医原性の境界例(境界性人格障害)について
訴状より
E医師の、95年10月26日付の<申し送り>によると、
「希死念慮が生ずることとしては、以前の申し送りにも書きましたが虚無感のようなものが主に前に出ていた時期を過ぎ、現在は虚無感を内包しつつ、対人関係でのストレスによるだれもわかってくれない、「死んでしまいたい」という気持ち、「おもいどおりにならない」というあたりのやや衝動的な感あり。又、生死には区別なく魂は生存し肉体だけが死んでいくに過ぎない、という宗教的な観念(とでもいうのでしょうか?)ももちあわせており死に対する単なるあこがれ[欄外に「−「絶望のうちに死にたい」との」]、逃避ともとりにくい部分がままあります。しかし、死にたい気持ちなど精神の不調を治療者にぶつけてきたりいろいろと悪あがきのような生に対しねばりづよく種々のことをあきらめわるく執着するようになっています。いわゆる医原性Borderline Personality Disorder(訳注:境界性人格障害)までもちあがった感があります。」
ここでE医師が述べている「医原性Borderline Personality Disorder(訳注:境界性人格障害)」とは何か?
以下の資料は、この「医原性の境界例(境界性人格障害)」に関して述べた、専門家の見解である。文章全体では、境界例治療に関して論じているが、そのなかで、特に言及されている箇所を抜粋してある。重要な箇所には下線を引いている。
神田橋氏は、「医原症」と呼んでいるが、その原因は、患者が治療の場において「特別の作用に長時間さらされる」ことにあると指摘しており、その結果としての症状としては、「境界例とよぶに相応しい」「混乱」であると述べている。
中井久夫氏は、「医原性境界例」が、境界例の一部である、という疑いが晴れない、と述べている。詳しくは述べられていないが、「少なくとも「自分しかこの人は治せない」と思わないことである。」という指摘は、医師が治療の原則を見失えば、患者に境界例を生じせしめることがありうる、と理解できるだろう。
成田善弘氏は、「ボーダーラインという病は独りではやっていられない病である。彼らは必ずやパートナーと見つけだし、そのパートナーとの間に病理を開花させる。」と指摘している。神田橋氏や中井氏と異なり成田氏は、医原性の境界例が、「二者関係への埋没」が原因であることを明示している。
以下引用
神田橋條治「境界例 治療」『発想の軌跡』1988年、岩崎学術出版社、365-403頁(初出:『現代精神医学大系』第12巻:境界例 非定型型精神病、中山書店、1981年、93-112頁)。376頁より
(1)本来境界例とよばれてよい精神特性を備えている患者でも、まれに、巧みで、慎重な治療者によりあたかも境界例でないかのような様子を示すことがあり、他方、本来境界例とよばれなくてもよさそうな精神特性を備えている患者でも、特別の作用に長時間さらされると混乱し、境界例とよぶに相応しい様子を示すことがある。すなわち、診断者の目に境界例と映るような特徴が露呈してくるとき、そこに「医原症」とよばれる一種の心因反応の機制が、関与している場合がしばしばである。
中井久夫「説き語り「境界例」」『病者と社会』中井久夫著作集、5巻、精神医学の経験、岩崎学術出版社、1991年、128-141頁(初出『兵庫精神医療』五号、1984年)。
境界例の患者の中には、医者の側が知恵比べをしたくなるような患者がある。患者に対して自分の無知を恥ずかしく思うようになる患者である。しかし、患者と知恵比べをしてよいことは一つもない。境界例の患者には、知恵の点でも他のどういう点でも、高く買われないようにすることが重要だ。どうしても高く買われそうになるから、その都度、あわてて自分を買い戻さねばならない。自分の値がつり上がるままに放置しておくと、そのうち株価が乱高下しはじめる。医者としての自分を問い問われる仕事が治療の仕事になってしまう。それが治療的であれば、まだしも堪え忍べるが、果たしてそうなのかどうか、疑問に思う。ただ、精神科医には、やや自虐性があるし、これは加虐性のある精神科医よりも善玉的であるから、良い精神科医、特に「良心的」精神科医とされることが多いのだが、患者に問われ続けることと患者が治ることとは別のことである。これは、境界例が他者の弱点にも敏感であるために、精神科医であることが「うしろめたい」精神科医の自虐性を実に効果的に刺激するので、是非一言いっておかねばならないような気がする。知恵比べより良心比べの方がさらに深刻だが、医者患者双方にとって実りがあるとは限らない。[中略]
また、境界例には、多かれ少なかれ、一種の嗜癖性が成立する。というか、そうでないものは、多分、境界例として認知されないだろう。[中略]
(9)以上の点をふまえて、境界例は、そもそも嗜癖でないのかもしれないが、容易に嗜癖、それも対人関係嗜癖になる。その特徴の第一は、治療者に対する激しい求めとその結果に決して満足しないこととである。この慢性的な欲求不満と、しかも治療者(たち)から離れずまとわりついていることとによって、さまざまの対人的チャンネルをマスターした達人になる。[中略]
投影的同一視に対しては、医者なら「医者」、臨床心理士なら「臨床心理士」というように役割的自己規定を以て対するのが一番良いだろう。これから外れれば外れるほど、患者の幻想的な面を肥大させることになる。できるだけ素面的な雰囲気を保ち、生活の資を稼ぐための仕事としてやっているのだという裏表のない素面的な態度がよかろう。「せんせいはしょせん医者(なら医者)なのにね」といわれて自分の中の何かが揺らぐくらいは仕方ないが、そうでないことを証明しようとしたりしないほうがよい。すべての患者の職業的治療者以上の接し方ができるかどうかを考えると、これはいうまでもないことだ。「へえ、しらなかったの?」というほうがよいと思う。[中略]
いうをはばかることだが、境界例の一部は「医原性境界例」でないかという疑いが、この十年、どうも晴れないままである。少なくとも「自分しかこの人は治せない」と思わないことである。
一般に患者というものは、なるべく特別扱いしないことが治療的である。少なくともこれは嗜癖の患者すべてにあてはまることだと思う。患者が「ワン・オブ・ゼムである自分」を体験することは健康化に繋がる。
患者は「独りでいられる能力(ウィニコット)」の増大とともに治癒に向かう。これが一番の目安である。
また患者は、しばしば、自己治癒によって改善する。[中略]
結局、境界例に対して、ちゃんとした徹底操作をして、立派な終結宣言をしようとすることは、ないものねだり、治療者のナルシシズムである。いろいろな、一つ一つは不完全な梁によって支えられながら、その日その日を送り迎えすることが、患者の「病い抜け」に通じる途である。そう、境界例は「治癒する」というよりも「病い抜けする」のではなかろうか。
成田善弘「治療者の気持ちとその変遷をめぐって」『精神療法の技法論』金剛出版、1999年、32-44頁(初出:Presented at the 6th International Symposium of the Tokyo Institute of Psyhiatry, New Approach to “Borderline Syndrome”, 1991)。34頁以降
2 二者間関係への埋没
こうして治療者の中にやさしさや情熱が引き出され、何とかしてやりたいという気持ちが強くなる。患者の心の底にある悲しさやさびしさや空しさが治療者の心に響いてくる。今まで誰も彼らのこういう気持ちを分かってやっていなかった。彼らを本当にわかってやれるのは自分だけだという気持ちが沸いてきて、患者の両親、周囲の人たち、以前の治療者、あるいはスーパーヴァイーザーなどが無理解で冷たい人間のように思えてくる。若い精神療法家が自分の属する組織の中で自分の占めるべき場所をいまだ見いだしていないとき、あるいは周囲に精神療法に対する理解者が少ないとき[中略]、とりわけこういう気持ちになりやすい。また治療者自身の青年期に孤独や周囲に受け容れられなかったという体験があるとそれが再燃してくる。こうなると、患者と治療者の間に他者排他的な二者関係が成立し、治療者も患者もこの関係の内側から世界を見て、世界から疎外されていると感じ始める。
こういう他者排他的な二者関係はボーダーライン患者のもっとも得意とする関係である。ボーダーラインという病は独りではやっていられない病である。彼らは必ずやパートナーを見つけだし、そのパートナーとの間に病理を開花させる。一対一の個人精神療法は治療者がそのパートナーとして立候補することであり、ある意味で、患者の病理を花開かせる培地を提供していることになる。パートナーになった治療者は患者のことが患者以上によくわかっているような気になる。そして患者の気持ち(と治療者が先取りしているもの)に沿って、本来患者が決断し実行しなければならないことでも代行してしまう。スーパーヴァイザーが患者の言動に対して不思議がると、治療者は患者にかわってものわかりの悪い(と治療者には見える)スーパーヴァイザーに縷々(るる)説明することができてしまう。こういうときは患者の気持ちと治療者の気持ちが区別し難く、互いに相手の中に自分を見ている関係になっていて、外から見ると、余人の介入を許さないという雰囲気が出来上がっている。
3 「裏返し」の病理
そういう他者排除的二者関係の中で患者は容易に退行し、原始的防衛機制が活発に作動するようになり、自己愛的万能感があらわになる。患者は面接の頻度や時間の増加を要求し、治療者がいついかなるときでも応じてくれることを当然のように求める。理不尽な要求を突きつけ、無理難題をふっかけてくる。そしてそれが容れられないと、がらりと人がかわったように激しい敵意と攻撃性をあらわす。「助けてあげる人」であった治療者は、今や患者の手足のごとく、奴隷のごとく扱われさもなければ強大な圧制者のごとく、迫害者のごとく恐れられる。[中略]
4 治療者の困惑
治療者は「こんなはずではなかった」と感じつつ、しかし「かわいそうな」患者に再び「見捨てられ体験」を与えまいとして、患者の持ち出す無理難題に耐える。患者がなかなか癒らぬどころかむしろ悪くなったように見えるのは、自分の未熟、無能のゆえと自分を責める。そのうちに患者が重荷に感じられて、患者を放り出したくなるが、そのことが治療者のもつ治療者モデルから逸脱するので、治療者の中に葛藤が生じる。
ボーダーライン患者は治療者の中の陰性感情を発見することにかけては気味の悪いほどの能力をもっている。治療者の気持ちは見すかされる。「先生は私のことを重荷と思っているのでしょう」「先生は私を嫌っているのでしょう」と。治療者が動揺しつつ、患者にその根拠を問うと、患者は治療者の言葉を全体のコンテクスト抜きに拾い出す。[中略]
5 生身の露呈
しかし治療者が誠実であればあるほど、患者の非難の中に一片の真実があるのを認めざるをえないであろう。たしかにボーダーライン患者と接していると、恐怖感を感じたり、怒りがわいてきたり、患者が去ってくれればありがたいと思ったりしないでもない。ふだんは「治療者」という役割の中に隠れている生身の感情が露呈し、ときには自身が恐ろしい人間であると感じざるをえなくなる。
6 どうすることもできない
こうなると治療者は「どうしてよいかわからない、どうすることもできない」という無力感に陥る。患者の方も面接場面で激しい感情が露呈してくると、それがカタルシスとなってしだいに落ち着くということがなく、ますますおさまりがつかなくなり、それに圧倒されて「どうしてよいかわからない、どうすることもできない」という無力感に陥る。この無力感が患者が人生の中でさいなまれ続けてきた、そしてそこから逃れようとしても逃れきれずにいる感情であって、それらが融合して面接場面を支配するに至る。患者も治療者もどうすることもできないと感じる。治療者は自らの無力感をみつめ、それに耐えながら、その由来を探らなければならないのだが、治療者としての有効性を自分にも他者にも証明しなければならないと感じている若い治療者には、それがしばしば困難である。無力感を内界に保持できないとき、治療者は患者を攻撃し、見捨てたくなる。「悪いのはやはりおまえだ。おまえのような人間は皆に見捨てられて当然だ」と。
7「裏返し」になる治療者
以上述べた治療者の気持ちの変遷を表に示した。誠実で、熱心で、献身的で、将来すぐれた治療者になりうるであろうが、しかしまだ経験と技術的修練の不十分な治療者はしばしばこういう経過をたどる。
表: 治療者のなかに生じやすい気持ちとその変遷(成田、1990[「境界例治療の現場から」『イマーゴ』青土社、1990年より:引用者による補足])
「力になってやりたい、助けてやりたい」
↓
二者関係への埋没
「患者のことをわかってやれるのは自分だけだ」
↓
病理の開花
「こんなはずではなかった」
↓
生身の露呈
困惑と葛藤
「どうすることもできない、どうしてよいかわからない」
↓
「悪いのはやはりおまえだ、おまえのような人間は皆に捨てられて当然だ」
[中略]こういう事態になることを防ぐために治療者として心がけるべきことをいくつか取り出してみる。[中略]
1 治療という仕事の責任を患者と分担する
[中略]
2 第三者の眼を治療者の中に育てる
[中略]
3 困ったときは正直にいう
[中略]
4 それであなたはどうするつもりですか?
[中略]「どうしてよいかわからない、どうすることもできない」という患者に対して、たとえばすぐには口に出さぬまでも「それであなたはそうするつもりですか?」と思いつつ会うことにした。そうしてみると、それまで患者の問題行動としてしか見えていなかったことが、無力感に対処しようとする患者なりの努力、工夫であることが認められるようになってきた。つまり行動化のもつ適応的側面が評価できるようになってきた。それ以前は、患者には工夫する能力がないものと思いこみ、「治療者たる自分は患者にどうしてやることができるのか?」と強迫的に自問していたことに気づいた。治療者はいかに患者に共感しようと患者自身ではないから、患者の状況や運命を患者になりかわってどうしてやることもできない。だからどうしてよいかわからなくなり、どうすることもできないという気持ちになる。「あなたはどうするつもりですか?」と問えば、それに答えて患者の方が考えなければならなくなる。つまり治療という共同の仕事の中での患者の分担がふえることになるが、それが患者の潜在能力を引き出すことにつながるのである。
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