二十一世紀に向かう中国人
国務院新聞弁公室主任 趙啓正
一人の人間を理解するのは容易なことではないが、一つの民族を理解することはもっと困難である。中国人から尊敬されているドゴール将軍は、かつて「人と人との間の距離は、地球と月との距離よりも大きい」と言った。それでもわたしは、世界のさまざまな国、さまざまな民族が、地理的あるいは文化的距離を克服し、より接近し、より緊密になれるよう願っている。
ヨーロッパ人に中国の存在を最初に理解させたのはイタリア人の旅行家マルコ・ポーロで、豊かで強く美しい東洋の古国の旅行記を著し、多くのヨーロッパ人のあこがれと好奇心を引き起こした。十八、十九世紀になると、フランスでは「中国ブーム」が起こった。十九世紀のフランスの有名な女流作家ルイズ・ジュディット・ゴーティエは「中国ブーム」という詩を書いており、その大意は「わたしの愛する娘は中国にいて、磁器の塔が立ちカワウが遊ぶ黄河のほとりに住んでいる。その小さな足は手の中に入るほど、黄色い肌はランプよりも輝き、毎晩、まるで詩人のように、しだれ柳と桃の花を歌う」というものである。この詩は読者の目の前に、温かな中国画を繰り広げて見せる。しかしゴーティエは、中国女性の小さな足は「纏足(てんそく)」であり、それが中国女性に極めて大きな苦痛をもたらしていたことは知らなかったかもしれない。。。
社会の大きな変化
中国と中国人はこの一世紀に大きな変化を遂げ、それは中国が文字を持って以来三千五百年のうちどの世紀にも見られなかったものである。変化は大きいばかりでなく、極めて重要である。
中国にはこの一世紀に二回革命があり、それによって人々の社会的地位、生活習慣、思考形態に飛躍的な変化がもたらされた。一回目の革命は孫文による一九一一年の辛亥(しんがい)革命で、三百年近くにわたって中国を統治してきた清朝が滅ぼされ、中国の封建主義社会に終止符が打たれた。その後は中国の軍閥戦争と外国の侵略、とりわけ一九三一年から一九四五年の日本の侵略により、中国の半封建・半植民地社会の色合いが深まった。二回目の革命は毛沢東が指揮した新民主主義革命で、一九四九年に中華人民共和国が成立し、中国はここから新民主主義社会と社会主義社会に入った。
ケ小平氏が指導した改革・開放は一九七八年に始まり、氏自らがこの改革は革命的性質を持っていると語った。その改革によって、中国は経済成長を中心任務とすることが確定した。中国はそれより経済の高度成長期に入り、二十年来の中国における国内総生産(GDP)の年間平均成長率は九・七%となった。
中国人は立ち遅れと屈辱の表情で一九〇〇年を迎えた。今世紀初頭のオランダのある辞書では、中国人に対する説明は「愚か者、精神に問題のある人たち」となっており、アメリカの漫画では中国人を豚として描いている。一九五〇年以前には、中国を「東亜病夫(東アジアの病人)」と呼んだ人もいた。
その当時の中国人は纏足の女で象徴され、中国人はまさしくそのような奇形の足で一九〇〇年に入ったのである。この悪習慣は中国の清朝末期にはかなり一般的になっており、金持ちか貧しいかにかかわらずすべての女性がそれをやった。
今の中国人は健康かつ丈夫な足取りで二〇〇〇年に入ろうとしている。中国の女子サッカーチームの孫ぶん選手によるゴール寸前のキックは、世界を驚かせた。中国選手は世界のスポーツ界でいくつもの優勝を勝ち取ったが、このことは五十年前には想像もできないことであった。中国女性の進歩は中国男性よりも勝っているという人もいるが、それは多くの面で事実であり、バスケットボール、サッカー、体操、水泳のいずれにおいても女性がリードしている。。。
家庭生活の変革
中国の家庭にも大きな変化が生じている。
中国の古い家庭では結婚後も兄弟は一緒に住み、女子は結婚したら自然と家庭を離れていった。家が豊かであればあるほど家族の数が多く、子や孫が多いことが幸福であると考えられ、一家に二十ないし三十人の家族がいることもざらであった。中国の儒教は「個人主義」を抑えて「集団主義」を奨励するが、家庭もまた一種の「集団」であった。儒教は家庭の重要性を強調し、家庭に対する忠誠心が至高のものであることを強調し、一家の主による家の統治をも強調し、そのためこのような大家族の中では民主性が欠乏し、一家の主が統治する地位を独占し、往々にしてさまざまな悲劇も生まれた。若いころにフランスに留学したことのある作家巴金の小説「家」、「春」、「秋」は、封建的大家族の没落に対する突っ込んだ描写がなされている。
一九五〇年以降では大家族はあまり見られなくなり、現代ではこのような家庭はなくなって、平均家族数は三・六三人になっている。しかし、中国人が家庭を重視することは何ら変わっておらず、家庭に対する家族の責任感も薄れてはいない。中国の平均家族数の減少は中国政府が呼びかけている家族計画とも関係があり、中国の現在の人口増加率は〇・九五%である。
時代が発展し、進歩するにつれて、中国人の恋愛・結婚観にも変化が生じた。かつての中国では、結婚は主に親が決めるもので、そのためにさまざまな愛の悲劇の物語が生まれた。今では、結婚は完全に当事者によって決定される。さらにはテレビ結婚、広告による結婚相手の募集、結婚紹介所などのスタイルも出現した。二十年前には、国際結婚など想像もできなかった。一九七七年に中国に留学していたフランス人女性のオディールさんは中国の学生の田力さんと結婚したいと願ったが、当時の中国の民政局はどうしても二人の結婚を認可しようとはしなかった。最終的にケ小平氏が頭を縦に振ったことで、この恋人たちはやっと結ばれたのである。現在、中国には特別に定められた国際結婚条例があり、中国の公民と海外公民との結婚は保護されている。人々の結婚の質に対する要求は、ますます高くなっている。女性は一人の人に一生添い遂げなければならないといった結婚観が、長期にわたって目に見えないひもとなり、幾千幾万の家庭をがんじがらめに縛り上げていた。だが改革・開放以来、人々の生活スタイルの動きは多元化し、独立意識も増え、夫婦双方に考え方、欲求、生活スタイル、感情などの面で深刻な食い違いが生じた場合、往々にして決然と結婚関係を解消するようになった。。。
教育を重視
一九六六年に始まったいわゆる「文化大革命」のころには、中国の教育事業は空前の破壊を受けた。思いもかけず中国のすべての大学は、六年間にわたって学生募集をしなかったのである。しかし、中国の家庭が教育を重視するといった伝統は、そのために中断されることはなかった。「文革」のために大学へ行かれなかった多くの両親は、自分の子供を大学に入れたいというより強い願望を表すようになったのである。中国の教育の欠点はテストの点数を重視しすぎていることであり、小・中・高校の校長はより多くの生徒を名門大学や名門中学・高校に送り込むため、生徒の自由な時間が減るのも顧みずに、より多くの学科内容を生徒たちに詰め込もうとする。そういったやり方は歴史上長期にわたって存在した科挙制度にまでさかのぼることができ、その種の制度は意味も考えない丸暗記に力を入れ、学生を全面的に育成することに欠けていた。中国政府はすでに、受験教育を資質養成の教育に改革すること、とりわけ学生の創造力の養成を強化することに力を入れている。
一九〇〇年の中国には十カ所以下の小規模な大学があるだけだったが、今では千二十二校を数える。人々は自分の子供が大学に合格するかどうかを非常に重視し、毎年夏休みは受験生を抱える家庭にとっては緊張の日々となる。今年はこういった大学進学希望の要望にこたえるため、中国政府は学生募集枠を昨年より四七%拡大した百五十三万人にするよう大学側に要求した。中国の大学の大多数は国立であるが、私立大学も大いに発展しつつある。
中国が改革・開放政策を実施する前は、多くの学生が自然科学を選択し、経済、法律、管理を学ぶ学生は比較的少なかったが、今では大学の学生募集の中で経済、法律、管理面の人数がかなり増えている。若者たちの職業選択に対する考え方も変わりつつあり、そういった変化は中国の市場経済の発展によって引き起こされたものである。中国の儒教の経典では、「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(人格者は正義を行動の基準とするが、つまらない人間は損得を基準とする)」ということが繰り返し強調されてきたし、かつての中国での社会階層の序列は「士農工商」の順で、商人は最下位にあった。こういった商業と商人に対する軽視によって中国社会では長期以来市場経済が発達せず、社会の発展と進歩も阻害されてきたのである。今では市場経済の発達に伴い、中国人は商業と商人を軽視しなくなったばかりか、多くの優秀な人材がビジネスの世界に身を投じている。。。
生活水準の向上
五十年来、中国のGDPは三十倍に成長し、一人当たり平均GDPは十倍伸びた。今では十日間の国民総生産(GNP)が、一九五二年の一年分に相当する。改革・開放二十年来、都市部住民の収入は倍増した。農村住民の一人当たり平均純収入は一九七八年の百三十三元六十銭(十六ドル)から一九九八年には二千百六十二元(二百六十ドル)に、都市部住民の家庭の一人当たり平均配分可能収入は三百四十三元三十銭(四十二ドル)から五千四百二十五元十銭(六百六十ドル)にそれぞれ増えた。また、都市部住民の預金残高は六兆元近く(七千三百億ドル)になり、中国の一年間のGDP総額にほぼ近づいた。ひとびとは昔よりも金があるようになり、生活の質ないし生活習慣も変わりはじめている。
かつては経済発展の水準に制約されて、中国人の消費支出のうち食費支出の比重が一貫して非常に大きかった。今では、こういった状況に明らかな変化が生じている。農村住民のエンゲル係数は一九七八年の六七・七%から九七年には五五・一%に下がり、都市部住民は一九七八年の五七・七%から九七年には四六・六%に下がった。都市部住民の食品は栄養と風味を求めるように多様化しはじめている。
二十年前、中国人は皆紺色の布の服を好んで着ていたというより、収入の制限によって中国は「ファッションの砂漠地帯」と化していたのであった。もちろんイデオロギー面での理由もあって、特に女性のファッションについて言うなら、封建意識の名残があった。一九八六年にロダンが彫刻「接吻(せっぷん)」を発表した際、中国人にとってそれはとても観賞できるものではなかった。上海のある画家が一九一四年に初めてヌードモデルを使って学生に絵画を教えた際も、そのことが社会で大きな波紋となった。一九八二年、契約済みのフランスのファッションショーのチームが中国でショーを行ったが、成功しなかった。今では洋服、Tシャツ、ワンピース、超ミニスカート、ジーンズなど、さまざまなファッションが中国の街にあふれている。中国のファッションは世界の注目を浴び始め、中国のファッションモデルも世界的な賞を受賞するようになった。「一季多衣(一つの季節で何着もの衣服を着る)」が、かつての「一衣多季(一着でいくつもの季節を過ごす)」に取って代わったのである。このほか、美容化粧品は改革・開放前にはぜいたく品と考えられていたが、今ではパリの香水や口紅などの外国の高級化粧品が都市では随所で見られる。
中国の都市部住民の住宅は一九四九年から一貫して国が無償で分配してきており、入居者が払う家賃は給与の約五%であった。だが、十年前から中国は住宅制度改革の試行を開始し、住宅の個人購入を奨励しはじめた。建築資金が多元化したことによって一人当たり平均居住面積は倍増し、都市部住民の場合、一九七八年の三・六平方メートルから九八年には二・五八倍の九・三平方メートルとなった。また、農村でも一九七八年の八・一平方メートルから九八年には二・九二倍の二三・七平方メートルとなった。今では分譲マンションの購入が、新しい消費の関心の的および経済成長ポイントとなり始めている。インテリアは一般的なものとなり、住宅の機能は日増しに完全なものとなって、快適で美しく調和の取れた方向に向かって発展している。一〇%の都市の家庭にはパソコンがあり、中国のインターネットの利用者は昨年は二百五十万世帯で、今年六月の時点では四百万世帯であった。
新世紀に向かって
今世紀は間もなく過ぎ去ろうとしているが、中国人には全世界の各国の人々と肩を並べて前進するといった思想的基盤と物質的基盤がある。中国人は一九〇〇年とは完全に異なった考え方と姿で、二〇〇〇年を迎えるのである。
「グローバル化」は、昨今の世界における流行語の一つである。ジャンボジェット機、通信、インターネットの発達によって地球は狭くなった。特にグローバル貿易の量とボーダーレスな直接投資の急速な成長によって、「グローバル化」は避けて通れない動きとなっている。「グローバル化」は自分たちの周りの人々の生活を大きく変えようとしていると、人々は感じはじめている。そこで人々は、さまざまな民族の文化の違いは「グローバル化」にとって促進的役割を果たすのか、それとも阻害する役割を果たすのかという疑問を持つであろう。あるいは逆に、「グローバル化」は人類のさまざまな文化にどのような影響を与えるのかと聞くかもしれない。
「グローバル化」は疑いもなく、世界各地の人と人との間の相互依存を強めるはずである。さまざまな文化の相互補完が主であって、衝突は二の次である。二十一世紀に直面し、中国人は人類の進歩の中で、全世界の人々と手を携えて前進していきたいと願っている。
(この文章は国務院新聞弁公室の趙啓正主任の、'99パリ・中国文化週間でのスピーチである)。