HOME>>>日本語エリア>>>『中国史のなかの日本像』目録

第三節 黄金と宝石

 神仙郷とは、日常生活を超越した異空間である。そこに住んでいるのは脱俗の仙人であるとすれば、そこにありあふれる物もこの世にない怪珍異宝でなければならない。

 こうした日本に対する先入観は、さまざまな伝説を生みだしつつ、神仙郷とされる日本像をつぎつぎと肉づけていく。そのなかには、いうまでもなく事実の拡大・敷衍・変形もあれば、事実無根の空想も少なからず交じっている。

 しかし、「宝物の島」という新しい日本像が、まったく中国人の空想によって生みだされたイメージではなく、邪馬台国の女王らの献上品に発端したことはまず疑われない。その後、文物の交流が盛んになるにつれ、「宝物の島」というイメージがますます中国人の脳裏につよく植えつけられるようになった。たとえば『新唐書』(日本伝)に、

 「その東の海嶼の中に、また邪古・波邪・多尼の三小王がいる。北は新羅を距て、西北は百済、西南は越州に直る。糸絮と怪珍ありという。」

とあり、ここに「糸絮」と特記しているのは、前文にふれた「倭錦」や「異文雑錦」など珍しい倭国産の絹織物が、弥生後期から続々と中国に流入し珍重された事実を示唆してくれる。

 また「糸絮」とならぶ「怪珍」とは、この世に求められない異宝のことで、そのルーツも壱与から献上された「白珠五千孔・青大句珠二枚」にさかのぼることができよう。

 未知の島国に「怪珍あり」の日本像は、魏晋から隋唐にかけて幅をきかせていた。ところが、造船術や航海術の進歩とともに、物質の流通が盛んになり、秘境としての日本がその真相をひろく知られてくると、こうした日本像はしだいに根拠を失ってしまい、新しい日本像に取って代わられるのである。 

1,白珠と青玉

 『魏志』(倭人伝)によれば、女王台与は大夫の掖邪狗ら二十人を中国に遣わし、「異文雑錦」とともに、「白珠五千孔青大句珠二枚」を献上している。この難解な一文の解読をめぐっては諸説のわかれるところである。

 たとえば、これを「白珠五千・孔青大勾珠二枚」と読む説や「白珠五千・孔青珠・大白珠二枚」とする説、または「五千」を「五十」の誤りとする説などがあげられるが、現在では「白珠五千孔・青大句珠二枚」とする読み方がほぼ定着している。

 まず、「白珠五千孔」について考えてみる。

 『魏志』(倭人伝)は倭国の物産について「真珠と青玉を産出する」と書きとめている。この記述は倭国から貢がれた実物によっている可能性がきわめて高く、したがって真珠はすなわち献上品にふくまれた白珠のことで、海から採れるパールのたぐいと推測される。

 また「孔」という類別詞を用いたのは、本体に緒を通す穴が穿たれてあったためだろう。沿岸地帯の弥生遺跡から、真珠の出土例が多く報告されており、それらに緒を通してネックレスなどの装身具として使われていた。当時の生産量を試算すれば、「五十孔」ならどうみても少なすぎる。「五千孔」となると多すぎる感もなくはないが、確かな証拠がないかぎり、恣意的に文面を改める必要はないと思われる。

 つぎに、「青大句珠二枚」について考えてみる。

 現在「二十五史」の底本として使われている百納本の『魏志』(倭人伝)はたしかに「句珠」とあるが、『古今図書集成』の日本部彙考には「勾珠」となっている。「句」は『干禄字書』によれば、俗字では「勾」と書かれる。たとえば「句呉」と「高句麗」は、史書でしばしば「勾呉」と「高勾麗」に置きかえられる。

 なお「珠」はもともと真珠と同様、パール類をさすが、『爾雅』の郭璞の注にあるように、美石(玉)の通称ともなっている。日本語では「珠」をタマとも訓み、玉に通じる。したがって、「青大句珠」は「真珠と青玉を産出する」の「青玉」にあたり、海から採れる「白珠」に対して、山から採れる「勾玉(マガタマ)」のことであろう。さらに、「白珠」の「孔」とはちがって、「青大句珠」の場合に用いられる「枚」という類別詞は、両者の相違を明確に示している。

 勾玉は鏡・剣とセットした形で、しばしば古墳から出土するところから、古代豪族の伝家の宝物とされ、それがのちに天皇家の「三種の神器」のルーツとなった。「青大句珠」とあるから、巨大な勾玉であろう。

 「青大句珠」はふつう弥生遺跡から多く出土している青玉製の勾玉の一種に比定されるが、それを通例の「青玉の勾玉」より大きくかつ貴重な「ガラスの勾玉」と推定する意見もある。(7) 

 「大」という形容詞と「二枚」という数量詞に注目すれば、五千粒もある白い真珠とは異なり、その希少価値がおのずとわかってくる。壱与がこうした国家の重宝まで献上した原因はさまざまに考えられるが、中国の権威をかりて、卑弥呼の死によって動揺しつづけた政局を収束しようとする狙いがあったのかもしれない。 

2、海から湧き出る琥珀

 上述のように、「怪珍あり」という日本認識は、邪馬台国から貢がれたビッグサイズの「勾玉」などによって芽生えてきたものだが、それがしだいに敷衍され、新しい伝説を生んでいくのである。『隋書』(倭国伝)にみられる「魚眼睛」の珍話などは、その一例である。

 「阿蘇山あり、その石は故なくして火起り天に接する者、俗もって異となし、因って祷祭を行なう。如意宝珠あり、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜は則ち光あり、魚眼睛という。」

 色青い「如意宝珠」は卵ほど大きく、夜になると光を放つとあるが、右の文中から「青・大・宝珠」の三字をかりに抜きだして並べてみると、すぐに邪馬台国の壱与女王より貢献された「青・大・句珠」のことを想起してしまう。両者の共通点は、同一物を思わせるほど歴然としている。

 もしそれはガラス製の勾玉だとすれば、光を放つのは当然のことである。勾玉はまた曲玉とも書き、Cの字形の一端に孔をうがって緒を通し、弥生人の装身具として用いられていた。その全形は横からながめた魚に似ていて、緒を通す孔もちょうど魚の目にあたる部分にあるから、「魚眼睛」と呼ばれたのではないか。

 なお「魚眼精」の記述につづいく「新羅・百済、みな倭をもって大国ととし、珍物多しと為す。ゆえにならびにこれを敬仰し、つねに通使して往来する」とある一文は目をひく。倭国が新羅や百済から敬意を払われる理由のひとつは「珍物多し」なのである。したがって、右の「魚眼精」伝説も、日本国のイメージアップにつながっていると考えてよかろう。

 隋代以前の「白珠青玉」に取ってかわって、唐代に登場した日本の怪珍は琥珀と瑪瑙である。それも神仙郷の投影をうけて、伝説化された形で現われてくる。たとえば、永徽五年(六五四)十二月に入唐した遣唐使は、琥珀の大きさ斗の如きものと、瑪瑙の五升の器の如きものを献じたとあるのは、よく知られる例である。(8)、

 瑪瑙については『延喜式』(大蔵省、賜蕃客例)に「瑪瑙十顆」とみえ、唐帝への朝貢品のひとつと定められているが、琥珀はそのリストに載っていない。

 琥珀と瑪瑙はとくにその大きさを珍しがられたようだ。「斗」と「升」はみな体積を表わす単位である。一斗は十升、一升は十合、一合は一八〇.三九cm3を目安に考えれば、「斗の如き」琥珀はなんと一〇〇合、「五升の器の如き」瑪瑙も五〇合に達していることになる。宝石類として驚くべき大きさである。

 さらに興味をそそられるのは、このような巨大な琥珀は、海から自然に湧き出てくるものだという伝説である。たとえば、『冊府元亀』(巻九五九、外臣部、土風)に「その琥珀は海中にあって涌き出る」とあり、『唐会要』(巻九九、倭国条)にもほぼ類似のことが書かれている。

 「頗る綵錦を産出する。瑪瑙を産出して、黄白の二色がある。その琥珀の好き者は、海中より湧き出るという。」

 琥珀の大きさにやや誇張があったかもしれないが、「海より湧き出る」とは末尾の「云」の一字によって、それは伝聞によっていることが知られる。巨大な琥珀のような怪珍も海中よりぞくぞくと湧き出てくるほどだから、「宝物の島」という日本観はこれらの伝聞によってさらに補強されたのだろう。 

3,黄金伝説

 十三世紀ごろ、イタリアの冒険家マルコポールは、中央アジアをへて中国の元に至り、各地を歩きまわった。帰国後、『東方見聞録』を口述し、日本を「黄金の島」として紹介し、ヨーロッパ人の日本観を大きく変えさせた。

 しかし、日本に関する黄金伝説は、それより七百余年前の梁代にさかのぼることができる。梁・任昉の著わした『述異記』(9)にみられる「金桃伝説」は、よく知られる一例である。

 「磅?山は扶桑を去ること五万里、日の及ばぬ所である。その地は甚だ寒く、千囲の  桃があり、万年に一たび実る。一説に、日本国に金桃があり、その実の重さは一斤あるという。」

 日本に重さ一斤(五〇〇グラム)の金桃をむすぶ桃の木があるという黄金伝説は、遣唐使による黄金の輸出によって裏づけられ、黄金産出の豊富な国という日本像を唐の人々につよく印象づけたのである。

 たとえば、顔萱という唐の詩人は、入唐僧の円載が帰国するにあたり、送別の詩を贈り、そのなかに「禅林に幾度も金桃を結んで重く、梵室に重ねて鉄瓦を修めて軽し」という詩句が詠みこまれている。なお「金桃」について「日本の金桃、一つの実の重さは一斤である」という注記があり、『述異記』の金桃伝説から影響をうけていることは明白である。

 日本では、八世紀から陸奥での黄金採掘が本格化するようになり、遣唐使による黄金輸出のケースがにわかに増えてくる。これらの実例は円仁の『入唐求法巡礼行記』や『続日本紀』などからは、容易に拾われるのである。

 また『宋史』(日本伝)によると、「東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だす」とあり、黄金の産地をほぼ正しく突きとめているのは、それに対する関心の高さをうかがわせる。

 ところで、唐人の持っていた「黄金の国」という印象が、中国と活発な貿易関係をむすんでいた周辺地域にも広がっていったことは、ペルシアの地理学者イブン・フルダーズビーの著わした『諸道路と諸国の書』によって裏づけられる。

 「中国の東にワークワークの地がある。この地には豊富な黄金があるので、その住民は飼い犬の鎖や猿の首輪を黄金で作り、黄金の糸で織った衣服を持ってきて売るほどである。」

 右の記録は、ワークワークの国名が「倭国」に由来することからも明らかなように、唐人の伝聞によったものとみられる。つまり、それには唐人の持つ日本像が間接的ではあるが、生々しく示されている。

 なお、唐人のこうした日本観の形成要因のひとつとして、先学諸氏によって指摘されたとおり、中国の伝統的な東方観をあげることができる。内田銀蔵氏はその証として、『列子』(湯問)に、東海中の五神山の「台観はみな金玉なり」とあること、『史記』(封禅書)に、同じく蓬莱・方丈・瀛洲の三神山について「黄金と銀は宮闕を為る」とあることをあげている。(10)

 黄金とは直接にかかわりはないが、五代の義楚が撰した『釈氏六帖』は徐福の日本移住説を伝えながら、「富士山の諸宝」にふれる記述があるので、ついでにかかげておく。

 「また東北千余里に山があり、富士といい、また蓬莱という。その山は峻しく、三面はこれ海にして、一朶は上に聳え、頂に火煙がある。日中、上に諸宝があって流れ下り、夜はすなわち上に却る。つねに音楽が聞える。」

 これは富士山の火山現象と中国の蓬莱伝説とがミックスしたもので、「諸宝流下」と「常聞音楽」は、中国人のユートピア幻想を濃厚に匂わせている。

 以上、日本の「怪珍」として、魚眼睛(勾玉)・琥珀・瑪瑙・金桃・富士山の諸宝などを、それぞれ挙げてみた。これらのものは、自然物か半加工品ばかりではあるが、いずれもこの時代の中国人の日本像を形成させる重要な素材となったのである。

 このように「宝物の島」は、卑弥呼以来の貢物に基づいた日本の実像でありながら、古来の神仙郷伝説に彩られた日本の虚像でもある。 

【注釈】

(1)『魏志』(倭人伝)では景初二年(二三八)となっているが、『日本書紀』と『太平御覧』に引かれた『魏志』および『梁書』はともに景初三年としている。公孫氏の滅亡した時期などを考慮に入れれば、三年説を取るべきである。

(2)『冊府元亀』(巻九六八、外臣部、朝貢一)にみえるこの記事は、泰始二年(二六六)の遣使と混同したようである。

(3)この記事では「泰初」は「泰始」の誤りであり、また「遣使」の「使」と「十一月」の「一」とが脱字していると考えられる。

(4)『王屋山人魏萬の王屋に還るを送るの詩』は「仙人は東方に出づ」から始まり、魏萬の風貌を仙人にたとえて詠んでいる。

(5)太田英蔵:『倭人伝の倭錦と異文雑錦についての試論』。

(6)布目順郎著『絹の東伝』。

(7)古田武彦著『「風土記」にいた卑彌呼』、朝日新聞社一九八八年版、二五三頁。

(8)『旧唐書』(巻四、高宗本紀)と『唐会要』(巻九九、倭国条)を参照。

(9)任昉撰『述異記』は『崇文総目』や『郡斎読書志』に著録されている。偽書ともいわれているが、後世の好事家が任昉の佚文をあつめて本にしたものであろう。

(10)東野治之『日出処・日本・ワークワーク』、同氏著『遣唐使と正倉院』(岩波書店一九九二年七月版)所収。

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