長江三峡地区における古代民家の保存
高 鋼
湯羽揚さんは北京建築工程学院建築学部の常務副主任で、中国の古代建築の研究に従事する中国でも数少ない中年の専門家の一人である。十年前、湯さんは大学院生として建築史を専攻したが、それは湯さんが豊富な文化的風格を秘めた古代建築を心から追求する境地と関係があった。湯さんは中国の古代建築の美しさとみやびやかさに浸り、中国文明をつくり上げた古代人と精神面での交流を行おうとしたのである。
だが一九九三年からは、その専門職のゆえに矛盾に満ちた現実の生活に足を踏み入れようとは、湯さん自身が思いも寄らなかったことであった。
長江三峡へ
一九九三年、湯さんとその他何人かの古代建築物専門家は、人類史上空前の大型ダムが建設されようとしていた長江三峡地区に派遣された。三峡ダムは長江中・下流の流域が二度と水害の脅威にさらされないようにするためのものであるが、同時に三峡地区の地面の状況も変えてしまう。湯さんとその同僚たちの任務は、三峡ダム完成前に同地区の重要な「地上文化財」をできる限り保存することであった。
九三年夏より、湯さんたちは三峡ダムによって水没することになる忠県と石柱県および長江沿岸のいくつかの地区で、それぞれの時代に残された地上の文化財について実地調査を始め、しかるべき保護措置を定めた。湯さんたちの仕事は、三峡全体の地上文化財保護の構成部分だったのである。国家文物局の統率のもと、中国各地の三十余りの文物機構、研究員、大学から来た専門家たちは、全面的調査を経て三峡地区の文化財合計千二百八十一点を確認し、そのうち地下埋蔵文化財は八百三十点、地上文化財は四百五十一点であった。また、地上文化財のうち建築物は二百二十四点、古代民家は百四十七点であった。
こんなにも多くの地上文化財に対して一度に救出保護を行うことは、世界の文化財保護の歴史でも空前のことである。必需経費について、各方面の専門家は保護経費として十八億元が必要であると見た。だが、国の経済状況に照らし合わせて専門家たちはこの予算に何度も修正を加え、最終的に三峡地区の文化財保護費として約十億元という数字をはじき出した。これらの経費は石宝寨、張飛廟、白鶴梁などを含む濃厚な文化的価値、芸術的価値、技術的価値を持つ有名な古代建築物の保護に用いられる。
古代民家の運命
しかし、古代の長江流域の歴史的、文化的要素がより多く蓄積したこれら古代民家と古代村落を前に、湯さんと同僚たちは一抹の不安を禁じ得なかった。古代から人の生活の息吹が絶えたことのないこれら古い村落や町およびその住民は、三峡地域の人文景観と自然景観が共存してきた歴史の過程をより真に迫って刻んできたばかりでなく、長江文化の長い歴史の豊富な内容をより深く表すものでもある。
長江の西陵峡畔にある新灘は千六百年余りの歴史を持つ古い町で、交通の要地であるため、商業が盛んであった。この町に住む鄭という姓を名乗る一族は明の時代に江寧より移ってきた人々の子孫で、清朝末期には完全な村としての構造が整い、町には黒い石が敷き詰められた路地が縦横に走り、長江に臨む町の入り口には川の神を祭る祠(ほこら)があり、町の中には一族の先祖を祭るお堂もあって、古い橋も五、六カ所ある。町全体の古代民家は規模が大きく、質もよく、建築風格は長江三峡地区の古代文化の特色を極めてよく備えている。
湯羽揚さんは初めてこの町を目にした時、その独特の建築の風格に深く引き付けられた。だが、目の前の新灘の古い町並みは、三峡ダムが完成すればすべて湖の底に沈んでしまう。そこで湯さんは自分のすべての才能と知恵を絞って、この文化財遺跡を保護しようと思った。湯さんと同僚たちは町中の十数軒の民家について、詳細な測量を行った。地上文化財の保護の計画案では新灘の古代民家は他の場所へ移転されることが決まっていたが、この方法によると、新灘の古代民家群を移転するため、地元の政府部門が新しい移住民の移住地に専用の区域を割り当てることになる。
一九九七年、三峡地区地上文化財保護に携わる各方面の専門機関は、地方政府と文化財保護実施プロジェクトの契約を結び始めたが、それは三峡地区の地上文化財保護が実施段階に入ったことを物語るものであった。それについて三峡地区の文化財保護に参加する古代建築学者たちは、古代民家や村落が今後もこの世に存在し続ける希望を見いだした気がして格別の喜びを感じた。
しかし、限りある経費やその他の面での制約を含むさまざまな原因により、三峡の文化財保護実施は困難であった。
後世のための青写真を
現実に直面し、一九九七年から湯さんと同僚たちは活動方法を再検討し、一九九七年からダム地区内の地上文化財に対して真剣に実地調査と測量を始め、すべての重要古代建築物について基準となる建築の青写真としての完全な測量製図資料を残そうと努めた。湯さんは言う。「われわれの子孫は必要な時に直接これらの図面に基づいて、中国の長江三峡流域にあった古い民家と古代建築を再現できるかもしれません」
紛れもなくそれは極めて困難を伴う仕事で、これら古代建築専門家たちは一つ一つの建築物のそれぞれの細部に対し最も基礎的な方法で測量して製図を行わなければならない。歴史のちりが積もった建築物の間を上り下りし、巻き尺でそれぞれの建築物の部材の寸法を測り、一つ一つのデータをノートに記し、その後北京に戻ってコンピューターと製図機の上で無数の測量データをまとめ、これら古代建築物の実物測量図を作成しなければならないのである。ここ二年で湯さんと同僚たちが測量し、製図した地上文化財は約百五十点で、作成した図面は二百五十枚以上になった。
より多くの人の参加を
「三峡の歴史文化遺跡をよりよく保護するためには、さらに多くの人の参加を呼びかけることが必要で、特に三峡ダム地区の民衆の文化遺産を尊重する意識を呼び覚まし、これら文化遺産を保護するという自覚的行動への参加を促すことが大切になっています」と、湯さんははっきりと語る。
一九九七年より湯さんと同僚たちは三峡ダム地区で、歴史・文化遺跡の保護に関するさまざまなPR活動を始め、地元の関係者に歴史・文化遺産保護のさまざまな専門知識を伝えた。
石柱県西沱(せいだ)鎮は四川省東部の歴史と文化の町で、唐・宋時期から四川省東部と湖北省西部の境界の商取引の町で、三百キロ余りの距離の「塩の道」の重要な陸上ルートであって、元の時代までに三峡水上交通路に設けられた十四の宿場の一つとなっており、明の時代からは有名な商業の町となったのである。
この町で最も人々の注目を集めているのは「雲梯街」という通りで、西の端は長江のほとりから始まって山に沿って延々と続き、山頂に至るまでの距離は二・五キロで、この登山道には千百二十四段の石の階段があり、その一部には石が敷き詰められ、一部は山肌を削って階段が造られている。幅は五メートルから七メートルとまちまちで、両側はたいてい二階のついた青いかわら屋根の木造の建築物であり、長江のほとりから見上げると、道全体は空に向かって舞い上がろうとしている竜のようであり、ぎっしり並んだ道の両側の黒いかわらの家は竜の体の光を発するうろこのようにも見える。
湯さんと同僚たちはまず、この町を選んでPR活動を開始した。九八年よりこの地において三峡ダム地区の一部の県の文化財保護スタッフのための古代建築物保護研修クラスを設け、一カ月の間に地元のスタッフに対して古代建築物の測量と調査の知識について講義を行い、古代建築物の資料の科学的採取方法を教え、すべての受講生のために製図用具の一部を購入した。
このような活動は、後になってその他の古い町で何度も行われるようになった。
湯さんと同僚たちは古代建築物保護の専門知識を伝授しただけでなく、さらに重要なこととして地元の人たちに自分たちの民族の歴史と文化を尊重する考え方を植え付けたと湯さんは言う。
歴史を残す
長年来、湯さんや三峡地区で文化財保護活動に従事するその他の専門家たちはすでに三峡ダム地区の古代民家の大量の資料を集めており、これらの資料は全方位的なもので、その中には質の高い図面や映像が数多くある。現在、専門家たちはこれらの資料に基づいて長江三峡地区の古代民家のマルチメディアCD ROMの制作を計画中である。
三峡ダムの建設は今、夜を日に継いで急ピッチで進められており、文物部門と文物専門家たちによる三峡地域の文化財保護の仕事も続けられている。間違いなく言えることは、三峡両岸の歴史的、文化的価値のある古代民家建築物がこの人たちの努力によって幸いにも世に残り、後世に伝えられるであろうことである。