二〇〇三年二月
その頃のわたしは空想に耽ることも多く、自然と顔がニヤニヤすることも御座いました。たまたま、モニターを見ていたわたしがニヤニヤしていることに気のつかれた同僚の新潟人O氏は、そんなわたしに説諭をなさいました。
「キミぃ、この職場だから無事で済んでいるものの、他の場所だったらすぐに収監だヨ」
氏のお言葉はいつも直截で礼無きものと、わたしには感ぜられました。そこに多大なる温情が含有されていることに気づくには、その時のわたしは余裕が無さ過ぎたのです。
「腹一杯になれば、それで満足だったんだ。人生なんて単純だったはずなのに、いつからこうも難しくなってしまったんだろうネ」
(同僚の新潟O氏 語録)
「そして、このせかいはいつからボクのモノではなくなったのかナ」
(同僚の新潟人O氏 語録)
戦時中、同僚の新潟人O氏は北満の警備に当たっていた連隊におられたそうです。入営当初の内務班では、腹ばかり減ってどう仕様もなかったと氏は仰います。
「今にして思えば、ボクの大食らいもあの欠乏感への恐怖に由来してるのだろうネ。でも最近は、喰いたいと思っても、体が量を受け付けなくてネ」
後に氏の連隊は、南方へ転戦して行くことになります。行き先も告げられず南に向かう列車に乗せられた時、氏は本土へ帰れると悦んだそうです。結局、連隊は三隻の輸送船に分乗して、更に南下しました。そして、氏の乗る輸送船は海南島沖で雷撃され沈没してしまいました。
多忙につき、一休みです。
「Oさん格好いい」
「当たり前だヨ!」
(ある日、わたしが目撃した同僚の新潟人O氏と埼玉人Hとの会話より)
「はう ふぁーすと らいふ ごうず おん」
(同僚の新潟人O氏 今日の英会話)
食に関しては話題の欠くことの無かった同僚の新潟人O氏で御座いましたが、ある時、郵便箱に投函されていたと云う寿司屋のチラシを熱心にご覧になっていた氏は、「ハマチが喰いたいネ」と喉元から物欲しそうな声をあげられました。
「ボクは子どもの頃から白身の魚が好きでネ。ませたガキだよと近所の親父さんに良く云われたものだヨ。家族で寿司を囲んで団欒していた頃が懐かしいヨ」
しんみりとなられた氏のチラシを持つ手は、いつしか震え始めていました。
「あの頃に戻れたら、ボクはもう何も要らないヨ」
新聞紙を丸めて、同僚の新潟人O氏はゴルフの練習をなさっておられました。
「ボクは何をやっても様になるネ」
氏の目映い笑顔が印象的でした。
同僚の新潟人O氏の残された数多くの言葉の中でも一際印象に残っているものが御座います。
「ボクは欲しいものを全部手に入れてきたからネ」
そんなことを氏は良く仰っていました。わたしは、あるとき、結婚願望に身を焦がす氏に「それでしたら、Oさんのご成婚はもうすぐですネ」と申し上げたことがあります。
「この街で出会って恋をする〜♪ いいネ。この街で出会うんだヨ」
氏は都合が悪いとすぐ歌い始める人でした。
「厭だネ、厭だネ。ご飯食べながら涙が出てきたヨ」
同僚の新潟人O氏は社会面を見る度にそんなことを仰る人でした。
玄関を開けると、とても重々しい空で御座いましたので、近所の薬局にアタラックス-Pを求めました。
薬剤師のおねいさんは、わたしに不安を隠せないような顔を向けました。でも、だいぢょうぶだよ♪ この世にだいぢょうぶなものがあるかどうかはいまいち不明なのですが。
「右舷にね、こう、すごい水壁が立ってね。甲板にいたボクらはみんなひっくり返ったヨ」
南方に向かう同僚の新潟人O氏の搭乗する輸送船が南海の藻屑と消えたときのことを、氏は身振りを交え、やや興奮した面もちで、わたしに語って下さりました。
「総員退艦になった後も、皆、意気地がないから暫く船上でウロウロするものだヨ。やがて、南無三と飛び込んで浮流物に掴まれたときは、『楽勝ぢゃん』と思ったものだヨ。でも、ぼ〜っとしていたら、どんどん角材が降ってきてネ」
氏は、戦友の半分を其処で亡くされたそうです。
ボクちんねむいです。
松屋の店員は、けっきょくわたしに味噌汁を出し忘れていることに最後まで気がつかなかった。わたしは自分の存在の希薄さをたいへん恨めしく思った。
自転車のチェーンは前々から錠の調子が悪かった。今日も施錠がなかなか解けず、力任せに鍵を回したら折れた。火事場でもないのに発現した馬鹿力はとても哀しいものだ。
熊本都市圏の交通事情
所詮、同僚O氏の愛する故郷であるところの新津市は人口67,425人 (平成12年3月31日現在)
の地方弱小都市である。石油と鉄道で栄えた街は、いま亡びようとしているのだ。人口661,129人(平成15年2月1日現在)の我が大熊本市と比べるとは、たいへんおこがましい。O氏のくそったれめ。しねしね。
「ボクを嫌いなニンゲンなんて、この世にいるのかネ〜♪」
たいへんなる高揚の中に在られた同僚の新潟人O氏は、自作と思われる唄を叫ばれながら、社内を闊歩されました。
「それが幻想だなんて云わないでおくれ〜。ボクはニンゲンを信じたいんだヨ〜♪」
思えば、氏は大層躁鬱の激しいお方でした。
「他者のものは俺のもの」という素朴な論理展開によって、他者のお菓子を強奪するのは単純なジャイアニズムの発露であるが、それを「所持者の腹をこれ以上膨張させないため」(この理屈は前にも述べた)に強奪するのは植民地主義における収奪の正当化に似ている様な気もしないこともないが、よく解らない。
いずれにせよ、同僚の机に転がっていたクッキーを三つほど奪って自分の机に転がして外へ出た。気味の悪いくらい大きな月に震えながら帰ってくると、それがふたつに減っていた。誰が喰ったのだろうか。
今となっては意外なことなのですが、わたしの記憶の中にある同僚の新潟人O氏は、氏本人が良く仰っていたとおり、いつも人々に囲まれていたような印象が御座います。
「ボクはよく人からものをもらうんだヨ」
そんなときの氏は、いつも心浮く顔をなさっておられました。
「時々思うヨ。野外生活者になっても十分に生きて逝けるんじゃないかって」
以下、虚構である。
往々にして、わたしどもは上司の頭部を鈍器で打擲したいと願うものであるが、諸々の制約から、それは何時までも叶わぬ行為でもある。しかしながら、満たされぬ欲求に心身の平衡を危めて心療内科の世話になるのも、其処に予想され得る時間的・金銭的コストがわたしどもの貧乏性を無闇に刺戟して、これまた辛い。
仕方も無く、木製バットを机に立てかけて見る。
この世はいつも救済のないもので、そのバットを見ても当の彼はわたしどもの敵意が己に向けられていることを露とも感知しない。感性が鈍なるは、当人にとってはたいへんな幸福に違いない。
でも、かれは知らない振りをしているだけかも知れない。だが、本当の所はあまり探求したくはない。にんげん、解り合いたくないこともある。
二月二十二日
「村上上等兵は互いにマラリアに罹病した仲だったんだヨ。印度国境からずっと小便を垂れ流しあって歩き通しだったネ。随分励まされたヨ。落伍者は自決せよと、中隊から命令が出ていたからネ。でもネ、カボウ谷地にさしかかったとき、雨がずっと止まなくなってネ。村上は泥沼にめり込んで動かなくなったんだヨ。顔を引き出してやると、高熱の為か、微かに笑っているんだよネ。……許して呉れよ、村上ヨ。俺もあのとき、何も考えられなくなっていたんだヨ。ただ、見てることしかできなかったんだヨ。頼む、後生だから許して呉れ。もう、現れないで呉れヨ。ふええ〜〜ん(以下嗚咽、聞き取り不能)」
(酔った同僚の新潟人O氏、大いに語る)
二月二十三日
「キミは八百屋やおやとボクのかつての家を莫迦にするけどネ、そこは何時も笑いに溢れていた素敵な場所だったんだヨ」
(同僚の新潟人O氏 語録)
二月二十四日
アメリカン・ショートヘアーと云うものは、放し飼いにする様な種の猫ではないものと、わたしどもは考えるのですが、会社の近所で頻繁に出会うことになるその巨猫は、野に放たれているように思われました。
人様が近づくと逃げようと致します。でも巨体の為か動きは非常に緩慢で、容易く触ることが出来て結構なことです。触ると威嚇の音声を発し、ドラクエU大灯台の老人みたいです…古いですが。
二月二十五日
同僚の新潟人O氏から会社を辞めることを伺ったのは、丁度五年ほど前の桜薫る季節であったと記憶しております。
「一寸、海の男になってくるヨ」
そんな事を戯れの色を浮かべながら仰るので、わたしは、何事にも啓発を被り易い氏の過激な感受性から考えて、人生で数度目のお見合いに又しても失敗して、感情の旅路にでもつかれるのかと腹の中で考えておりました。しかし氏が会社を去る日、氏の仰ったことには意外の響きが御座いました。
「妹がネ、病気になったんだヨ。拡張型心筋症と云われたヨ。それで、海を渡って心臓を移植せねばならならなくなってネ。彼女には、もうボク以外の身寄りは居ないんだヨ。必要な金はボクが稼がねばならない。と云っても、二、三年漁船に乗るだけだから、そんなに大した事でもないのだけどネ。前にもやったことあるし」
氏は快活な笑いを発されながら、中村橋の駅の方へ立ち去って行かれました。わたしは、氏の小さく成り人混みに消えつつある背中を見送りながら、わたしの人生の軌道と氏のそれが大きな分岐を迎えたことを知りました。同時に、それらの軌道はもう二度と交差しないと云う予感も、確たる思いとしてわたしの心象に残されました。しかしその予言めいた仮定は、二年後に意外な形で砕かれることになります。
二月二十六日
新潟人O氏が元同僚という肩書きになってわたしの視界から消え去っても、わたしの日常は何事もなく平穏に消化されて行きました。日々の雑事に翻弄される内に、新潟人O氏の事も滅多に表層に登ることのない記憶と相成って行きました。だから、午睡に没頭していたわたしの許へ、新津市の民生員と名乗る方から電話があり、その口から新潟人O氏の名が発せられたとき、わたしはその人が誰であるのか暫く判別がつかず混乱してしまったことを告白せねばなりません。
氏が生まれ故郷の新津市で野外生活者となり、ダンボールにくるまって失神していた所を発見され、今は市内の病院に収容されていることを、わたしはその電話で知ることになりました。衰弱の激しい氏がわたしの名前を口にするので、急遽調べて、連絡を差し上げたと民生員の方は申されます。単に数年間、同僚の間柄に過ぎなかったわたしの名前を、なぜ氏は口にされるのか。次の日曜日、わたしは不審と困惑の面持ちで新潟行きの新幹線に乗らなければなりませんでした。
新津医療センター4Fの病室で、わたしは経管栄養チューブを鼻から下げた氏に再会致しました。わたしを認識した氏は土気色の顔を僅かに緩めると、今でもわたしが回答することの出来ない問いを力無く投げられました。
「キミは…、幻ぢゃないのだよね? ここに居るんだよネ?」
二月二十七日
「マグロ漁船に乗って、地球の裏側へ幾度と無く行って、やっと此処へ帰ってきたんだヨ。療養中の妹が居る筈の新津にネ。十年ぶりに訪れたこの街は、まるで初めて訪れた場所の様だったヨ。余りにも変容していたので、段々不安になってきたんだヨ。そして、その不安は的を得ていたんだネ。何一つ無いんだ。ボクの知っている懐かしい場所が。本当に知らない街だったんだヨ。妹の在所に行こうにも、そんな住所は存在しないんだ。ボクは、本当にこの街で生まれ育ったのか、疑惑に駆られてきて、役所に行って戸籍を調べてみたヨ。そうしたら、ボクというニンゲンは居ないことになってるんだヨ。ボクだけじゃない。妹も、かつて生きていた両親も。ボクは自分を証明できるものを求めて財布を調べたヨ。でも、其処に在る筈の免許証も保険証のIDカードもいつの間にか消えてしまっていたんだヨ」
原初への回帰を間近にした様な新潟人O氏の死相は、夕暮れ迫る病室の陰気な色合いと絶望的な調和を果たしていました。わたしは、精神の細波が退潮の渦に引き込まれるのを感じながら、同時に、其処には奇妙な明るささえも含有されていることに不可思議を感じました。
「全部、幻影だったんだヨ。Iさんに告白された新津南高校の昇降口も、Kさんが何時も座っていた新津市立図書館のカウンターも、江戸っ子商店のウグイスあんも、アベキューのメロンパンも、大将ラーメンのみそスタミナラーメンも、そして、降ってきた木片に頭を割られて海南島沖の海の藻屑と消えた笠原曹長も、マラリアの熱で発狂した村上上等兵も、硫黄島の洞窟陣地の湿り気も、八百屋の前でおやじとキャッチボールをした時のあのボールの感触も。……ボクはもうすぐ死ぬんだヨ。だから、このせかいにボクが確実に存在したことの証明が欲しかったんだヨ。だから、キミを呼んだ。そしてキミはやって来た。どんなに短い年月だったかも知れないけど、ボクは此処にいたんだヨ」
二月二十八日
元同僚の新潟人O氏に残された時間は、それから二日ほどしか御座いませんでした。氏は、その二日間を、かつて深夜の静まった会社の中でされた様に、昔日の事をわたしに語って過ごされました。氏の仰る物語の真偽がもはや氏にとって何の問題にもなっていないことは、氏の平穏な表情から伺うことが出来ました。
新潟人O氏の遺体は行旅死亡人扱いとなり、火葬の後、新津市の無縁墓地に葬られました。わたしは帰京の途につくため新津駅へ向かいました。氏の奇妙な物語を反芻して暗い心持ちにあったその時のわたしは、駅の西口で或る事に気づいて立ち止まりました。振り返った先に見えたもの、西口の広場に連なる車の群の向こうにある空は、全てのものをなくして戦地から復員された新潟人O氏がこの場所から見上げた空の様に、何処までも蒼く高い空でした。<完>