新中国外交の五十年

 五十年前、生まれたばかりの新中国は封鎖、禁輸に直面していた。それから半世紀経った今日、中華人民共和国は百六十三カ国と外交関係を樹立し、二百二十カ国・地域と経済貿易、科学技術、文化などの分野における協力交流を保っている。国連安全保障理事会の常任理事国として、中国は国際問題の中でますます重要な役割を果たしている。

 中国外交の出発点は独立自主

 一八四〇年から一九四九年にかけての百余年間は中国の外交史上振り返るのもつらい一ページであった。西欧の列強は中国に対し何回も侵略戦争を起こし、中国は余儀なく主権を喪失し、国辱となる条約に次々と調印した。「中英南京条約」の調印以降の百余年間に、中国は余儀なく千百余りの不平等条約に調印し、賠償のため領土を割譲し、通商港を開放し、侵略されるままであった。パリ平和会議に参加した中国代表は「弱国には外交はない」と感嘆せざるを得なかった。

 新中国は主権国として世界の舞台に登場した。毛沢東主席は新中国の外交をもう一度初めからやり直し、その中核は独立自主の平和外交であった。

 新中国成立の初期の頃に、アメリカは中国敵視の姿勢を取って、政治、経済、軍事の面から中国を全方位において封鎖して中国の発展を阻止しようとした。新中国成立後のわずか三日後に、アメリカ政府は直ちに国民党政権を引き続き承認することを公表した。一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発した。アメリカなどの西側諸国は朝鮮に出兵し、戦火を鴨緑江の岸辺まで拡大させると同時に、アメリカの第七艦隊は台湾海峡に侵入し、中国の主権と国家の安全をひどく脅かした。当時、経済が極度に困難であった状況の下で、中国の指導者は米国に抵抗し、(北)朝鮮を援助し、自分たちの家と国を守るという決定を行った。中国の軍隊は朝鮮の戦場で世界軍事史上弱国が強国にうち勝つという奇跡を創り出した。朝鮮停戦協定の調印は、中国の外交交渉がこれまですべて国の権益を犠牲にして終わったという歴史を書き直すものであった。

 主権問題については相談の余地はないというのが、中国の独立自主の平和外交政策の顕著な特徴の一つである。一九五八年、前ソ連の指導者は中国に両国共有の長波無線電信局と合同艦隊を設置することを提案したが、毛沢東主席はこれを断固として拒否した。一九六三年、米、前ソ連、英の三カ国は大国の核独占地位の強固を目指す部分的核実験禁止条約に調印した。中国は核独占を非難するだけでなく、実際の行動でもって核独占を打破した。一九六四年十月十六日、原爆のキノコ雲が中国の西北地区の砂漠の空に昇った時、世界中の人たちを驚かせたのは中国の核技術の急速な進歩ばかりでなく、中国の主権と独立を守る意志と決意であった。

 新中国成立後、中国は国連における合法的議席を回復させるために不撓不屈の闘争を行った。一九七一年十月二十五日、第二十六回国連総会では圧倒的多数で提案が採択され、国連における中華人民共和国のすべての合法的権利を回復し、直ちに台湾当局を国連機構およびそれに属するすべての機構で不法に占有していた議席から追い出すという二七五八号決議に署名した。中国の代表は自信にみち笑みを浮かべて国連の建物に入った。

 中国の外交は一歩一歩アメリカが設けた障害を乗り越えるようになった。一九七一年の「ピンポン外交」から一九七二年のニクソン米国大統領(当時)の訪中まで、中米両国は二十二年にわたる膠着状態を終わらせ、両国関係の正常化の扉(とびら)を開いた。中米両国関係の正常化および国連における中国の合法的議席の回復は中国が封鎖を完全に打破したことを示している。

 その時から、中米関係はまたもさまざまな曲折をたどったが、中国政府は終始独立自主の方針を堅持しつつ、アメリカの利益を尊重すると同時に、中国人民がいかなる国家利益を損なうことと中国の内部事務、特に台湾問題に対する干渉を絶対に受け入れることはあり得ないと明確に表明した。

 中国外交の主旨は世界平和

 一九五四年、新中国は初めて国際舞台にデビューした。中国代表団はジュネーブに赴いて、米国、前ソ連、イギリス、フランスとともに朝鮮問題とインドシナ問題について話し合った。周恩来総理の提案でインドシナの停戦が実現した。

 ジュネーブ会議の休会期間に、周総理はインドとビルマ(現在のミャンマー)を訪問し、中国はそれぞれインド、ビルマ両国と新しいタイプの国家間の付き合いの基準を確定したという声明を発表した。これは主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存の五原則で、その後国際関係の基準となったものである。

 中国は冷戦思考に反対し、対抗と武力による脅威を行わず、対話と協力を通じて世界の安全問題と国家間の紛争を解決することを主張している。国連安保理の常任理事国として、中国はイラン・イラク戦争問題とカンボジア問題などの重要な地域的衝突を公正かつ合理的に解決するうえで他のものが代わることのできない役割を果たした。インドとパキスタンの核実験、コソボ、朝鮮半島などの問題でも重要な建設的役割を果たしてきた。

 中国は国際的軍縮のプロセスに全面的に参与して、それを積極的に推し進めてきた。中国が一九八六年から五年連続して国連総会で打ち出した核軍縮と通常軍縮に関する提案はすべて一致採択された。一九八五年と一九九七年の二回にわたって、中国は一方的に大規模な軍縮行動をとり、百五十万の兵員削減を行って、国際社会から幅広い称賛を浴びた。それと同時に、中国は包括的核実験禁止条約(CTBT)と核拡散防止条約(NPT)を含む数十の国際条約に署名した。

 ケ小平氏が創造的に打ち出した「一国二制度」の偉大な構想は香港、澳門の祖国復帰を解決し、海峡両岸の平和的統一を実現するために唯一の正しい道を明示した。氏の打ち出した「主権は中国に属し、食い違いをタナあげにして、共同で開発する」という方針は、歴史上残されてきた釣魚島と南沙群島などの領土と海域の紛争問題の平和的解決のために新しい構想を提示した。

 江沢民主席を中核とする中国の第三世代の指導グループの効果的な外交活動によって、大国間の関係調整に突破的進展が見られている。九〇年代に入ってから、中国が提唱し確立した世紀にまたがるパートナーシップ関係は幅広く認められるようになった。中国はアメリカ、ロシア、日本、EUと異なった形のパートナーシップを確立し、双方関係の健全かつ安定した発展のための枠組みを構築した。

 人類の発展を目指す中国外交

 一九八五年、ケ小平氏は、平和と発展は当面の世界の二つの大きな主題であり、発展はその核心であると指摘した。早くも八〇年代の初めに、中国の改革・開放の総設計師であるケ小平氏は、扉を閉ざして建設を行っては成功を収めることができず、中国の発展は世界から切り離すことはできないと指摘した。

 建設と発展は安定した平和な外部環境を必要としている。しかし、五〇年代と八〇年代には、中国の周辺地域は安定していたとは言えず、戦争もしばしば発生し、その中には朝鮮戦争、ベトナム戦争、ベトナムのカンボジア侵入、前ソ連のアフガニスタン侵入もあれば、インド、前ソ連、ベトナムに対する中国の自衛反撃戦もあった。九〇年代に入ってから、中国と隣国との関係は大いに改善され、十五ある隣国のうち十カ国は中国と国境協定を締結した。中国の国際実務における確固不動の立場と柔軟的な対処方式は西側諸国による圧力と制裁を打破し、中国の経済建設のために良好な外部環境を作り上げた。

 過去の二十年間に、中国と外部の世界との交流はたえず増えており、国際的に著名な大手企業が次々と中国に投資し、中国が国外で設立した投資会社も百三十九カ国と地域において五千社以上にのぼっている。

 この期間に、中国は経済成長率が非常に速い国の一つとなり、総合的国力が大いに向上し、経済総量も一躍世界第七位に上がった。中国は八年連続して全世界で外資利用の最も多い発展途上国となり、外資利用額はわずかアメリカに次ぐものである。外貨準備高は世界第二位にランクされている。

 中国は日増しに富み栄え、強くなっている。しかし、まさに江沢民主席が何回も全世界に公約しているるように、中国の発展はいかなる国にも脅威となることはなく、将来強大になっても永遠に覇権を唱えるようなことはないのである。中国人民は長期にわたって列強の侵略、抑圧、辱めを受けたことがあるので、永遠にこうした苦痛を他人に押し付けることはあり得ないのである。

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