天使は祝福の鐘と共に




ここ数日続いていた冷たく強い風は、昨夜からひっそりと鳴りをひそめていた。
心配されていた天気も、前線の通過が思ったよりも早かったらしく、
朝から雲ひとつ無い晴天が広がっている。
その日差しに誘われたのであろうか、季節感の無いといわれるこの街にも、
そちこちに春の息吹が感じられるようになってきていた。

そんな街、東京のとある場所に存在するカソリックの教会に、幾多の人々が集まり始めていた。
この街の中から、そして遠方から。
彼ら、そして彼女らの顔には、どれも穏やかな笑みが浮かべられている。
この陽気に誘われて、また、これから始まるイベントに期待して。
だが、そんな中で一人だけ、浮かぬ顔の人物がいた。
それはこのイベントの主役、他ならぬ新婦本人であったのだ。

「ま、こんなもんかね」
先ほどから亜里沙のヴェールを落ち着かなげに直していた彼女の母は、そう言ってやっと手を休めた。
朝からずっとそわそわし通しの母に向かって、亜里沙が僅かに笑みを浮かべてみせる。
「もう…、今更母さんが慌てたって、どうしようもないでしょ?
 落ち着いて座ったら?」
「そうなんだけどねえ」
そう答えていすに腰掛けた母は、やはり落ち着かぬ様子でハンカチを取り出し、
両手でもてあそび始める。
「なんたって、娘を嫁に出すなんて、初めての経験だしねえ」
「当たり前じゃない」
一瞬、亜里沙の顔が吹き出しそうな様相をみせたが、すぐに浮かぬ顔つきに戻ってしまう。
「あの…、父さんは?」
「ああ、横浜の和男叔父さんの相手をしてたみたいだけど」
そう答えた母は、またも落ち込んでしまった娘に目を向け、仕方がなさそうにため息をついた。
「ほら、今日の主役がなんて顔してるの。 あの人はね、ちょっと照れてるだけなのよ」
やおら立ち上がり、いすに腰掛けたままの亜里沙の膝元にしゃがみこむと、
うつむき加減の娘を下から見上げた。
「みてなさい。 きっと後で、わんわん泣き始めるから」
「うん…」
なんとか自分を元気付けようとしている母に、僅かに笑みを向けながら、
亜里沙の心は昨晩へと戻っていった。



昨夜、親娘三人で摂った最後の晩餐は、なんとも沈みがちなものであった。
元々寡黙な父親である。
彼から話し出すことは無いと予想していたものの、なんとかその場の雰囲気を明るくしようとして、亜里沙は何度も父に話し掛けた。
しかし、返ってきた答えは、「ああ」とか「いや」といった、短いものばかりであったのだ。

昔は、父が何を考えているのか、亜里沙には全然解らなかった。
仕事に明け暮れる毎日の生活。
家では殆ど何も語らず、子供の事は妻に任せっぱなし。
更に弟の弘司が、いじめという責め苦から逃避する為に、自殺という道を選んだ時にも、
彼は涙を流さず、ただじっと俯いているだけであった。

また亜里沙も、自分が誉められた娘ではなかったことを自覚していた。
弟を失った嘆き、両親への反発、そして非行。
幾日も家に帰らず、遊び仲間と繁華街をうろつく毎日。
補導されたことも、一度や二度では済まなかった。
その度に彼女を引き取りに現れ、警察にぺこぺこと頭を下げ、
しかし自分を叱ろうともしない父に、益々反発した。
挙句の果てに、《力》を揮っての暴走。
《力》持つ仲間たちと出会わなかったら、自分がどうなっていたか、彼女には想像もつかなかった。

しかし、彼女は変わった。
仲間と、そしてあの男と出逢ってから…。
何かを、誰かをいとおしむという心を知ってから。

そうして、亜里沙は少しずつ父を理解していった。
家族を護る為に、身を粉にして働いていた彼の想いを。
亜里沙に対する態度も、彼の不器用な愛情表現だということを。

はっきり言って、柄ではないと思っていた。
しかし、彼女に対する両親の心に報いる為にも、あの言葉を言おうと思っていた。
しかし、夕食が終わり、亜里沙が口を開きかけた時、その雰囲気を察したのか、
父は無言で立ち上り、自室に引っ込んでしまったのだ。
なすすべも無く彼の後姿を見送っていた亜里沙に、母は優しく語りかけた。
「いいのよ。 あの人は、ちゃんと分っているから」
その言葉も、亜里沙の心を晴らすことは出来なかった。



亜里沙の思考を中断するようにして、控え室のドアをノックする音が響く。
母娘が首を振り向けると、静かにドアが開き、今日のもう一人の主役が室内に滑り込んできた。
黒いショートジャケットのタキシードの胸には、フラワーアレンジメント。
普段のラフな外見からは想像もつかない服装で、緋勇龍麻は何時ものように、
片頬だけでニッと笑って見せる。
「お義母さん、沼津の小林さんって方が見えてるんですが」
「あらあら、じゃあ挨拶しておかないと」
そう言いながらも母は、この新しく息子になる長身の青年を、まじまじと見つめた。
「やっぱりいい男は、何を着ても似合うわねえ」
「おっしゃる通りで」
初めて会ったときから龍麻のファンになっていた亜里沙の母は、吹き出しそうになりながらも、しみじみとした口調で続けた。
「本当に、ご両親にも見せてあげたかったわね」
「なに、天涯孤独にも良いところはありますよ」
龍麻は肩を竦め、ニヤリとして見せる。
「こういう時にも、挨拶ばっかりしなくて済みますからね」
母はとうとう吹き出してしまい、可笑しそうな表情で龍麻を見やった。
「本当にいつもと変わらないのね。 じゃあ、私は挨拶をしてくるから、二人でゆっくりしてたら?」
そう言い残して控え室を出る亜里沙の母を見送ると、龍麻は椅子を引き寄せて、どさりと腰を下ろした。
「やれやれ、こんな面倒くさいもんだとは思わなかったな」
そう言いながら龍麻は内ポケットから煙草を取り出す。
礼服にまで煙草を忍ばせている自分の結婚相手を、亜里沙は呆れ顔で見つめた。
「ちゃんと煙草は置いていきなさいよ」
ニヤリとした龍麻は、胸いっぱいに吸い込んだ紫煙を、盛大に吐き出す。
そこで笑みの消えた視線を、亜里沙に向けた。
「どうした? 浮かない顔だな」
亜里沙は一瞬ビクッと身を竦ませたが、すぐに笑みを浮かべてみせた。
「ん…、ちょっとね」
「いまさら後悔し始めてんのか?」
「そ、そうじゃないよ!」
亜里沙は慌てて首を振ってから、この目の前にいる、からかうような笑みを浮かべた男をキッとにらんだ。
しかし、それも長くは続かず、やがて彼女の頬にやわらかな笑みが浮かぶ。
「ほんのちょっと、緊張してるだけ…」
「ガラでもない」
そう答えて灰皿に吸殻を押し付ける龍麻に向かって、亜里沙の唇からポツリと呟きがもれた。
「もうすぐだね…」
「ああ」

控え室の静けさを破ったのは、軽やかなノックの音であった。
続いて、ドアの隙間から、ピョッコリと見知った顔が突き出される。
ピンクのスーツを纏った高見沢舞子は、満面の笑みを浮かべながら室内に滑り込んできた。
「きゃ〜! 亜里沙ちゃん、きっれ〜!」
昔と変わらぬ友人の、笑みを浮かべてはしゃぐ姿を、亜里沙が可笑しそうに見つめる。
「ありがと。 あんたもそのスーツ、かわいいよ」
「きゃはっ、誉められちゃったぁ!」
「おいおい。 服の自慢をしに来たのか?」
あきれたような龍麻の声に、舞子がくるりと振り返る。
「ダ〜リンもぉ、タキシードがかっこい〜!」
「相変わらず、人の話を聞かないヤツだ」
盛大な溜息をもらす二人に、舞子がようやく本題を切り出す。
「えっとぉ、今日はぁ、二人にどうしても、お祝いが言いたいんだってぇ」
その言葉に、亜里沙が訝しげに問い返す。
「って、誰が?」
「えへっ、ちょと待ってねぇ…」
そう答えた舞子は目を閉じ、両手を胸の前で握り合わせた。
その唇が、静かに言葉を紡ぎだす。

「さあ…、今日この日に、あなたの言葉を、二人に伝えて…。
 私が、この《力》であなたを手伝ってあげる…」

舞子の身体が、青白く、神々しく光り始める。
それを目にした龍麻が立ち上り、亜里沙の隣に寄り添った。
そして、どこからともなく、あの声が聞こえた。

『おねえちゃん…』

亜里沙の唇から、震える声でその名がささやかれる。
「弘司…」

『おねえちゃん…、おめでとう…』

亜里沙の瞳から、透明な真珠のような水滴が、ぽろぽろと零れ落ちた。

『幸せにね…』

「弘司…、ありがとう、弘司……」

『おにいちゃん…、おねえちゃんを大切にしてね…』

龍麻が亜里沙の肩に手を回し、そしてゆっくりと肯いた。

『二人とも…、幸せにね…』

『おめでとう…』

舞子の身体から、ゆっくりと光が消えてゆき、そして唇から小さく言葉がもれた。
「良かったね…」
そこでニッコリと笑みを浮かべ、ポケットからハンカチを取り出した。
「も〜、亜里沙ちゃん、泣いたらお化粧が崩れちゃうよ〜!」
自分の涙を優しくふき取る友人に、亜里沙は心からの笑みを向けた。
「ありがとう…、舞子」
それに返ってきたのは、高校時代と変わらぬ、とびきりの笑顔だった。



控え室のドアが、騒々しく開く。
そちらに首を振り向けた3人の前に現れたのは、やはり昔と変わらぬ、
輝かんばかりの陽の氣を身に纏った男であった。
「よう! 久しぶりだな!」
続いて控え室に入ってきた遠野杏子が、あきれたように洩らす。
「ちょっと、京一。 ノックぐらいしたらどうなの?」
そう言ってアン子は、悪びれもせずに「へっ」と笑う男から視線を外し、亜里沙に向き直った。
「わあ、藤咲さん。 綺麗ねえ!」
愛用のカメラを取り出して、バシャバシャと撮影をはじめたアン子に、亜里沙が笑みを向ける。
「ありがと。 次はあんた達の番だね」
「ちょっと! 変なこと言わないでよ! 誰がこんなヤツと!」
慌てふためくアン子のアップに纏めた髪を、龍麻が可笑しそうに見つめた。
「遠野、その髪型よくないぞ」
「へ? に、似合わない?」
龍麻の唇が、ニヤリと歪められる。
「首筋にキスマーク」
「ええええええっ!?」
真っ赤になって首筋を押さえるアン子の姿に、皆が一斉に吹き出した。
からかわれた事に気づいたアン子は、龍麻をキッと睨みつけたが、やがて諦めたように溜息をついた。
「ほんっと、全然変わってないのね」
置いてあった烏龍茶を勝手にラッパ飲みしていた京一が、龍麻の服装を見て、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「へっへっへ。 馬子にも衣装たぁ、まさにこの事だな」
それに対抗するように、龍麻もニヤッとしてみせる。
「お前がスーツなんざ持ってたとは、驚きだな。 俺はてっきり、短ランで来るもんだと思ってたよ」
そこで視線を、口を手で覆って吹き出しているアン子に向けた。
「遠野、いいこと教えてやるよ。 昨日の夜、村雨や劉なんかと飲んでたんだけどな。
 拉致ろうとしたのに、一人だけトンズラこいたヤツがいるんだ」
龍麻の唇に、昔と変わらぬ悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「どうやら、相棒よりも大切なもんがあったらしい」
「なっ! てっ、てめえっ! なんてこと言いやがる!」
久々に逢ったとは思えない、相変わらずの二人の掛け合いに、
女3人、そろって吹き出してしまうのであった。



「まったく、弦麻の小倅が…。 俗っぽいことをしやがる」
そう忌々しげに吐き出された楢山道心の文句に、新井龍山は、さも可笑しそうに笑い声を上げた。
なにしろ、カソリックの教会に道心がいるというだけでも違和感があるのに、
さらにこの男が、てんで似合わぬ紋付羽織に袴など纏っているのだから。
「まあ、そう言うでない。 それにしても、お主がこんな席に現れるとはのう」
龍山の言葉に、道心はフンと鼻を鳴らしてみせる。
「ただ酒飲ませるっていうから、来てやったんだ。 こんな格好させられると知っていたら、誰が来るもんかい」
そこで道心があたりを見回すと、二日酔いで蒼い顔をした劉に、織部神社の黒髪の娘が、心配そうな顔で寄り添っているのが目に留まる。
「まったく、どいつもこいつも色気付きやがって」
いつものようにファンキーな格好で現れた道心が、鳴瀧にとっ捕まって無理やり着替えさせられたのを思い出し、龍山は再びくっくっと笑い出す。
そんな二人を、隣に座っていた岩山たか子が、なだめるように声をかけた。
「まあまあ、お二人とも。 ほら、龍麻が出てきましたよ」
岩山の指し示す先では、鳴瀧に付き添われた龍麻が、暢気そうな顔をして一番前の席に着くところであった。
「立派に、なりましたね…」
腕を組み、感慨深げに龍麻を眺めていた龍山が、岩山の言葉に肯いてみせる。
「うむ、あの二人にも、見せてやりたかったのう…」
「あの息子じゃあ、喜んだかどうかも、怪しいもんだがな」
「まったく、皮肉もいいかげんにせんか」
二人の会話に、岩山はつい苦笑を浮かべてしまう。
「きっと喜びますよ。 そう、今もどこかで…」
その時、神父の静粛を求める声が響き、教会の中は、しんと静まり返った。



その時亜里沙は父と並び、教会の背の高いドアの前に立っていた。
教会内の物音が静まり、パイプオルガンの荘厳な音色が洩れ響いてくる。
二人で過ごす、最後の時間。
今この瞬間を逃せば、もう次は無い。
そう思い立ち、亜里沙は父の腕に預けた左手に、僅かに力をこめた。
「あの…、父さん…」
父の身体が強張るのが、指先を通して伝わってくる。
「今日まで…、本当にありがとう…」
父はしばらく何も言わなかったが、やがて正面のドアに視線を据えたまま、震える声で呟いた。
「亜里沙…、お前は、私の娘だ……」
父の不器用な言葉、それは何よりも暖かい温もりとなって、亜里沙の心に流れ込んできた。
「幸せになれ…」
亜里沙は、両の目に涙を溜めながら、ゆっくりと頷いた。
そして、父娘の前でゆっくりと扉が開き、二人を万雷のような拍手が包み込んだ。

教会の中には、様々な顔があった。
良く見知った顔、久しぶりに見る顔。
それらが皆、たった今扉をくぐりぬけてきた父娘を祝福する笑みを浮かべていた。
その会衆の中心に一本の道があった。
真紅の絨毯が敷きつめられた道。
ヴァージンロード。
それは、妻となる前に、娘でいられる最後の瞬間。
二人は、その上をゆっくりと進んでいった。
やがてその道も、終点へと行き着く。
その時、隣の父が呟いた小さな小さな声が、何故か拍手の音を凌駕して亜里沙の耳に届いた。
「娘を…、頼む……」
二人の目の前で緋勇龍麻が、亜里沙の父の目をしっかりと見つめ、僅かに、だが力強く肯く。
そして花嫁の手が、父から花婿へと受け渡された。



それからの出来事は、何故か亜里沙の記憶にはあまり残らなかった。
祈祷、賛美歌の詠唱、誓いの言葉、指輪の交換。
それらが全て、なにか映画の中の出来事のように、現実味を感じることが出来なかったのだ。
ただ一つだけ、神父の問いに対する龍麻の「誓います」という返答だけが、
彼女の心の中で生々しく響いていた。
そんな彼女の心が現実に引き戻されたのは、龍麻によってヴェールが上げられた瞬間であった。
彼女の顔を覆っていた白い帳がなくなり、急に視野がクリアになる。
そしてその先には、いつもの様に唇に、僅かにからかうような笑みを湛えた龍麻がいた。
神父の声に促され、盛大な拍手に包まれて、二人の唇が近づき、静かに重ねられる。
そして二人は、永遠に一つになった。





鐘の音が高らかに鳴り響く中、扉を抜け、再び教会の外に踏み出した二人を、大きな歓声が包み込んだ。
大切な友人達から、フラワーシャワーが盛大に浴びせかけられる。
観衆の中で、すっかり背が伸びて綺麗になった金髪の少女が、昔と変わらぬはしゃいだ声を上げる。
「アリサっ! ブーケちょうだい!」
「あ〜ん、舞子も欲しい〜!」
大騒ぎになった連中を見て、亜里沙と龍麻が顔を見合わせ、互いにニッと笑ってみせる。
そして右手が翻り、天使の手から放たれたブーケが、まばゆい日差しの中で綺麗なアーチを描いた。



  『緋勇龍麻、汝はあたしを妻とし、生涯愛し続けることを誓いますか?』
  『当たり前だ』







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