以前の遺跡――豊ク艪ナ再度大がかりな発掘を行い、発掘した周代の文化遺物の王朝交替の軌跡から周の武王が商の紂王を討伐した年代を探求した。その結果、彼らは西周時代の晩期、つまり武王が紂王を討伐した前後の文化遺物をわりに多く発見し、商王朝と周王朝の時代区分に基準を提供し、学術界の公認を得た。

 炭素14で年を測ることは時代区分の重要な一部分である。専門家たちは模索を繰り返してから、在来の炭素14で年代を測定する方法を大幅に改善し、常規の炭素14の年代測定の精度をもとのプラス・マイナス五十年からプラス・マイナス二十年に高め、時代区分の順調な進行のために基礎を築いた。専門家たちが偃師の商代の城、殷墟、豊こうなどの遺跡から出土した木炭標本を測定して得たデータは、夏代と商代、商代と周代の時代区分の研究結果の信憑性を大幅に高めた。

 天文学者も課題の研究に重要な貢献をした。科学者たちは大型コンピューターを利用して、古代の文献に記載された夏、商、周の三時代の日食、月食と周の武王が商の紂王を討伐したときの天象に対し演算を行い、それぞれ商王武丁の在位年代と周の武王が商の紂王を討伐した年代を推定した。

 昨年末、学者たちは各学科の研究結果をまとめて、夏、商、周の三時代の年数を推定した。つまり、夏代と商代の分界は紀元前一五〇〇年ないし紀元前一六〇〇年前後であり、商代と周代の分界は紀元前一〇二〇年ないし紀元前一〇五〇年の間であるということである。今年二月、同課題の首席科学者で北京大学古代文明研究センター主任の李伯謙教授はまた、文献学と天文学の研究成果および年代測定学者が各遺跡のサンプルのデータを分析した結果に基づいて、夏王朝が前二十一世紀の前期、大体紀元前二〇六九年前後から始まったはずで、前二十二世紀より早いことも、前二十世紀より遅いこともありえないと判定した、と発表秦の始皇帝陵で新たな文物が出土

 陝西省臨潼県にある秦の始皇帝陵は、七〇年代に「世界八番目の大奇跡」といわれる兵馬俑が発見されたことで内外を驚かせた。最近、同地でまたも多くの文物が発見され、出土したが、そのうち石の甲冑と百戯俑の出土は最も奇特であると言われている。

 一九九八年、秦の始皇帝陵の盛り土の南東約二百メートルの内城と外城の城壁の間で、面積一万三千平方メートル余りの大型副葬坑が発見された。百平方メートル余り発掘しただけで、秦代の石でつくった鎧(よろい)と兜ハ(つまりかぶと、古代戦う時にかぶったヘルメット)が大量に発見された。これはこの世に再び現れた秦代の甲冑の実物である。それによって、人々は秦帝国の軍事、文化などをいちだんと認識するようになった。

 甲冑は歴史は長いが、石で甲冑をつくることは古今東西聞いたことがない。昨年末の試掘で、石の鎧が九十点近く、石の兜が約三十六点出土し、同時に石でつくった手綱の破片も出土した。

 推定によると、秦・漢時期に発生した大火災で、秦の始皇帝陵の無数の副葬坑と美しく珍しい副葬品が焼失し、これらの石の鎧も難を免れなかった。発見された時、これらの石の鎧も程度こそ違うが焼かれて変質し、副葬坑の底に乱雑に倒れていた。考古学者は識別と分析を通じて、大多数の鎧が長方形を呈していることを発見した。このほか、八百枚以上の甲でつくられ、外観が鱗によく似た鎧が二点あった。これら鱗状の甲は上は四角形で、下は円形であり、しかも薄くて小さく、丹念に磨かれている。出土した数量と念入りにつくられていることから推測すると、それは将軍など位の高い軍人が着用したものと思われる。もう一点の超大型の鎧は、「馬の鎧」、つまり、軍馬用の鎧と推定された。その鎧は全長約一・八メートルで、甲の長さは約十五センチ、幅は八センチ。

 考古学者たちは、甲冑の大きさと形から分析して、これらの石の甲冑は実用の甲冑に基づいてつくったものであるが、これらの甲冑がもろく割れやすいことから、もっぱら秦の始皇帝の副葬品としてつくられたもので、兵馬俑が身につけている陶製の鎧と同じく、実用的な甲冑でない可能性が大きい。

 一九九九年、秦の始皇帝陵の南東の隅で秦代の百戯俑が発見されたことは再び人々の関心を集めた。この陵の内城と外城の間にある長方形の副葬坑をわずか九平方メートル試掘した結果、精緻で、独特な風格をもつ秦代の陶俑が十数体発見され、出土した。これらの陶俑はほとんど実物大で丸裸であり、わずか腰に短いスカートをつけているだけである。これらの陶俑は、大きくて丈夫そうなものもあれば、痩せほそって小柄のものもあり、動作の造型もそれぞれ違っている。分析によれば、これらの陶俑の風格と特徴は秦代の兵馬俑と全く違っており、修復済みの陶俑から見ると、秦代の豊富多彩な曲芸および宮廷の活発で清新な娯楽と文化を表している。

 最初の遠海水中考古

 一九九八年から一九九九年にかけて、中国歴史博物館水中考古研究室、海南省文物考古研究所などの水中考古専従要員で構成された西沙水中考古作業班は初めての遠海水中考古作業を行い、大きな成果をあげた。

 今回の調査と発掘の過程で、水中考古作業班のメンバーは科学的なプロセスに従い、国際基準に基づき、水中カメラと水中ビデオカメラなどのハイテク設備を利用して、すべての遺物現場に対し測量、製図、撮影、録画などかなりハイレベルの科学的記録を行った。現場で手に入れたこれら完全で、系統的な科学的資料は出土した遺物と一緒に、中国の初めての遠海水中考古の貴重な研究資料となった。

 今回の発掘作業は南中国海の西沙諸島の北礁を主な作業地点として進められ、同時に華光礁と銀島でも調査と試掘作業が行われ、十世紀から十九世紀までの各時代の水中文物の遺跡十三カ所、近代の遺跡一カ所が発見され、最も深いところは三十五メートルにも達し、最も浅いところは一、二メートルしかなかった。遺物の堆積状況に基づく初歩的な分析によれば、これらの遺物は大体二種類に分けられる。一種は間違いなく古代の沈没船の遺跡であり、もう一種はほとんど沈没船の遺跡が見当たらず、散らばった磁器の破片ばかりである。そのため、この種の遺物があるところは恐らく沈没船の海難発生現場ではなく、水中に大量の文物が堆積したのは、波や潮に押し流された結果かもしれない。もう一つの推定では、沈没船の船体が自然の力および事故発生後の人為的破壊によってすでになくなり、一部分の遺物しか残らなかった可能性があるという。

 今回の考古調査で、発掘、採集した出土文物は合計千五百余点にのぼり、主に磁器であるが、鉄器、象牙、鉛と錫、船板なども少量あった。磁器の種類はわりに多く、宋・元時期の青磁と白磁、明・清時期の青花などがあり、器の形は碗、小皿、おしろいの箱、瓶、壺、小さい缶、かめなどがあり、主に福建、広東、江西のかまどで焼成したものである。

 今回の考古作業であげた実り豊かな成果は、再度争う余地のない事実で世人に、古代の「海上シルクロード」の要衝であった南中国海の諸島に、古代中国の水中文化遺産がきわめて豊富に秘められていることをはっきり示しているばかりでなく、中国人がいちばん早く南中国海の諸島に上陸し、いちばん先に開発を行ったことを証明する最もよい歴史的証人でもある。同時に、今回の成果は中国の航海史、海外貿易史、陶磁器の貿易史、造船史の研究にも一連の貴重な実物資料を提供し、重要な学術的意義を持っている。

 その他の発見と研究

 ここ数年、早期人類の文化遺物と新石器文化遺物についての研究と模索もしばしば進展をとげた。安徽省繁昌の人字穴で発見された二百万ないし二百四十万年前の、人工の跡がわりと明らかな石製品は、アジア地域の人類起源の研究に新しい手がかりを提供した。広西チワン族自治区邑寧頂の獅山遺跡の再度発掘によって、五千ないし一万年前の広西チワン族自治区の文化序列をほぼはっきりさせた。この時期の居住跡、三百余りの墓と大量の遺物に基づき、珠江流域における他の先史遺跡の発掘によって収められた研究成果を結び付けて、専門家たちは、この地区の原始文化の発展のパターンが恐らく黄河と長江流域のものと違っていると初歩的に判断した。

 中国文明の起源についての研究をめぐって、ここ数年、浙江省嘉興県の良渚文化(紀元前三三〇〇年〜紀元前二二五〇年)の土とん墓地、山東省日照の二つの町、成都平野の都江堰の芒城、河南省新密市の古い城塞など一部の先史遺跡に重点をおいて発掘を行った。そのうち、一九九九年に行われた良渚文化についての研究にかなり大きな突破が見られた。つまり、浙江省嘉興の高カユで人工によって築かれた面積約二百平方メートルの高台と十二の墓が発見され、玉器四十六点を含む副葬品二百六十余点が出土した。この発見によって、良渚文化時期の「中間階層」の埋葬風俗が具現され、副葬品のうち、良渚文化時期の「貴族」が使ったと見られる玉背象牙くしは、髪を束ねるのに使われる最初の装飾品であると推定された。

 ここ数年、古代の手工業技術に対する考古研究面では、陶磁器、酒の醸造および塩井などの遺跡の発掘であげた成果が最も顕著である。そのうち、酒文化は中国の古代文化の中で特色を持つ一つの分野ではあるが、これまでに発見されたこれと関係ある遺跡がとても少なかった。一九九九年以来、関係方面が浙江省寧波にある宋代の「都酒務」という作業場遺跡、四川省瀘州にある唐代末期から元代初期(ほぼ九世紀から一三世紀まで)の酒器作業場遺跡、成都にある明・清時期(一三六八年〜一九一一年)の酒作業場遺跡の発掘によって、この分野の内容が充実した。例えば、寧波の「都酒務」遺跡の発掘では、一万個もの酒を入れる磁器の瓶と煉瓦を敷き詰めた床が発見された。これらのものは宋代の有名な酒造作業場の盛況を顕示し、酒造業の発展と歴史を研究するうえでの重要な考古資料である。また、成都の井戸街にある明・清時期の酒造作業場遺跡の発掘は、中国が初めて古代酒造遺跡に対し行った大がかりな発掘であり、中国の焼酎醸造技術と設備の発展と変化についての研究を促した。

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