精神科医の逆転移
−ユングとシュピールラインの場合−
ここでは、かのC・G・ユングが、彼の患者であった女性S・シュピールラインに対して起こした、有名な逆転移について見ていきたい。
参考文献は、アルド・カロテヌート/入江良平・村本詔司・小川捷之共訳『秘密のシンメトリー』みすず書房、1991年である。
重要な資料は、1977年に、ジュネーヴで偶然に発見された、ロシア系ユダヤ人女性で、かつてのユングの患者、そして後には優秀な精神分析家となった、ザビーナ・シュピールラインの遺稿である。
ただし、結局本書は、シュピールラインに関する研究、というより、ユング研究となってしまっている。「歴史」の「主人公」は、いかに「加害者」であったとしても、「偉大」なるユングである。
また、本書にコメントを寄せた精神分析家ベッテルハイムは次のように、本書の著者を批判している。
。
シュピールラインの子孫が生き残っている可能性もあるにもかかわらず、本書の著者カロテヌートは、ジュネーヴで発見されたシュピールラインの遺稿を公表するために、シュピールラインの遺産相続人を探し出して、彼らの許可を得ようとする努力を怠った。ユングの相続人に対してカロテヌートが払った配慮に比べると、明らかにシュピールラインの相続人には配慮が欠けている、と。
このような、大問題をはらんでいるのではあるが、シュピールラインという優れた人物の文章が読めるということ、ユングという人物が、何をしでかしたのか、ということがよくわかる、という意味では、本書は良書である。
今回は、本書の内容について詳しく解説できないので、以下の優れた書評を参照することを推奨する。「シュピールラインとユング」(KIKIHOUSEの「言葉の部屋」より)。
さて、シュピールラインは1885年、ロシア生まれの裕福なユダヤ人家庭出身の女性であったが、青年期に精神的な病を患う。この病は当時、「分裂状態をともなった強度のヒステリー」と記述されていた(418頁)。
両親は、ユングが勤務し、当時世界的に有名だった、スイスのブルクヘルツリ精神病院での治療を受けさせるため、彼女をチューリヒに連れて行く(418頁)。
シュピールラインは同病院に1904年頃から入院したが、その後、医学を志し、1905年にはチューリヒ大学に入学している。まもなく退院すると、外来患者として、ユングのもとに通院する(418頁)。
1911年、精神医療に関する学位論文を提出し、博士の学位を取得した(418頁)。
しかし、まさにこの間、シューピールラインは、ユングに対して恋愛転移を起こし、他方、ユングはシュピールラインに対して、恋愛逆転移を起こしたのである。
ちょうどその頃、シュピールラインがフロイトに書き送った手紙で、彼女はまず、次のように説明している(165−167頁参照)。
1909年6月11日付けのフロイト宛の手紙より
「 [中略]ユング博士は四年半前に私の医師になり、それから友人に、そして最後は「詩人」つまり恋人になりました。ついに、彼は私のところにやってきて、事態は「詩」の通常の成り行きどおりに進みました。彼は一夫多妻を説き、彼の妻も同意するだろう云々と言いました」。
つまり、ユングは「治療」において、「一夫多妻を説き」、シュピールラインを誘惑した、ということである。
シュピールラインの母親は、この事態を、次のような経緯で知った。
「さて私の母は匿名の手紙を受け取りました。それは流暢なドイツ語で書かれ、あなたは娘さんを救わなければならない、さもなければ彼女はユング博士によって破滅させられるだろう、とうい内容でした。私の友人の誰かがこの手紙を書いたはずはありません。なぜなら私は完全に沈黙を守っていましたし、ずっとすべての学生から離れて生活していましたから。疑わしいのは彼の妻です」。
そこでシュピールラインの母親は、ユングに手紙を書いて、そのようなことはしないでほしい、と要請したらしい。再びシュピールラインがフロイトに宛てて書いた手紙を見ると、次のように述べられている。
「手短に言えば、私の母は彼に感動的な手紙を書きました。あなたは私の娘を救ってくれた、今になって娘を堕落させたくはないでしょうと述べ、彼に友情の限界を超えないように懇願したのです」。
このような要請に対するユングの回答は、次のようなものだったという。これもシュピールラインからフロイトに宛てた手紙で引用されている文章である(読みやすさを考慮して、筆者が段落を入れた)。
「私は、自分の感情を背後に押し込めておくのをやめた時、彼女の医師から友人になりました。
私は職業上の義務を課せられていないと感じていましたので、なおさら容易に医師としての自分の役割を捨てることができたのです。というのも、私は一度も報酬を請求したことがないからです。
報酬こそが医師に課される限界を明確に規定するものです。あなたもご理解いただけるでしょう。
男と女が友人として−そしてそれ以上の帰結を引き出す可能性が全くなしに−いつまでも親しい交際を続けていくことなどできるものではありません。
というのも、二人の愛情の帰結を引き出すのを妨げうるものなどありはしないからです。
他方、医師と患者は、いかに長い間であれ、いかに親密な事柄についても話し合いを続けることができます。患者は自分が必要とするあらゆる愛情と配慮を医師に求めることができます。患者にはその権利があります。
しかし医師は自分の限界を知っており、けっしてそれを越えないでしょう。というのは、彼は自らの労苦に対し支払いを受けているからです。これによって医師は必要な制限を課されるのです。
それゆえ私はあなたに提案します。あなたが私に医師としての立場に徹することを望まれるならば、私の労苦に対する適切な報酬をお支払いください。
そうすれば、あなたは、私があらゆる状況下で医師としての私の義務を尊重することを、無条件に確信することができます。
他方、ご令嬢の友人として言えば、事は人知の及ばぬ運命の手に委ねなければなりません。
というのも、友人である二人が望むがままに振る舞うことを何人も妨げることはできないからです。
あなたが私の申し上げたことをご理解になり、そこには下劣さがあるのではなく、ただ経験と自己認識が表現されているにすぎないということを分かってくださるよう願ってやみません。
なお私の料金は診療一回につき十フランです」。
このようにユングは、「報酬」という「限界」がなかったがゆえに、自分はシュピールラインの「友人」から「それ以上の帰結を引き出す」ような関係、つまりは性的な関係を通じた恋人となった、と述べている。
また、以上の主張をもう少し手短に言ってしまえば、ようするにこうなる。自分がシュピールラインと「友人」さらには恋人になったのは、自分のせいではない。「報酬」を支払わなかったシュピールラインの両親のせいだ、と。
しかし、シュピールラインの母親にとって、これは「侮辱」でしかなかった。なぜなら、シュピールラインによれば、次のような事情があったからである。
「これが私の母にとってどれほど侮辱的であったかは、次のことを考えてみれば明らかです。つまり私の両親は生涯に一度だって贈り物を受け取ったことがなかったのですが、私の母はユング博士が個人患者を取る権利を持っていることを知らなかったので、お金のかわりに贈物をおくっていたのです。それは同時に友情のしるしでもありました。当然、最近ではその事情は複雑になっていました(というのも、かれはもはや医師でさえなくなっていたからです)」。
つまり、「報酬」がないから、友人から恋人になってしまった、というユングの説明は、両親にとっては不当なものでしかない。なぜなら、もしユングが当初から十分な説明を両親に行っていれば、両親は当然ユングに治療代を支払ったはずだからである。
ユングのこのような言い逃れは、単なる居直りである。そもそも、自分ではなく他人に自らの過ちの責任をなすりつけている、という点から、何ら正当化できるものではなく、極めて卑劣である、とさえ言うことができる。
翌1909年6月12日、シュピールラインはフロイト宛の手紙の中で、ユングにからシュピールラインの母に宛てられた手紙の、次のような箇所を引用している(168頁以下参照)。
「・・・私はご令嬢に、性的なものは論外であって、自分はただ行動を通じて友情を表したかっただけなのだ、といつも言っていました。あのことが起こった時、私はたまたまとてもやさしく同情的な気分にありました。それで、ご令嬢を内的に解放するために、私の友情と信頼の確固たる証拠を示したいと思ったのです。しかしそれは大きな誤りでした。私は心から後悔しています・・・・」
「彼女を悩ませている頭痛は一時的なものに過ぎません。それは充足されず、また残念ながら私が充足させることはできない願望の所産です」。
このような文面が、シュピールラインの「矜持」、つまりプライドをいかに傷つけたかは、想像に難くない。
なぜなら、ユングはかつて、シュピールラインに、「あなたの手紙は、雲の間から差し込む太陽の光のように僕のもとに届きました」とか、「偉大な精神を持つ人間と知り合えて、僕は何と幸福なのだろう」といった文面の手紙を書いてきたからである。
さらにユングは、自分の日記をシュピールラインに渡して読むようにいい、「君以上にこれを理解できる者はいない」などと断言していたからである。
つまり、ユングは「友人」、そして恋人として、治療室でシュピールラインと接し、あるいは手紙を書いていたはずなのである。これは、シュピールラインを病人扱いしていなかった、ということ、またユング自身が、自らの恋愛感情やら諸々の感情を、あけすけに彼女に対してぶつけていた、ということである。
ここで再度、先の手紙からの引用を見てみよう。
ユングは、あたかも自分は「たまたま」シュピールラインの「内的な解放」を行いたかっただけであった、と述べている。
しかし、この「たまたま」という言葉、そして「内的な解放」を行いたかった、あるいは「友情と信頼の確固たる証拠」を示すための行動だった、などという言葉は、単に自分の欲望に従っただけの行動を、あたかも理性的かつ合理的、そして、あたかも誠意ある行動であったかのように説明するための道具立てであるにすぎない。
こういった「言い訳」を、今日の「セクハラ」やら「レイプ」の現場でも、時々耳にするのは、筆者だけではあるまい。
さて、母親からの手紙を受け取ってから、ユングはどうやら、「医師に戻った」ようである(169頁)。
しかしそれ以前に、シュピールラインは、ユングが女性患者に対する「誘惑」やら「征服」をやった、という具体的な話を聞き、結局彼は自分を弄んでいたが、母からの手紙を受け取って不安になった、と理解するようになった。それと同時にシュピールラインは、重い鬱状態に陥った。当然である(169頁)。
この時シュピールラインは、自分で何を言ったかは忘れたが、「考えたこと」を告白する。これに対してユングは次のように述べたという。これは上で見た母親宛の手紙と似通ったものである(以下、168−169頁参照)。
「自分は愚かなことをした、それは君のためにならなかった、君に親切でありすぎたので、今では君はあまりに多くを望むようになった、等々」。
これを聞いたシュピールラインは呆然とした。事実ではないからである。「患者として自分の愛を告白するように強いられた」というのがシュピールラインの実感なのであるから。
シュピールラインによれば、はじめ彼女はユングに対して「帰結」つまりは、性的関係を持つことを、拒否した。
しかしユングは、とうとう耐えられなくなり「詩」を、つまりは恋愛関係を求めた、ということ。これがシュピールラインが記憶している、それまでの経緯であったはずである。彼女に言わせれば、こういうことになる。
「ところが今、彼は、自分が私に優しすぎた、そのため私は彼に性的関係を求めるようになったが、もちろん自分はそれを望まなかった云々と言うのです」。
このあとシュピールラインは、ナイフで自らを切る、という行動化を起こす。しかし、フロイトへの手紙は引き続き送られている。その中でシュピールラインは、ユング宛に書いたが、まだ投函してていない手紙から、次の一文を引用している(以下、172頁以降を参照)。
「矜持ですか? 愛はそれより高いところにあります。私はあなたを許します。あの一切のことにもかかわらず、私はあなたを愛しているのですから。許すことができるというのは、矜持にとっても大きな満足を与えてくれます。」
このように、シュピールラインは、あくまでも、ユングに対しては、寛大な態度を見せている。しかし、これが彼女の本心なのか? 実は、その一方で、彼女はフロイトに、次のようにも書いている。
「最近まで神聖視していたもの、つまり最良の女友達を、自分の中で、そして彼女の両親の眼前で、あのように唾棄すべきやり方で汚物の中に投げ込むのをためらいもしなかった。その理由は? 臆病と、ご都合主義です。おお、嫌だ! 誰が見たってこんな人物は軽蔑に値するとしか思えないでしょう。考えても見てください、先生、彼は私に魂のすべてを与えたのです。彼は自分の日記を私に手渡し、かすれた声で言いました。「これを読んだものは私の妻しかいない、そして・・・今君が読むんだ」」(1909年6月13日付け シュピールラインからフロイトへの手紙より、175頁)。
これだけでも、ユングがシュピールラインに何を行ったかは一目瞭然であろう。
まず、ユングはシュピールラインに、逆転移を起こし、あるいは「医師の転移」を起こした。
そして、シュピールラインを誘惑し、性的関係を持つように迫り、そして、その目的を達成した。
ところが両親からその点を追求されると、自らが引き起こしたことをすべてシュピールラインのせいにした。あるいは、治療費を支払わなかった両親のせいにした。
そればかりか、自らの性的欲望、シュピールラインに語った言葉を、恋愛感情を、すべて否定するような言動を繰りかえした。
本書の英語版には、アメリカの精神分析家ベッテルハイムのコメントが掲載されているが、そこでベッテルハイムは、次のように断じている。
「重要なのは、分析医がその患者であり恋人である人物に対して、敬意と人間的礼儀をもって振る舞ったのかどうか、あるいは、彼の関心がもっぱら世間体に向けられてしまったために治療者である彼に無防備な患者の心理的な傷つきやすさには何の注意も払わなかったのではないか、ということである。残念ながら、ユングがシュピールラインに恥ずべき行為で振る舞ったということは明らかなのである」(423頁)。
シュピールラインがその後優秀な精神分析家へと成長したのは不幸中の幸いであった。しかしロシアで精神科医として彼女がどのような生涯を送ったのかについて、カロテヌートは何ら記述していない。ベッテルハイムは、シュピールラインが、1936年から1937年までの、スターリンによる粛正の犠牲者になった、と推測している。
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