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第四節 明代文人の日本趣味

 応永八年(一四0一)、室町幕府の初代将軍足利義満は南北朝統一の偉業をなしとげるや、さっそく明へ使節を遣わし、臣下と称する国書とともに、「金千両、馬十匹、薄様千帖、扇百本、屏風三雙、鎧一領、剣十腰、刀一柄、硯筥一合(同文台一個)」をときの惠帝に献上した。遣唐使の廃止以来およそ五百年も中断していた中日間の朝貢貿易は、これをきっかけに再開された。

 明代の中日関係史を概観してみると、まったく離反するふたつの側面が現われていることに気がつく。ひとつは倭冦の跳梁と豊臣秀吉の朝鮮侵略とに象徴される国交悪化の側面であり、いまひとつは遣明使と勘合貿易とによって国交の回復と貿易の隆盛をもたらす側面である。

 この時代に、中国の知識人はながく目をそらしてきた日本への理解を切実な課題として痛感しはじめ、「日本」と題する著作をおおく世に問わせた。もちろん、そのほとんどが倭冦退治のために編まれたものだが、日本の歴史・地理・風俗・文化などについての記載も少なくはない。たとえば、薛俊の著した『日本考略』の「貢物略」は、日本からの輸入品のかずかずをかかげている。

 「馬、?、鎧、剣、槍、腰刀、瑪瑙、硫黄、蘇木、牛皮、貼金扇、洒金厨子、洒金文台、描金粉匣、洒金手箱、塗金装彩屏風、描金筆匣、彩金提銅銚、洒金装木銚、角盥、水精数珠。」

 これらの文物は中国にもたらされると、文人たちの収蔵品として愛玩され、一種の日本趣味がおのずと形成されつつあった。明人の著作をひもとくと、これらの文物にかんする記載がおおく拾われる。ここでは、、高濂(一五七三~一六二0)の著した『遵生八箋』に焦点をしぼって、彫刻関係の史料を紹介するにとどめる。 

1,鏤金

 作者は「宣銅・倭銅・炉瓶・器皿を論ずる」という項で、「潘銅」という本名のはっきりしない人物を取りあげている。もともと浙江省の人だったが、幼いころ倭冦にさらわれて十年ほど日本に住んでいた。その間、鏤金の技術を習って、「金銀倭花」を彫刻する技をことごとく身につけた。帰国してからはその特技を生かして銅器をつくり、世には「仮倭炉」と呼ばれる。

 高濂はかつて潘銅を自宅に招きいれ、数年の間に文房具や調度品をこしらえさせた。潘銅のつくった「倭尺」は一見して他と違わないが、中腹を空にして文房具十数点を内蔵している。またハサミは折り畳み式につくられ、当時は珍しいものとされる。その他、「銅合子、途利筒、彝炉、花瓶」などは金銀を象眼し、模様を彫り刻み、倭製の本物に勝るとも劣らないほど精巧を極めているという。

 「潘銅」はもちろん本名ではない。屠隆の『考槃余事』には「潘鉄」とあり、日本から帰ってくると「雲門(いまの紹興)」に住んだという。彼は日本滞在の十年間に、象眼・鏤金・彫刻の工芸技術を学びとり、帰国してから造った模造品は世の中にもてはやされ、それを入手する者はかならず宝物とするから、とても高価な収蔵品となったといわれている。

 高濂は「潘銅」の記事につづいて、日本製の鏤金器皿を数多くあげている。たとえば、細かい網目の蓋をもつ熏炉を「美しい」といい、四方のそれぞれに神獸を取りつけた香盤を「優雅である」といい、奇石をはめた象眼の指輪を「精妙である」といい、また酒銚、水罐・金銅提・?鎧・腰刀・槍剣・紫銅湯壺・海螺鼻の銅鏡・銅鼓などはいずれも「天地の機巧」をきわめたものと讃えている。 

2,漆彫

 漆彫りの工芸は唐代からすでに始まっていた。宋代に至ると、ますます隆盛しだし、多くは金銀の器の表に幾重にも赤い漆を塗りかさね、そのうえに人物・楼閣・鳥獣・花草などを彫り刻み、絵画以上の華やかさをつくりだしている。この技法はふつう「剔紅」というが、日本に伝わって「堆朱」と呼ばれる。元のころ、張成と楊茂の二家は海内を独歩し、遠く日本にもその芸名をひびかせている。室町時代に長充という職人はその技法を習得し、わが師とあおぐ張成と楊茂からそれぞれ一字を借りとって「楊成」と自称し、世にもてはやされた。

 日本の漆工は宋元の漆彫技術をさかんに模倣しつつ、さらに各人の創意を加味してしだいに日本化させ、伝統的な螺鈿工芸とも融合してついに独自な作風を形成したのである。『遵生八箋』には「論剔紅倭漆彫刻?嵌器皿」の一項があって、日本の漆彫工芸を詳しく紹介している。

 「漆器はただ倭をもって最とする。しかも胎胚の式制もまた佳い」との前置きにつづいて、描金の重ね箱、紅漆を塗った金縁の盒子、金塗りの彩色屏風、精巧をきわめた文房具、漆塗りの仏壇、昭君図を金銀象眼した香几、山水鳥獣をデザインした机など数十種類を列挙しながら、『ことごとく数えきれない』と感嘆した。

 これらの工芸品は、たとえ一部は伝聞によって記録したとしても、一介の文士にして、これほど大量の奇器珍物を目にし耳にしたことは、中国にもたらされた日本工芸品が多用多彩であり、またぼうだいな量にのぼった背景があったからであろう。

 高濂は「倭人の製った漆器は、工巧いたって精極である。また彫刻・宝嵌・紫檀などの器のごとく、その心思工本を費やすのは、また一代の絶である」と賛辞を惜しまずに褒めたたえ、つづいて中国の模造品に言及して「近ごろの倭器を倣效するものは、呉中の蒋回回のごとき者、制度造法は極めて模擬を善くし、鉛をもって口を鈐じ、金銀花片・鈿嵌樹石・泥金描彩などよく肖り、人はまた佳と称える。ただし、胎を造るに布を用いることやや厚く、手に入れて軽からず、倭を去ること遠かるに似る」と、模倣作の本物に遠くおよばないことを嘆いている。 

3,秘閣その他

 鏤金と漆彫のほか、高濂は他の工芸品にも言いおよんでいる。たとえば、「圧尺」は通常のかたちをしているが、表面には金で桃の木をかたどり、銀で葉っぱを表わしており、中腹に穴をあけて引き出しを取りつけ、ナイフ・けぬき・爪切り・爪楊枝・耳払い・はさみなどをすっぽりおさめるようになっている。高濂はこの神業について「倭にあらずんば、それ誰ぞこれを能わんや」とあきらめている。「圧尺」は文鎮のたぐいであろう。高濂はかつて潘銅を請うてその模造品をつくらせたことがある。

 もう一例、日本伝来の「黒漆秘閣」を取りあげてみよう。秘閣というのはふつう天子の書物をおさめる書庫、または尚書省の別称の意味にとられるが、ここでは文字を書くとき紙面を汚さないようにひじをのせる長方形の道具をさす。さて、この日本の「黒漆秘閣」は長さ七寸ほど、幅は二寸あまり、表には金泥の花模様を描いており、紙のように軽い漆器であるという。

 『遵生八箋』の記録からわかるように、明代になってから中日の国交が勘合貿易を象徴に回復され、公私の商船によって日本の工芸品は空前の規模をもって中国にもたらされるようになった。これらの工芸品の製造技法のほとんどはもともと中国から習ったものだが、長期にわたって模倣されつつ、しだいに日本民族の美意識と独特な手法と融合して改良されてきた。こうして生まれ変わった工芸品はふたたび中国へ逆輸出されて、中国芸術の繁栄を促したのである。

 文化交流のもつ本当の意味は、まさしくこうした文物の循環往復にこそ見いだされるものと思われる。 

【注釈】

(1)東野治之著『遣唐使と正倉院』(岩波書店、一九九二年)三九頁。

(2)陳舜臣「中国の中の日本像」(国際日本文化研究センター、『世界の中の日本』第三号、一九九一年)

(3)森克己著『増補日宋文化交流の諸問題』(国書刊行会、一九七五)四一五頁。

(4)原文は「挙」となっているが、文意より「奏」にあらためた。

(5)ここにあげた唐宋筆記小説のなかで、沈汾の『続仙伝』と杜光庭の『仙伝拾逸』の現存本は、韓志和の記事を散逸している。詳しくは蔡毅氏の「飛竜衛士、韓志和」(中西進・王勇共編『日中文化交流史叢書・人物』、大修館書店、一九九六年、四四一~四六一頁)を参照されたい。

(6)この二文はそれぞれ『支那学』第二巻第二号と第四号(弘文堂書房、一九二一年)に掲載されている。

(7)東野治之著『遣唐使と正倉院』(岩波書店、一九九二年)四六頁。

(8)佐伯有清著『若き日の最澄とその時代』(吉川弘文館、一九九五)二二五頁。

(9)森克己『増補日宋文化交流の諸問題』(国書刊行会、一九七五)四一五頁。

(10)これについては、拙論『日本の江南諸寺への捨経供養について』(『中日文化論叢--1994』所収、杭州大学出版社一九九六年)に詳論されているので、参照されたい。

(11)田自秉著『中国工芸美術史』(知識出版社一九八五年版)七九頁。

(12)たとえば、『資治通鑑』(粛宗紀)の至徳二年(七五七)条に「珠玉・宝鈿・平脱・金泥・刺繍を禁ず」とあり、『旧唐書』(代宗紀)の大暦七年(七七二)条にも「仮花果及び金平脱・宝螺等の物を造るを得ず」と見える。宋代もしかりで、『清波雑志』によれば、宋の高宗は「螺鈿は淫巧の物なり」として禁じていたという。

(13)日本画扇の中国への流入について、拙文「日本扇絵の宋元明への流入」(『日本美術史の水脈』所収、ぺりかん社一九九三年版)を参照されたい。

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