LastUpdate02/04/09
戻る

算数・数学教育の現状と課題◆


福岡教育大学教授山下昭先生

新学習指導要領について
改革列島日本 何かを変えなくてはいけない

算数・数学のあり方が問われてきている。

「算数・数学が無くなることはない、算数・数学に代わる新しい教科が出てくるわけがない」

という考え方があったが、

「本当に算数・数学に意味があるのか?その意義とは何か」

が問われている。
教科の統合についても改定の際に話し合われている。(理系の教科として理数科の存在)

教科間の連携も問われている。
子供は一人でさまざまな教科を勉強しており、それを自分の中で統合していく力が「生きる力」ではないか。そのような中で、教科指導がばらばらでいいのだろうか。

算数・数学が嫌いになっているという話を聞く。
しかしそれは、算数・数学が本当に嫌いなのではなくて、算数・数学の

授業

が嫌いなのではないか。
理科でも同じような傾向が見られる。いろいろなものを観察したり、実験したりするのは好きであるが、理科の授業は嫌いである。興味はあるが、授業は嫌である。
教科(授業を含め)のあり方が問われているのではないか。
このまま行くと本当に

算数+理科=理数科

になるかもしれない。

算数・数学の目標と内容をについて
ここで考えていきたいのは、学習指導容量を越えた、もっと広い意味での目標と内容である。

学習指導要領に書いてあるからではなく、教師にとっては教える、子供にとっては学ぶ、ねらいは何かを考えてほしい。
なかなかまとまるものではない。また、ねらい(目標)がはっきりしても、そのねらいを達成するためにどのような内容にすればよいのか。これもまとまりにくい。

目標があっての内容なのか、内容があっての目標なのか。どちらが先なのかはよくわからない。
たとえば、高等学校の微積分や、中学校の証明。つまり、何か生徒に対する目標があって、それを達成するために微分積分を教えているのか、それとも、微分積分をとにかく教えて、そのあとに目標があるのか。歴史を紐解いていけばわかるかもしれないが、今ははっきりしていない。
しかし、これからはそれでいいのか。目標、内容、方法をきちんと関連付けて教える研究をすべきではないのか。色々な意見がある(目標はどうでもよくて、数学の内容を教えればよいなど)。しかし、公教育においては、一応勉強しておくべき事柄ではないだろうか。

算数・数学はその点で後れている。社会(特に保護者)に対して説明することができるのか。今は説明責任の問題も問われている。通り一遍の説明では無理がある。
たとえば、

「買い物のおつりの計算に算数が必要である」

などという説明には無理がある。それでは、「合同条件」などは説明がつかない。また、分数の掛け算のとき、分母×分母、分子×分子をすればよいなどとは教えない。さまざまな方法で教えていく。
なぜ、そのようなことをするのか。社会に説明できるだろうか。こういったことをすることでどういう力がつくのか。
これを社会に説明できないので、最近の算数・数学への冷たい風当たりの原因のなっているのではないのか。
算数・数学の内容、時間を増やそうという意見に、あまり色よい返事をもらえない。マスコミ関係者には文系が多く、数学が嫌だった人が多い。そのような人たちに算数・数学の目標、ねらいをきちんと伝えるのは難しい。これはまずい。社会に対して、数学の目標ねらいを伝えていく体制を作るべきである。誰かがするのではなく、算数・数学に携わる人々がやるべきである。

新しい時代における教養教育として、

読み書き計算⇔3R

がある。基礎基本的な事柄である。算数・数学が計算で終わっているのが残念であるが。こういったことを取り入れると、算数・数学に意義が出てくるのではないか。
もう1つ残念なことは、教科平等主義である。教科エゴではなく、国語や算数・数学(主要教科)は

新しいことを知るための基礎的な知識、技能

ではないか。それを他の教科と同じように扱うのはどうだろうか。このこともきちんと社会に訴えていくべきである。どうすればよいかという答えは存在しないが、考えていくべきである。

新しい学習指導要領(良いか悪いかは別にして枠内で、子供たちの能力を伸ばしていくべきである。新しい学習指導要領をどうとらえていくか、模索していくべきである。それが、次の学習指導要領につながっていく。

開始前から、文句が出ている学習指導要領は珍しい。2,3年後にさまざまな意見が出てくることはあるが。

小中高の目標を見る。
生きる力⇒算数的、数学的活動
校種間で微妙に位置付けが違う。
 数学的活動を通して創造性の基礎を養う
創造性の基礎とは何であるかの議論はなされていない。

高度な目標を謳っている。思考力を問題にしている。知識・理論の習得のほうが、楽しさ・よさ・思考力の習得よりも楽である。しかし、今後は楽しさ・よさ・思考力の習得がどんどん入ってくる。本来なら、指導法、指導内容が変わっていくべき。そういう議論がなされていない。

内容時間数の削減⇒基礎基本の問題
時間数よりも内容を多く削減しているので「ゆとり」があるというのが国の立場である。
思考力はその習得に遙に時間がかかる。内容が多様になってくる必要がある。よっぽどすごい指導法でもない限り、無理ではないだろうか。今まで同じ指導法では、内容時間数が減ってきているので無理である。国は学校の先生方に指導法を任せており、ヒントもあまりくれない。
どの先生も同じようなことをすればよいわけではない。ここの先生方に期待する。先生の責任が大きくなってくる。

学力低下が現実の問題になってきているのではないか。学習指導要領は最低限の内容である。それ以上のことを学校がやってもよいということになっている。現実的に、「それ以上のこと」とは何であるのか。先生方が考えなければならない。小6で中1のことをするという教材の先取りをすることではない。具体的にどういったものが発展・進化に繋がるのか。研究する価値がある。それを実践して子供達がどうなるのか。高度な内容をすればよいというものではない。こうったことは学校でやらざるを得ない。大学がやってくれるものではない。我々がどう行動していくかが重い責任である。これまでのスタンスを変えなければならない。

学力低下の問題
今、子供達の学力が落ちている印象がある。大学と高校の入試連絡会において、

最近の受験生はあきらめが良い
たくさん書いてはいるが、筋が通っていない。本人も筋が通っていない

と大学の先生が言っていた。昔とは違ってきている。集中力、執着心、説明する能力が落ちているのは問題ではないか。
色々な意見がマスコミを通して出てくる。算数・数学の学力は国際調査において日本は36か国中5位である。上位グループにおける議論をすれば、上位グループのトップから上位グループのビリになっている。下がったから悪いわけではないが・・・・。

「分数のできない大学生」が火付け役である。大学生で分数ができないといけないのか。小学校でもっと分数をやらないといけませんかね。そういう問題ではない。分数ができないと、

どういった数学能力が欠如しているか

が問題である。マスコミで一人歩きしている。もっと本質を見抜く必要がある。

プリント(文部達成度調査との比較)を見ると、小学校では明らかに学力が減っている。もちろん増えていることもある。まだ、研究が進んでいない。中学校を見ると、昔に比べるとむしろ学力が上がっているが、個々に見る必要がある。この資料をどう見るかが問題である。マスコミに取り上げられないものも多い。

自信論
自分の考えた答えに自信が有るか無いかを3段階に評価させる。小学校においては、間違っているのに自信のある子供達が多い。中高ではまだやっていない。自信を持つことはよいことであるが、間違っているものに自信を持つのはどうか。通俗的な学力低下と同じように考えていくべき。

学力についての論争は色々ある。学力観が先生によって違う。学力観の違いによって議論のすれ違いが起こる。

「算数の力がついてこない。あるテストをおこなった。計算すべき問題を山勘で解いている。大学生まで、数学をやってきたがぜんぜん役に立ってないではないか。だから、総合的な学習の時間を入れる。」

という意見もある。教科のかかわりを研究される方も多い。逆に算数・数学が総合的な学習の時間に打って出てくる。すぐに決着はつかない。

学力低下に関する記事

「若者の知離れ」を考える。

知的活動から若者が離れているのではないか。日本の危機である。学力低下、知識低下だけでなく、知的活動も低下している。

新しい学習指導要領の枠内で考えなければならないが、言葉としては実行が難しい。基礎基本がしつこく出てくる。それさえやっていれば学力は大丈夫だ、といっている。単に基礎基本さえやっていれば大丈夫なのか。次に使える形で学んでいくべきである。問題ができるできないではない。知識のネットワーク化、外的理解をしていくべきではないか。1つのことを理解するのではなく、関連させて理解させるプロセスも大事である。どうた風に理解させていくか。

多面的にものを見る。
算数・数学を使って新しいことを発見するのは難しい。子供達の中に新しい発見がある。創造性の心理学と関係してくる。拡散的な見方、多面的な見方が必要ではないか。
例 問題の解法でも別解
今までもやってきているが、さらに充実させる必要がある。同時に、本当に子供達が創造性がつくかどうかも研究が必要である。
数学が好きな理由として、
答えがはっきりしている⇒色々な考え方がある
に変わっている傾向がある。

自ら考える
子供達の創造性・主体性の立場から非常に重要であるが、ある種の問題も抱えている。

どの学年からどれくらいの割合で実行していくか

小学校低学年から中学年では先生がきちんと教えるべきではないか。自ら課題を見つけていくのは困難である。やはり基礎的な力をつけるのも大切である。そうしないと先生も子供も苦しいのではないか。すばらしい理念ではあるが、実行するときは子供達の発達段階に応じて実行すべきである。ひょっとしたら説明の場面が増えるかもしれない。

これからは先生が主体である。大学が何かを言ってくれるわけではない。上から教えてもらう時代は終わった。課題があったときに大学に持っていって研究をしてもらう。こういったサイクルをつくるべきである。

戻る

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル