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| 第二節 海をわたる仏像 |
日本から中国へ伝えられた工芸品のなかで、比較的に早い時期に注目されるのは、仏像をはじめ仏具類であろう。そのことは、中日の文化交流が僧侶に負うところが大きく、その内容も仏教文化の色彩を濃厚に帯びていることと深い関係があるように思われる。
遣唐使往来の盛んな時代は、仏像を中国に持っていく例はごく稀れで、最澄の場合にしても信仰用がその目的で、唐人に注目された痕跡もほとんどみられなかった。五代から宋代にかけて、このような状況がすこしずつ変化をみせはじめ、中国で仏像を造ったり、日本の名品を中国に送りとどけたりして、中国人に深い印象を植えつけることになってくる。
この節では、五代から宋代までを中心にして、海をわたってきた仏像が「器用な民」なる日本像に、どのような影響を与えたかを考察してみたい。
1,遣隋使の伝えた情報
『法苑珠林』および『集神州三宝感通録』などによれば、遣隋使にしたがって中国へわたった会承(会丞とも書く)は、数十年の長い留学生活をおえ、唐の貞観五年(六三一)第一次の遣唐使の帰り船に乗って、いよいよ帰国するとき、長安の僧侶たちと興味深い会話を交わした。『法苑珠林』巻三十八「敬塔篇・故塔部・感応縁」より全文を以下にかかげる。
「倭国はこの洲の外の大海中にあり、会稽を隔てること万余里ある。隋の大業の初めに、かの国の官人会承はここに来て留学し、内典外書をひろく知っている。貞観五年に至り、本国の僧俗七人とともに、倭国へ還ろうとする。出発の前に、京内の大徳はかの国の仏法のことについて、阿育王は、『経』の説く所によれば、仏の涅槃より百年のちに出世し、仏の八国舎利を取って、もろもろの鬼神をして一億の家を一仏塔とし、八万四千の塔を造り、閻浮洲に遍かせる。かの国の仏法は晩く伝わったけど、阿育王の塔があったかどうか」と聞く。会承は『本国の文献に記されていないので、確かなことは言えないが、その霊跡を験べれば、それなりの証拠はある。すなわち、本国の人々は土地を開発し、往々にして古塔霊盤や仏諸儀相を発見し、しばしば神光を放ち、種々の奇瑞を現わすことがある。この嘉応を詳らかにし、昔から仏塔があったことを知る』と答える。」
日本における仏像の源流は、遙か大和時代にさかのぼれる。古墳から出土する仏像鏡は、ふつう中国伝来の舶来品であると考えられる。『扶桑略記』にひかれた『日吉山薬恒法師法華験記』によれば、継体天皇十六年(五二二)、司馬達止(司馬達等ともいう)という中国南朝梁の職人が来日し、大和国高市郡の坂田原に草堂をむすび、本尊を安置して帰依礼拝したことが書きしるされている。地元の人々から「大唐の神」と呼ばれた「本尊」の仏像は、おそらく司馬達止が中国からもたらしたものであろう。
司馬氏の一族は「鞍作」を姓と名乗っているから、金工鏤刻の技術に長じていることがわかる。達止の孫にあたる止利は仏像造りの名匠で、崇峻天皇元年(五八八)に「仏本(仏像の手本)」を献上し、さらに勅命をうけて銅繍(金銅と刺繍)の丈六仏像をつくり、二十年近くかかって推古天皇十四年(六0六)にようやくそれを完成させた。それがすなわち法興寺にまつられた金銅釈迦如来座像であるといわれ、作風はみずから一家の体をなし、後世からは「止利様式」と呼ばれている。
聖徳太子が小野妹子と鞍作福利らを隋に遣わしたのは、推古天皇十五年(六0七)のことであり、ちょうど止利造仏竣工の翌年にあたる。会承は遣隋使団のなかで「官人」といわれ、同行の「僧俗七人」はおそらく留学生と留学僧をさすのであろう。
『日本書紀』は遣隋使の「官人」として正使の小野妹子と通訳の鞍作福利しか記録していない。小野妹子が中国風に「蘇因高」をなのったのと同じように、会承は鞍作福利の中国名だったかもしれない。もちろんこれはあくまでも憶測にすぎないが、司馬一族のメンバーが使節団に加わっていたことだけは確かである。すると、会承のいう「仏諸儀相」云々は、出来たての「止利様式」の仏像を示唆している可能性がかなり高いといえよう。
2,最澄の送唐品
遣隋使らが日本の仏像を中国へもたらしたかどうかは不明だが、遣唐使の時代になると、日本の仏像が海をわたったことはれっきとした文献記録によって裏づけられる。
延暦二十三年(八0四)七月ごろ、最澄の乗りくんだ遣唐使の第二船は高らかに帆をかかげて故国を発ち、空をつきさすような怒濤に翻弄されながらも、運よく揚子江口にのぞむ明州に打ちあげられた。最澄の『顕戒論縁起』に収められている『大唐明州より台州の天台山に向かうの牒』、俗に『明州牒』と呼ばれる唐朝の公式の文書は、最澄らの供養品リストを詳しく書きしるしている。
金字の『妙法蓮華経』一部〈八巻、外に金字を標す〉
金字の『無量義経』一巻
『観普賢経』一巻(以上の十巻、ともに一函に緘封している)。
最澄をして、これは日本国の皇太子が永く封じて、唐に到着する前には、開けひらくこと を許さないと称させる。
『屈十大徳疏』十巻
『本国大徳諍論』両巻
水精の念珠十巻
檀龕の水天菩薩一躯〈高さ一尺〉(右、僧最澄の状によれば、総て天台山に往って供養しよ うとする。)
これらの供養品は、大きく皇太子(安殿親王)から託されたものと、最澄自身が携えてきたものとにわけられる。ここでは、最澄の供養品にふくまれる仏像について、考察してみよう。
「檀龕の水天菩薩一躯」について、岩波日本思想大系本『最澄』は「檀木で作った厨子入りの水天菩薩像。水天は水を司る神。渡海の守護神か」と注記している。佐伯有清氏は、天台山への供養品という用途に目をつけ、次のように述べる。
「さらに檀龕、すなわち檀木で作った厨子に納めた水天菩薩像は、渡海の安全を祈る守護神として最澄が持参したものかとされているが、これは水天が、水をつかさどる神であったところからいわれている説である。しかし、水天は、当時、西方を守護する神として認識されており、しかも、この菩薩像は天台山への供養のために持参したものなのであるから、西方の守護神として、すなわち天台山の安泰と加護を祈る意味をこめて最澄は、この菩薩像を選んだのであろう」(8)
これは傾聴すべき意見である。ただし、この菩薩像が、最澄が九州にとどまって、遣唐使船の再度の出発を待機している間に彫りきざんだ四体の薬師檀像や天台大師(智顗)の霊前で読みあげた「求法沙門最澄度海願文」とのかかわりを、さらに追究してみる必要があろう。
3、紙衣和尚
最澄のように、日本で彫りきざんだ仏像を中国へたずさえていくケースと異なって、中国へわたって現地で仏像を造る僧侶もいたのである。こういう珍しいケースについて、森克己氏は『四朝見聞録』という中国の書物から興味深い記録をみつけ、次のように紹介している。
「四朝見聞録には、日常煙火に御せず、芹蓼を食わず、絲綿を着ず、紙衣を常服としていたために紙衣和尚と呼ばれた日本僧転智という者が宋の建隆元年秋(九六0年)高さ五丈の観音像を彫刻した。この観音像は相当有名だったと見え、高宗が憲聖を伴いこれに幸して礼拝した。憲聖は帰って後、金縷の衣を製して寄進し、これを観音像に着せかけたところ、その衣は像身の半分を蔽うにも足りなかったので、憲聖は更に使を遣してその像身を測り、改めて衣を再製してこれを寄進したという。」(9)
『四朝見聞録』という書物は、宋の葉紹翁の著わした筆記類の雑史である。全書は甲・乙・丙・丁・戊の五集にわけられ、南宋の高宗・孝宗・光宗・寧宗の四朝にかかわる見聞を中心にして、あわせて二百九条の単独記事をかかげている。体裁は筆記雑史とはいえ、かなり史実を正確に伝えており、資料的価値が高いといわれる。
さて、日本僧転智のことは本書「五丈観音」の条に述べられている。他書にはその伝記がいまのところ見当たらない。木宮泰彦氏の名著『日華文化交流史』(冨山房一九五五年初版)の「五代・北宋編」にもその名を逸している。また、森克己氏の論文をのぞけば、この人物に注目した先行研究も、筆者は寡聞にして知らない。したがって、『四朝見聞録』の記録は転智の行宜を知る重要な手がかりとなるわけである。
日常の生活では、芹蓼(セリとタデ)を口にせず、絲綿の衣服を身につけないというのは、仏教の不殺生の戒律を異常なほどにきびしく守る日本僧の面目を躍如として想像させる。日ごろは紙でこしらえた袈裟しか着ないから、「紙衣和尚」と呼ばれたのも興味をひく記載である。
この一見はなはだ怪異な話は、じつはそれなりの事実を下敷きにしている。「紙衣」を着服する例は中国にもある。宋の蘇易簡はその著『文房四譜』に「紙譜」の項をたてて、
「山に居るもの者は常に紙をもって衣となす。けだし、釈氏のいう「蠶口の衣を衣ずに遵うものである。」
と述べ、山深くに隠遁する僧侶たちが釈迦の教えを守り、しばしば「紙衣」を身にまとった風習を紹介している。また同書によれば、紙衣は、風通しが悪く寒さをふせぐにはいいが、いっぽう体内の廃気を発散できないから、それを常服するものは十年もたてば、顔色を悪くし呼吸がきつくなり、嗜欲はしだいに衰えてしまうという。
「紙衣」と呼ばれる僧侶は、中国の歴史上何人か知られている。唐代の禅僧克符は〓州(いまの河北省固安)の人で、日ごろ紙衣をこのんで着るから、「紙衣道者」または「紙衣和尚」とよばれる。『太平広記』巻二八九に「紙衣師」の一項があり、おもしろい逸話をのせている。
「大暦中、一僧あり、苦行と称される。繒絮布?の類いを着ず、つねに紙衣を着る。時の人は『紙衣禅師』と呼ぶ。代宗の武皇帝は、召し入れて禁中の道場に安置し、礼念させる。月ごとに一たび外に出て、人はますます崇め敬う。のちに禁中の金仏を盗むことが発覚して、京兆府に命じて死刑に処させた。」
紙衣着用の風習は唐から宋へと受けつがれたようで、景徳四年(一00七)ごろ宮廷に出入りし、のち山野に帰って紙衣をまとい外に出ないという奇僧の話は『仏祖統紀』巻四十四にみえる。
こうしてみてくると、「紙衣和尚」と呼ばれる転智の伝記は、事実無根の怪談としてかたづけられないことがわかる。あるいは五代ごろ中国に来たこの日本僧は、唐代高僧のこうした伝聞を耳にはさみ、感激のあまりみずから実践したことも考えられなくはない。
さて、転智が高さ五丈の観音巨像を彫り刻んだ建隆元年(九六0)といえば、趙匡胤が陳橋駅で反旗をひるがえして、腐敗しきった五代の後周をほろぼし、開封に都を定めて宋朝を立てた年であった。高さ五丈(十七メートル近く)の大仏を彫り刻むためには相当な期日を必要とするところから、転智の渡来はそれより前で、五代のころ(九0七~九六0)だったと推察される。
この観音像は外国の僧侶によってつくられ、また江南では稀れにみない大仏であるから、朝野の注目をあつめたにちがいない。宋の高宗が皇后の憲聖をともなって礼拝したのはいつごろのことかはっきりしないが、高宗の在位は一一二七年から一一六二年までであるから、百数十年たってもなお信仰されつづけたことは明らかである。
4,入宋僧の携帯品
宋の咸平六年(一00三)、日本天台僧の寂照(寂昭ともいう)は、中国ではすでに散逸した『大乗止観』や『方等三昧行法』および『天台宗疑問二十七条』などをたずさえて、中国へやってきた。翌景徳元年(一〇〇四)上京して、宋の真宗へ無量寿仏像などを献上して、僧侶としては最高の名誉ともいうべき紫色の袈裟を賜わったことは、『仏祖統紀』巻四十五にみえる。
真宗の景徳元年、日本国から沙門の寂照が来たり、無量寿仏像・金字法華経・水晶 数珠を献上して、紫の方袍を賜わった。
寂照のもたらしてきた無量寿仏像は、鷲尾順敬氏の『類聚伝記大日本史』(雄山閣一九八〇年一二月版)の「寂照伝」によれば、「本朝の名刻」といわれている。出典は示されていないが、なにか依拠するところがあったのであろう。
平安末期から、日本の貴族たちが入宋僧を通して、中国の名山古寺へ写経や仏器などを供養品として寄進する風習は、すこぶる流行っていた(10)
。仁明天皇の承和のはじめ、入唐して五台山にのぼり、名刹霊蹟を巡礼した惠萼が皇太后の橘嘉智子より託された宝幢および刺繍模様の袈裟などを施入し、さらに杭州塩官県の霊池寺にいたり、臨済宗の斉安国師にまみえ、皇太后の供養品を寄進したのは、その一例にかぞえられる。
嘉禎元年(一二三五)、日本に定住した杭州出身の謝国明の貿易船に便乗して海をわたった円爾弁円(聖一法師)は、着岸地の明州の天童寺をまずおとずれ、さらに杭州にいたり、天竺・浄慈・霊隠の諸寺を歴訪してのち、いまの余杭市の北西より約三十キロの径山にのぼり、禅宗の高僧無準師範の門下へ身を投じた。仁治二年(一二四一)七月、師範より法系をうけついで帰国し、九条道家(藤原道家)にまねかれて、東福寺の開山となった。
摂政・関白・左大臣などを歴任して准三宮にまで昇りつめた道家は、権力と栄華をほしいままにした鎌倉時代の風雲児であった。円爾入宋中の嘉禎四年(一二三八)に法性寺で出家して行慧と称したが、禅定太閤と呼ばれて依然として幅をきかせていた。ところが、建長三年(一二五一)将軍源頼嗣がらみの疑獄事件についての疑いをうけ、翌年の二月に不遇のうちに光明峰寺でこの世をさった。
その後、道家のもっとも愛寵した三子の実経は、その一族を集めて計らったところ、「児女昆弟」を動員して『法華経』など四部三十二巻を丹念に写経させ、それを円爾の提言どおりに宋の径山寺へ供養して、故人の追善とすることにきまった。捨経供養のいきさつを、天童寺の住持だった西岩了惠は、宋の宝祐三年すなわち日本の建長七年(一二五五)『日本国丞相藤原公捨経之記』に詳しくしるしている。
それによると、藤原家の写経は「貯えるに層匣をもってし、貫くに霞?をもってする。縷金螺鈿にして、極めて天巧を窺う」とある。層匣は重箱のこと、それに縷金螺鈿の装飾をほどこし、彩色の?(平たく組んだ木綿紐)で縛った写経を納める。こうして貴族趣味によってこしらえた経箱は、彫刻芸術の逸品ともみられる。
円爾は藤原家の写経を径山にある「円照塔院(無準師範のお墓)」へ供養してから、さらに弟子を遣わして明州天童寺の西岩了惠に「四十二臂旃檀大士」をおくり、捨経の始末を書きとどめるようにと依頼した。旃(栴)檀とはビャクダンの異称で、香木の一種である。「四十二臂」とあるから、千手観音像だったと思われる。この仏像は藤原家の写経とセットして中国へおくられたもので、おそらく名匠の手を借りて日本でつくったものであろう。