第一章 暮景
電気街の中心を東西に貫く大通りが、ひとびとの円滑な通過を保障しえたことは、ついになかった。
歩行者天国の中心で立ち止まり、辺りを見回した時、かれにはその理由がわかった様な気がした。通過の困難さは、行き交うひとびとの放埒な体面積に関係しているように思われた。
通りを駅から五分ほど東に歩いたところに、何ともフリークな書店があった。五坪ほどの狭い店内は、幼女愛好癖という呪わしき属性を授けられたひとびとで絶えず込み合っており、かれらは一様に、求めるものは何なのか、それが何処にあるのか知っている曇りのない眼をしていた。ただ、問題なのは、それがこの世ならざる幻影であることだった。
建物は三階建てであり、大通りの裏手に潜む多くの雑居ビルと同じように、それぞれのフロアは狭い外階段でつながっている。建物から突き出た階段は、金網によって外と隔てられていた。
階段を通るたびに、ひとびとは思う。
「これではまるで、牢獄だ」
一 選択機会
一
麺の消尽したカレーうどんを前にして、松本は何とも幸福な気分に浸っていた。カレーうどんには二度目がある。麺が無くなっても、カレーは残る。しかし、その幸福は対面に座り天丼を一心に見つめている鈴木によって、今まさに解体されようとしていた。
「汁って塩分が多いんだよ。それは、カレーうどんだって同じだ」
薄笑いを浮かべながら天丼の海老をいじり回している鈴木から発せられた言葉は、健康への歪んだ執着を矜持とする松本には、とても触れられたくない話題であった。
そもそも、かれがカレーうどんを選ぶに至った心理は、健康と食欲と精神衛生に関する観念の微妙な均衡から成り立っていた。「汁に投じられた麺類」という言葉に響きには、松本を恍惚とさせる何かがある。その核心にあるのは、麺を食べ終わってもまだ吸引すべき汁が残る冗長性であるが、その汁に多分の塩分が含有されていることは、麺を前にしたかれにいつも暗い影を投げる。例えば、ラーメンのスープを啜るたびに、かれの頭にはある語句が浮かぶ。
(東北地方における塩分摂取量と高血圧の問題)
続けざまに、心臓疾患、脳卒中という不吉なタームが頭の中に吐き出される。松本の困惑を見て取って愉快な気分になった鈴木は、言葉を続けた。
「すげえ痛いのですよ。心臓で死ぬときは」
松本はいつでも恐怖に震えていた。だが、それにもかかわらず、食への強烈な欲求に抗しきれないかれは、結局、うつわを空にして、複雑な心情になる。しかし、カレーうどんにだけには、かれはひとつの幻想を自分に押しつけようとしていた。
「カレーうどんは違う。今この瞬間において味覚している辛さは香辛料のそれであって、食塩の主成分たるを誇って止まないあの無色な結晶体のそれではない。断じて違う。いや、違ってしかるべきだ」
混乱と恐怖にあらがいながら強弁したかれは、もっとも、精神の安定を確保するためにおのれに課した理屈が、空想にすぎないことも知っていた。
カレーうどんというものは、如何なる過程を経て作られるのだろうか。カレーうどんに親しむ前の松本は、それはなにやら複雑な工程を経て、産み出される食べ物であると漠然と考えていた。カレーうどんが、変哲もない素うどんにカレーをかけただけのごく単純な工程しかもち得ないと知ったとき、かれは驚きを覚えた。
食塩を豊穣に含有する正規なうどんの上に、カレーが付加されるのであれば、むしろカレーうどんこそ、自らの循環器保全のためには死んでもよいと錯乱する松本にとって、棄却すべき選択肢であるはずである。
が、かれは、ここでひとつの小さな希望にすがろうとする。
「汁は少な目にするのが、コツよ♪」
原初的なカレーうどんの作り方というものがある。即席麺にレトルトカレーを合わせる手法であるが、このやり方には留意すべきことがあり、そこに用いられる即席麺が本来規定されるスープの量にカレーを投入しては何とも味気なくなってしまう。
松本は、小学生の頃、近所に住む大学生のおねいさんにこのカレーうどんを教わった。その際、笑顔の彼女から出た言葉が、それであった。後年、親元を離れ、日々自炊を迫られるようになった松本は、ある日、彼女の言葉を思い出し、汁を少な目にした即席麺にカレーを入れてみた。しかし、あまりにもその言いつけに忠実であるあまり、汁を思いっきり少なくしてしまったことに気づいたのは、カレーうどんであるはずの食べ物が、冷やしうどんにカレーがかかっているかのような奇妙なものになり果てた時であった。
かれは、カレーうどんがそれ相応の汁によって成立するという当たり前のことを学習した。ただ、相応と言っても、近所のおねいさんが述べたように、カレーうどんが素うどんより少ない汁の量で誕生することには違いない。ここで焦点になるのは、カレーうどんを成り立ちせしめるために破棄された汁に含有される塩分と、その代わりに投入されるカレーうどんのそれが如何なる様相を呈するのか、ということである。
「それがわれわれの最後の希望なのだ」
松本は考える。ひょっとしたら、追加的に加えられるカレーの方が、より少ない塩分を誇るかも知れない。が、少ない食塩の可能性を信じられる余地があることは、かれの精神衛生上きわめて重要なことであった。
こうして、鈴木の忌まわしき言葉から端を発した、何の社会的な寄与をもたらすとは思えぬ一連の思索は完結を迎え、一応の納得ある結論にたどり着いた松本は、カレー汁を吸引するため喜々として器を持ち上げた。だがそこで、かれはある恐ろしい考えが閃いて、ぴくりと器を支える手を止めてしまった。
(香辛料はもっと体にわるいのではないか)
松本は、香辛料を多量に摂っていると思われる人々の住む地域を頭に浮かべた。そして、かの人々の平均寿命がいかほどであったか、歪みに満ちた記憶の中を検索してみた。歴史を好む松本は、中学以来、しぜんと地理の勉学から離れていた。だから、ある特定の地域に住まうひとびとの平均的寿命など、かれが覚えているはずもなく、いくら呻吟しても具体な数値が心の中に現れることはなかった。ただ、松本の住まうこの地域の住民たちよりは、長寿を誇り得ないことだけは確かなことのように思えた。
続けざまに、別の想像が、松本のか弱い精神をおそった。
(刺激物たる香辛料は、肝臓に負担をかけまいか)
かれの頭の中では「慢性肝炎、肝硬変」という語句が勢いよく飛び交い始めていた。
二
うつわを下ろし、頭を抱え込んでしまった松本の様相を見て、鈴木はその滑稽さに顔を歪めた。「だったら、汁を飲まなきゃいいし、そもそもそんなもの喰わなきゃよいでせう」と半ば呆れながら、慇懃な言葉遣いでもっともらしいことを述べた。鈴木には時として、過剰に丁寧な言葉を使う癖があったが、その莫迦丁寧さが却って場の空気を乱し、相手に対して不快な印象を与えることがしばしばであった。
素朴な松本は、鈴木と出会ったばかりの当初の内は、他者へのかれの敬意が敵意に解されてしまうことに憐れみを感じずに入られなかったが、本当は敵意の表出こそがかれの狙いだ次第にわかってきたとき、松本は「命がいくつあっても足りないのではないか」とかれらしい大げさな憂慮の念を鈴木に対して露わにした。その時、鈴木は嬉しそうに「この愛しい脂肪壁が、俺様の物理的身体を守ってくれる」とその巨体を揺らしながら、自らを虐げるような発言を返した。わざわざ「物理的」という堅苦しい言葉を装飾するところが、かれらしい物の言い様だと言えた。脂肪壁は身体を守ってくれるかもしれない。でも、物理的ならぬものまでも守ってくれはしまい。鈴木はそんなことを云いたかったらしい。自信家を装うかれは、本当は他者と自己の憐憫に快楽を禁じ得ない男であったが、同時に、その感情を他者に悟られるのを恥ずかしいと規定する美意識の中にいた。だから、他者の同情をかわずして、自己を虐げる方法を考案することを、内になる精神にいつも迫られていた。だが、その時の松本には、鈴木の外見に似合わない内面の繊微な屈折を気づくことはなく、むしろ(もってまわったことを言う奴よ)というような印象しか残らなかった。
三
食塩の海に浮遊する麺類という料理の形式をそもそも選択しなければよいという鈴木の批判は、松本にとっても自明のことであったが、かれはそれを選ばざるをえなかった。その理由を、かれは釈明するが如く、くどくどと説明し始めた。
「つまり、麺が無くなっても汁が残る。それが全てなのだ」
満腹に至るコストをどれだけ削減できるか。これは、松本の食生活のもう一方の軸になっている観点である。他方の軸となっているのは、言うまでもなく「健康!」である。
松本がカレーうどんを前にして逡巡していたこの場所は、電気街の隣に位置する書店街の蕎麦屋である。ここで、かれはふたつの大まかな選択肢を与えられる。麺といわゆる丼ものと総称される食品群である。
麺が、カツ丼や天丼や親子丼に優越する点は、そのコストに他ならない。学生時代の松本は、慎ましい生活をするには問題のない仕送りを受け取っていた。だが、あくまで慎ましい程度であったので、偏った己の物欲に忠実なかれにとって、十分な額とは言えなかった。労働という恐ろしい選択肢は、そもそも松本の頭にはなかった。だから、低コストで腹を満たす手法は、当時のかれの大いなる関心事であった。よって、鈴木のような天丼という選択肢は、問題外というほかない。
コストの問題をのぞいても、麺には松本にとって輝けるところがあった。これまで何度か繰り返されてきた主題、すなわち麺が消費尽くされても汁がまるまる残るのである。麺はその本質においては、栄養価の麺で丼ものに勝てるはずもないのだが、汁の吸引によってたとえ一時的な幻想であったとしても満腹感をかれに与えてくれるのである。費用対効果の要請にこれほどかなうものは、かれには思いつかなかった。
悲しむべきことは、その素晴らしき汁そのものが、もうひとつの食生活に関する要請である「健康!」と、真っ向から対立してしまうことである。かつての松本は蕎麦屋の券売機の前で、五分ほど微動だにしなくなる迷惑な男であった。コストを犠牲にして「健康!」を選び、親子丼のスイッチを押すべきなのか。「健康!」を犠牲にしてカレーうどんのそれを押すべきなのか。
やがて、かれはこの忌まわしき「選択に時間をかけすぎて選択そのものの機会を逸してしまう惨劇的事態」を避けるために、問題を未来に先送りにする方法を発案した。もっとも松本自身の弁によれば、問題を「先送り」にするのではなく、「将来に託す」ということであった。
「いま、健康を害する汁に浮遊した麺を食わねばならないのは、今日における貧困が原因である。だが、将来において、この貧困の問題は解消されるはずだ。ということは、一生において汁を吸引し続けるわけではなく、近い将来において健康を志向する食生活に転換できるはずだ。いやできてしかるべきだ(このような口ぶりはかれの無意識の癖であった)。つまり、汁の吸引は若気の至りのようなもので、西海岸の陽気なひとびとが吸煙する大麻草みたいなものなんだよう。寿命に差し障りはあるまいて」
得意げに弁をふるう松本を前にして鈴木はひとつの陰惨な疑問がわいた。
(そんな将来、ほんとうにやってくると思っているのかな?)
意地の悪い鈴木はついでに、その疑問を口に出して言ってやろうとしたが、すかさずそれを察したらしい松本が怒気を含む表情をしたと思えば、瞬時にそれを泣きそうな顔へ移行させるという大変器用なことをしてきたので、さしもの鈴木も松本を哀れに思い、再び下を向いて天丼をいじり始めた。
精神的脅威が去ったことを悟った松本は気分を取り戻し、再びのうのうと語り始めた
「未来の親子丼を勝ち取るために、今の汁を吸引する。にんげんは、未来を生きるために今を生きてるんだ」
目を輝かせて躁状態に入った松本の話が長く続きそうな予感にうんざりした鈴木は、暇つぶしに人差し指をおのれの鼻の片穴にいれた。穴の内壁を数度なぞったかと思えば、素早く指を引き抜き、カウンターの向こう側でかれらに背を向けている蕎麦屋の親父に、鼻糞を飛ばした。鈴木の行為は、哀れな親父の右肩に小さな黒点を残す帰結を導いた。かれは、松本に向かってその点を指さしながら「どうだ」と自慢げな顔をした。鈴木は、講義中に閑を感じると、よく四方にこっそりと鼻糞を飛ばした。堂々とやるのではなくこっそりやるところに、実は小心者である鈴木の性情が窺い知れるのだが、当然のことながら松本はその行為を一度ならず批判したことがあった。
「くそったれた授業に対するかわいげのある抗議だよ、きみぃ」
鈴木は取り合おうとはしなかった。
このときも、松本は「人の話を聞けい」と抗議の声を上げた。
鈴木はにこにこしながら、「それにしても"汁"、'汁"ってのは卑猥な感じがするなあ」と周囲をはばからない音量で云った。松本は、カレーうどんの汁を飲もうとする意思を喪失せしめられた。
暫くして、鈴木は席を立って「もう行こう」と意思表示をした。半分ほど残された天丼を見て「もいいのか」と松本は尋ねた。
「食欲があんまりないんだよ」
巨漢の鈴木は、よく自分の腹をぽんぽんとたたいては何か警句を吐き、悦には入る男であったが、食は細かった。松本は、どうやって鈴木はあの脂肪の障壁を築きそれを維持しているのか、いつも不思議に思っていた。
つづく