「人権は主権を上回る」という主張に反論

朱穆之

 アメリカなどの西側諸国は「人権は主権を上回る」と大っぴらに吹聴し、「新介入主義」を実行に移して、他国の主権を侵害したり他国の内政に干渉してはならないという長期にわたって世界が公認してきた国際関係の準則を覆し、「国連憲章」の改正を主張して国連をないがしろにさえしてきた。これはすでに理論上の争いだけではなく、世界の六十億の人びとの運命に直接の危害を及ぼす重大な問題である。

 「人権は主権を上回る」という論理は、本当に筋が通ったものなのであろうか。少し分析するだけで、それが似て非なるものであり、根本的に成り立たないものであることがわかる。

 まず、いわゆる「人権は主権を上回る」という論理は、人権と主権を切り離し、対立させるものである。国はその国の国民に属するもので、国の主権は一国の国民一人ひとりの人権の集大成である。主権を失えば、すなわち人権を失うことになるのである。階級社会において人びとはひどい階級的抑圧を受けていたとしても、外部から敵が侵入し、主権が脅かされた時には、全国民が常に一致団結して敵に当たり、国の主権を守ってきたことは、今までの人類の歴史が物語るところである。愛国主義はいついかなる時においても、人々が最も崇敬する思想的感情である。それは主権を失うことによる災禍が、階級的抑圧をはるかにしのいでいるからである。さらに、この種の災禍を被るのは一部の人にとどまらず、国全体の人びとに及ぶものであり、巣をひっくり返しては完全な卵は残らないということである。それゆえ、主権あっての人権なのである。中国と発展途上国の人びとは主権も人権もない苦しみを自ら経験しており、先に国の主権を勝ち取ってはじめて人権改善が得られるという道を共に歩んできた。

 とう小平氏は「実を言うと、国権は人権よりもはるかに重要である」と言ったが、これは歴史によって得られた結論である。

 西側のいくつか国が「人権は主権を上回る」と吹聴している論点の一つは、「世界の平和と安定に対する切実な脅威は、今や国家間紛争ではなく、国内紛争から派生している」というものである。すなわち、ある国が他国を侵略するという行為は、すでに国際社会の安全にとっての主な危険ではなくなっているという。果たして実情はその通りであろうか。世界は今も依然として強大国と弱小国とに分けられ、ごく少数の強大国が弱小国を侵略し、ないがしろにするという覇権主義、強権政治的行為は普遍的に存在し、しかも増長している。このような「国家間紛争」の状況は形こそ違え、他国の主権を侵害し、他国の人びとの利益を損なうという本質に変わりはない。平等でなく、公正でない国際政治の秩序と国際経済秩序ということは際立った事実である。世界のリーダーをもって自任する超大国は少数の西側諸国を丸め込み、世界を掌中に納めようと企て、ほしいままに他国へ出兵してその元首を逮捕することができ、ある国に対して狂気じみた無差別爆撃を加えることもできる。

 経済のグローバル化は、他国の主権を公然と侵害できる理由となった。昨年四月二十四日付の米『ニューヨーク・タイムズ 』紙に掲載された文章は、グローバル化によって「国の主権は避けようもなく―――あるいは甘んじて―――全世界の経済力の前に弱体化した」と述べ、主権が「甘んじて」弱体化しなければならないのは、おのずから経済力の薄弱な発展途上国であると説明している。経済のグローバル化は常にもろ刃の剣に例えられ、有益である一方で有害でもある。しかし今やグローバル化はすべての国に平等に対応しているわけではなく、いくつか先進国に対しては大いにプラスとなるが、発展途上国にとっては有害なものとなっている。国連貿易開発会議(UNCTAD)のリクペロ事務局長は最近フランスの『リベラシオン』紙の記者の質問に答えた際、「南の貧しい国と先進国にいる極度の貧困者が、グローバル化の最たる被害者である」と語った。「十年前にはすでに二〇%の最も裕福な人びとの収入が二〇%の最も貧しい人びとの五十倍であったが、今では前者は後者の百五十倍になっている」

 国連開発計画(UNDP)が公表した資料によると、現在世界の人口の五分の一を占める最も豊かな人びとが全商品とサービスの八六%を消費するのに対し、人口の五分の一を占める最も貧しい人びとの消費は一・三%にとどまり、三十年前の二・三%に比べれば半減である。こういった不平等で公正ではない秩序は、国際平和と安全に大きな危害を与え、世界の数十億の人びとの人権を損なっている。これはいくつかの国の内部における人権侵害の行為に比べて、深刻さの度合いは計り知れない。このような不平等で公正でない状況を前にして主権を守ることは、発展途上国にとってはさらに重要なこととなる。アルジェリアの大統領が国連で、「主権は不平等な世界制度に対するわれわれの最後の防御線である」と発言したのはよく分かるような気がする。

 西側のいくつかの国が「人権は主権を上回る」と吹聴するもう一つの論点は、人の価値は国の価値より高いということである。だが、国は人類社会の発展の産物であり、それによって利益が異なる人びとが一定の「秩序」を保ち、もしそこから逃れようとしたら自分自身も社会も衝突の中で壊滅してしまう。そして対外的に主権を守り、外部の敵の侵略を防御するのである。それゆえに、国は人によって構成されてはいるが、国が存在しなければ人は存在することができない。マルクス主義思想では国はやがては消滅するものであるが、しかしそれは将来において社会が発展した結果としてである。現段階では、人は国なしではいられない。もし現在人が国を失ったとしたら、いったいどういう状況になるであろうか。まずは無政府状態に陥るか無国籍の流浪の民となり、あるいは他国の植民地における亡国の民になるであろう。たとえそれらのうちのどの状況になったとしても人の生命、尊厳、自由の保障はなくなり、そうなった以上どれほどの人間としての価値があるというのだろうか。中国人は国のことをよく「国家」と表現するが、それは国があってはじめて家があるからである。従って、現在の世界では人の価値は国の価値によって決まる。国が強くて価値が高ければ人の価値も高く、国が弱くて価値が低ければ人の価値も下がり、国が国として成り立たず価値を消失すれば人の価値もなくなるのである。

 西側のいくつか国は人権を口実に他国の主権を侵害することを、「利益の争いではなく、価値の戦いである」と言う。各国の歴史的背景、文化と伝統、社会の発展、宗教信仰はそれぞれ異なり、価値観もまた異なっている。西側が言う価値とは、西側のうちでも数カ国の価値であるにすぎない。クリントン米大統領はユーゴスラビアに対する戦争に言及した際、アメリカはすでに「われわれの民主的価値観のため、またさらに強大なアメリカのために勝利をおさめた」と語った。アメリカなどの西側諸国の価値観は多くの国の価値観と異なり、対立さえしている。英『ニュー・ステーツマン』誌の一九九九年六月十四日掲載の文章は、「(コソボでの)戦争はこの価値にスポットライトを浴びせ、その価値というものが世界的に共感を得ていないこと  実際には世界の大部分から嫌悪の目で見られていることをわれわれに示した」が、それら西側先進諸国は「自分たちが正しいことをしていると思い込んでいる。だが、その他の国は自分たち自身の安全に対する新たな威嚇にすぎないと見ている」と述べている。

 「人権は主権を上回る」ということを口実に「新介入主義」を実行することは、実践的にはどのような状況になるのであろうか。武力による侵攻、民族虐殺、人種差別、テロリズムなどの人権をゆゆしく侵害するいくつかの行為は国際的にも広く知られ、国連にも断定されており、必ず抑止されなければならないものである。しかし人権に関する多くの行動には、是非曲直の区切りと程度があまりはっきりせず、国際社会でも共通認識が形作られていない。フランスの一九九九年六月二十二日付の『フィガロ』誌に掲載された文章は、「今までのところ、いかなる政治組織もまだ事態をどのように発展させていくか決めかねており、一国の主権が尊重されないこともあり得る」と述べているが、実際のところ、この「基準」は西側諸国の言うままになるということである。すなわちアメリカの一九九九年七月五日付の『ボストン・グローブ 』紙は、「もし西側の基準に従わないならば介入を受ける可能性があることは、すでに各国に警告されている」と述べた。

 「人権は主権を上回る」ということを口実に他国に対して干渉することは、少数の西側諸国の特権にすぎない。人権侵害の行為が弱小国ばかりではなく西側のいくつかの強大国にもあり、時にはかなりひどい場合もある。それらの強大国に対して干渉できた弱小国が、これまでどこに、そしてどれほどあったであろうか。このような「新介入主義」と帝国主義には、どのような本質な違いが存在するのであろうか。米『ニューズウィーク』誌は、一九九九年六月二十八日に次のような文章を掲載している。「抑圧下にある人々を守るためには、世界のどこであろうと介入すべきである  西側先進国がそう考えているのだとしたら、帝国主義という非難をどう免れるのか。わたしたちはすでにそれを経験している。十九世紀のイギリスとフランスの植民地戦争だ。そこには、ヨーロッパの『光』をアフリカとアジアの『暗黒』にもたらすという大義があった。だが、それは控えめに言っても、恩恵を受けるはずの相手に歓迎されない行為でしかなかった」。確かに、公然と帝国主義の実行を吹聴している勢力があった。アメリカの『ザ・ネーション』誌の一九九九年五月十日付掲載の文章では、「この『新介入主義』のさらにひどい例は、ロバート・カプラン氏の『西側帝国主義』の復活に対するコールである」と述べられている。

 「人権は主権を上回る」ことの主張と「新介入主義」の実行は「国連憲章」の目的と原則に完全に背を向けるもので、そのため必然的に「国連憲章」を極力否定し、切り捨てることとなる。「国連憲章」は大国も小国も一律平等であると明確に規定しているが、「西側諸国の介入に賛同する新たな規定は、主権は平等であるという考え、すなわち国の大小にかかわらず法律上は一律平等であるという認識をそれほど尊重してはいない」(米『フォーリン・アフェアーズ』誌、一九九九年五・六月号)。「国連憲章」は他国の領土と主権を侵犯することに反対しているが、「アメリカとNATOは実質上すでに、『国連憲章』が地域紛争に対する国際的介入を厳格に抑止する規定を放棄した」(同右)。

 「国連憲章」を否定するために、西側諸国の一部の人たちは、「世界人権宣言」と「国連憲章」の対立をでっち上げた。英『ニュー・ステーツマン』誌の一九九九年四月九日の文章は、「国連憲章が規定する世界的秩序のルールと世界人権宣言との間には、明らかな矛盾とまではいかないが、少なくとも緊張がある。憲章は国の主権を武力で侵略することを禁止し、宣言は暴虐的国家に対抗する個人の権利を保障する」と述べる。だが、このことは、一般の人には思いつきもしないことである。国連憲章が一国の主権を侵害してはならないといっているのは、帝国主義やファシズムが他国に対し狂気じみた侵略を行い、人びとを虐殺するという災難が再び人類に降りかからないようにするためのものであって、それと「世界人権宣言」の人権擁護の目的は完全に一致する。

 ある国が主権を擁しているからと言って、人権を侵害し、国際社会の安全に危害を及ぼすことができる、「国連憲章」が一国の主権を侵害することを禁止しているのは、人権侵害をかばうのに等しいと、言う人もいる。しかし、「国連憲章」の第三九条には、「安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために」、措置を取るとはっきりと規定されている。これは人権侵害を含め国際平和と安全に危害を及ぼす行為を抑止する責任と権利が国連にはあるということを物語り、またある種の行為が国際平和と安全に危害を及ぼすかどうかは国連が断定すべきことで、いかなる国も思うままに決めることはできないことも同時に物語っている。従って、「国連憲章」が人権侵害をかばいだてしていると非難するのは口実にすぎない。問題の本質は「国連憲章」が西側のいくつかの国にとっては他国の主権をほしいままに侵害する上での巨大な障害となっており、そのため必ず切り捨てるべきものになっていることにある。米『シカゴ・トリビューン』誌が一九九九年六月六日に掲載した文章は、かなり露骨である。「過去十年の間に、主権に対する概念に徹底的な変化が生じた。他国の国境線は侵犯してはならないが、自国の境界内ならばその国の政府は何をしても構わないといった考え方は、冷戦の終結とともに消え失せた。アメリカは世界唯一の超大国として、好むと好まざるとにかかわらず、リーダーとしての役目を引き受けた。これはアメリカが現在あの手この手を尽くして世界中のすべての介入行動にかかわらなければならないことを意味する」。また、米ホワイトハウスが発表した「新世紀国家安全戦略」では、「もし国内で安全でありたいなら、われわれは国外ではリーダーであらなければならない」とうたわれている。英『ニュー・ステーツマン』誌の一九九九年四月九日の文章はさらに、アメリカの「国際法と国連憲章に対する反抗が完全に明らかになったのは、レーガン大統領の時代であった」とはっきり述べている。これらの文章は、「人権は主権を上回る」という主張の奥に秘められたものを浮き彫りにしている。つまり、主権は二度と侵害してはならないというのは、現在唯一の超大国が必ず世界を全般的に管理しなければならないためであるということである。

 こういったさまざまな分析から、「人権は主権を上回る」という主張に対し、次のような考え方が導き出される。

 第一に、「人権は主権を上回る」という主張のポイントは、国の主権が侵害される可能性があるということである。

 第二に、「人権は主権を上回る」と主張し、行動に移すのは、まさに「植民地を持った歴史のある強国」(仏『フィガロ』誌の用語)である。

 第三に、強国が他国の主権を侵害した時点から、仁愛を最も大切にする人権の護衛兵であることを自らの誇りとすることができるようになってしまう。

 第四に、「人権は主権を上回る」という主張に反対するひとは、そのまま人権の保障に反対する元凶となってしまう。

 エンゲルスは、偽善者を風刺した名言を残している。「搾取階級が被抑圧階級を搾取するのは、ひとえに被搾取階級の利益のためであって、被搾取階級がそのことを認識せずに反抗的にさえなるのは、恩恵者たる搾取者にたいする、ふらちきわまる忘恩である」(『家族、私有財産および国家の起源』)。

 これらの語句を置き換えれば、次のようになる。

 強国が他国の主権を侵害するのは、ひとえに被侵害国の利益のためであって、すべての被侵害国は侵害国の善行に深く感謝すべきで、そのことを認識せずに反抗的にさえなるのは忘恩であり、万死に値する罪である!

 「人権は主権を上回る」というのはどのような考え方かという問いに対する最も簡潔な答えになる公式を、最後に掲げておく  「人権は主権を上回る=覇権主義!」

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