十一月 日々のできごと


過去のできごと
表紙へ戻る

 


2002/11/30

「俺は熱い男だよなあ?」

上司の沖縄人C氏は、確かに、そう仰いました。わたしは、あまりにも己を誤解なさったその発言に戸惑い、諌言を申し上げざるを得ませんでした。「むしろ、生ぬるい男だと思います」と。


2002/11/29

「ボクより後に来たくせに、ボクより先に帰るとは何事かネ」

同僚の新潟人O氏は、そう仰い、気弱で繊細なわたしをいぢめます。

「厳しい人ですねえ、Oさん」

居たたまれなくなって発せられた言葉に対して、氏は高い笑いを響かせました。

「ボクは厳しいよう。これから、機械になるよ」

何か仕事が始まる度に、氏が「ロボットになる、機械になる」と仰ることを、その時のわたしは思いだしていました。


2002/11/28

「マクロスさえなければ、こんな業界に入ることもなく、俺の人生はもっとハッピーになったに違いない」

飯島真理を聞きながら、上司の沖縄人C氏はうるうると声を詰まらせているように見受けられたのですが、わたしにはその発言に対して大いなる疑問も感ぜられました。この業界に入らず、別の業界に進んだ所で、同じ様な台詞を三十過ぎた頃に吐き散らす様に思えるのです。

表層なパラメーターをいじっても、氏の人生のプロットは生来的に決定されているので、無駄な足掻きなのです。ほほほほほ。


2002/11/27

今日は早く帰れないと云う予感が、か細いわたしの心に鬱屈と迫るのが感じられ、その重みに頭を垂ら強められながら、職場に戻ってみれば、むくつけき同僚の埼玉人Hめが、わたしの椅子に堂々と座し、他の同僚達と破顔談笑をしておりました。

何たることかと、わたしが詰め寄ると、Hは申しました。

「いやぁ、えむやまさんのために椅子を暖めていたのですよ」


2002/11/26

会社の近所にあるスーパーで夜のおかずを購ったわたしは、意気揚々と会社に戻ってきたのですが、入り口の所で、大原画マンの某氏と出会し、買い物袋の中を詮索されたのです。

「たまご、納豆、野菜か〜」

氏は、不思議そうに仰るので、わたしは「長生きしたいのですよ」と云いました。同時に、心の中から、「長生きしたければ、さっさと足を洗え」と云う声が聞こえて参るのでした。


2002/11/25

「はぁ」と溜息が、職場で聞こえて参りました。

「今日も人が死んだねエ」

暴力団の抗争事件をラジオで聴いていたらしい同僚の新潟人O氏は、感慨深げに仰いました。


2002/11/24

日曜の黄昏ゆく夕暮れ時に、『笑点』を眺めておりました。この番組には、随分とご無沙汰だったのですが、相も変わらず「楽太郎の腹黒」と「死に逝く歌丸」ネタを用いた同士討ちが始まり、些か腹を抱えざるを得ませんでした。

わたしは、ふと、高校生の時分を思いだしていました。あの頃、よく歌丸師匠と楽太郎の共倒れを悦んでいたことが記憶から掘り起こされました。

それから十年近い歳月が流れたのですが、この時間帯のモニターの中だけ時間帯が止まっている様に思えました。其れを怠慢と表現すべきなのか、或いは、かれらが時を越えた普遍性を獲得した証であるというべきなのか、そのときのわたしには解る術もありませんでした。


2002/11/23

今日も充実した労働に励まんと、意気を高々にして出社を致しました。会社が妙に閑散としているのは、土曜日のせいであるらむと勝手に思ってふらふらしておりました。会議室の使用予定表が目に入り、わたしは其処で初めて、今日が日頃の労働に感謝する祝日であることを知りました。

ということで、帰ります。


2002/11/22

連休前、金曜の夜に繰り出す人々を見れば、何時の日かあの安らぐ人々の中にこの体を紛れ込ませたいと願う心持ちも沸いて参ります。

それで、会社に帰ると、上司の埼玉人K氏が同じく上司の沖縄人C氏に向かって、「でぶでぶ」と、氏の肉体を罵倒なさっていました。


2002/11/21

ニュースサイトに載っかっていた「JAL123便激突寸前ボイスレコーダー」を、同僚の新潟人O氏に聞いていただきました。一瞬の沈黙が訪れた後、氏は目を潤ませながらわたしに掴みかかりました。

「キミ、なんてもの聞かせるのだネ。ただでさえブルーな気持だったと云うのに」


2002/11/20

長寿を望むわたしは、此処の所、往復一時間をかけて、徒歩にて出勤するつつがなき日々を送ることに成功しており、「これで長生き確定、ほほほ♪」と密かに悦んでおりました。

そんなある日に、毎日七千歩以下は運動不足と云うテクストを、ある日、目にしました。一時間も歩いておれば、斯様な数値は余裕で達成されているだらうと、わたしは思ったのですが、しかしながら、この世は残酷であり、一時間の歩行は六千歩と云う記載が見受けられました。

この千歩の違いは、如何なる寿命の相違に繋がるのだらうか? わたしは死の影に怯えるおのれを其処に見出さざるを得ませんでした。


2002/11/19

「ボクはネ、幼少の頃は玉のやうなお子様だったんだヨ。近所に評判の看板息子だったのだヨ」

八百屋の倅に生まれ落ちた同僚の新潟人O氏が、鈍い光沢を目に宿しながら、斯様な回想をなさったとき、わたしは危惧しなければなりませんでした。そのような追憶は今日に至る氏の惨状を浮き彫りにするだけではないかと。


2002/11/18

鼻づまりを日々、勃発させている同僚の鼻声を聞いて、わたしは「これがおねいさんの鼻声であればなあ」と同僚の新潟人O氏に申し上げました。

「キミは、いつも、おねいさん、おねんさんだネ」

氏は仰るのでした。


2002/11/17

一休みです。


2002/11/16

当人は己が着こなしのいい男であると云って憚らなかったのですが、わたしにはどうしてもそうには思えず、不審を感じながら、その氏の方を眺めておりました。氏は仰いました。

「何かネ、キミのその目は?」

わたしは、考えることがすぐに顔に出るので、困ります。


2002/11/15

人たるもの、体は売っても心までは売ってはいけないと思うのです。故に、己の壁紙を自社作品の其れで埋めてしまう行為は、会社に魂を売ってしまうも同然であり、人として、間違ったことと思うのです。心は、いつも、美しい青空を自由に羽ばたいていなければなりません。

同僚の埼玉人Hの壁紙を目にしたとき、わたし彼に向かって斯様な説諭を致しました。自由と云うものは、壁紙ひとつで手に入るものである、と。

しかしながら、わたしは、不安になって参りました。自由はそんなに安っぽいものだったのだろうか、と。

そこまで思考がまわったところで、同僚某氏の酸味強い足臭が鼻を刺激し始め、わたしはもう何も解らなくなりました。


2002/11/14

先頃、母なる地、沖縄へ暫し帰省を果たした後、本土へ戻ってこられたわたしの上司が顔を蒼白になさっていました。何事かと訊けば、帰りの飛行機で乱気流に巻き込まれ死ぬ味わったとの事。

「もう二度と飛行機には乗らない。今度は船で帰る」

その時の氏は、確かにそう仰っていました。

其れから数日が経ち、仕事に精神を侵された氏が、沸々と空に向かって語っているのを、わたしは目撃致しました。

「飛行機に乗って、どっかに逝きたいねえ」

つい数日前に、己が驚愕で脱糞の心地を記憶の一隅に始末してしまった氏を見て、わたしは、人生は忘却の過程と云う言葉を思い出しました。


2002/11/13

陽光で心地よく蒸す車内から眺める世界は、働く人々の活気を爽やかに描写するようであり、嗚呼、わたしどもは生きているのですね、と心の声を漏らすお昼まっただ中の目白通りだったのですが、ふと目を遣れば、その陽光に誘われてのことか、轢殺された猫が骸を晒していおり、「もののははれ」と間違った日本語も浮かんでくるのです。

それから二、三百メートル進むと、又、拉げた猫が往生しており、「嗚呼」と声が出て参りました。

さらに、一キロメートルほど距離を消費して、臓腑を散らしている猫を見たとき、わたしはもう何も云えなかったのです。


2002/11/12

「日本は女の余っている国よ、あなた。お嫁さんがどんなのもそこいらにごろごろ転がっているじゃありませんか」 (夏目漱石『明暗』)

なのに、どうして僕等は楽しくないのだろうか。


2002/11/11

高校の時分、俳句の提出が課せられ、それを古文の教師が授業中に読み上げることになっておりました。

立ち小便
気持ちいいなと思うけど
後ろに立つのは国家権力

まるで俳句になっていない句をわたしは提出いたしました。少し経って、教師は心持ち困惑した微笑で、わたしの方へ近づいてきて申されました。

「僕がこれを人前で読むって事も考えて欲しいなあ」

それから、七年ほどの歳月が過ぎ、わたしは彼の名前すら失念してしまいました。


2002/11/10

前を歩く恋人たちのもたらしうる、「嗚呼、羨ましい度」は、季節の変動の伴いその値を上下するような気が致します。真夏の炎天下におけるケースだと、そんなに羨ましい感を受けないのですが、斯様な寒日の夜、オリジン弁当でおでんを購った帰りに、前方を歩行する恋人たちを見ると、なかなか良さげに見えるのです。

人肌恋しい季節なのですが、いまのわたしは、おでんの卵を食っているだけで、満足です。けっして、寂しくなんか無いのですよ。本当ですよ、たぶん。


2002/11/9

社長が自動販売機の前で、歯軋りをなさっていました。何事かと問えば、

「釣りが出てこないのだよ」

と悔しそうな顔をなさるのです。


2002/11/8

不健康な話なのですが、時として、出社時間が小学生の下校時刻と重なるときがあります。通勤路に小学校があるため、多量の童児と出会し、通行の困難を感じるのですが、興味を引かれるところもあります(別に、変質的な意味はありません)。

やたらと走り回る子が多い、と云うことです。身体が小型なため、重力の負担もそれだけ感ぜられず、精神的に走行への障害が少ないと勝手に推測し、わたしも彼の時代には身体の心地の良い軽快さを堪能していたはずだと、回想を致します。しかしながら、その感覚を思い出すことは出来ません。

会社に着いて、エレベーターに乗りました。暫し、エレベータを揺らして遊んでいたら、愉快な心持ちになりました。


2002/11/7

兎角、平穏な一日を過ごしつつあったのですが、時折、「ぷおぅひひ」と形容しがたい音が聞こえてきて動揺を感じ、また同僚の北海道人Kの笑い音声かと発生源の方を見遣りました。そこでは上司の埼玉人K氏が、鼻をかんでおられました。風邪気味で調子の悪そうなご様子である氏の向こう側には、猫を轢いたことを語る上司の沖縄人C氏の嬉しそうな顔が見受けられました。


2002/11/6

社内ではサンダル履きで我が春を謳歌する同僚の埼玉人Sが、帰宅と云うことで、靴に履き替えておりました。わたしには、埼玉人Sめの靴下がたいへん汚れている様に見受けられ、その事を指摘いたしました。

「気のせいですよう」

得意げな顔で埼玉人Sは言い張るので、わたしは靴を脱ぎおのれの純白な靴下を指し示し、「君は毎日靴下を換えているのかい」と尋ねました。

「ほほほ、それだけ足を棒にして働いているというわけですよ」

苦し紛れに言い訳を作ろうSを見て、わたしは、いつもの様に、Sの入社当時を思い起こしておりました。当時の純朴な姿が回想されるにつれ、時の流れの非常さを感じずには居られなかったのです。


2002/11/5

レインボーブリッジを渡るときの夕焼けは、たいへん綺麗なもので、建物も朱に染まり、もう、ああ〜〜な感じで、はい、きれいです、きれいです、きれいですう。でも、みさき先輩の方が、もっときれいですう〜〜。

(おわり…何もかも)


2002/11/4

勢いよく起床して、今日のこの日を遊び尽くさんと固い決意の元に行動を起こすのですが、眠気に襲われ、わけのわからない内にまたしても夜が迫って参りました。遊ぶ気力すら、削がれつつあるのでしょうか。


2002/11/3

知らぬ間に夕方になり、休日を無為に過ごしつつあることに由来する、時間への貧乏性が発動するのが感じられ、何か今日の思い出となることを致したいと願ったわたしは、夕闇の街へ出かけたのでした。

で、ふらふら歩いてたどり着いたのが、阿佐ヶ谷のブックオフなわけでありまして、人生が無駄に流れてゆく想いも店員の方たちの投げやりに威勢のいい挨拶への恐怖に代わってしまうのです。

ちなみに、購入したものは『ゴルゴ13』『Papa told me』『編集王』、仲村佳樹のバスケまんが、でした。


2002/11/2

仕事で成田へ行ったその帰りに渋滞に巻き込まれました。連休の初日であり、これらの車一台、一台の中で慎ましやかな家族の情景が展開されていることを想像しました。この上空で熱核兵器が爆発したらたいへんだな〜、などとぼんやり思う昼下がりなのでした。


2002/11/1

「人生は、朝の七時に駐車場で堂々と用を足していた猫のようなものと思うのですよ。つまり、その仕草はたいへんきゃわいいものですが、実のところ排便しているに過ぎないと――。ああ、もう、くそったれめ」