中ソ、中ロ関係を回顧


 旧ソ連は最初に新中国を承認した国である。新中国成立の翌日、すなわち一九四九年十月二日、ソ連は新中国を承認することを明らかにした。承認を明らかにした九日目、すなわち十月十日、初代のソ連駐中国大使のルシン氏が北京に着任した。これは旧ソ連政府の新中国に対する最大の支持であった。中ソ国交樹立五十年来、両国には親密な間柄で、助け合いの黄金時代があったにもかかわらず、激しく論争し、互いに敵視し合う長い歳月もあった。最後に冷静な思考を経て、平和共存五原則を踏まえて友好関係を発展させる新たな時期を迎えた。

同盟の時期

 中国は大国である。新中国の成立は社会主義の力を大いに増強し、国際舞台におけるさまざまな力に重大な変化を生じさせた。旧ソ連にとって言えば、中国との関係を強化し、強固な中ソ同盟を構築することはソ連の安全を強固にするうえで最も重要であった。
 旧ソ連との関係を強化するため、毛沢東主席は一九四九年十二月六日モスクワに赴き、十二月二十一日スターリンの七十歳の生誕祝典に出席した。しかし、毛沢東主席の訪ソの最も重要な目的はスターリンと話し合って、新たな中ソ条約を締結して、一九四五年八月に旧ソ連が国民党政府と結んだ「中ソ友好同盟条約」に取って代わることであった。この古い条約と関係協定は、中ソが中国の長春鉄道と旅順口軍港を三十年間共同使用することを規定し、それによって、旧ソ連は日本が中国東北地方を侵略する以前の帝制ロシア時代の「優越した権利」を取り戻した。
 毛沢東主席はモスクワに到着した日の午後、スターリンと会談を行って、この問題を提起したが、スターリンはさまざまな口実を設けて断った。一時期のこう着状態を経て、両国は一九五〇年二月十四日、「中ソ友好同盟相互援助条約」および長春鉄道、旅順口と大連に関する協定に調印し、対日講和条約の調印後、ソ連は遅くとも一九五二年末までに、中国の長春鉄道とすべての資産および旅順口を中国に引き渡すことを定めた。新しい協定は、中ソの中国長春鉄道、旅順口に対する共同使用期間が三十年から三年に短縮し、中国東北におけるソ連の「優越した権利」が一九五三年から廃止されることを意味するものであった。
 スターリンは中国に譲歩した後、中国がソ連に空軍を派遣して上海を守ってくれよう求めたことに乗じて、中ソ条約「補足協定」の締結に同意するよう中国に要求した。この協定は中国の東北地方、新疆と旧ソ連の極東、中央アジアが隣接する地域に中ソ以外の第三国の人員と資本が進入することを認めないことを定めた。スターリンの圧力の下で、中国はこれに譲歩した。
 それにもかかわらず、スターリンの中国に対する態度は、全般的に言えば友好的なものであった。スターリンは一九四五年の中ソ条約を廃止し、新しい条約を結ぶことに同意し、中国の主権も尊重すれば、中国の安全を保障した。そして、台湾問題の上では中国に大きな支持を与えた。また中国を援助して百十四件の大型工業企業を建設することも約束し、中国に協力して工業基盤を築いた。
 スターリンが一九五三年に死去した後、フルシチョフら新しい世代の指導者は引き続き中国に友好的な意思を表し、スターリンの残した一部の問題を解決し、理解し合い譲り合う原則にのっとって両国の友好関係を保ち、発展させた。

関係が悪化

 中ソ関係の悪化は一九五八年から始まったものである。その年に旧ソ連の国内情勢と国際情勢はいくらかよくなり、国力がいくらか増強された。このような情勢の下で、フルシチョフは、社会主義陣営における旧ソ連の指導的地位を強化し、社会主義国の経済と国防の一体化を実現しようとしたが、中国はこのような一体化のメカニズムに参加することを望まなかった。それと同時に、旧ソ連のその他の方面の不合理な請求も中国に断られた。
 いろいろな食い違いにより、旧ソ連は一九五八年から中国への技術譲渡の減少を一方的に決定し、一九五九年九月中国への原爆サンプル提供停止を通知し、一九五七年に中ソ双方が調印した関係取り決めを破棄した。
 旧ソ連はまた、一九五八年中国共産党第八回全国代表大会第二回会議が確定した内外政策に反対し、公然とまたは内部で批判、非難した。一九五九年、中国の対外政策に対するソ連の公開の批判がますます多くなり、フルシチョフは、中国は武力で資本主義の安定性を探るとしていると根も葉もないことを言った。台湾、チベット、中国とインドの国境問題等では、中国側と激しく論争した。そのほか、彼は中国共産党に政治的圧力を加えようとしたが、効を奏しなかった。一九六〇年七月、フルシチョフは、中国にいるソ連の専門家を残らず召還すると発表して、中国の多くの大型建設プロジェクトが工事を続行できなくさせ、これによって中国に経済圧力を加えようとした。一九六四年、旧ソ連の指導者は、中ソ国境に増兵し、またモンゴル人民共和国に軍隊を駐屯させて、中国に軍事圧力を加えた。一九六九年三月の珍宝島事件後、旧ソ連は中ソ国境とモンゴル人民共和国に中距離核ミサイルを配置して、中国に対する軍事脅威を強化した。七〇年代、ソ連はアフガニスタンに侵入し、またカンボジアに侵入するようにベトナムをそそのかし、中国に対する戦略的包囲を布石した。
 中ソ関係が友好から対立に向かった主な原因は、主としてフルシチョフが初期の平等な態度で中国に対処し、問題にぶつがると中国と平等に話し合い、互いに相手方の利益を配慮するやり方を変えて、中国というこの比較的弱い同盟国を極力ソ連に屈従させ、中国に絶えず圧力を加えた結果である。

仲直り

 中ソは隣接する二つの社会主義大国であり、和すれば双方に有利であり、敵対すれば双方とも傷づけられる。
 早くも一九六九年に、周恩来総理は、両国のイデオロギー面の原則的な食い違いは、国家関係の改善を妨げるべきではないと指摘し、実務の基礎の上で両国間の国家関係を緩和しようとした。しかし、周総理の考えはソ連に理解されなかった。なぜなら当時のソ連が国力の最盛期にあったからである。七〇年代全体に、中ソ国境での衝突は少なくなったが、両国の対立状態はそのまま続いた。
 八〇年代に入ってから、旧ソ連は政治、経済、外交の面で厳しい困難に直面したため、中ソ関係改善の問題を真剣に考慮するようになった。一九八二年三月、ブレジネフはタシケントに和解のシグナルを出し、中国はすぐそれに反応を示した。八月、中国外交部は大使館の仕事を視察する名義でソ連東欧司司長をモスクワに派遣し、両国が友好関係を回復するには、両国関係を妨害するいくつかの重大な障害を取り除くことから着手し、その地の関係の発展を促すべきであるという情報をソ連に伝えた。
 中ソ双方は、両国は外務次官クラスの政府特使を派遣し、両国関係正常化問題について政治的協議を行うことを申し合わせた。第一回の会談は一九八二年十月北京で行われた。その後、毎年両国の首都で二回の協議を行った。会談は九回行われ、両国の経済貿易、科学技術、文化スポーツの面でかなりの進展を遂げたが、実質的な問題の上ではずっと足踏みの状態であった。中国側は両国関係を妨害する三大障害を取り除くことを主張した。第一、ソ連側は中ソ国境に駐屯する軍隊を一九六四年以前のレベルに減らし、ソ連はモンゴル人民共和国から撤兵する。第二、ソ連はアフガニスタンから撤兵する。第三、ソ連はカンボジアから撤兵するようベトナムを勧告する。ソ連側は両国の政治会談は第三国にかかわることができないことを理由として、これらの問題の討論を拒否した。
 一九八六年七月末に、ゴルバチョフはウラジオストクで講演した際、ソ連はいかなる時、いかなるレベルで中国と善隣関係樹立問題について討論することを願っているかということと、メーン航路に基づいて黒竜江における国境を画定することに同意し、段取りを追ってアフガニスタンから撤兵し、またソ連軍の大部分を撤退させることについてモンゴルと討論すると発表した。一九八七年、第十回の中ソ会談で、ソ連側はカンボジアから撤兵するようベトナムを勧告したことを表明した。協議を十三回も行って、問題をほぼ解決することができた。一九八八年末、銭其しん外交部長のソ連訪問によって、中ソ両国の関係正常化は第一歩を踏み出した。一九八九年五月、旧ソ連の指導者ゴルバチョフ氏が訪中し、とう小平氏とハイレベル会談を行った。これによって、過去に終止符が打たれ、未来が切り開かれ、両国関係の全面的な正常化が実現し、同時に両国共産党の間の関係正常化も実現した。
 その時に発表された中ソ共同コミュニケは、今後、両国の国家関係は主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存という国と国との間の関係についての普遍的原則の基礎の上に打ち立てられ、双方はこれを踏まえて善隣友好関係を発展させると述べている。中ソ双方は六〇年代から七〇年代にかけての紆余曲折を経た後、ついに平和共存の五原則を順守してのみはじめて、両国関係の安定した持続的な発展を維持できるという根本的意義を認識するようになった。
 同コミュニケはまた、中ソ両国の共産党間の関係を独立自主、完全平等、相互尊重、相互内部問題不干渉の基礎の上に打ち立てることを明らかにした。これはそれ以前のいわゆる「プロレタリア・インターナショナリズム」という原則とは根本的な違いがある。
 中ソ間の新しいタイプの関係が強大な生命力を持っていることは実践によって証明されている。一九九一年のソ連解体の前は、中ソ関係の発展は良好であった。一九九〇年、李鵬総理は旧ソ連を訪問し、ソ連と経済貿易、科学技術および文化協力についての一連の協定に調印した。一九九一年、ゴルバチョフ書記長の一九八九年の訪中の答礼訪問として、江沢民総書記は旧ソ連を訪問した。訪問期間中、両国の外相は「中ソ国境東部区間に関する協定」に調印し、東部区間の中ソ国境問題をほぼ解決した。

パートナーシップ

 旧ソ連の解体後、中ロ関係は依然として平和共存の五原則に基づいて引き続き発展した。一九九二年十二月、エリツィン大統領は楊尚昆主席の招きに応えて中国を訪問し、双方は「中華人民共和国とロシア連邦の相互関係に関する共同声明」など二十四件の文書に調印し、両国が各分野で対等な協力を行うための基礎を築いた。エリツィン大統領の訪中後、両国の首相、軍隊、議会、通信社なども協力関係を樹立した。
 一九九四年九月、江沢民主席はロシアへ赴いて答礼訪問を行い、エリツィン大統領と「中ロ共同声明」、「核兵器先制不使用と互いに戦略核兵器の照準をはずすことに関する中ロ共同声明」に調印し、両国の外相は「中ロ国境西部区間に関する協定」に調印するとともに中ロ国境全線において調査と標識設置作業に取りかかった。
 一九九六年、エリツィン大統領が二回目の訪中を行った際、両国はまた三つ目の共同声明に調印し、「平等、信頼を旨とし、二十一世紀に向けての戦略的協力パートナーシップ」を打ち立てることを明らかにし、両国関係を戦略的協力という次元に高め、両国関係のために新たな見通しを切り開いた。エリツィン大統領は訪問期間中、江沢民主席、カザフスタンのナザルバエフ大統領、キルギスタンのアカエフ大統領、タジキスタンのラフモノフ大統領とともに上海で五カ国首脳会談を行い、相互信頼を強めた。このような五カ国首脳会談はそれ以来毎年一回行われ、今年八月、キルギスタンの首都ビシケクで第四回会談が行われた。
 中ロ両国首脳の定期会談もすでに制度化し、今年、江沢民主席とエリツィン大統領はモスクワでネクタイを締めない非公式会談を行ったが、年内に北京でもう一回行うことになっている。中ロ両国の戦略的なパートナーシップは第三国に向けたものではなく、中ロ両国人民の利益に合致するばかりでなく、アジアと世界の平和と発展の促進にも有利である。
 

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