訴   状
(一部固有名詞、住所などは省略)

   原  告    
     
原  告      B

原告ら訴訟代理人 弁護士   省略

                   被  告             

第1 請求の趣旨

1 被告は原告らに対し、金○円及びこれに対する平成12年5月4日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え


2 訴訟費用は被告らの負担とするとの判決並びに仮執行宣言を求める。
第2 請求の原因

1 被告の不法行為


 (1)当事者


 原告A、原告Bは、故幸子の父母である。


 故幸子は、昭和○年○月○日生まれであり、大学在学中、精神疾患の疑いで、被告が勤務していたA大学病院、B中央病院で被告から精神療法などを受けていた者である。


 被告は上記各病院の精神科勤務医として故幸子の主治医となっていた者である。

(2) A大学病院での治療の経緯と医療過誤


1) 受診に至る経過


  故幸子は平成○年4月A大学第○学部に入学し、××に所属していたが、交際していたサークル内の男性との失恋などのために平成6年9月ころから、睡眠障害、抑うつ、不安、食欲不振などの症状を呈し、同月、○○付属病院精神科を受診した。同病院において抗うつ剤など投与を受けたが改善がなく、このため、平成7年3月4日A大学病院に入院することになった。


2) A大学病院における診断と治療


 A大学病院における故幸子について確定診断に至らないまま治療を進め、薬物療法(抗うつ剤)を行ったたが、その有効性が乏しかっため、精神療法を行うことにし、被告が担当になって精神療法を継続することになった。


3) 被告の精神療法上の過誤

@ 治療行為に名を借りた恋愛関係の構築

ア 精神療法は患者を再適応に導くことを目的にして心理的に働きかける治療手段であり、力動的精神療法、行動療法、認知療法、家族療法など各種の精神療法の理論及び技法があり、診療報酬上保険適用の対象となる確立された治療行為の1つである。


イ ところで、治療行為は患者の心身に侵襲を加える行為であるから、当該行為が違法とならない治療行為と認められるためには、医療技術の正当性(医学的に承認された医療水準を満たす治療行為であること)と医学的適応性(当該患者の生命・健康を維持するために必要であり相当な治療行為であること)が認められるものでなければならない。


ウ 被告は治療計画として、薬物療法の有効性が乏しいとして精神療法を採用することにしていたが、その面接時間は通常の精神療法における面接時間及び面接回数を大幅に逸脱して異様に長時間かつ頻回であった。しかも、被告は故幸子がA大学病院に入院して3ヶ月ほどたった6月ころ、原告らに「私が幸子さんの恋人役をやります」などと、確立された精神療法の範疇には入らない怪しげな民間療法まがいの「治療方針」を言明し始めた。


 その際、被告は治療方針として、1)自身が故幸子の恋人役を果たすこと、2)家族を母親主導のものとして、母親がより家族の中で発言し、故幸子が母親に甘えるようにすること、3)そのために、母親が毎週水曜日に被告と定期的に面接すること、4)故幸子のわがままを許してゆくことを提示した。



エ しかし、この治療方針は極めて不当なものであった。医師が患者を支持するために当面依存の対象となる必要があるとしても、それは「恋人役になる」というものではなく、当面の依存の対象となって患者が危機を乗り越えるのを待つというのが正しい方法である。また、母親に甘えるようにすることと、被告が恋人役として依存の対象になることは、本来両立しないことであり、また、母親に甘えることを許す方法の方が精神療法上のリスクは少ない。両者を同時に行うことは単に患者に混乱を与えるだけである。さらに、一定の枠内でわがままを許容することが必要であったとしても、枠の設定のない許容的な態度は患者の逸脱をとどめることができず危険な結果を招きかねない。従って、ここにおける被告の治療方針は、治療構造を確立せずに自らを積極的に転移の対象としてさらすことで、自ら逆転移に巻き込まれ、自分自身では転移・逆転移現象から免れられない事態に至る重大な原因を形成したことになる。


 そして実際、被告と故幸子との関係は原告ら家族のみならず他の入院患者、さらには、病院関係者からも明らかに医師・患者関係を逸脱した個人的に親密な関係になっていった。

オ 精神療法としては、通常、週1回程度行われる場合が最も多く、多くとも2ないし3回程度が通常であり、時間も1回について30分ないし50分程度が通常であるが、被告は故幸子に関してのみ、最長で3時間にのぼる長時間の1対1の面接を繰り返し、あるいは、一回1時間程度の個別面接を一日に数度にわたって実施していたことがしばしばあった。また、原告らは診療室内で被告Dと故幸子が、言葉を交わさず、じっと見つめ合ったまま長時間にわたって対峙している、という面接を目撃している。

 そもそも、精神療法は、「言語を通じた、合理的で、自己を客観化した二者間関係」に基づくものであるが、これが逆に、「言葉以前の泣き声をやり・とる関係」になれば、それは「ラブシーンや母子関係」と同様でありおよそ治療的ではないとされている。

 居合わせた原告らから見れば、二人は「恋人」としか見えないものであった。この面接の場に居合わせた女性のE医師は、いたたまれない様子で席を立つほどであった。

 さらに被告Dは原告(母、B)に対して、「幸子さんと会ってから毎日ネクタイをするようになりました」との発言をしており、原告Bとしては更に不可解な思いを高めていた。

 これに加えて、被告は故幸子に対して「幸子さんにプロポーズしたらご両親はびっくりするだろうな」とか「医者と患者は結婚できないけど、世界に1例か2例はある」などと話すことがあった。


 このように、被告は精神療法に関するいかなる理論及び技法の立場に立とうとも到底治療行為の範疇に属させることのできない言動を診療室内で続けていたものである。


カ A大学病院で被告とともに故幸子の治療に関わったE医師の、平成7年9月14日のカルテによると、次のような記述がある。



 「昨晩の件は、しっと心からくるもので、Iさんの部屋でDr、D【被告】
2時間以上くらい話をしていて、何を二人っきりで話してるんだろう、と不安になってしかたなかった。それで死にたいとうずくまってしまった。」

 「精神の安定はDrD【被告】にもらってるのに、そのDrD【被告】が他の人と仲良くするのをみると、その安定感はなくなってしまう、とのこと。」
 「Drに対する接し方、頼り方が恋人のようであり、自分の恋人が他の女と話すのをみて不安、しっとする、という構図は本人も認めている。」
 「人を好きになったり、しっとしたりするのはかまわないがその気持ちの処理の仕方を工夫しなければいけない。というのも、少しわかってはいるようであるが、まだ自分の感情にふりまわされてばかりの毎日のようである。」
 「とりあえず、<FrE>【女医E医師】としゃべるときは一線おいたシャキッとした冷静な態度、論理的でもあり、客観的である依存的な面もあるのだが、こちらがふたんになるようなしがみつく感はない。これはPtの言葉をかりると“女子校出身だから”女性の前では必要以上にあまえたりはしないとのこと。」
 「きっかけがあれば容易に崩れてしまう危険性大。(今のところDrD【被告】、前の彼が)[?]りが−−)又、DrD【被告】が目の前にいない方が安定するともいう(しかし、これが長く続くと今のようなDrD【被告】への心慕[→思慕?]であれば、一見落ち着いてみえるがまたわるくなる可能性あり)様子を見る。」

キ 一方、 被告DはA大学病院における故幸子との面接において、平成7年9月3日のカルテによると、次のような対話を行っている。


今Drには話が通じると感じるし、患者でなくなったら、個人的な関係を持ちたいという。<今Drとしては治療のことを考えている訳であるが、「Ptが納得するまでおつき合いする」という考えである>ことを伝える


 この段階で、すでに患者側に強い転移が形成されているにもかかわらず、被告は「おつき合いする」という曖昧で治療的とはとうてい思えない言葉によって、故幸子の転移を放置あるいは強化している。


ク さらに9月19日には、さらに被告の主治医としての混乱がカルテに現われる。


○全体的にはおちついた感じで話をする。(しかし内容はシビアなもの)

○Drのことが好きで、治療が終わってからおつきあいしたい、ということを言う。(かなり説得力のあることを細かく考えている)
○Drとしては、それは実際的にもムリであるし、Drとしても(非常に正直に言って)Ptに幸せになってほしいと思っており、自分と幸せになろうとは思っていないことを伝えた。
   穏やかな話し合いであったが、DrがPtと個人的におつき合いすることがないのだという当たり前のことが(しかしこのPtは不可能を可能にしたくなる人で、又有能な人である。)実感として感じられたようである。」

 以上の記述の中から次のようなことを読みとることができる。
故幸子が被告とつき合いたいと考えていることについて「かなり説得力のあることを細かく考えている」、換言すれば、被告自身が説得されかねない感情を抱いたことを示している。

 また、文脈から見て「幸せになる」ということの具体的な内容は、愛するものとの交際や結婚を意味していると解されるが、被告は「(非常に正直に言って)Ptに幸せになってほしいと思っており」と述べている。

 同時に「自分と幸せになろうとは思っていない」ことを辛うじて伝えているが、この時点で、故幸子にとって「幸せになる」すなわち愛する人との交際を実現するということは、被告との交際を実現することを意味しており、それに対して、「非常に正直に言って」被告自身も故幸子に幸せになってほしいと思っているという答えは、被告自身も「非常に正直に言えば」故幸子の思いを受け入れたいことを表白したことを意味している。

 ここでは被告は辛うじて、しかし、「自分と幸せになろうとは思っていない」と述べて、故幸子との恋愛関係の形成をしないよう踏みとどまる発言をしているが、けっして一般論として、いつか誰かいい人が見つかって幸せな結婚をできるといいというようなことを述べたような状況ではない。

 むしろ、被告自身が故幸子の思いに説得されそうになり、正直な真意としてはそれに応じたいのだが、立場上それができないことを辛うじて示しているのである。

 「不可能を可能にしたくなる人で、又有能な人」といった治療者側の心情や患者個人に対する評価も、治療関係における客観性のある評定ではなく、被告個人の主観的な思い入れを示しており、被告が逆転移現象における「幻想」(逆転移のために医師が患者に対して恋愛感情や依存的な心情を抱き、そのために患者の客観的な状態を観察できず、実在以上に患者が高度の能力や崇高な人格を持っているものであるかに見てしまう現象をいう)を持ち始めたことを示している。



ケ このような状態に至った場合には、本来、主治医は交代するか、治療構造をより厳格なものにしていくべきであった。



コ さらに、同年9月25日、上記E医師のカルテでは、

「DDr【被告】、□□氏【故幸子の前恋人】ともに未練あり、あきらめきれず。まだ何とかしたい、と思っているしDDrに関してはDDrの”思わせぶりな”言動がなぜおこったのかというあたりにこだわっている」

とされている。

 そしてついには、E医師の、同年10月26日付の<申し送り>によると、


「希死念慮が生ずることとしては、以前の申し送りにも書きましたが虚無感のようなものが主に前に出ていた時期を過ぎ、現在は虚無感を内包しつつ、対人関係でのストレスによるだれもわかってくれない、「死んでしまいたい」という気持ち、「おもいどおりにならない」というあたりのやや衝動的な感あり。又、生死には区別なく魂は生存し肉体だけが死んでいくに過ぎない、という宗教的な観念(とでもいうのでしょうか?)ももちあわせており死に対する単なるあこがれ[欄外に「−「絶望のうちに死にたい」との」]、逃避ともとりにくい部分がままあります。しかし、死にたい気持ちなど精神の不調を治療者にぶつけてきたりいろいろと悪あがきのような生に対しねばりづよく種々のことをあきらめわるく執着するようになっています。いわゆる医原性Borderline Personality Disorder(訳注:境界性人格障害)までもちあがった感があります。」

 ここで、「医原性」とは治療によってもたらされたという意味であり、まさに被告の精神療法によって故幸子がより重篤な精神障害へと追い込まれていったことが示されている。


サ こうした事態に原告らも不安を感じ、同年10月ころ婦長に相談したところ、他の医師及び看護婦らも被告と故幸子の親密な関係を問題であると考え、被告だけを故幸子の担当とせず、他の医師や看護婦等もグループで担当することにして、被告の面接も他の患者と同様に週2回とすることにした。



シ 治療者が患者と性的に密接な関係を持つことは、古くは精神分析の創始者であるフロイトにおいて禁欲原則として禁じられており、また、現在でも心理学会の倫理原則などにおいて明確に禁止されている。


 治療関係の前提には医師の高い権威性と専門性があり、精神療法においては特に権威の存在、権威による受容、権威による支持が重要な意味を持ち、あらゆる術式・技法に通じる構造であると言われる。こうした権威性と専門性を前提にした医師・患者関係において医師が特定の患者と性的に密接な関係を持つことは、医師が当該患者本人の判断を欲しいままに誘導して性的に密接な関係へと導くものであり、それ自体、反治療的である。また、こうした医師は、性、年齢、魅力などで患者の取り扱いを異ならせることになる点でも医療倫理上非難されなければならない。さらに、性的であると非性的であるとを問わず、医師が患者と治療関係以外の「二重関係」を持つことは、患者に対して、治療者とそれ以外の役割を混乱させ、多くの場合患者に悪影響を及ぼすことが報告されており、多くの場合病状の増悪を招くと報告されている。


 ことに精神療法において出現する患者の医師に対する性愛転移と医師が患者に対して抱く性愛逆転移については、治療者が「転移を『不都合なもの』、『不思議なもの』と正しく認識し、治療者が自分の逆転移に負けないで転移を理解し、その解釈を伝え、治療者の職責を全うすることが、治療者の責務である」と言われる。「転移を現実的な感情と取り違えたり、逆転移に翻弄されて治療者としてふさわしくない行動、言動を採ることがないように、常に冷静でいることが治療者に求められる」のである。そのためには同僚医師との相談や上級医師のスーパーバイズを受ける必要があるが、被告Dはこのような相談や指導、スーパーバイズを受けないままに、転移・逆転移に巻き込まれていった。


ス 被告は、精神療法の名を借りて、実際には診療室内で故幸子と性的に親密な関係を継続させたものであり、同医師の行為は肉体的な関係にまで至っていなかったとしても、精神障害に苦しむ患者の心理を異性であることを利用し、あるいは少なくとも異性であることをに伴う医学上の禁忌を破って、欲しいままに操作し、患者を自己の欲求を満たす手段としたものであって、単なる医療過誤を越えた重大な違法行為である。被告Dの精神療法に名を借りた診療室内での言動は、医療行為としての正当性を欠き、医学的適応性も満たさないものであることが明らかであって、主治医の地位を利用して精神疾患を有する患者の心理を弄び、その病状の増悪を招いたばかりでなく、後記のように故幸子を自殺に至らしめたものであり、許容することのできない重大な違法行為と言わなければならない。



A 自ら招いた転移・逆転移性愛の放置ないし増悪化


 被告は、A大学病院において故幸子との間で形成された転移、逆転移性愛を解消する努力をせず、かえって、その後もこれを増悪させていった。


 被告は、B中央病院においても故幸子との面接を続けたが、被告は、故幸子に対して、同人が特別の患者ではなく、自身の診療態度に落ち度があったことを自覚していたのであるから、その非を率直に認め、同人との関係を本来の医師患者関係へと修復するべきであったのに、かえって故幸子を巻き込んでいく言動を面接の上で繰り返した。


B 精神療法における治療構造の無視

 医師が患者と性的に密接な関係になることが治療行為と呼ぶに値しないことは、前述のとおりであるが、精神療法では基本的な治療構造を確立し、患者に対する関係での禁忌事項を遵守することがとりわけ重要である。しかし、被告はこの治療構造の構築に失敗し、また、禁忌事項を遵守する努力を怠った。


ア 精神療法の基本的な要素には、治療目標(何のためにどんな治療的な変化を意図するか)、治療機序(治療目標に達するために医師・患者関係の中にどのような心理的変化を引き起こすことを期待するか)、治療過程(治療機序は治療のどのような過程をたどって実現されるか、またその過程でどのような現象が起きるか)、治療手段(治療機序を引き起こす手段)、治療技法(治療目標を達するための治療機序をどのような治療手段を用い、どのような治療構造を設定して実現してゆくかの医師側の手続・方法)がある。そして、治療構造とは上記の基本要素を医師・患者間の精神療法上の交流に適するように設定しなければならない医師・患者関係を規定する交流様式である。治療構造は治療関係が成立する基本条件を作り出して、治療関係を支えるものである。とりわけ、精神療法において生じる転移(患者の幼児的感情、願望、態度、空想などが作り出した人物像を医療スタッフに投影する心理現象であり、本件では恋愛的、性愛的色彩を持った転移が認められる)・逆転移(医療スタッフ側が患者に向ける転移)現象について医師と患者の安定した境界を定めるために重要な枠組みとなるものである。

イ 医師、とりわけ精神医療にかかわる専門職にある者は、その治療行為自体が患者の内心や精神に深く立ち入るものであることから、容易に患者の過度の依存を招来する事ができる。それゆえ、その関わり方については、転移・逆転移という心理現象を生じやすい。治療構造は転移・逆転移の取り扱いについて、その推移を読み取りこれを分析可能な状態にする機能を持つだけでなく、医師と患者の安定した境界を定める機能を有するものであり、このための治療構造を前提におくことなしに転移現象を扱うことは困難である。治療構造を曖昧にすることは医師・患者間の境界を不明確にし、患者の現実検討を困難にし、患者の治療や回復を困難にすると言われている。

ウ 被告が、仮に当初から治療行為を逸脱して故幸子と性愛的な関係を持つことを意図していたのではなかったとしても、同医師は精神療法に入る際に、通常の精神科医であれば当然設定しなければならない治療構造の構築を怠り、あるいは、その構築に失敗した結果、医師としての立場を逸脱して故幸子に対して恋愛感情を抱き、あるいは、逆転移現象に翻弄され、故幸子に転移を生させ、それを治療的に分析することに失敗して、さらに、同人の転移感情を一層賦活させる結果になったものである。



エ 平成7年9月頃には、被告自身が原告らに対して「この先どのような治療をしてよいのかわからない」ともらし、被告自身が治療者としての立場を保てなくなり、前記のとおり他の医師や看護者からも両者の関係の異常性を指摘されるようになっていた。かかる事態は精神療法の初歩的な失敗と言うべきである。

オ また、精神療法において転移が生じる場合、患者は自己が医師にとって重要な存在であることを確認するために、他の患者以上にことさらに長時間の面接を要求したり、診療上の約束をあえて破ろうとするなどの行動に出て、医師が自分に関心を持っているかをテストしようとする態度に出るとことがあるため、こうした患者の態度について注意が必要であるとされている。こうした場合の禁忌事項として医師は特定の患者に好意を寄せていると受け取られないよう慎重な態度で接する必要がある。故幸子も典型的にそのような行動に出ていたのにかかわらず、被告は漫然とその要求に応じて故幸子の恋愛転移を助長させ、また、あえて故幸子の被告に対する甘えや依存を積極的に指導するなど、故幸子の転移状態を適正にコントロールすることを怠っていた。



カ さらに、医師が自らも特定の患者に性愛的感情を持った場合には、治療関係から回避すべきとするのが準則であるが、被告はこうした禁忌事項を一切無視していた。


C 自殺の予見・回避義務の懈怠

ア 被告は治療行為を逸脱し、あるいは、精神療法における初歩的な失敗をしたため、故幸子の医原性の境界性人格障害などの病状の増悪を招いたものであるが、さらに、精神科医として故幸子の自殺の危険性を適切に予見しそれを回避するための治療措置をとらなかった。

イ 具体的には、被告は故幸子に対する誤った治療によって生じた転移に基づく心情を弄ぶかのように、故幸子に期待を持たせるかのような言動をしては、次にはその期待を裏切るような冷淡な対応をとり、故幸子は被告からそのような対応を受ける度に自殺の危険に見舞われることになっていった。


i) A大学病院入院・通院中の自殺企図

 故幸子は、被告が主治医であった平成7年9月以降、D医師との面接後、被告の言葉に傷ついて自殺未遂に向かう、というパターンを繰り返していた。実際、被告本人が記載した、平成10年6月24日付けの、B中央病院のカルテによれば次のようである。「Dが個人的な関係を否定する→三浦さんが自殺をはかる  という悪循環は入院中の秋からあったようだ」。これらA大学病院入院中の自殺未遂は、実行直前で中止されたが、退院後の平成7年12月以降、故幸子は、2度生命に関わるような自殺未遂を図り、平成12年5月2日、3回目の自殺企図により死亡するに至ったものである。

 故幸子が希死念慮あるいは自殺企図の危険性を示していたことはカルテ及び看護記録の記載からも明らかである。


 故幸子の診療経過から見れば、患者に自殺企図の危険性のあることは容易に予測できることであり、そうした問題に対する家族としての留意点や故幸子の支持の仕方などについて、被告は治療体制を形成する必要があったのに、それを怠り、故幸子に身体の損傷を伴う自殺未遂を招かせる結果を生じていたのである。

 このうち、平成8年1月6日の1回目の自殺企図では、前日の5日にA大学病院の被告のもとに通院して治療を受けた(故幸子は前年12月1日A大学病院を退院しその後は通院していた)際に、原告B(母)と故幸子の妹であるI子が同日の診療が終わるのを廊下で待っていたが、故幸子は泣きながら診療室を出て、被告Dが故幸子を追いかけて来るということがあった。その日の診療内容について被告Dからの説明は受けられなかったが、故幸子の精神状態は不安定になり、その様子に不安を抱き、翌日、原告Aが故幸子の外出後、その机を調べたところ遺書があることが分かり、あわてて同人の行方を捜索しようとしたが、被告は何ら協力しようとしなかった。故幸子は同年1月7日、渋谷区内のホテルで大量の睡眠薬を服薬して昏睡状態になっているところを発見され、○○医大に搬送され、極めて危険な状態であったが、一命を取りとめたのである。

 原告らが同病院の精神科医師に従来の治療経過を話したところ、同医師からは被告から離れるように助言され、他院(K病院)の女医を紹介されたほどであった。

 この自殺企図については、12月1日、故幸子は退院するが、その後の通院が同人の危険な自殺企図をもたらすことになっている。


 ここで指摘しておかねばならないのは、患者である故幸子をいったん転移状態を生じさせ、医師である被告に依存する状態に「抱え込んだ」被告が、何らの支持的な処置も講じずに無責任に治療を放棄したことにある。このような行為は、患者にとって極めて危険である。

 通常の希死遠慮のある患者においても自殺企図の危険性については十分な注意が必要であるが、本件の場合はそれを超えて、被告が故幸子の自殺企図の原因となる依存関係を形成しておきながら、その解消の働きかけをせず、適切な支持的処置や家族等に対する注意も行わないまま、無責任に患者を放置したところに医療上重大な過誤があるといわなければならない。


 被告は他の医師への交代を当然すべきであったのにそれも行わず被告を主治医とする治療が行われ、被告が転移・逆転移現象を解消することなく漫然と面接を継続したことが、故幸子の自殺未遂の原因を形成したものである。


 2回目の自殺企図は同年11月28日に行われている。故幸子は○○医大病院の医師の紹介でK病院に転院したが、同院の担当医は、故幸子の被告に対する転移が強固に残存していることから、それを解消することが必要であり、そのためには被告の治療協力が必要であると判断し、同年3月6日から毎週水曜日にA大学病院に通院させ被告との面接をさせて、同医師の前記不適切な精神療法等によって生じさせられた故幸子の同医師に対する転移や病的な依存を解消する治療を進めることにした。被告は表向きその意向を受け入れ、再びA大学病院、同年4月以降は、被告の転勤先であるB中央病院への通院治療が再開され、8月中旬まで被告の面接治療を受け続けた。しかしながら、いっこうに改善がなく、かえって、被告との面接や電話での治療の後に必ず自殺企図に向かう、という自殺のパターンが強化されてしまい、しかも、病状は悪化し、自殺の危険性はますます高まるばかりであった。そこで家族は、K病院への入院を決定し、被告は平成8年8月中旬より11月終わりまで閉鎖病棟での入院治療を受けることになった。

 故幸子は同年11月28日に、同病院を退院すると、その日のうちに軽井沢のホテルに向かい、自殺を企ててしまった。後日、故幸子が語ったところによると、同人が自殺企図の前に被告に電話で「好きだけれども、辛いから自殺しようと思っている」と話したところ、被告は「声が聞ければよかったのだろう」と突き放した冷淡な言い方をし、故幸子は一層深く傷つき、自殺を決行する決意を固めてしまったということであった。


 たしかに、被告が故幸子からの電話を受けたのは、8月に治療を中断して以来、3ヶ月ほど経過した後のことであった。しかしながら、上で述べたように、故幸子はそれまでも、被告との面接や電話の後に、必ず自殺企図に向かおうとする、という行動を繰り返していた。しかも、被告Dはこの自殺企図のパターンを緩和することができず、また、家族に対して適切な指示や説明を行わず、漫然と面接を継続していた。

 この時、自殺企図を防いだ故幸子の友人は、被告に対して、自殺企画のパターンを形成している要因が、被告Dによって「
個人的交際を断られたことが(見捨てられた)体験と直結」することである、と指摘している。つまり、被告の関わりが故幸子の自殺企図と深く結びついていることは、誰が見ても明らかだったのである。したがって、被告Dは、この事実、および、それまでの自殺企画に見られたパターンについて、平成8年11月、故幸子より軽井沢から電話を受けた時点で、当然想起すべきものであった。


 しかし、被告はこのような電話を受けながら、原告ら家族に自殺の危険性があるので注意するよう忠告するでもなく、漫然と事態を放置していた。このため故幸子は翌朝ホテルのチェックアウトの際まで、大量服薬して昏睡状態でいるところを発見されず、軽井沢病院に救急搬送された後に、家族は連絡を受けたという始末であった。


ii) B中央病院通院中の自殺

 故幸子は平成9年2月から精神科クリニックでN医師の診療を受けるようになったが、同年11月から再び被告の治療を並行させることになった。同医師はA大学病院からB中央病院に転勤しており、故幸子は同院のもとで被告の診療を受けることになった。

 面接は、当初は、毎週水曜日と決められていたが、その後D医師の提案により、水曜日と土曜日の週二回となった。

 治療の目的は前回と同様にD医師の上述の不適切な精神療法などにより生じた故幸子の転移や病的な依存を解消し、故幸子の再適応と自立をはかることにあった。しかし、ここでも面接は常軌を逸して深夜に至るまで長時間にわたっておこなわれ、原告B(母)は深夜12時前後に故幸子を迎えに行くことも稀ではなかった。また、故幸子と被告は面接日以外の日は午後1時30分から3時30分まで電話で話しており、しかも、被告の提案によって、あらたに土曜日の面接日が設定された。こうして、故幸子の被告に対する依存は解消されないばかりか強まるばかりであった。しかも、被告Dはこうした野放図な診療を改めようとしなかった。

 同年12月ころには、被告自ら故幸子に恋愛感情があることを告白し、「愛情があるのに保身のために嘘をついてしまった」とか「今まであなたにだけ愛情を感じてきたけれども、現在の妻と知り合ったとき同じ愛情がわいてきて結婚してしまった」(D医師はその前年ころ結婚をしていた)などと言い、N医師としても、D医師の医師として期待される行動とはまったく異なる言動に両者の関係の調整に苦慮する事態になっていった。


  また、被告との面接の後、必ず、故幸子が精神的に不安定な状態となって自殺に向かおうとしていたが、このような自殺のパターンは、A大学病院入院中から変わらないものであった。平成8年の面接においても、すでに述べたように、被告Dはこれを緩和することができず、故幸子はそれまでも、被告との面接や電話の後に、必ず自殺企図に向かおうとする、という行動を繰り返した。平成9年以降も、被告Dはこの自殺企図を自分では緩和できないばかりか、今回は、毎回電話の後や面接の後、原告母Bに対して、故幸子の保護に当たるよう指示していたのである。原告Bはその度ごとに、「あなたはまた[自殺の]引き金をひいたんですね」と被告に詰問し、改善を迫ったのである。

 素人である原告Bが、娘の生殺与奪の権利を握るとも思われる医者に、これほどまでに強い態度に出るというのは、被告の関わりが故幸子の自殺企図とそれほどまでに密接性があったこととの何よりの証左である。このように原告Bが、一貫して被告の治療の問題点を指摘してその改善を迫ったにもかかわらず、被告はこれを改善しなかったばかりか、従来通りの電話と面接を継続した。


  N医師は、両者の関係を調整するため同医師と被告、故幸子の3者での面接を提案したが、被告は都合がつかないなどとして面接の予定を直前になってキャンセルするなど、医師として自らが招いた事態の緊急性・重大性の自覚に全く乏しい対応に終始していた。

 B中央病院への通院は、平成11年4月に中断し、平成12年3月下旬からは、同院の被告との間で、電話とメールによって、従前と内容的には何ら変わらない、表向き「診療」と称した連絡・接触が再開されるようになり、同年4月22日には故幸子は同病院に来院して被告に受診している。しかし、その10日後である同年5月2日、故幸子は被告に電話をした後自殺を企て翌3日死亡した。



iii) 自殺の予見可能性と回避可能性について

 上で述べた3回の自殺企図は、いずれもその直前の状態において故幸子の精神状態が極めて不安定になっていることが傍目にも明白であり、また、被告はいずれの場合にもその直前に故幸子と面接するか、あるいは電話によって会話をするなどしてその病状をつぶさに把握していたのであるから、自殺の危険性を容易に予測することとができた。それにも関わらず、被告は家族に対する適切な注意や入院の勧奨など自殺を防止するための措置をまったくとらなかったばかりか、かえって、故幸子の不安や失望、混乱を増大させるような言動をとり、患者を自殺に駆り立てるような極めて不適切な処置を行ったものである。


 従って、被告による故幸子の3回にわたる自殺に対する対応を検討すれば、いずれの場合についても、被告は医師として通常果たすべき自殺の予見とその回避の義務を怠ったものである。



4) 被告の損害賠償責任


 被告は故幸子に対して、精神療法上必要とされる治療構造を構築することなく精神療法によって生じうる転移・逆転移現象を適切にコントロールする注意をせずに、患者である故幸子に漫然とあるいは意図的に転移を生じさせあるいはそれを強化させる言動を繰り返し、自らも逆転移に巻き込まれることにより、適切な治療の阻害要因を形成し故幸子の病状を増悪させた。さらに、それにより自ら自殺企図の原因を形成しておりながら、自殺企図を予見することができたのに、適切な結果回避の措置を講じなかった。従って、被告は不法行為に基づく損害賠償責任を免れない。


3 損害の発生

@ 逸失利益
    省略
A 慰謝料   省略
B 弁護士費用    省略
   合計          省略


4 結論

 よって、被告は原告らに対し、不法行為に基づく損害賠償請求権に基づき金 ○円及びこれに対する不法行為の被の後であることが明らかな平成12年5月4日から支払い済まで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払え。



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