チベットにおける人権保障の歴史的進展

―チベット民主改革四十周年を記念して


 今年は、チベットの民主改革実施、封建的農奴制度廃止の四十周年に当たる。四十年は長い人類の歴史においては一瞬にすぎないが、チベットにとっては社会発展と人権状況に天地を覆すような変化が生じた四十年であった。

一、チベット人権の  歴史的な転換

 一九五九年以前のダライの支配下にあった旧チベットでは、人民は立ち遅れた封建的農奴制度から大きな抑圧とひどい搾取を受け、人権はいささかもなかった。二十世紀五〇年代末から六〇年代初めにかけて、中央人民政府の指導と支持の下で、チベット人民は偉大にして深刻な民主改革を行って、封建的農奴制度を徹底的に廃止し、チベット人権発展の新しい時代を切り開いた。

 旧チベットは中世紀のヨーロッパよりも暗黒な政教合一の封建的農奴制社会であった。チベット人口の五%にもならない役人、貴族と寺院の上層僧侶の三大領主がチベットのすべての耕地、牧場、森林、山河および大部分の家畜を占有し、広範なチベット人民の生殺与奪の大きな権力を握っていた。一九五九年の統計によると、全チベットの耕地は二十二万ヘクタールあったが、そのうち、寺院と上層僧侶が八万九百六十ヘクタールを占有し、貴族が五万二千八百ヘクタールを占有し、僧俗役人からなる役所が八万五千三百五十三ヘクタールを占有し、占有率はそれぞれ三六・八%、二四%、三八・九%に達した。他方、チベット総人口の九五%以上を占める農奴と奴隷は土地やその他の生産財がなく、人身の自由もなく、そのため、領主の荘園に頼って生きていくかまたは代々領主の家の奴隷にならざるを得なかった。

 封建的農奴制度の下では、広範な農奴は農奴主の強制的な労役、租税、高利貸の三種の搾取を受け、生死の境であがいていた。おおまかな統計によると、ガシャ(チベット地方政府)の徴収した労役税の税目は二百余種もあり、農奴がガシャと荘園領主のために服した労役は、農奴の労働量の五〇%以上を占め、高いものは七〇%ないし八〇%にも達した。農奴の収入はきわめて少なく、生きていくためには、高利で金を借りざるを得なかった。統計によると、一九五八年以前のチベットの高利貸し総額はほぼ当時の全自治区の農業・牧畜業生産総額の二倍に相当し、六〇%以上の農民と牧畜民は重い債務を負っていた。そのうち、労役に服する農奴の八〇%以上が負債し、それが一〇〇%に達した村さえあった。重い負担に堪え切れない農奴は余儀なく、よその土地へ逃げていったり、物もらいしたりするほかはなかった。しかし餓死、病死した農奴は数えきれないほどあった。ラサ、シガツェ、チャムド、ナッチュなどの町では、乞食が群れをなし、あちこちで物もらいをする老人、婦人、児童が見かけられた。

 農奴と奴隷は、人身の自由と政治的地位は少しもなかった。農奴主は農奴の人身を占有し、農奴を私有財産と見なして勝手に売買、譲渡、贈与、抵当、交換し、農奴の生、死と婚姻などの大きな権力を握っていた。異なる農奴主に属する男女の農奴は結婚する場合、「身代金」を納めなければならず、農奴の子女は生まれた時から、生涯農奴であることが運命付けられていた。旧チベットで数百年も通用していた「十三法典」と「十六法典」は人を三等九級に分け、法律形式で人々の不平等な社会政治地位を確認、保護していた。法典は「人は上、中、下の三等があり、各等はさらに上、中、下の三級に分けられている」、農奴は下等下級に属し、下級のものが上級のものを殴った場合は逮捕、拘束され、「主人の拘束を受けないものは逮捕され」、「庶民が役人にたてつけば逮捕され」、「王宮に無実を訴えるものは、きまりに合わないので、逮捕してむちで打つ必要がある」と明文で規定していた。同じ刑法に触れても、等級の異なる人に対する量刑の基準と処罰も異なっていたのである。例えば、殺人による賠償に関する法律は、上等上級の人の命の価値は、その人の死体と同じ重さの金に等しい、女性、と殺業者、猟師、職人など下等下級の人の命は、わら縄一本の価値しかないと規定していた。傷害による賠償に関する法律は、使用人が主人に傷つけた場合は、その手か足を断ち切るべきであり、主人が使用人を殴って傷つけた場合は、医師に治療させればよく、賠償する必要がないと規定していた。チベット地方政府と大寺院はいずれも法廷と監獄を設けていた。また、領主は自分の荘園に監獄を私設することができた。農奴主はほしいままに農奴を殴ったりののしったり、手足を断ち切る、水の中に投げ込む、目玉をえぐり取る、耳を切り取る、腱を引きぬくなどこの上なく野蛮な刑罰を与えることができた。

 封建的農奴制度の廃止は、チベットの社会発展の必然な要請であり、広範なチベット人民の差し迫った願望でもある。チベット人民は封建的農奴制度の残酷な支配から脱却し、人間としての権利を勝ち取るために、陳情、逃亡、納税と労役拒否、武力反抗などの形式でたゆまず闘争を行った。一九五一年、チベットで平和的解放が実現した時、チベットの歴史と現実の特殊な状況を考えて、中央人民政府がチベット地方政府と締結した「チベットの平和的解放の方法に関する取り決め」(「十七カ条取り決め」と略称)は、チベットの社会制度を改革する必要性を肯定し、同時に改革に対し非常に慎重な態度をとり、「チベットの改革諸事項については、中央は強要しない。チベット地方政府は進んで改革を行うべきであり、人民は改革の要求を提出する場合、チベットの指導者と相談する方法で解決すべきである」と規定している。しかし、チベットの上層支配グループの中の一部のものは、根本から改革に反対し、「長期間改革せず、永遠に改革しない」ことを鼓吹し、いつまでも農奴制度を保持して、既得の利益を守ろうとした。チベット人民の日増しに盛り上がる民主改革の要求を前にして、彼らは民意に順応するのではなく、外国の反中国勢力と結託し、一連の武力反抗と分裂活動を組織して、チベット駐在の中央の幹部を殺害し、改革を擁護するチベットの大衆を殺傷するとともに、一九五九年三月十日に「十七カ条取り決め」を公然と破棄し、「チベットの独立」を宣言し、全面的な武装反乱を起こした。こうした状況の下で、国の統一とチベット人民の根本的利益を守るため、中央人民政府はチベット人民とともに反乱を平定した。これと同時に、一九五九年七月十七日、チベット自治区準備委員会は「民主改革を行うことに関する決議」を採択し、チベット全土ですさまじい勢いの大衆的な民主改革運動を繰り広げ、封建的農奴制度を一挙に覆し、百万にのぼる農奴と奴隷が願ってやまない主人公となる権利を実現させた。

   農奴と奴隷を解放する。一九五九年に、中央人民政府は命令を下してチベットの反乱を平定したあと、数百年もの間チベット人民を抑圧していたチベット地方政府とその軍隊、法廷、監獄を直ちに解散し、旧チベットの法律とその野蛮な刑罰を廃止した。続いて、反乱に反対し、労役制度に反対し、奴隷化に反対し、租税と利息を減免する大衆的な運動が繰り広げられ、農奴と奴隷の解放、人身の従属関係の廃止、農奴主が勤労人民に貸した高利貸しの債務の廃棄などが宣布された。百万にのぼる農奴と奴隷の生命の安全と人身の自由は、その時から新中国の憲法と法律の保障を受け、農奴主の強制労働と非人間の待遇を二度と受けずに済むようになった。彼らの労働成果はその時から自分のものとなり、重い労役と税金および高利貸しの搾取を二度と受けずに済むようになった。

   封建的農奴主の土地所有制を廃止する。一九五九年九月二十一日、チベット自治区準備委員会は「封建的農奴主の土地所有制を廃止して農民の土地所有制を実行することに関する決議」を採択し、次の決定を行った。反乱に参加した農奴主の土地とその他の生産財を一律没収して、農奴と奴隷に分け与え、反乱に参加しなかった農奴主の土地とその他の生産財に対し、国が金を出して買いとって農奴と奴隷に分け与えることを決定した。統計によると、民主改革において、国は四千五百余万元を支出して反乱に参加しなかった千三百余戸の農奴主とその代理人の六万ヘクタールの土地と八十二万余頭の家畜を買いとった。農奴と奴隷は合わせて十八万六千六百六十六ヘクタールの土地を分け与えられ、一人当たりは約〇・〇二四ヘクタールであった 。百万にのぼる農奴と奴隷ははじめて土地とその他の生産財の所有者となった。彼らはこの上ない情熱を取り戻し、チベットの社会、経済の発展をこの上なく大きく促し、チベット人民の生存と発展の条件を改善した。統計によると、土地改革が基本的に完成した一九六〇年には、チベット自治区全体の食糧総収量は一九五九年より一二・六%増え、土地改革前の一九五八年より一七・五%増えた。一九六〇年の家畜飼育頭数は一九五九年より一〇%増えた。

   政教合一の政治制度が廃止された。旧チベットで実施されていたのは政教合一の政治制度であり、チベット仏教ゲルク派の首領の一人として、ダライ・ラマは地方政府の首脳を兼任し、行政と宗教の権力を一身に集めていた。元チベット地方政府は僧俗役人という二股制を実行し、僧侶役人は俗人役人より重要な職務に就いていた。寺院は政治、経済と社会生活の各方面で一連の特権を享有していた。民主改革で政教合一という政治制度が徹底的に廃除され、政教の完全分離が実行された。一方、民主改革の中では宗教信仰の自由および国を愛し法律を守るラマ寺院を確実に保護し、人民がラマ、尼僧となる自由とラマと尼僧が還俗(げんぞく)する自由を保護し、正常な宗教活動が干渉されないよう保護すると明文規定した。他方では、改革を通じて、経済、政治面における寺院のあらゆる封建的特権を廃除し、寺院の封建的占有、封建的搾取、人身の奴隷化および寺院内部の封建的管理と等級制度を廃除した。寺院内の公共資金と財産に対しては民主的管理を実行し、それを生産基金とし、また寺院内のラマと尼僧の生活と正常な宗教活動の使用に供した。寺院のラマと尼僧が労働力の状況に基づいて分け与えられた土地は、寺院管理委員会が統一的に管理し、生産を組織している。寺院内の所得は正当な支出に足りない場合、政府が手当てを与える。政教分離を実行することは、チベット人民の宗教信仰の自由を効果的に保障しているだけでなく、チベットで人民民主の政治制度を実行するためにも基礎を築いた。

 ――民族区域自治制度が逐次実行されている。民主改革で百万の農奴と奴隷が解放されてチベットの主人公となり、チベット人民も全国各民族人民と同じように国の主人公となり、憲法と法律の規定しているすべての政治的権利を享有している。一九六一年、チベット各地で総選挙が始まった。昔の農奴と奴隷は初めて主人公としての権利を獲得した。彼らはふるって選挙に参加し、この上ない政治的熱情と高度に責任を負う精神で民主的権利を行使し、自治区の各級権力機関と政府を選出した。解放された多くの農奴と奴隷は自治区の各級の指導者となった。一九六五年九月、チベット自治区第一期人民代表大会が成功裏に開かれ、チベット自治区が正式に成立を宣言した。大会に出席した三百一名の代表のうち、チベット族とその他の少数民族の代表は八〇%以上を占め、チベット上層部の愛国人士と宗教界人士が一一%以上を占めた。チベット族代表のほとんどは解放された農奴と奴隷である。チベット自治区の成立と民族区域自治制度のチベットでの実行は、制度の面から、平等に国家事務の管理に参与するチベット人民の政治的権利を保障し、本地域と本民族の事務を管理するチベット人民の自治的権利を保障した。

 新中国では、民主改革運動を通じて、チベットで千年近くも続いた封建的農奴制度がわずか数年で廃止され、チベットの百万の農奴と奴隷が政治、経済と社会生活の各方面で歴史的な解放を獲得した。これは、チベットの社会進歩と人権発展史上画期的な変革であり、中国と世界人権事業に対する重要な貢献である。

二、公民の権利と  政治的権利の保障

 チベット自治区の人民が全国人民と同じように、憲法の規定しているすべての公民の権利と政治的権利を享有しているばかりでなく、法によって民族区域自治の各種特有権利をも享有している。

 チベットでは、満十八歳以上の公民は、民族、人種、性別、職業、家庭出身、宗教信仰、学歴、財産状態、居住期間を問わず、皆法によって選挙権と被選挙権を享有している。彼らは県、区、郷、鎮の人民代表大会代表を直接選出し、これらの代表が全国と自治区、市の人民代表大会に出席する代表を選出している。各級人民代表大会を通じて、人民は国と地方事務の管理に参与する権利を行使している。統計によると、一九六五年に自治区が成立して以来、これまでのチベット自治区人民代表大会代表のうち、チベット族とその他の少数民族の代表はいずれも約八〇%を占めていた。現在、全国人民代表大会にはチベット代表が十九名おり、そのうち、チベット族とその他の少数民族が八〇%を占めている。自治区の四百五十人名の人民代表大会代表のうち、チベット族とその他の少数民族が八二・四四%を占めている。

 チベットの女性は男性と同じように広範な参政権を享有している。民主改革の前に、チベットの女性は社会の最下層に抑えられ、政治的地位が全然なかった。元チベット地方政府の法典は、「女性に国政を議論する権利を与えてはならない」「奴隷と女性が軍事と行政のことに参与しない」と明文で規定した。民主改革後、チベットの女性は国の憲法と法律に基づいて、男性と平等な地位と権利を享有している。統計によると、チベット自治区の最高の総選挙以来、人民代表大会の改選が行われる度に、女性の投票率はいずれも九〇%以上に達した。現在、自治区各級人民代表大会の女性代表は代表総数の一五%以上を占めている。一九九八年末現在、全自治区に女性幹部が幹部総数の三二・八%を占める二万二千五百二十五人に達した。

 憲法と民族区域自治法によると、チベットはチベット族の集中居住地区として民族区域自治を実行し、チベット人民は民族区域自治の権利を享有する。法律の規定によると、チベット自治区人民代表大会常務委員会は、チベット族の公民が主任または副主任を担任し、自治区主席および各級政府の主要な担当官はいずれもチベット族の公民でなければならず、自治区の各級政府のその他の人員もできるだけチベット族とその他の少数民族の人員を配備しなければならないことになっている。統計によると、一九六五年以来、自治区の各期人民代表大会常務委員会主任と人民政府主席はいずれもチベット族の公民が担任し、各級人民代表大会常務委員会と政府の主な指導者はいずれもチベット族の幹部である。チベット自治区の各級検察院と裁判所の主要な担当官もいずれもチベット族の公民である。統計によると、一九九八年、チベット族とその他の少数民族の幹部は全自治区幹部総数の七四・一%を占める四万九千八百五十一人に達した。そのうち、チベット族とその他の少数民族の幹部は自治区人民代表大会常務委員会主任、副主任の七一・四%を占め、自治区人民代表大会常務委員会委員の八〇%を占め、自治区主席と副主席の七七・八%を占めた。チベット族とその他の少数民族の専門技術者も全自治区の専門技術者総数の六九・三六%を占めている。チベット自治区は省クラス国家機関が地方的法規を制定する権力を享有するほか、本地区の政治、経済、文化の特徴に基づいて、本地区の事務を決定し、自治条例と個々の条例を制定する権限がある。上級国家機関の決議、決定、命令、指示にチベット地区の実状に合わない個所がある場合、チベットの自治機関は弾力的執行または執行停止を認可するよう申請することができる。統計によると、一九六五年の自治区成立から現在まで、チベット自治区人民代表大会とその常務委員会は地方的法規および法的効力をもつ決議と決定をあわせて百五十余件制定し、公布したが、その内容は政権建設、経済発展、文化・教育、言語・文字、司法、文化財保護、野生動物と天然資源保護など多くの分野に及ぶものである。その中には、「チベット自治区人民代表大会議事規則」、「チベット自治区のチベット言語・文字の学習・使用・発展についての若干の規定」、「法律・法規実施状況に対する監督・検査に関する若干の規定」、「チベット自治区文化財保護管理条例」、「チベット自治区環境保全条例」などが含まれている。これらの地方的法規、個々の条例、弾力的規定の制定と実施は、チベット自治区人民が法によって本地区と本民族の事務を管理する自治的権利を享有していることを十分に具現し、チベット人民の政治、経済、社会生活の諸方面における特殊な権益を効果的に保障している。例えば、全国的な法定祝祭日の実施を踏まえて、チベット自治区の立法機関と行政機関は「チベット暦新年」、「シュエトン祭り」などチベット族の伝統的な祝祭日を自治区の祝祭日に入れた。また、チベットの特殊な自然地理的要因に基づいて、自治区は労働者・職員の毎週の勤務時間を全国のそれより五時間少ない三十五時間とすることを決定した。さらには、チベット族が歴史的に形成された一妻多夫制と一夫多妻の婚姻習俗にある程度の大衆性があることを考慮して、チベット自治区は一九八一年に「チベット自治区『中華人民共和国婚姻法』実施に関する弾力的条例」を採択し、「婚姻法」の婚姻の自由、一夫一妻の原則を堅持すると同時に、適当な弾力的計らいをし、弾力的条例を施行する前に形成された上述の婚姻関係は、進んで婚姻関係の解除を提出しないものは維持することを認めると定めている。

 チベット人民の宗教信仰の自由は尊重と保護を受けている。民主改革で政教合一制度が廃棄され、チベット人民が宗教信仰自由を行使し、正常な宗教活動を展開することに制度面から保証が提供された。「文化大革命」の期間、チベット自治区は全国のその他の地区と同じように、公民の宗教信仰の自由が侵害されたこともあったが、「文革」終了後、国は多くの具体的な措置を講じて、チベット人民の宗教信仰自由の権利を維持し、一部の伝統的な宗教祭日を回復し、多くの宗教活動場所を修復し、チベットの広範な宗教信者の正常な宗教活動の展開を確保した。統計によると、改革・開放以来、国は三億余元および大量の金、銀を支出して、チベットの寺院を修復し、保護している。そのうち、ポタラ宮の修繕に、国は五千五百余万元を支出し、五年余りの時間を費やしたが、これは数百年来、資金を最も多く使い、規模の最も大きいポタラ宮修繕工事である。国はさらに六百七十万元、金百十一キロ、銀二千余キロと大量の真珠・宝石を出して、第五世から第九世のパンチェンの霊塔祭殿を修復した。第十世パンチェンの霊塔祭殿の建立に、国は一度に六千六百二十万元、金六百五十キロを支出した。このほか、国と自治区は資金を出して有名なチョカン(大昭)寺、タシルンポ(扎什倫布)寺、レプン(哲蚌)寺、セラ(色拉)寺、ガンデン(甘丹)寺など多くの寺院を保守、修復した。宗教活動場所の修復と開放は信者たちが宗教活動を行う要求を満たした。現在、毎年、霊地もうでのためラサを訪れる信者は延べ百万人以上に達している。チョカン(大昭)寺などの有名な寺の境内と外は、ぬかずいて参拝する信者でいっぱいである。また、ほとんどの信者の家には、小経堂と仏壇が設けられている。

 チベット族が自民族の言語・文字を使用し発展させる自由は確実に保護されている。チベットの言語・文字はチベット自治区全体で通用する言語・文字である。一九八七年、自治区人民代表大会で採択された「チベット自治区のチベット言語・文字の学習・使用・発展についての若干の規定(試行)」は、チベット自治区ではチベットの言語・文字と漢語・漢字がともに重視され、チベットの言語・文字を主とするという原則を明確に規定している。チベットでは、人民代表大会の採択する決議・法規、人民政府の下達する正式の文書、公布する公告は、すべてチベット文字と漢字の二種の文字を使っている。各級人民法院と検察院は法によって公民が自民族の言語・文字で訴訟する権利を保障し、チベット族の訴訟参与人に対しチベットの言語と文字で事件を審理し、法律文書はチベット語で書かれている。チベットの新聞、放送、テレビは、いずれもチベット語と漢語を使用している。自治区が編集・出版する図書はたいていチベット語のものである。自治区では従業員募集、公務員募集、学生募集の場合、異なる言語と文字を使用するものを平等に扱うが、チベットの言語・文字を使用するものを優先的に配慮している。ラサおよび地区・県クラスの学校では、チベット語と漢語で授業し、県クラス以下の学校はいずれもチベット語で授業している。各級各種学校のチベット語の授業は主な課目である。

三、経済・社会・文化権利の改善

 民主改革四十年来、チベット人民は中央政府と全国人民の支持のもとで、経済、社会、文化の諸事業を大いに発展させ、チベットの社会全体の様相に根本的な変化を生じさせた。チベット人民の経済・社会・文化権利を享有する水準はこの上なく向上した。

 国はチベットの社会経済の発展に対し一貫して優遇政策を実行し、資金、技術、人材などの諸方面から援助を提供した。五〇年代から一九九七年まで、中央政府はチベットに合わせて四百億元以上を投資し、大量の物質をチベットに運んだ。近年、中央政府が毎年チベットに与える財政定額補助金は十二億元以上に達している。一九八四年、全国九省・直轄市が四億七千七百万元を投じてチベットに四十三件のプロジェクト建設を援助したあと、一九九四年に中央政府と全国各地はまた無償で六十二件のプロジェクトの建設を援助し、総投資額は四十億元に達し、現在はすでに六十件が完工した。これと同時に、多くのチベット援助幹部・技術要員を派遣し、省・直轄市の対応分野でのチベット援助活動十五件が正式に始動した。これらの援助とサポートはチベットの社会経済の発展を力強く促した。統計によると、一九九八年、全チベット自治区の国内総生産は一九五九年比四十七・一倍増の九十一億千八百万元に達し、インフラ建設投資額は民主改革前の一九五八年比四百六十八倍増の三十六億六千万元に達し、地方の財政収入は一九五八年比九十六倍増の三億六千四百万元に達した。

 旧チベットには近代的工業がほとんどなく、出力九十二キロワットの小型発電所、小型の軍事器械工場、小型の造幣所が一つずつあっただけで、従業員数は全部で百人余りしかなかった。現在、チベットには電力、採鉱、セメント、製革、毛紡織、食品、建材など十数業種の近代的な工業企業が三百余社あり、国有企業の従業員は五万人余りにのぼり、チベットの特色を持つ現代工業のひな形が一応形成されている。一九九八年の全自治区工業生産額は一九五九年の三十一倍にあたる十三億六千五百万元であった。平和解放前のチベットには、本格的な自動車道路が一本もなく、永久に使用できる橋りょうは一基もなく、交通が極端に立ち遅れていた。現在、チベットにはラサを中心として、青蔵(青海=チベット)、川蔵(四川=チベット)、新蔵(新疆=チベット)、ちん蔵 (雲南=チベット)、中尼(中国・ネパール)の各道路を骨組みとする道路網が出来ている。また、ダムション(当雄)、ゴンガ(貢が)、バムダ(邦達)の三つの空港が建設され、ラサから北京、成都、西安、西寧、重慶に飛ぶ国内航空路およびラサからネパールのカトマンズに飛ぶ国際航空路が開通した。旧チベットの農業・牧畜業の生産力水準が低く、一九五二年の全自治区食糧収量はわずか十五万五千トンで、家畜の総頭数は九百七十四万頭(匹)であった。しかし、一九九八年になると、食糧収量は八十五万トン、家畜総頭数は二千二百十万頭(匹)に達し、農業・牧畜業総生産額は四十三億八千万元で、一九五九年より三〇・四倍増えた。

 民主改革前のチベットでは、九〇%の人が住む家を持たず、多くの農奴は生きるために借金して暮らすか、またはこじきをした。当時、ラサの市街地の人口が二万人しかなかったが、町の周りに破れた麻袋でテントを張って住む貧しい人やこじきが千世帯近くあった。今では、チベット人民の生活は大きく改善された。一九九八年、チベットの都市部住民の一人当たり可処分所得は初めて全国平均水準を超えて五千四百三十八元に達し、農民・牧畜民の一人当たり純収入は千百五十八元に達し、都市・農村住民の貯蓄預金残高は三十三億四千五百万元に達し、ほとんどの農民と牧畜民は衣食の問題を解決した。都市部住民の一人当たり居住面積は十四平方メートルで、全国平均水準より五平方メートル近く多く、農村の一人当たり居住面積は二十平方メートル以上で、全国平均水準とほぼ同じである。ラサ市民の一人当たり住宅面積は十七・三平方メートルを超えている。カラーテレビ、冷蔵庫、電話などの家電がチベット族の一般家庭にも入り始めた。子羊とカワウソの皮でつくったチベット式の長い服は、過去は上層部の貴族しか着れなかったが、今ではチベット族人民の日常着となった。

 平和解放前、チベットには近代的な医療衛生機構は一カ所もなく、設備が簡単、粗末で規模も小さい官立のチベット医機構三カ所と少数の私営診療所があっただけで、医療に従事する人は百人足らずであり、農業・放牧区の民間のチベット医約三百人を加えても四百人余りにすぎず、千人当たり〇・四人弱であった。天然痘、コレラ、性病、発疹チフス、しょうこう熱、破傷風などの病気がしょっちゅう流行した。平和解放後、特に民主改革後、中国政府がさまざまな措置を講じて疾病を予防したため、人民の健康をゆゆしく脅かす一部の病気をすぐにも抑えられるようになった。六〇年代から、チベットでは天然痘は撲滅され、各種の伝染病、風土病の発病率も大幅に低下した。現在、自治区のすべての県に病院と衛生防疫ステーションがあり、一部の県にはチベット医病院、婦女子保健所があり、七〇%以上の郷に診療所、三〇%以上の村に診察室がある。統計によると、一九九八年現在、チベットには、医療・衛生機構が一九五九年の二十倍にあたる千三百余カ所あり、病院のベッド数は一九五九年の十六・六倍にあたる六千七百台に増え、医療・衛生関係者は一万余人いる。千人当たりベッド数は二・三台、千人当たり医療・衛生技術要員は三・五七人で、全国の平均水準を上回っている。医療・衛生条件の改善によって、チベット人民の生命と健康の権利が効果的に保障されている。統計データが示しているように、一九五九年と比べて、一九九八年のチベットの妊産婦死亡率は五%から〇・七%前後に低下し、乳児の死亡率は四三%から三・六七七%に低下し、平均寿命は五〇年代の三十五・五歳から六十七歳に伸びた。それと同時に、人口は急速に増加し、一九五九年から一九九八年までの間にチベットの人口は百二十三万三千六百人増え、増加率は一九三・九八%で、今世紀以来のチベットの人口増加が最も速い時期となった。一九九八年、チベットの人口出生率は一・八四%、自然増加率は一・〇九%で、同期の全国水準より明らかに高いものであった。

 旧チベットには、近代的な意味での学校は一校もなく、旧式の公立学校や私塾で学ぶ人はわずか二百人余りの僧侶と貴族の子弟だけあった。当時、学齢児童の入学率は二%足らずで、読み書きのできない人は九七%以上に達し、広範なチベット人民は教育を受ける権利をはく奪されていた。民主改革以降、チベットでは幼児教育、小学校教育、中学高校教育、中等専門技術教育、成人教育、高等教育など多段階の近代的な教育体系が逐次確立され、広範なチベット人民の教育を受ける権利は十分保障されるようになった。統計によると、一九九八年現在、チベットには各級、各種の学校が四千三百六十五校、在校生が四十余万人で、小学校の学齢児童入学率は旧チベットより八十ポイント近くも高く、八一・三%に達し、読み書きのできない人の人口に占める率は旧チベットより四十七ポイント下がった。国はチベットで小学校から大学までの無料教育を実施し、僻地の小学校では食事、宿泊、衣服の無料提供を実施している。これらの措置は、チベット人民の教育を受ける権利を効果的に保障している。

 チベット女性の社会的地位は大幅に向上した。民主改革の中で解放された広範なチベット女性は経済、社会、文化の建設に積極的に参与し、社会生活においては男性と平等になる権利を持つようになった。統計によると、目下、チベットの従業員総数に占める女性の比率は四八・五%に達している。農業・放牧地区では、女性労働力は労働力の六〇%以上を占めており、都市部では、十六歳以上の女性人口に占める女性従業員の比率は三分の二を超えている。企業と事業体で働く女性は一万五千人余りで、総数の三九%を占めている。各種専門技術者の中には、女性は約一万二千九百人おり、総数の四〇・一二%を占めている。女性の教育を受ける状況は絶えず改善されている。女の子の入学率は一九九三年の四五・四三%から今の七一・三%に上昇した。自治区には女子大学生が千二百六人おり、在学生総数の三七・六九%を占めている。

 チベットの民主改革後四十年来の大きな歴史的な変化は、封建的農奴制度の廃止、民族区域自治の実行がチベットの社会の発展と進歩の根本的な原因であり、チベットの人権状況に天地を覆すほどの変化が起きた根本的な原因でもあることを物語っている。自然、歴史および経済発展水準の制約を受けて、チベットの人権状況には改善を待たれる方面が多く存在しているにもかかわらず、あくまで中国の特色を持つ社会主義を建設する道を歩み、民族区域自治制度を実行しさえすれば、チベットの人権状況は必ず社会と経済の発展につれて改善されるはずである。

 

 

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