二〇〇三年七月

七月一日

ギャルゲー屋で『加奈』EDテーマが流れるとすすり泣きが至る所から発生すると云うのは聞いたことがある話ではあるが、総菜屋で『AIR』のサントラが流れたときは確かに動揺した。

元同僚Yの告白によれば、学生時代、観鈴ちんとゴールをした後、学校に出て講義を受けている時に「俺、何やっているんだろうな〜」と虚しくなったと云う。

斯様な訳で、西友は『カードキャブターさくら』をBGMとして頻繁に使うのはやめて呉れ。アレは何度流れても吃驚する。

七月二日

刺激のない単調な生活には幸福を感じる。「波乱の日々を送りたいぜえ」と云う奴はしねと思ったりするが、日々が単調になると、時間経過の感覚が高速になるのはなぜなのか。

七月三日

AEのプラグインはナニしてアレする事が可能なのだろうか。出来れば会社のものをこっそりナニしたのだが。

七月四日

面接の風景を社内で見かけたのだが、社会生活への恐怖と野垂れ死のリスクとの天秤が醸成する就職前のあの不安感を思い出して気持ちが悪くなった。

七月五日

学生時代の知人に、娘が出来たら手込めにしてしまいそうで怖いと本気で苦悩している人が居た。

所謂、童女愛好癖の不幸な一側面の発露と云える。ただ、生物学的に娘を手に入れることは、当人が真性の童女愛好癖であるのなら、極めて困難な作業である。一般的に生殖には向かない童女しか愛せないのならば、彼女に娘を産ましめることも難しいからだ。

女児の存在が前提となるこの苦しみは、彼の嗜好が女児の存在を保証できる交渉相手の年齢層まで許容しうることを教えてくれる。童女だけが愛情の対象ではなかったのである。

これを、贅沢は敵なのでざまあみろ〜と考えるのか、或いは、好き嫌いがなくて結構ですなと解釈するのかは、また意見が分かれるところではある。

七月十日

今週も既に木曜日になってしまった訳だが、今恐ろしい考えを思いついた。

波風の立たない日々は美しいが、そんな日々が異様な加速をもって立ち去るように感ぜられる事は前にも述べた。恐らく、享楽が主観的時間経過の迅速に繋がっている事と関係していると思われる。平穏な時間にらぶらぶなわたしどもにとって、何もない一日はそれだけで潜在的な享楽の対象になっている。

一日中、寝っ転がって本を読んだり、ゲームしたり、映画を観たりしていたらどうなるのだろうか。その時間が当人にとって歓楽の範疇に入るものであれば、人生はあっという間に終わってしまうような感覚を死に際に被るだろう。流れ行く人生を押しとどめるには、享楽とは逆ベクトルの事態に身を置かねばならない。そこで、わたしどもは人生の上でのとても不快な二者択一を迫られる。いや〜んな日々を送って(主観的に)長く生きるか、或いは、楽しく短く生命を全うするか。単純化してしまえば、どちらの傾向に生きるのか選ばなければならない。

人生は死ぬまでの暇つぶしと云ったものだが、実際問題として早く死ぬのは恐ろしい。助けて呉れ。


七月十一日

幸福であると云う状態が主観的時流の高速化に至り、不幸が時流の停滞をもたらすならば、一生涯に於いて享受しうる幸福の主観的な分量は質量保存的と云わねばならない。長続きする幸せが、主観的な一生を短縮させるのに対して、薄幸が見た目生涯を延長して、結果的に幸福の総量はいずれに於いても変わらないからだ。

長すぎる幸福と消滅(最大の不幸)の早すぎる招来の微妙な均衡は、幸せを浪費する事への原罪的な代償に思えるが、薄幸が薄幸故にその主観的な継続の期間を間延びさせるのも何かと罪深い情景である。

詰まり、結論は同じで、助けて呉れという感じだ。

七月十二日

三日くらい前に三角関数が生涯において初めて仕事に役に立って微妙に感動した。わたしどもが高校一年の頃に新任の数学教師であった植田教諭の自信のなさそうな顔が思い出された。

七月十三日

童女愛好癖者は、童女と交際をもてたとしても、其処には宿命的な離別が決定づけられている。どういう事かと云うと、童女はやがては童女ではなくなってしまい、童女愛好癖者の嗜好の範疇から逸脱してしまうのである。泣けるではないか……無理か。

七月十四日

幸せなる人生を相対的に短く駆け抜けるか、或いは薄幸な日常をだらだらと送るか。この問題は、当人には制御の困難な環境変数の存在を考慮に入れると、また違った趣を見せ始める。

磯野ワカメの好物はイチゴであり、彼女にはショートケーキのイチゴを一番最後まで保持する習慣がある。兄のカツオはその行為を批判する。ケーキを食い始めた瞬間にこの世が終わる可能性を彼は指摘するのである。

人生の終焉点は多くの人々にとって不明確であるが、自己の消失がどの辺に到来するか漠然としたイメージを持つ事は出来るだろう。そして、幸福の消化を急ぐか否かは、このイメージをどこに置くかに左右されるはずだ。自己の喪失を近接な点に想像すれば、幸福の消化は早まるだろう。逆に、遠い未来に消失点を定めるのなら、仕合わせは薄く長く消尽されるだろう。

ちなみに、わたしどもは最初にイチゴの半分を食べて、最後に残りをいただく事にしている。実に、英知に満ちすぎた判断と云える。

七月十六日

東アジア圏ではぎりぎりヴェトナムまでがきれいなおねいさんの生存圏であり、カンボジアになるともうあかんと作画監督のK氏が前に宣っておられた。わたしどもは『グッドモーニング・ベトナム』を思い出しながら、ベトナムには如何にもかわゆいおねいさんの生息する余地がありすぎそうですね…ははは、と申し上げると、氏は「アオザイは良いね、アオザイは」と熱く語られた。

七月十九日

ビックカメラの店員の声がでかくて怖い。あんな声がどうして出るのが不思議で恐ろしい。休日の新宿は人が一杯でもっと怖い。SCSIの延長ケーブルを買う為だけに新宿へ出なければならない住まいの微妙な位置が便利なのかどうかわからない。世の中は悲しいほど恐怖に満ちていてドキドキだ。

七月二十日

大人になると云う事は、詰まる所、長い夏休みを失うと云う事である。今日から、お子様は夏休みである。大変に糞ったれな事である。

だからといって、小学生や中学生や高校生に戻りたいとは微塵も思わないから不思議である。この感覚は、安達哲が云う様な「今はイイよなあ〜自分で生きたい所にいけるし」という言葉を持って説明できない事もない。家で寝っ転がっている事が好きなわたしどもに、移動可能性からもたらされる開放感など不要の物かも知れないが、ただ、そうした比較的な自由の潜在的可能性が転がっている事を行為に移さなくとも知っている。行為に移らないのなら、それが幻想であってもかまわないだろう。

わたしどもは知識と経験として、斯様な自由が時には不安を招来する事も知っているが、牢獄の様な選択肢しか残されていなかった子どもの生活圏と比較すると、まだ今の不安の方が増しだと思う。もっとも、過剰に輝かしい子ども〜青春時代を送り得た人びとはもっと別の観想を人生に抱きうるかも知れぬ。

七月二十三日

トム・ウェイツのclosing timeを聴きながら深夜の職安通りを走り抜けると、同僚O氏は寂寥の余り多大な興奮に襲われると宣う。トム・ウェイツはわたしどもにとっても嗜好の範疇に入る存在ではあるものの、closing timeと職安通りを結びつける氏の感覚は何か厭だ。ちなみに、松たか子はclosing timeにらぶらぶらしい。よくわからんが、O氏めざまみろ。

七月二十六日

何もかもがどうでも良くなってくる様に感じられるのは、年老いたせいではない。最初からどうでも良くないものなど存在していなかった事にようやく気づいたのである。と斜に構えてみるテスト。

『日々の事』完


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