五 焚日
二十
北半球に冬が訪れ、松本のこたつに潜伏する日々が始まった。
あの日、あやめの言動攻勢が松本のGABA作動性抑制性シナプスに差し障るまでに至って以来、接触はおろか、あやめの話題を持ち出すのにも命がけな体となり、松本には彼女の消息は一切が不明となった。ただ、みさ子の日々疲弊して行く模様が、かなりイヤイヤな成り行きをほのめかすばかりである。
松本は、深くこたつに沈潜して、あやめの発言を怯えながら検証してみた。
『わたしはアレを見たんですよ!』
恐らくは、松本がさをりを失って、薬物療法が効を奏すまでの間、あの人事不省の中で彼が何処かをさまよう内に見てしまったものもそれと思われる。ちなみに、当時の松本はたいそう驚愕して、二十年ぶりくらいに失禁してしまい、みさ子に下の世話をしてもらう屈辱となった。
松本はその時のみさ子もよく覚えていて、彼女はただ嗚咽するばかりであった。モノアミン系の神経活動を人為的に修飾することで小康を得た今の彼からすれば、その回想の描画するみさ子が何とも悩ましく、ついでに、失禁とか下の世話などという文句がその悩ましさを増強してしまい、彼はこたつの中で挙動不審、同時におのれの逸脱する嗜好に心持ちを摩耗せしめられた。ただ、かろうじて脱糞までには至らなかった自分を誇ってよいとも考えた。
彼がこたつでのたうち回ってる内に、世間は容赦なく日暮れを迎え、みさ子が「ただいまだよう」などと発しながら家へ侵入してくる。松本は「だよだよ星人め」と某古典ギャルゲエムの台詞を改変引用しつつ、完全にこたつの中へ身を隠した。物音から判断するに、みさ子は部屋を右往左往していると思われる。
「どこなの、まさよし君? お出かけなの?」
莫迦め。こたつに隠れてるなどと、夢にも思うまい。松本はみさ子の困惑声を喜ぶ。が、次第にみさ子が可哀想に思われてきて、こたつから這い出る。「もう、おねえさんをドキドキさせちゃダメだよ」とみさ子は発し、ご飯となり、やがて食後のまったりモードへ突入し、お疲れのみさ子は、早々と鼻提灯の展開を開始した。相も変わらず暇な松本は、その模様を観察しつつ、こたつの中でおのれの足を伸長させ、みさ子のひざ頭を突いてみたりして遊んだ。
明くる日は休日で、朝、みさ子は清掃のためにこたつから松本を引き離しにかかった。松本は厳重なる抗議をするが、手慣れたみさ子の良いように転がされる。
「たまにはお外に出た方が良いよ、まさよし君。子どもは風の子だよ」
家を追われた松本は、もう殊更に、この地球上において行きたいと欲する場所などなくなっていたので、仕方なしに、近所の公園の日の当たる場所へ駆け込み、十分ほどそこで停滞した後、帰途についた。
家にたどり着いてみると、扉の前に娘らしき物体が膝を抱えてうずくまっている。あやめである。彼女は松本を見上げて、のたまった。
「今日から貴男をわたしの下僕にして差し上げます」
二十一
週明けの月曜日、松本は、子細はわからぬがとにかく恐ろしく禍々しい音声に覚醒を迫られた。早朝五時のことであり、夜行性生活に親しんで早十年の松本としては、こんなに早起きしては却って健康を害するに違いないと断言して然るべき時間帯である。異音の発生源とおぼしき方角へ視野を向けてみると、布団の上で正座してるらしきあやめのシルエットが、暗がりの中に認められた。
昨日、松本をなぜか下僕にしたあやめは、みさ子宅にお泊まりである。事情を解してるらしいみさ子は、「うふふ〜」と三十路には似つかわしくない笑いで彼女を迎えた。
「いつまでいても好いんだよ、あやめさん。おねえさんはもう離さないぞ」
そんなことを言って、猜疑と嫉妬には事欠かない松本をやきもきせしめたりする。
みさ子宅は2DKで、その内の一部屋は松本が占拠しており、健全な婦女子には眼球に有害な品々で散らかっている。あやめをそんな恐ろしげな環境へ放り込み寝てもらう訳にも行かなかったので、その晩は三人が同じ部屋で寝起きをともにすることになり、松本はそれなりに浮かれた。
「いくらわたくしが美男子だからといって、二人して夜這いなどかけぬように」
就寝の直前には、かような卑猥な冗談まで飛び出す始末であったが、改めて二人に夜這いをかけられる模様を想像してみると、何げに興奮を招来する景色であることが発覚してきて、視索前野部分のニューロンが中脳の運動系神経に悪戯をする気配が濃厚になり、松本はあわてて布団の底に潜行し、理性を回復しようと足掻くうちに、気を失って睡眠をむさぼり始めた。
そんなこんなの事情で、同じ部屋にあやめが存在することは、特に疑問に付すべきことではない。しかし、様子が桁外れに異様で、起床による判断力の回復がある程度に達し、謎の音源の正体が判明すると同時に、その異様さの子細が知れた。あやめはマントラの詠唱に没頭している。驚愕した松本は、思わずあやめにアンクルロックをかけてしまった。
「いたた、なっ、なんですか! って、いったいわたしは何を?」
「わたくしを下僕にする代わりに、もう足を洗うことにしたのではなかったのですか?」
「あれ? あれ?」
戸惑い気味なあやめの足下には未だ熟睡の途にあるみさ子が転がっており、実に腹立ち気だ。松本はとりあえず蹴りを入れてみる。
「きゃん」
蹴りは怪しげな部位にヒットしてしまったらしく、みさ子の悶声を絞り出さしめる始末となり、ついでに、その声があやめの正気を完全に取り戻した。
「こんな年増は放っておいて、聞いて下さい。貴男はもうわたしの下僕なんですから、下僕たるものの心構えが必要なのです」
あやめは松本を正座せしめて、下僕の心得とやらを垂れ始めた。やがて、みさ子がお目覚めして、曰く。
「まさよしく〜ん、おねえさんはお目覚めのキスを必要としてるようだよ」
松本はもちろん恥じらいに起因する心的混乱を被ったが、それにも増して凄まじいことになったのがあやめで、すかさず莫大に顔面紅潮し、冷却効果を狙ってか、頭を必死に振り振りする。
「みさ子さん! この人はわたしの下僕です。わたし以外の人が触れてはなりません」
「そんな、まさよし君はおねえさんのものだよう〜」
みさ子は心底哀しげな嘆声を発した。
二十二
出勤の時刻がすでに十分ほど超過したにもかかわらず、みさ子は行動を遅滞させて、なかなか家を出ようとしない。松本が推測するに、二人を家に放置しておくことが、みさ子の精神を乱してるらしい。彼は火に油を注いでみる。
「みさ子さん、早くしないとお遅刻ですよ。みさ子さんが遅刻常習で懲戒免職になると、か弱いわたくしが路頭に放出されてしまいます。さっさと神聖なる労働に勤しむのです」
「わかったよ。おねえさん頑張るよ」
みさ子は「よっこらしょ」とまことに三十路を超過した成熟せる女性らしき発声を以て起立し、玄関で足を靴に押し込む作業をしつつ振り返り、こたつで向かい合い、ほのぼのしている松本とあやめへ哀愁の視線を送ったりする。鬱陶しく思われた松本は、獣を追い払うかのような手振りで、みさ子を更にいぢめる。
みさ子は、泣きべその顔でしばらく松本を眺めていたが、やがて覚悟を決めたのか、180度転回し、部屋を脱そうとする気配を濃厚にした。松本は、その背中へすかさずひと言。
「妬くなよ」
みさ子は急遽反転、松本のもとへ突進して、接吻をはじめとするさまざまな暴行を15秒ほど手早く彼に加えた後、むせび泣きながら職場へ猪突猛進していった。
騒々しいみさ子の出立を満足げに見送った松本は、蜜柑をむさぼり食いながら、『暴れん坊将軍III』の再放送を興奮の面持ちで観賞し、「えへんえへん」とあやめの可憐な咳払いが発せられるまで、目の前にいる彼女の存在を忘れる始末であった。あやめは怒りに震えて、松本を糾弾する。
「貴男、まさかこの美少女たるわたしをお忘れではないでしょうね?」
松本は必死に言い訳をでっち上げる。
「とんでもない! 美少女過ぎるあやめさんを常時意識の下に置いておくと、狂おしさのあまり頭がどうかなってしまいそうなので、心理的な防衛メカニズムがあやめさんへ意識が集中しないよう機能しているだけですよ」
「まあ、とにかく暇なのです。わたしを愉しませなさい、下僕」
「しりとりをしましょう。りんご…」
「――ゴリラ」
「ら、ら、ラーメン! ああ、しまった。『ん』になってしまったあああ」
彼らのたわいもないダイアローグがそこまで進んだ直後、あやめはいきなり突っ伏して嗚咽を開始し、松本を怖気の極地に至らしめた。彼は、おのれの発言の何がかような繊細なる娘の情緒を破壊したのか、先程の会話を回想するも、まったく見当がつかない。
「どうしたのですか! どうしたというのですか、あやめさん!」
三分の後、あやめは顔を上げて、不思議を感ぜるがごとくな面持ちをする。
「わたし…、どうして泣いてるのでしょうか?」
二十三
この三名の間に現出した日常の新たなる局面では、上記の如くなあやめの不気味な初期微動が散見され、見慣れぬ雲を見るたびに地震に脅えるような心地を松本に課し始めた。つつがなきという表現からはほど遠いものの、決定的に非日常へと破局することもない、何とも気持ちの悪い日々が、一週間分の消費を終えようとしていた。松本は、精確に精神衛生上の急所を乱心の毎についてくるあやめから脱したいと願うようになる一方で、そのように至る自分の心理を倫理的に非難する心持ちもあって、あやめほどではないにせよ、世界に余裕を持って接する、ただでさえ乏しい能力を更に欠乏しつつあり、あやめを手元に置いておこうとするみさ子の判断を訝らねばならなかった。
その日、あやめが爆発したのは、松本の怠慢な記憶によれば、夜の八時頃、NHKの鎌倉千秋アナをニヤニヤ顔で眺めていた時であった筈である。あやめは、いつもの如く、涕泣しながら松本の不幸なる娘との関係について指弾を始めた。それがあからさまな嫉妬であることを松本は気がつかない。あやめの暴言は、丁度、帰宅をしてきたみさ子の耳に届けられ、彼女を激高させた。
「まさよし君に何て事いうんだよ、あやめさん。謝りなさい」
「こんな男に、誰が、誰がっ!」
「ちゃんと関屋さんにもらったお薬は飲んでいるのですか?」
「下僕に口移しで飲ませてもらってます」
「まさよし君!」
「じゅっ、純粋な医療行為ですよ! そうでないとあやめさんは飲んでくれないのですよ」
そうして、しばらく松本とみさ子の間で漫才が展開され、置いてけぼりの体となったあやめは、更なる激情の階梯に達した。
「いつもあなた方はそうなんです! わたしを独りぼっちにするのです。みさ子さん、貴方はこんなに美少女なわたしよりも、こんな男を愛していらっしゃるのですね!」
『こんな男』という松本に対する形容で、みさ子はムキになった。
「当たり前だよ。こんなにらぶらぶな生命体、またとないんだよ!」
あやめは、「お姉ちゃん、お兄ちゃんの大莫迦ものおおおおお!!」と絶叫しながら、駆け出して行き、残された二人を自失させたりした。が、しばらくもすると、ことの重大さが知れてきて、二人はあやめを探索して近所をすごい勢いでぐるぐると徘徊し始めた。
遁走したあやめがみさ子の手によって発見されたのは、それから二時間の後、外神田五丁目の路地裏であった。彼女は膝を抱えてうずくまっていて、それは誰かに見つけてもらいたいときに彼女が取りがちな姿勢のひとつであった。
みさ子は、鋭敏な乙女心を刺激せぬように忍び足で近接し、もはや容易逃がさぬ射程に至ってあやめに声をかける。
「あやめさ〜ん」
そして、あやめの顔をおのれの胸にグイグイと押し込む。
「大好きですよ」
二十四
あやめの自宅療養に終焉が訪れるのは、阿佐ヶ谷駅の南口において、あやめが松本の私物メガホンでピエール瀧の『人生』を恐ろしく不快げに歌唱している所を保護された事件を以てであった。緊急措置入院扱いで千葉県の医療施設に向かう救急車の中にあって、あやめの放った怒声を採録すれば、「地球がなくなっちゃうんだよ!」とか「手から虫がでるうう」とかその手の症例がよりどりみどりで、同乗する松本をネガティヴな意味合いにおいて飽きさせないのであった。
現地到着後、早速に救急処置室へぶち込まれたあやめは、尿道にカテーテルを突っ込まれて小便を垂れ流してたりする。みさ子の方は、当直のケースワーカーと深刻顔で話し込んでおり、松本は身の置き所がない。
検証の結果、あやめの神経回路網に住まう特定のチャンネル、特に過分極活性化カチオンチャンネルが労働の意欲を失い、ブチロフェノン系の抗精神病薬が効用を発揮できる環境にないことが判明し、ケースカンファレンスの結論は「もうダメダメ」ということで一致を見る。彼女の症例は亜急性の某神経・筋疾患系特定疾患、公的にはウォリック・ブルデュー症候群――と認定され、次に、法定の手続きに沿って、区の保健衛生部の事務職員や量子解析の研究室関係者が来訪し、「これだと後十日でロストかなあ〜」等、実に恐ろしげなつぶやきで松本を引きつらせつつ、立ち去っていた。
以下は、あやめがその“ロスト”をするまでの日々の点描。
医学史的に俯瞰すると、あやめの罹患は、効果を喪失しつつあった生化学系の療養が医療用のナノマシンによる微細な物理療法に代替されつつあった、その移行期に重なっていて、彼女は辛うじてその恩恵を受けることとなったが、過度期だけあって効用は限られていて、松本の印象で語ると、彼女の最後の日々は、一日の大半を占める昏睡と、わずか二、三時間の覚醒で構成されていた。しかも、意思の疎通が可能になる状態になった彼女は、嘔吐感とか倦怠感を訴え、みさ子に泣きついては世界が失われることの恐怖とでも総称されるような訴えの数々を展開した。
医療保護入院から一週間後、あやめは、覚醒せる体とおぼしき状態にあっても、疎通が不能となった。
「また、わたくしに命令して下さい。わたくしは貴女の下僕なのですよ」
松本のそんな呼びかけにも空笑を返すばかりであった。
そして、以下は、あやめがロストをしてまだ日も経たず、みさ子が法律上の雑用に追われる日々が続いてた頃のお話。
松本は、こたつで惰眠を貪る身分に復帰していて、その睡眠時間はめっきり長くなっていた。
松本の記憶する限りでは、ちょうど正午だった筈である。外から彼を呼ぶ非常に彼好みな美少女の声が聞こえてきた。何事かとドアを開けると、とんでもなく松本好みな、恐らくは小学生低学年と目される美少女が彼を見上げている。美少女は、いつもドアの外に舞い降りてくるものであった。
「こんにちはまさよしさん。今日から貴男はわたしのお父さまですわ」
少女は、年齢に不相応な理知的な声色を放ちながら、紙片を差し出す。
『親愛なる下僕へ、最後の命令です。この子の父親になって下さい』
松本は屈んで、面影に覚えのあるその少女に問いかけをする。
「お名前は?」
娘は「うふふ〜」と応じた。
「佐織ですわ、お父さま」
つづく