六 ミートパイ記念日

二十七

スタングレネードが暴発したかの様な高笑いを放出して躍り込み、松本の部屋へ帰還を果たしたさをりが見たものは、中に丸まった物体が潜むと推測される布団の膨らみであった。己の暗い情愛を隠匿する努力に疲れ反動していた彼女は、何の顧慮もなく膨らみの上へ降下し、正座の姿勢によって圧迫を加え、幼い雄叫びをあげた。

「お兄さまっ、お兄さまっ、お兄さまっ!!」

「……」

「かわゆい妹のご帰還ですわ。なのにまたお布団の中ですの?」

さをりは正座の姿勢を解き、大の字で俯せになって布団の膨らみを抱きかかえる格好をした。

「幼い身体の小さな胸の膨らみ攻撃ですわ〜。鼻血ものっ!!」

しかし膨らみは何の反応も返すことなく、微動だにしない。一連の攻撃が松本へ失神せしめた可能性を憂慮した彼女は、布団を引っぺがす決断をして、それを行った。布団は易々と剥がれ、身体を硬直させつつ器用に啜り泣きをしている松本が其処に見出された。

「お兄さまっ! どうなされたの。唐突に鬱モードへ御突入?」

「――もう駄目だよう」

「何がダメですの? そんなの最初から解ってる事で驚きに値しませんわ」

「師匠が死んじゃったよお」

「師匠? ゼミの先生さんですの?」

さをりは気味の悪い表示光を放っている携帯端末に気がついて、「読ませて頂きますわよ」と有無を云わせない職業的な声色を松本へ投げ、テクストを一瞥し、溜息をついた。

「お兄さま」

「わたくしの事はもう放っておいて下さい。わたくしは一生童貞のままひっそりと身罷りたく存じます。この先如何様に生存を果たせばよいか見当もつきません」

「生存を果たすなんて容易ですわ。お兄さまがそれを望むなら」

「わたくしは童女愛好癖者です。おまけに、もはや就職活動に類する行為が能わなくなった身体です。面接の突破を可能にする様な自己分析を試みた途端、わたくしの思考は地球から追い出されてしまうのです。人と自発的に会話をするのも、困難になりつつあります。自由就業者すらなり得ません。独りで電車に乗る事すら出来なくなるのも時間の問題です。幼女しか愛せないわたくしは生命体として劣等です。加えて、社会的生産の参与にも関われない完璧さなのです」

「お兄さまが心配なさる必要は一片たりともありませんわ。お兄さまは余りにも社会を甘く見ていらっしゃいます。お兄さまが例え寝たきりになっても、いやこの世から居なくなってしまっても、お兄さまは消費の単位に組み込まれるのですわ。そして、社会はお兄さまから遺伝情報を奪いにやって来るのです。だから、お兄さまは何の後ろめたさも感じる必要はありませんわ」

「でも、わたくしが物理的な生存を計れない事に代わりはありません」

「さをりがお兄さまのお嫁さんになって差し上げますわ」

「え”?」

「お兄さまはずっと布団に引き籠もっていらっしゃっても良いのです。わたくしが養って差し上げますの。お兄さまには生存を続ける義務があります。無自覚にせよ、さをりに大質量のらぶらぶ光線を発射してしまった責任があるのですわ。だから、身罷るとかそんな事をさをりは決して許しません。さをりのお兄さまだったらその責任を果たせるはずです。さをりの命を救って呉れたお兄さまは、最後までさをりに陰惨な顔ひとつせずに、世界と戦ったのですわ。だから、お兄さまにも出来るはずです。もうめそめそしないで、さをりのために生きて。そうないと、さをりが何のために生きてきたのか解らなくなってしまいますわ」


二十八

さをりが幼い時分の己を回想の内に見出す時、往々にしてその景観は、煤煙の漂う下校の帰り道から始まる。小学生の彼女は、多くの人がそうである様に、火事の予感に原初の興奮を抑止し得ず、火事場の方角へ不安な音響を散布しながら疾走する公共車両の群れに、無邪気な感慨を催した。本能の赴くままに彼女がたどり着いたのは、面白いくらい火焔に蹂躙される我が家だった。その日、さをりの二親は、レキソタンの海に身を投じて、世界にけりをつけてしまった。

三親等離れた人々に保護者の権利を移転したさをりは、児童福祉相談所の注意を喚起せしめるに至るまでに、二年の歳月を経なければならなかった。親権者が教育義務を履行する能力を落っことしてしまったため、その身体に残る外傷を通例ならば十分に認知可能であった筈の学校という公共の空間にさをりは参与できず、地方公共団体による補足がそれだけ遅れる結果となった。彼女が発見されたのは、コンビニエンスストアの陳列棚の前である。食事が満足に与えられていなかったさをりは、非合法な手段で生存を計るほか無かった。上半身に点在する幾つかの痣は、彼女の保護者の無くしてしまったものが、教育の履行能力だけではない事を物語っていた。

係官が法行為の一環として裁判所に出向いている隙に、病院に収容されていた彼女は親権者の手によって連れ去られた。官警当局者がたどり着いた親権者の現住所とされる荒廃した家屋は、既に立ち退き済みであった。さをりに対する行為が犯罪捜査の対象下として明るみなった事を絶望した親権者は遁走を重ね、それ以降、彼らは生存した形では発見されなかった。ただし、さをりの方は、一ヶ月後、生存を維持し得たまま再び公共の庇護下に置かれた。顔に痣を残した彼女は、昼下がりの公園の真ん中で、中指の骨に入ったひびが苦痛で喚声していた。

さをりの情操に壮大な陰画を投影した人々が立ち去った後、彼女は、関係各位の果たした職務の成果により、世界の生暖かい空気に包まれた。中学生のさをりは、三代目の親権者となった“お兄ちゃん”との幸福な思い出でいっぱいだ。

「どうしてお兄さまは、さをりに優しくして下さいますの?」

世間一般に於ける理屈のない愛情の在り様を忘れてしまっていたさをりは、お兄ちゃんに素朴な質問をしては、彼に困惑の笑いのきっかけを作った。

「罪滅ぼしかな」

お兄ちゃんは少し考えて、さをりの大きな瞳を覗いた。

「何の罪ですの?」

「――これまで汚してきた多くの彼女たちへの」

「泥んこ遊びでもなったですの? 口惜しいですわ。お兄さまと泥んこ遊びをして好いのは、さをりだけですわ。さをりは、絶対、お兄さまのお嫁さんになるんだから」

彼女はお兄ちゃんに飛びつき、羽交い締めにして彼を苦しめた。

さをりとお兄ちゃんの別離は、それから三年の後にやって来る。うら若き高校生であったさをりは、お兄ちゃんの水面下で徐々に進行しつつある心の闇を察知せずには居られなかった。お兄ちゃんは、さをりの前では相変わらずいつもの優しいお兄ちゃんであったが、その視野の外では、密やかに嗚咽を重ねていたのだ。やがて、彼の身体の造形が目減りを始めた。彼の啜り泣く現場をようやく押さえたさをりは、お兄ちゃんを抱き寄せなでなでした。彼女の情緒は、スキンシップを慰めに用い得るほど、取り戻されていた。

「お兄さま、どこかお加減でも悪いの? いけないですわ。さをりが病院へ連れて行って差し上げますわ」

幸いにして、三代目の親権者は途方もなく器用な男で、彼はいつもの如くのお兄ちゃんを迅速に回復して見せた。

「さをりがそれで気が済むのなら病院へ行くよ。でもお兄ちゃんの病は病院で扱っているものじゃないんだよ」

「何ですのお?」

「お兄ちゃんはもうすぐ居なくなるけど、でもそれは解っていた事だ。お兄ちゃんは見ちゃったんだよ」

「何を見たと云うのですの?」

お兄ちゃんは問いに答える代わりに、理由のわからない不安で涙を溜めたさをりを抱っこした。

「さをりは心配しなくて好いんだよ。お兄ちゃんは周到な人間だから、もう万事完璧過ぎて怖いくらいだ。お兄ちゃんが居なくなったって、さをりが生活の心配をする必要は一切無いんだ。さをりと出会った後の人生は、すべてその為にあったんだ。お兄ちゃんは幸福だよ、さをりの人生に間に合ったんだから。奇跡の様な確率で、時間と空間をさをりと共有できたんだから」


二十九

日常の生活にあって潜在し、些細なイヴェント毎に放流され心持の乱調を醸成してきた松本の内に潜む世界への即物的な恐怖は、師匠のテクスト化された告白を契機に、心療内科の運動会の如く活況を彼の内面で呈していた。松本の内世界を良く知っていた筈の師匠は、己のテクストが松本へ与えるダメージをもっと考慮して然るべきだったのかも知れぬ。しかし、世界からの退却戦の大団円を目前していた師匠には、他者を細かに配慮する機能に最早欠けていた。伝えたい情報を伝えたい人間へ送り出す事で精一杯であった。師匠は松本を救済する能力も義務も己に欠けると自覚する人と思われた。ただ、世界への心象を何らかの点に置いて分かち合う人間を愛らしく思う程には情操の発達した人でもあった。師匠は生存の最後の日々を送る中で、愛らしい人間のためにささやかな懸命を行った。そして、その労力が松本を強襲した。師匠は最後の最後まで松本のびっくり箱だった。松本宅に帰還したさをりが見たものは、多量の汚濁をぶちまけて去った師匠の遺産に他ならなかった。

「お兄さまは仕合わせの絶頂にあって然るべきですわ」

松本を撫で撫でする彼女は、次は己がそれを為す順番だという職務上の生真面目な因果応報を明確に意識していた。その自覚が、親権者のお兄さんを失って以来の彼女の思惟や行動を形作った。

「こんなにも美少女な娘がお嫁さんだなんて、――って、自分で云ってて恥ずかしくなってしまいましたわ〜〜、きゃっ!」

さをりは、彼女の望んだ仕事の宿命で、かつてのお兄ちゃんの様なお兄ちゃん達に出会い、そして彼らを失っていった。

「お兄さまが世界に不安を抱く余地はもう微塵もないのですわ。愛が地球もお兄さまの生活も人生も救ってしまうのですわ」

いつもいつも「お兄ちゃん救済のプロ」として彼女をイントロダクションするみさ子に、さをりは抗議を申し入れなければならなかった。お兄ちゃんを救った事など一度たりともないと終いには情緒を錯乱させねばならなかった。みさ子は「果たしてそうかな?」と疑問を投げ、さをりの頭を撫で撫でした。

「お兄さまは安心して齢を重ねて下さって結構ですわ。中年おやぢになって、やがてヨボヨボの老人になるのですわ」

救済は生存と必ずしも等価ではない。最初のお兄ちゃんを貴女は救った。みさ子のそんな説諭でさをりは益々、感情の表現を幼児化させ、更なるみさ子の撫で撫で攻撃を招来させた。

「さをりはいつもでも一緒です。しがない中年おやぢになってもギャルゲーでめそめそするお兄さまの隣にも、もう歩けもしない老人なのにメイド喫茶へ車椅子で怒濤の如く乗り付けるお兄さまの隣にも、さをりはついて行きますわ。地獄の底までお供致しますわ」

さをりは憂慮する。自分のメモリーはお兄ちゃんとの楽しい思い出で充満している。でも、お兄ちゃんは、あの最後の瞬間に、何を想っていたのだろうか?

「やがて、お兄さまは老衰の果てに畳の上で平穏にくたばりかけるのですわ。それ以外の死に様をさをりは容赦致しませんわ」

如何様な景観が、断末魔を上げるそのニューラルネットと奔流するエンドルフィンの向こうに在ったのだろうか?

「お兄さまは、くたばっている真っ最中まで仕合わせでなければならないのですわ」

そして、さをりは祈った。

「お兄さまの最後の思い出は、かわゆいさをりとの至福な日々で一杯なんですから」


三十

さをりの人生は、松本の人生に間に合ったとも云えるし、或いは、間に合わなかったとも取れる。彼らは、筆舌に尽くしがたいらぶらぶ光線の応酬を昼夜問わず展開し、盗聴波によってその模様を傍聴していたみさ子を絶えず悩乱させた。だが、さをりの物理的な人生は、それから二週間の後に幕切れとなる。道路横断中の彼女は、視覚的注意を怠慢した右折車両により致命的な肉体的損壊を被り、松本と物理的な世界を共にする能力を永遠に失ってしまった。

残された松本は、覚醒している時間を尽く痛覚を以て経過せねばならなくなり、存在する事に途方もない困難を覚えた。由緒不明な目眩で歩行が能わなくなり、抽象上の不安が即物的な不快に変わり果てつつあるその運動を、滝の瀑布の如く眺めた。不快を避けるため、覚醒の時間を早々に切り上げ、毎日を消化せねばならなかった。が、次第に就寝中も目眩に見舞われる生涯初の感覚が、彼を訪れ始めた。

半ば寝たきりの如くなった松本の生命を維持していたのは、みさ子と彼女の投与するリボトリールとデプロメールとエチカームだった。会話の能わなくなった松本とみさ子の間に音響は一向に聞かれなくなった。ただ、みさ子は時々、彼を抱っこして撫で撫でした。彼にとって斯様な行為は苦痛だったかも知れない。しかし、みさ子は彼女なりの楽天的な疎通の方法に疑念を持つ様な女でもなかった。そんな彼女に、松本は莫大な労力を費やして、ただ「早く年を取って身罷りたい」と呟いた。

珍しくも松本の正気が気紛れに顔を出した日、みさ子は彼を外に連れ出すべく、厭がる彼に莫迦力を発動させた。

「やさしいおねえさんとデエトだよう。そんな顔をしていたら罰が当たっちゃうよ」

みさ子の脳天気極まりない言辞に、松本は(もう罰当たりすぎです)と暗く心の内で突っ込みを入れた。彼は引きずられる様に駅へ連行され、三度の乗り換えを含む二時間の過酷な小旅行の末に、寂れた駅のホームに降ろされた。

「何処へ行こうというのですか?」

「取りあえずあのベンチに座って、『ミートパイ記念日ぃぃ〜』みたいな…」

「……」

「嗚呼、怒ってしまったのね、まさよしくん。御免よう〜。おねえさんを許して」

駅を降りた二人がたどり着いたのは、田園と住宅が混在する街の小さな木造のフラットだった。

「さをりさんの住まいだよ」

みさ子は松本の手を引っ張って、彼を中に連れ込んだ。部屋は、今は亡き部屋主の思考の有り様を余りにも反映したものだった。松本は世界の解りやすさを可笑しいものと評価した。

所有者を失った物品は、二人の手によって保管、棄却の分類が行われた。脆弱な松本にとって、その作業は絶望の極まりの如くに思えたものの、他方で何らかの身体の動作を伴う実作業が、心理療法の手短な代わりをした。もっとも、『できるお嫁さんになる方法』と云う書籍を発見した際には、彼を大質量な情緒が襲わねばならなかったのだが。

帰りの電車で、『できるお嫁さんになる方法』の間が抜けた表紙を眺めながら、松本はさをりの人生の意味する所を思索せねばならなかった。しかし、時間がただ通り過ぎるだけで、何の回答も得られそうもなかった。仕方が無く松本は隣に座るみさ子に問いかけをした。

「わたくしはどうして生まれて来なければならなかったのでしょうか?」

みさ子は松本を引き寄せ撫で撫でした。他者の目など、みさ子にとって何の意味もなさなかった。

「それはね、まさよし君。世界が自分を覚えていて欲しいって、君に願ったからだよ」



「第三章 フラット・ホワイト・ユートピア」へつづく


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