東欧諸国の方向転換の十年
一九八九年から九一年末にかけて、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア(当時)、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアなどの国の政局に激変が生じ、社会制度の交代を招いた。十年前後の変化によって多くの国はスタイルを一新し、制度の変化もほぼ最終的決着を見たが、さまざまな地域や国と国との間のギャップは次第に大きくなり、各国の方向転換の過程で生じた深層レベルの矛盾もさらに顕在化するようになった。二十一世紀に入ってからも、これらの国々は新たな試練に直面し、模索と選択を迫られることになると思われる。
体制の初歩的形成
十年前後の実験段階を経て、東欧諸国の政治、経済体制および外交は西側の軌道に入る方向に向かって進み、地域の全般的情勢にはかなりの変化が生じた。
「西側化」の政治体制がほぼ定着し、社会構造にかなりの変化が生じた。東欧諸国で西側スタイルの「民主」議会の第一歩が確立され、三権分立はひな形が整えられた。大統領、議会、首相が政権運営の中心となり、議会はさまざまな政治力が憲法に基づいて角逐する弁論の演壇となっている。
激変後、各国はイデオロギーの上で政治の多元化を実行し、政治分野では多党併存を認め、多くの政党と組織が一時期に次々と結成の宣言を行った。しかし、時がたって政党政治が次第に成熟するにつれ、一部の政党と組織は明確な実効性のある政治経済綱領と社会的支持の欠乏によって次第に消滅していった。それと同時に、現存する政党は絶えず両極に向かって分化し、基本的には左右両陣営の二大派閥の政治力が形成されて互いに角逐し、議会の選挙では自らの選挙公約を盾に民衆の支持を得て、相手側に勝つことによって政権を取ろうとするようになった。今では、左右両陣営の持ち回りの政権担当が、東欧諸国の政界の移り変わりでは珍しくない現象となった。
市場経済体制が「初級発展段階」に入った。このことは、次の四つの面に主に現れている。
一、市場経済に適応する法律の枠組みの第一歩が確立した。新しい憲法を制定することを通して、国の経済体制が市場経済であることが明確に規定され、具体的経済分野で立法によって経済メカニズムの運営が調節されるなど、各国はいずれも一連の経済法を制定した。
二、所有制に変化が生じた。東中欧諸国は私有化を私有制への変革の核心とし、それによって国有資産の再編を行い、所有権制度を改革し、資源の最適化と配置を促進した。
三、市場経済メカニズムがとりあえずの役割を発揮し、多国籍の要素市場の第一歩が形成された。競争的価格メカニズムが形成され、経常項目のもとでの通貨の自由兌換が行われ、対外貿易が自由化され、銀行の体制改革と税制の改革が行われ、租税と税制構造が調整され、外資企業に税制面での優遇措置が取られ、国際慣行に基づいて市場経済の運営に適応する要素市場が打ち立てられ、新たな社会保障システムが確立された。
四、政府の経済への直接介入の機能が弱まり、国の行政管理はマクロ規制へと変わった。所有制の構造の調整に伴って各国の経済自由化の度合いが次第に向上し、市場の需要と価格水準がいずれも市場メカニズムによって調節されるようになり、行政介入という手段はもはや主導的役割を果たさず、政府の管理機能は総合経済の発展状況によってそれぞれの分野に対し政策的指導を行い、経済てこと財政通貨の手段を利用して国の経済生活を調節するのみとなった。
ヨーロッパに回帰し、ヨーロッパ統合に参加することが、大多数の国の既定の国策となった。激変後、旧ユーゴスラビア諸国のユーゴスラビアとボスニア・ヘルツェゴビナが国内情勢の動揺と外部環境の厳しさのために混乱しているのは別として、その他の東中欧諸国はいずれも北大西洋条約機構(NATO)および欧州連合(EU)への加盟を対外政策の核心としている。ヨーロッパ統合の道のりにおいてはまだ多くの困難と対立が存在しているとはいえ、東中欧諸国の政治方針はすでに定まっており、西側に依存する戦略と西側システムへの融合の大きな情勢はすでに後戻りのできないものとなった。
日増しに顕著になる南北のギャップ
十年前後の変化を経る中で、東中欧諸国の発展における国と国との格差が日増しに顕著となってきた。ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロベニア、スロバキアの北部五カ国と、南部のルーマニア、ブルガリア、アルバニア、および旧ユーゴスラビア地域の多数の国とのギャップが絶えず拡大し、地域全体は北強南弱の態勢で二十一世紀に入ろうとしている。
各国の政情の安定には比較的大きな格差が存在し、政局の安定の度合いは北が大きく南が小さい。北部五カ国では西側スタイルの政治体制が基本的に確立し、政治力の左右両極への分化の進み具合も比較的速く、中間的な力がかなり弱くて、主要な与党と野党を中心として政治勢力の分割を行ったり持ち回りで与党になるといった局面が逐次形成されている。一方、南部の多数諸国の政局は流動的で、動乱の要素は短期間にはなかなかなくなりそうもない。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はすでに終結したとはいえ、和平プロセスはまだ弱く、ムスリム人(イスラム教徒)、クロアチア人、セルビア人の三民族の分裂、統合などの問題ではそれぞれが自分の意見を主張し、歩み寄りは困難である。また、アメリカを主導とするNATOによるユーゴスラビア攻撃はバルカン地域の情勢をさらに悪化させた。アルバニアとルーマニアでは激変後における派閥闘争が一貫して激しく、国内情勢は何度も動揺した。
経済発展のアンバランスが激化し、発展のスピードは北が速く南が遅い。北部五カ国の発展の勢いは良好で、多くの国の経済は持続的に成長している。ポーランドの経済は一九九二年末に他に先駆けて復興し、その他の四カ国も相次いで谷底から抜け出して、経済は普遍的に成長している。その一方で南部諸国は支障が比較的多く、情勢は依然として厳しい。
NATOとEUへの融合の過程で、融合のスピードに明らかなギャップが現れた。北部諸国のNATO加盟にはすでに実質的進展が見えているが、南部諸国は依然としてスタート時点の実験的段階にある。欧米の重点的選択と支援のもと、ポーランド、ハンガリー、チェコは今年三月に同時にNATOに加盟し、それらの諸国とEUとの間のEU加盟に関する議事日程も実質的交渉の段階に入った。スロベニア、ルーマニア、スロバキアは次のサイクルのNATOの東への拡大の時にNATOに加盟する望みがあり、スロベニアは加盟の歩みをさらに速めている。だが、ブルガリア、アルバニア両国および旧ユーゴスラビア諸国は、国内関係の緊張やあるいは民族関係の不和、領土紛争などの問題によって、比較的長期にわたって「平和のための協力協定(PFP)」の枠組み内でのみNATOとの協力の強化が可能であるにすぎない。しかもそれら諸国は今後かなり長い期間、EUとは別に自ら発展を図るしかない。
長い発展パターン模索の道
十年の過渡期を経て、東中欧諸国の政治、経済体制は基本的に「西側化」したが、全体としての復興とヨーロッパへの融合にはなお歳月を必要とし、各国がその国の国情に適合した発展パターンを模索するにはまだ長い道程を歩まねばならない。
「西側化」のプロセスは安定しておらず、完ぺきで安定した西欧式社会政治体制の確立までにはまだ大きな距離がある。その原因の第一は多党議会体制には権威性がなく、一部の政党の指導者は資本主義および議会制民主主義の考え方や運営スタイルに適応しておらず、互いの間の私的闘争で時間も労力も使い果たし、それによって立法と議案の審議が阻害されていることである。第二の原因は、多党政治体制の足並みがそろわず、安定した権力の中枢の確立が難しいことである。第三の原因は、政党政治の発育がかなり未熟であり、適切で実行可能な国政理論と長期にわたる全面的計画を打ち出すことができる政党が一つもないことである。
市場経済体制を確立し、完全なものにしていく過程でいくつかの難問が日増しに突出し、各国の経済発展を制約する障害となっている。まず、経済体制の方向転換において概念と意識を改めることがなかなか進まず、一部の古いメカニズムが残した立ち遅れた面が新しいメカニズムの運営をひどく阻害している。次に、所有制の改革で形式と数の上での私有化ばかりが重視され、構造の調整と企業経営の改善といった点は十分に重視されていない。私営企業は著しい発展を遂げたとはいえ、外資利用が比較的困難であるとか銀行の利率が比較的高いなどといった難問にも直面している。このほか、朝令暮改の法令によって私営企業の経営環境は不安定なものに変わり、法律違反のさまざまな不正行為も現れている。最後に、改革における深いレベルの問題が、日増しに顕著になってきている。インフラ施設が立ち後れ、資源の最適化の配置が理想的ではなく、大・中型国有企業の改革が阻害され、失業率が高く、社会保障制度が完全なものとなっておらず、金融体制改革が滞り、財政監督管理メカニズムが健全ではなく、資金の流出がひどいなどといった現象が、公共財政の持続的危機や恒常的財政赤字といった問題を引き起こし、内需不振や投資資金の欠乏によって経済発展がしりすぼみになり、それらによって一部の国の経済が短期間に良性循環の軌道に乗ることは難しくなっている。
ヨーロッパへの回帰も多くの支障と障害に直面しており、全体的スピードはさらに低下すると思われる。現在、NATOの東への拡大の歩みはすでにテンポをゆるめており、いくらか停滞ぎみでさえある。その原因の第一は、ポーランド、ハンガリー、チェコが加盟しても、短期間内に軍事体制、軍事技術、武器装備などの面における目標達成が困難で、NATOは新加盟国の消化と資金不足の問題に直面していることである。第二は、内部の関係が複雑化することを避けるため、新旧加盟国および加盟国と未加盟国との間の対立を考慮し、解決するための十分な時間をNATOが必要としていることである。第三は、NATOが新戦略構想を定め、内部の食い違いを埋めるなどの作業を精力的に処理し、しばらくはさらなる東への拡大を実際の操作日程に盛り込んでいる暇がないことである。
それと同時に、EUの東への拡大計画も延期され、最初の東への拡大の期日は二〇〇五年あるいはさらに先へと引き延ばされる可能性がある。第一の原因は、東中欧諸国とEU諸国とでは全体的経済水準において大きな開きがあることで、東中欧諸国の国内総生産(GDP)はEUの水準の五分の一ないし六分の一にすぎず、特に法律法規のリンケージと整備は短期間で成し遂げられるものではない。第二に、東への拡大にかかる財政負担が重く、東への拡大に対するEUの態度に新しい変化が生じたからである。第三に、EUは東中欧諸国に対し「争奪と制約」という二重の政策を採り、東中欧諸国を自国の生産品のダンピングの場とすることだけを考え、東中欧諸国が急速に発展して自らの競争相手になることを願ってはいないからである。